毎日新聞

幻の科学技術立国

 「改革」の果てに/iPS細胞偏重、世界と差 再生医療の厳しい現実 意義揺らぐストック

 
 

「課題を全て解決できなければ、残念ながらストックは使われない」。昨年12月、文部科学省であった会議で、山中伸弥・京都大iPS細胞研究所長が幹細胞や再生医療の有識者らに報告した。約20分の報告の間、表情は険しいままだった。

「ストック」とは、再生医療用のヒトのiPS細胞(人工多能性幹細胞)を備蓄するiPS研の主要事業だ。患者本人の細胞からiPS細胞を作れば、移植時の拒絶反応は回避できるとされる。しかし、それでは作製の時間と費用がかさむため、ストック事業では、拒絶反応を起こしにくい特殊な白血球の型(HLA型)を持つ提供者のiPS細胞をあらかじめ複数そろえておく。日本人の大半への移植に対応できる態勢を目指し、2013年に始まった。

iPS研は、文科省の「再生医療実現拠点ネットワークプログラム」の中核拠点として13〜16年度に配分された約100億円のうち、約70億円をこの事業に投じた。六十数人の態勢を組み、昨年11月からは山中さん自らが責任者を兼務。4月27日までに、日本人の32%をカバーする3種類のHLA型のiPS細胞を備蓄した。

企業、利用に消極的

ところが昨夏、iPS研が大学や企業などを対象に実施したアンケートで意外な結果が出た。「(移植に使う際)iPS細胞のHLA型を(個々の患者に)合わせるか」という問いに、企業4社全てと、15研究機関のうち6機関が「合わせない」もしくは「どちらとも言えない」と回答した。免疫抑制剤を使えば、HLA型を合わせる必要はない。ある関係者は「そもそもストックは必要だったのかという話になる。ショックだった」と打ち明ける。

冒頭の会議でアンケート結果を紹介した山中さんは、企業がストックの利用に消極的な理由として、将来、HLA型ごとに安全性などの試験が必要になった場合、膨大なコストがかかる可能性など四つの課題を挙げた。そのうえで「iPS研が関わることで課題が克服できる。日本人の50%のカバーを当面の目標としつつ、3年後をめどに計画を見直すべきか相談したい」と、目標を下方修正しつつ、事業継続を訴えた。

別の理由で、ストックの細胞を使わないと明言する企業もある。アステラス製薬の子会社「AIRM」の志鷹(したか)義嗣社長は、毎日新聞の取材に「iPS細胞は自前でも作れる。ストックの同じ細胞を使った他社の製品で何か不具合が生じれば、風評被害を受ける可能性がある。そんなリスキーなことはしない」と述べた。

ストックの存在意義を揺るがすような新たな技術も登場した。米バイオベンチャーが、遺伝子を効率よく改変できる「ゲノム編集」技術を使ってiPS細胞の遺伝子を改変し、移植時の拒絶反応を抑える技術を開発した。これを使えば、HLA型を気にせず移植できる細胞が作製できるかもしれないと注目されている。

アステラス製薬は 米国のバイオベンチャーであるUniversal Cells Inc.を買収したと発表した。
Universal Cellsは、白血球型抗原(HLA)不適合による拒絶という細胞医療の課題を解決し、全ての患者の治療に用いることが可能な細胞医療製品を創製できる独自技術であるユニバーサルドナー細胞技術を有している。

独自に開発した遺伝子の編集技術を用いてHLA(自己と非自己を識別することができる細胞の表面抗原)の発現を調整する。
rAAV(recombinant adeno-associated virus)を用いてヒト胚性の幹細胞(ES細胞)の遺伝子編集を行なった結果として、免疫拒絶反応を免れる細胞を作製できた。

2017年10月に、ユニバーサルドナー細胞技術に関する独占的ライセンス契約を締結した。このたびの買収により、アステラス製薬はより多くの治療分野で、この独自技術を活用できることになる。
アステラス製薬が既に有する多能性幹細胞から分化した機能細胞を取得する基盤技術と免疫拒絶を抑えた多能性幹細胞を創製するユニバーサルドナー細胞技術とを組み合わせることで、現在治療法が殆どない様々な疾患に対する革新的な細胞医療の研究が加速していくことを期待している。

ストックの細胞の評価にも携わる神戸医療産業都市推進機構の川真田伸・細胞療法研究開発センター長は「さまざまな観点からストック事業の行き詰まりは明らかだが、誰も打開策を持たずに結論を先送りにしている。政策の検証もせず、公共的な事業を山中所長一人に丸投げする政府の姿勢にこそ問題がある」と指摘する。

「選択と集中」の功罪

政府はiPS細胞による再生医療を異例の速さで強力に後押ししてきた。山中さんらがヒトiPS細胞の開発を発表してからわずか1カ月後の07年12月、文科省は研究支援策を盛り込んだ「総合戦略」をまとめた。08年度にスタートした第2期「再生医療の実現化プロジェクト」では、京大、理化学研究所、慶応大、東京大の4拠点に5年で総額217億円を投入。経済産業省と新エネルギー・産業技術総合開発機構は08〜13年度、総額約55億円の産業応用プロジェクトを実施し、幹細胞の大量生産や創薬に向けた研究開発を進めた。

第2次安倍政権が再生医療を「成長戦略」の柱の一つに位置付けたことで支援は加速した。政権発足翌月の13年1月、文科省は10年間で約1100億円の研究支援を決定。14年には、再生医療製品の承認を優先し、有効性は市販後に検証できる法律ができた。理研発のベンチャー「ヘリオス」の鍵本忠尚社長は早期承認制度について「企業が開発リスクを負えるようになった。最大のベンチャー支援策だ」と評価する。

政府挙げての素早い支援の背景には、山中さんの中学・高校の同級生で、当時官房副長官だった世耕弘成・現経産相の力添えもあった。世耕氏は当時の毎日新聞の取材に「(山中さんから)安定的な研究資金が必要だという希望を聞き、官邸で財務省との調整を受け持った」と話している。

政府の支援は一定の成果を生んだ。14年9月には、理研の高橋政代プロジェクトリーダーらの研究チームが、目の難病を対象にiPS細胞から作製した細胞を移植する臨床研究を世界に先駆けて開始。重症心不全やパーキンソン病、脊髄損傷でもiPS細胞を使った臨床研究計画が進む。

ただし、再生医療全体で見ると、iPS細胞に偏重する日本は世界のトップランナーとは言い難い。海外では、元々体内に存在する体性幹細胞や、iPS細胞とほぼ性質が同じで受精卵から作る胚性幹細胞(ES細胞)を使った研究が先行する。米国立衛生研究所などのデータベースによると、幹細胞を使った臨床試験の件数で、日本は米国や中国、欧州、カナダに比べ大きく出遅れている。

こうした状況について、ヒトiPS細胞が開発された当時、文科省ライフサイエンス課長だった菱山豊・日本医療研究開発機構理事は「評価するのはまだ早い。現段階では決して負けてはいないし、もしiPS細胞への注力がなければ、幹細胞研究全体がもっと遅れていただろう」とみる。

一方、日本でヒトES細胞を初めて作製した中辻憲夫・京大名誉教授は「iPS細胞ができた途端、(受精卵から作ることによる)ES細胞の倫理面の問題ばかり強調され、研究が事実上、止まってしまった」と振り返る。京大のチームによる医療用ES細胞の国内初の作製計画が昨年6月、ようやく了承されたが、「この間に大きく海外と差が開いてしまった」(中辻さん)。かつて厚生労働省で幹細胞研究の施策を取りまとめた官僚の一人も「iPS細胞にのみ特化したのは間違いだった」と認める。

ヒトiPS細胞の開発当初、山中さんは「日本は駅伝を一人で走っているようなもの」と、オールジャパンでの研究体制作りを求めた。だが今、国立医薬品食品衛生研究所の佐藤陽治・再生・細胞医療製品部長はこう懸念する。「円陣を組む日本の官と学がどれだけ海外に目を向けているのかが問題だ。オールジャパンのかけ声の下、内向きになっているのではないか」

     

政府の主なiPS細胞研究支援策

2007年12月  iPS細胞研究等の加速に向けた総合戦略(文部科学省)

 08〜12年度 第2期再生医療の実現化プロジェクト(文科省。京都大など4拠点を選定)

 08〜13年度 ヒト幹細胞産業応用促進基盤技術開発(新エネルギー・産業技術総合開発機構)

 09年 6月  iPS細胞研究ロードマップ(文科省)

 11年 4月  再生医療の実現化ハイウェイ(文科・厚生労働・経済産業省)

 

 

コスト下げ、一番いい治療に 
   京都大iPS細胞研究所・山中伸弥所長に聞く

iPS細胞(人工多能性幹細胞)を開発した山中伸弥・京都大iPS細胞研究所長に、医療用iPS細胞を備蓄するストック事業や、国の支援について聞いた。【須田桃子】

−−ストックに関する昨夏のアンケートで、HLA型を(患者に)「合わせる」と答えた企業がなかったことをどう受け止めますか。

採算や収益性を考える必要のある企業には、合わせたくても合わせられない事情がある。移植する細胞の種類によっては必要ない場合もあるが、本来合わせた方がいいのに合わせない選択をするということは、免疫抑制剤の投与によって患者さんに負担を強いることになる。私たちにできることとして、コストをできるだけ下げ、規制当局との交渉にも参加することが重要だと考えている。

−−そもそもiPS細胞の最大の利点は、患者由来のiPS細胞を使ったオーダーメードの自家移植ができることであり、ストックを使った他家移植ではその利点を生かせないという声もあります。

オーダーメードで細胞を作ると何千万円単位でお金がかかり、保険適用ができる治療には現段階ではなかなかならない。研究が進めばコストも下がる可能性があるので決して諦めているわけではないが、現実にたくさんの患者さんが待っている。HLA型を合わせるのは次善の策であり、ES細胞(胚性幹細胞)ではできない。

−−再生医療全体でみると、日本は国際的にみて存在感が薄いという指摘をどう受け止めますか。

再生医療はとても幅が広い。iPS細胞に関しては、世界で一番いい治療を一番リーズナブルなコストで届けていけたらと思っている。

−−やはり自身の手でiPS細胞を臨床というゴールまで届けたいという思いがあるのでしょうか。

ストックは公共性の高い事業であり、ストップできない。現時点では私たちがやらないと頓挫する。それで被害を受けるのは患者さんなので、そういう無責任なことはできない。代わりにしっかりできる体制ができたら、自分に一番向いていると思う基礎研究に注力するが、残念ながら今のところ、したくてもできない。

−−政府のiPS細胞研究への支援についてどうみますか。

文部科学省の担当者には開発前から私たちの研究を知ってもらっており、途切れなく支援していただいた。あの支援がなければ大きく遅れていたと思う。しかし、まだまだ時間がかかるので、国の支援は継続してお願いしたい。ただ、国だけに頼るわけにはいかないので、これからも寄付のお願いは一生懸命続けていく。