日本銀行総裁 白川 方明

物価安定のもとでの持続的成長に向けて

2012年11月12日    きさらぎ会における講演

1.はじめに

日本銀行の白川でございます。本日は、お話しする機会を頂き、ありがとうございます。

皆様ご存じのように、日本銀行は、9月、10月と、2か月連続で金融緩和の一段の強化を決定しました。本日は、一連の金融緩和強化措置の内容、および、その背後にある経済・物価情勢の判断をご説明し、そのうえで、デフレや金融政策運営を巡って行われている様々な議論を取り上げ、我々の考えをお話ししたいと思います。

2.海外経済の動向

それでは、海外経済の動向から話を始めます。海外経済は、昨年後半以降、減速に転じ、最近では、多くの国や地域において、製造業部門を中心に減速した状態が強まっています。国際機関や民間エコノミストの予測数字の推移からも確認できることですが、特に本年夏場以降、世界経済の見通しは急速に慎重方向に変化しました(図表1)。これには、大きく言って2つの要因を指摘できます。

第1の要因は、欧州債務問題の影響の広がりです。ギリシャに端を発する政府債務を巡る懸念は、昨年後半以降、スペインやイタリアにも波及しました。その結果、財政、金融システム、実体経済の間の負の相乗作用が働き、本年入り後、その悪影響はドイツなどユーロ圏のコア国にも及んでいます。このため、ユーロ圏経済の実質GDPは、昨年第4四半期から本年第2四半期まで3四半期連続のマイナス成長となり、第3四半期もマイナス成長は免れないとみられています。こうした欧州の景気後退の影響は域外にも広がり、欧州向け輸出の減少という直接的なルートだけでなく、不確実性の増大に伴う企業行動の慎重化というルートを通じて、世界経済の下押し圧力となっています。

第2の要因は、中国経済の減速が予想以上に長期化していることです。中国経済は、欧州向け輸出の落ち込みに加え、民間不動産投資が減速しています。また、こうした内外需要の減退を背景に、過剰設備を抱える素材産業を中心に、在庫調整が長引いています。実質GDPの成長率はなお高めの水準にあるとはいえ、前年比でみて、本年第3四半期まで7四半期連続で低下しています。政策当局は、金融・財政両面から景気刺激策を講じていますが、リーマン・ショック後の大規模な政策が結果的に設備の過剰や不動産市場の過熱をもたらした経験もあって、緩和方向への転換に当たっても、持続性のある成長という課題を意識して注意深く政策を運営しているように見受けられます。

先週出席したG20会合では、先行きの海外経済について、地域によっては落ち込みが止まり安定化する動きがみられているとの報告も聞かれましたが、全体としては、改めてリーマン・ショック以降の世界景気の回復力の弱さを感じました。振り返ってみると、2000年代半ばにかけての米欧の高い成長は未曾有の規模の信用バブルによるところが大きく、民間債務は著しく増加しました(図表2)。現在は、過剰債務の調整過程であり、調整が終わるまでは、バブル崩壊後の日本の経験が示すように、経済は低成長を余儀なくされます。実際、バブル崩壊後の実質GDPの推移という観点からみると、今回の米欧のパフォーマンスは、FRBを含め、各国中央銀行の積極的な金融政策にもかかわらず、これまでのところは、日本のバブル崩壊後よりも悪いというのが実態です(図表3)。

そのような大きな認識をもった上で、海外経済の見通しを点検すると、当面は減速局面が続くとみられるものの、次第に減速した状態から脱し、緩やかな回復に転じていくと考えています。そのように判断する根拠としては、米国において住宅価格が底を打ち、低水準ながら住宅投資が改善の方向に向かっていることや、金融緩和の効果が景気改善の動きを支えることが挙げられます。欧州債務問題については、欧州中央銀行による新たな国債買入れプログラムの導入や ESM(欧州安定メカニズム)の稼働開始といった安全装置の整備が進む中、経済・財政改革への様々な取り組みが徐々に進展し、企業や家計マインドが改善していくことが期待されます。中国についても、景気対策や在庫調整の進捗の効果などを挙げることができます。ちなみに、IMFが先月公表した世界経済見通しによれば、世界経済の成長率は、2012年の3.3%から2013年は3.6%となり、2014年は4.1%と次第に伸びを高める予想となっています。

ただし、そう申し上げた上で、こうした見通しについては、欧州債務問題の今後の展開、米国の「財政の崖」(fiscal cliff)を巡る問題の帰趨、中国経済の減速がさらに長期化する可能性など、大きな不確実性があることは十分認識しており、注意して点検を行っていく方針です。

3.日本経済の動向

次に、以上申し上げた海外経済の動向を踏まえ、日本経済の現状と先行きについてお話しします。

わが国経済の足もとの動向をみると、海外経済の減速した状態が強まる中、輸出は本年第2四半期の急増の反動も加わり、第3四半期にははっきりと減少し、鉱工業生産も2四半期連続で減少しています。輸出を仕向け地別にみますと、EU向けが4四半期連続減少しているほか、最近は中国向けの減少が目立っています(図表4)。日中関係の経済面への影響は、貿易や観光などに表れ始めています。日中関係の影響がさらに広がることがないかどうかにも、注意が必要です。他方、国内需要は、全体としては、復興関連需要の増加などを背景に最近まで相対的には堅調に推移してきました。しかし、輸出の弱さを反映し、製造業の新規求人数が6月以降、前年比マイナスとなっているなど、雇用面にも徐々に影響が出始めています。個人消費についても、エコカー補助金の効果剥落もあって、夏の初めごろまでに比べて勢いが鈍っています。設備投資についても、9月短観における2012年度の計画は例年のこの時期の計画に比べて高い伸びとなっていますが、今後設備投資見送り等の動きが出てこないかどうか注意してみていく必要があります。こうした状況を踏まえたわが国景気の全体判断ですが、このところ下方修正を続けており、10月末の決定会合では「弱含み」という判断を示しました。

先行きの国内景気ですが、基本的には海外経済の動向に依存します。先ほど述べた海外経済の見通しを前提とすると、国内景気は当面、「横ばい圏内の動きにとどまる」と考えています。輸出や生産が当面は弱めに推移するとみられるほか、国内需要も、全体としてみれば、輸出の弱さを上回るほど増加するには至らないと考えられます。

このような状況下、日本銀行は10月末の決定会合で金融緩和を一段と強化することを決定しました。そうした金融緩和の効果や政府の成長力強化への取り組みの効果も織り込んだ上での先行きのわが国の景気見通しですが、当面横ばい圏内の動きが続いた後、「緩やかな回復経路に復していく」と考えています。数字で申し上げますと、日本銀行の9人の政策委員による成長率見通しの中央値は、2012年度は+1.5%、2013年度は+1.6%、2014年度は+0.6%となっています(図表5)。ただし、この成長率の数字には、消費税率引き上げ前の駆け込み需要とその反動の影響が反映されており、その分を調整すると、2013年度、2014年度ともに1%台前半という見通しになります。この成長率は0%台半ばとみられる潜在成長率を上回っていますので、需給ギャップは着実に改善していく見通しです。

このことは物価の動向にも当然影響します。現在、生鮮食品を除いた消費者物価の前年比は、概ねゼロ%で推移しています。先行きも、当面はゼロ%近傍で推移すると見込まれますが、その後は、今申し上げた需給ギャップの改善を反映して、徐々に緩やかな上昇に転じると考えています。政策委員の中央値で申し上げますと、2012年度の見通しは−0.1%、2013年度は+0.4%、2014年度については、消費税率引き上げの直接的な影響を除くと、+0.8%と予想しています(図表6)。日本銀行では、金融政策の運営に当たって目指す物価上昇率を、「中長期的な物価安定の目途」として数値で示しており、具体的には、消費者物価の前年比上昇率で2%以下のプラスの領域にあり、当面は1%を目途とすることを明らかにしています1。そして、金融面での不均衡の蓄積などの問題が生じていないことを確認した上で、この1%が見通せるようになるまで、強力な金融緩和政策を続けることを約束しています。先ほどの見通しは、消費者物価の前年比が2014年度にはこの1%に着実に近づいていくことを意味していますが、1%が見通せるような状況にはなっていません。

もちろん、こうした経済・物価見通しには、先ほど述べた海外経済の展開を中心に、上振れ・下振れ両方向に多くの不確実性があり、当面はどちらかと言えば下振れリスクに注意が必要であると考えています。

1 「中長期的な物価安定の目途」の導入について、詳しくは白川方明「デフレ脱却へ向けた日本銀行の取り組み」、日本記者クラブにおける講演、2012年2月17日を参照。

4.日本銀行による金融政策運営

次に、日本銀行の金融政策運営に話を移します。10月末の金融緩和の強化は、今年に入ってからの金融緩和ということで言いますと、2月、4月、9月に続き、4回目ということになります。10月末の金融政策決定会合において決定した金融緩和措置は以下のふたつです。第1に、「資産買入等の基金」の規模を、それまでの80兆円程度から91兆円程度に、11兆円程度増額することとしました。第2に、「貸出増加を支援するための資金供給」という新たな枠組みを創設しました。

以下では、10月の決定を中心に緩和措置の内容をお話ししますが、その狙いや意味をご理解頂くために、金融緩和政策が経済・物価に波及していく経路をごく簡単に説明します。金融緩和の波及経路は2段階に分けられます。第1段階は、金融緩和によって、企業や家計が金融市場や金融機関から十分な資金を低コストで調達できる金融環境が形作られる段階です。第2段階は、第1段階の金融環境を企業や家計が実際に活用して資金を調達し、これが投資や支出の増加を通じて、経済・物価の好転につながる段階です。

資産買入等の基金の増額――第1段階への働きかけ

10月の決定のうち、基金の増額は金融緩和の波及経路の第1段階に強く働きかけるものです(図表7)。ご存知のように、資産買入等の基金は、 2010年10月、政策金利が実質的なゼロ金利まで低下した後も、さらに金融緩和を推進するために導入した措置です。日本銀行はこの基金を通じて長期・短期の国債のほか、中央銀行としては異例ですが、CP、社債、指数連動型上場投資信託(ETF)、不動産投資信託(J−REIT)といったリスク性資産を含めて、金融資産を幅広く買入れています(図表8)。その狙いは、長めの金利やリスク・プレミアムに働きかけることにあります。

実際、基金の導入以降、長めの市場金利は着実に低下してきています(図表9)。国債の利回りは、3年物まで0.1%という極めて低い水準にあり、5 年物金利も0.2%程度にまで低下しています。こうした市場金利動向を反映して、銀行の貸出金利も低下を続け、最近では、短期・長期とも1.0%程度と歴史的な低水準となっています。企業からみた金融機関の貸出態度も、2000年以降の平均水準よりも良い状態まではっきりと改善しており、CPや社債の発行環境も、総じて良好な状態が続いています。今回、日本銀行が決定した基金の増額は、長期・短期の国債に加えて、ETFを始めとする各種のリスク性資産もすべて幅広く増額することにより、来年入り後も極めて緩和的な金融環境をしっかり維持し、日本経済を金融面から強力に支えていくことを意図しています。

貸出支援基金の新設――第2段階への働きかけ

そのうえで、緩和的な金融環境がいかに民間の経済主体に活用されていくか、すなわち波及経路の第2段階が次のポイントになります。この点、最近の企業の総資産利益率は3%台前半まで回復している一方、企業の有利子負債にかかる平均支払金利は1%台半ばまで低下しており、両者の格差は大きく拡大した状態にあります(図表10)。

このように、企業にとっては資金を借り入れて投資を行えば儲かる状態にあるようにみえるにもかかわらず、必ずしもそうした状態が実現していないのは何故でしょうか。幾つかの理由が可能性として考えられますが、第1の理由は既往の投資と新規の投資の利益率に差があることです。前述の総資産利益率は過去の投資に対する利益率ですが、新規の投資の利益率がこれよりも低下しているとすれば、投資は起きてきません。第2の理由は、低成長が長く続いた結果、企業マインドが慎重化し、積極的なリスクテイクが行われていないことです。第3の理由は、国内で投資するよりも海外での投資収益率の方がはるかに高いことです(図表11)。

いずれにせよ、国内には魅力的な投資機会が少ないというのが多くの経営者からお聞きする声であり、この点を変えていかない限り、設備投資は活発化していきません。逆に言うと、ここを変えていくと、投資は活発化します。金融緩和の波及経路の第1段階は市場利子率を引き下げる過程ですが、今申し上げたことをエコノミストの言葉で表現すると、自然利子率を引き上げる努力も必要だということになります。

この第2段階の働きを高めるには、企業、金融機関、政府といった幅広い主体による成長力強化の取り組みが最も重要です。しかし、日本銀行としても、自らが有する手段で可能な限りの手を打つべきという強い思いから、2010年に「成長基盤強化を支援するための資金供給」を導入し、一定の成果を挙げています。さらに、日本銀行は今回、金融機関の積極的な行動と企業や家計の前向きな資金需要の増加を促すことが必要と判断し、「貸出増加を支援するための資金供給」の枠組みの創設を決定しました(図表12)。

これは、基準時点に比べて貸出残高を増やした金融機関に対し、希望に応じてその増加額の全額まで、日本銀行が円資金の供給を行うという措置です。日本銀行の資金供給総額には上限を設けません。対象とする貸出は民間向けとし、円貨建てだけでなく外貨建ても含めます。経済のグローバル化が進展する中、企業の海外業務展開とそれを支える金融機関の融資活動は、日本経済の発展にとって大きな意味を持つと考えられるからです。貸付期間は、金融機関の希望に応じて、3年までの期間を選ぶことができ、最長4年まで借換え可能としています。貸付金利は政策金利の水準としており、現在ならば0.1%です。このように、金融機関は低利かつ長期の資金を日本銀行から借りられることになります。

この資金供給の規模は、貸出増加に向けた金融機関の取り組みによって決まります。ちなみに、計数の判明している直近8月までの1年間では、貸出を増やした先の増加額を合計すると約15兆円になります。そのうち、国内店では11兆円、海外店では4兆円の増加となっています(図表13)。先行き、金融機関の貸出がこれ以上の規模で増加すれば、その分、日本銀行が資金供給できる金額も大きくなります。現在、日本銀行では、この新たな措置について実務面での詰めを行っており、年内にはその詳細を固めて発表し、出来るだけ早く実行に移したいと考えています。

日本銀行では、先ほど触れた「成長基盤強化を支援するための資金供給」と、今回導入を決めた「貸出増加を支援するための資金供給」を合わせて、「貸出支援基金」と呼ぶことにし、緩和した金融環境の活用を強力に支援するための基金として位置付けています。今回新たな措置を設けたからといって、従来からの成長基盤強化支援の資金供給の重要性は全く変わりません。成長基盤強化支援では、貸出残高の増減にかかわらず、引き続き、成長分野に対する投融資に取り組む金融機関を支援し、成長力強化へ向けた意識のさらなる浸透を図っていきます。

5.デフレ脱却を巡る論点

次に、日本銀行の金融政策運営について、より深いご理解を頂くために、より根本的な次元に立ち返って、そもそも「デフレ脱却」とは何を意味し、そのためには何が必要であるかについて、いくつかの論点を取り上げながらお話しします。

デフレ脱却と物価上昇率の関係

最初の論点は、デフレ脱却と物価上昇率との関係です。一般にデフレとは「物価の持続的な下落」のことを指しています。したがって、デフレからの脱却とは、その反対解釈から、物価の下落が止まる、あるいはごく緩やかに上昇する状況になることを意味します。先ほど述べた日本銀行の見通しが正しいとすれば、2013年度から2014年度にかけて物価は緩やかに上昇します。しかし、我々が当面望ましいと考える物価安定の目途である1%は見通せていないことから、強力な金融緩和を続けるというのが日本銀行の約束です。いずれにせよ、我々が「デフレ脱却が重要な課題だ」と言う時に念頭に置かれているのは、単に物価指数が上昇するということではありません。この点については、日本銀行が一般の方々を対象に実施している「生活意識に関するアンケート調査」から、有益な示唆が得られます(図表14)。具体的には、物価の上昇について8割強の方が「どちらかと言えば困ったことだ」と回答しているのに対し、物価の下落については「どちらかと言えば好ましい」という回答が3分の1程度を占めています。デフレ脱却の必要性が総論的に言われることからすると、このアンケート結果は一見すると、不思議です。しかし、考えてみれば当然の結果かもしれません。と言うのも、これらの質問で人々はとりあえず物価のことだけを問われているので、賃金が上昇しない現状において物価だけが上昇する状況を想定して、それは困ると回答したのだと思います。

我々が実現を目指しているのは、デフレから脱却し、物価安定のもとでの持続的成長経路に復帰することです。つまり、単に物価が上がりさえすれば良いということではなく、企業収益や雇用の増加、賃金の上昇など、経済そのものが全般的に改善し、その結果が物価の緩やかな上昇として現れる状況を目指しています。逆に、景気は過熱しているが、物価上昇率だけ低いという状態も発生します。その典型はバブル期の1980年代後半です。消費者物価上昇率は1986 年から3年間にわたって1%を下回っていましたが、当時の日本経済がデフレ状態にあったという人はいません(図表15)。要は、持続的な成長の実現という観点から、景気、物価、金融情勢をバランス良く点検していく必要があるということです。

インフレ予想の実像

第2の論点は、インフレ予想を巡る議論です。デフレ脱却には経済成長が必要という議論に対しては、経済を好転させるためには、まずインフレ予想を高めることが必要であり、そしてそれが中央銀行の仕事ではないか、という議論も聞かれます。ここでは、民間経済主体の予想インフレ率が上昇すれば、名目金利から予想インフレ率を差し引いた実質金利が低下し、それが景気刺激につながるというメカニズムが想定されています。しかし、「物価も賃金も上がらない」という状況が長く続いた経済においては、いきなり人々のインフレ予想だけが先行して高まる、あるいは高められると考えるのは現実的でありません。石油ショックのようなケースではそうしたことは起こりえますが、我々が望んでいるデフレ克服とは違います。先ほどのアンケートで多くの方が物価上昇を否定的に捉えているという事実は、今の日本においては、「物価は上がらないのが普通だ」という感覚にとどまらず、「物価の上昇は許容できない」という感覚が広く定着している可能性を示唆しているように思われます。実際、過去15年間程度の消費者物価のデータを詳細にみると、米国では、毎年2.5%から3.0%の範囲で価格が上昇している品目のウエイトが一番大きいのに対し、日本では、価格上昇率ゼロから0.5%の範囲で上昇している品目のウエイトが最も大きくなっています(図表16)。物価指数全体では若干のマイナスとなっていますが、これには、米国に比べ、テレビやパソコンといった一部品目の価格が、品質向上を反映した統計処理から大きく下落していることなども影響しています。いずれにせよ、こうした現実の中で形成されてきた物価に関するある種の常識的な感覚、すなわち「物価観」こそが、経済理論では「インフレ予想」という用語で抽象化されているものの実像だと考えられます。消費者が物価は上がるものではないという「物価観」を背景に、企業の値上げを受け容れないため、企業でも賃金を含めてコストを抑制する動きが続き、デフレからの脱却に時間がかかっているという面もあるように思います。やはり、経済の成長力を強化し、賃金の引き上げを実現していく、という実体的な変化を起こすことが不可欠です。この点は、後で改めて述べることにします。

需給ギャップの意味

次に、デフレ脱却を巡る第3の論点、すなわち需給ギャップの意味についてお話しします。内閣府の試算によると、足もとの需給ギャップは、GDPの 2%程度、実額の年率換算で約10兆円とされています。日本銀行による試算もほぼ同様です。リーマン・ショック直後の試算では、需給ギャップは約40兆円とされていましたので、その頃よりはかなり縮小していますが、それでもまだ相応のギャップが存在します。需給ギャップは、一般に「需要不足額」として認識されているため、これを埋めるだけの需要を政策的に付ければ、ギャップが直ちに解消してデフレから脱却できるはずだ、という議論がなされることがあります。確かに、需要不足が純粋に一時的なものである場合には、そうした議論に妥当性はありますが、注意しなければならないのは、需給ギャップというのは、あくまで現存する供給構造を前提に、それらに対応する需要不足を捉えたものに過ぎない、という点です。社会や経済は常に変化するものであり、日本でも、高齢化や女性の社会進出、価値観の多様化などによって、新しいタイプの需要が潜在的にはどんどん生まれていると考えられます。例えば、医療・福祉産業では、高齢化により潜在需要が急拡大しているにもかかわらず、各種の規制や現場の人手不足などから、需要に見合うサービスが提供できていないとの声が多く聞かれています。また最近注目が集まっている高齢者の消費についても、所得、健康状態、嗜好の違いなどから若年層の消費よりも個別性が強く、供給者サイドの工夫如何でさらに拡大する余地があることが指摘されています。いずれにせよ、こうした未充足の需要、すなわち成長分野における「供給不足」は、需給ギャップにカウントされていません。つまり、変化の激しい経済にあっては、需給ギャップは、既存の財・サービス供給に対する需要不足のみを捉え、新たな潜在需要に対する供給不足を捉えていないという意味で、非対称な概念となっています。言い換えると、本来「需給のミスマッチ」と認識すべき部分まで、「需要不足」という形で示されているということです。

そう考えると、持続的に需給ギャップを改善していくためには、潜在需要を顕在化させるように、経済の変化に合わせて供給構造を作り変えていくことが必要です。そのようにして掘り起こされた需要は、人々が自発的に求めていた需要ですから、その後も支出増加と収益・所得増加の好循環につながる性格のものです。このように、需給ギャップの改善についても、短期的なマクロ経済政策に加えて、新陳代謝の活性化を含め、新たなビジネスが生まれやすい経済構造に変えていく、という取り組みが重要な役割を担うと考えられます。

成長力強化の重要性

デフレ脱却を巡る4つ目、最後の論点は、これまで述べてきたことのいわば総括になりますが、成長力強化の重要性です。

日本銀行は、日本経済がデフレから脱却し、物価安定のもとでの持続的な成長経路に復するという課題は、幅広い経済主体による成長力強化の努力と金融面からの後押しの双方があいまって実現していく、ということを繰り返し強調してきています。成長力とは、突き詰めれば、既存の財・サービスとの差別化を図り、内外で新たな需要を迅速に掘り起こしていく力のことです。消費者にその価値を認めてもらえる魅力ある財・サービスを提供できれば、供給者は価格支配力を維持し、付加価値を確保することができます。その付加価値は、いったん企業収益の増加となりますが、それが雇用や賃金の増加という形で家計にもバランス良く分配されていけば、経済に厚みのある購買力が形成されます。そのことは、さらに新規需要開拓が成功しやすい経済環境を醸成することにもつながります。このように、賃金が上昇し、支出と所得の好循環が働き始めれば、人々は緩やかな物価上昇を自然な形で受け容れていくようになります。これがまさに、物価観の変化、すなわちインフレ予想の上昇が生じる現実に即した道筋であり、経済がデフレから脱却していく基本的なメカニズムだと考えられます。この点、リーマン・ショック以降の賃金の動きは、前回の景気回復局面と比べて相対的に強めとなっていますが、これが今後、物価を巡る環境にどう影響するかについても、丹念に点検していきたいと思います(図表17)。

新規需要の開拓力は、企業のチャレンジ精神から生まれます。しかし同時に、チャレンジに伴うリスクを資金面から支える金融機関の役割や、思い切った規制緩和によりチャレンジ可能な領域を広げていくことなど、環境整備の面で政府が果たすべき役割も大きいと考えています。こうした認識は政府も共有しています。10月末の金融政策決定会合では、金融緩和の一段の強化に加え、政府と日本銀行がこれまでも共有している認識を改めて明確に示すため、「デフレ脱却に向けた取組について」という文書を共同で出すことを決定しました。この「共通理解」とも呼ぶべき公表文の中で、政府は「デフレからの脱却のためには、適切なマクロ経済政策運営に加え、デフレを生みやすい経済構造を変革することが不可欠である」という認識をはっきりと示しています。日本銀行としては、政府が成長力強化の取り組みを強力に推進することを強く期待しています。もちろん、日本銀行としても金融面から最大限の努力を行っていきます。そうした幅広い主体の努力が結実すれば、物価安定のもとでの持続的成長が実現できると考えています。

6.日本銀行の金融政策を巡る論点

続いて、日本銀行の金融政策を巡る論点について、しばしば頂くご質問を意識しながら、お話ししたいと思います。

金融緩和は不足か十分か

日本銀行の政策姿勢については、デフレからの早期脱却にはなお不十分ではないか、というご意見を頂くことがあります。その一方で、これとは逆のご意見として、金融環境は既に十分緩和した状態にあり、一段の緩和強化に追加的な効果はあるのか、という趣旨のご質問も頂きます。10月末の金融政策決定会合後の記者会見でも、正にこの両方の質問を受けました2

これまで述べてきたように、物価が上昇する状態を創り出していくには、第1段階の強力な金融緩和の推進と、第2段階の主役である成長力強化の努力が、ともに必要不可欠です。成長力強化の努力が実を結ぶにはある程度時間を要することを考えると、日本銀行としては、そうした努力とうまく噛み合うように最適なペースで強力な金融緩和を推進していくことで、金融緩和の効果が最大限に発揮されると考えています。確かに、記者会見での指摘のように、金融環境が既に相当緩和していることはその通りですが、それでも中央銀行として、自らの有する手段を工夫し、目的達成に向けて少しでも緩和効果が実現するよう努力することは当然です。そうした考えに立ち、景気が弱含みに転じたこの局面で、経済や物価の先行きを丹念に点検した結果、金融緩和を一段と強化することを決定しました。

2 総裁定例記者会見(10月30日)要旨」を参照。

資産買入れを「無制限」に行うと宣言すべきか

金融政策を巡る2番目の論点として、資産買入れを「無制限」に行うと宣言すれば、金融緩和の効果はもっと高まるのではないか、というご意見を頂くこともあります。その際の例として、FRBの政策が言及されることもあります。正確に申し上げると、FRBは9月のFOMCにおいて、労働市場の見通しが改善するまで、住宅ローン担保証券(MBS)の買入れを継続することを決定しました。この点、日本銀行も、消費者物価の前年比上昇率1%が見通せるようになるまで、強力な金融緩和を推進していく方針を明確にしています。すなわち、望ましい経済・物価の姿を示しつつ、その実現に向けて必要な政策を続けていくことを明らかにしているという点で、FRBと日本銀行の金融政策運営は共通しています。

実際、日本銀行の政策運営を振り返ってみますと、資産買入等の基金は、その規模を35兆円程度、期限を2011年末までとしてスタートしましたが、現在は規模が91兆円程度、期限も2013年末までと、当初の予定を遥かに超えた緩和政策となっています。加えて、成長基盤強化支援の拡充や、先ほど述べた新たな貸出増加支援策の導入など、その後の経済情勢の変化に応じて、新たな制度や施策を実施に移しています。このように、日本銀行は、消費者物価上昇率 1%を目指して、予め期限等を限定せず、新しい手法も駆使して強力に金融緩和を推進しているという点を、改めて強調したいと思います。また、期間を定めない資産買入れという点では、経済の成長に見合う趨勢的な銀行券需要の増加に対応した長期国債の買入れを別途続けており、今年も年間21.6兆円という多額の買入を行っていることも付言したいと思います。

マネーの増加は問題を解決するか

第3の論点として、デフレから早期に脱却するためには、日本銀行がもっとマネーを増やすべきというご意見もあります。マネーには様々な指標がありますが、中央銀行の負債項目であるマネタリーベース、すなわち、銀行券と金融機関の中央銀行預け金の合計金額をみますと、日本における対名目GDP比率は米欧の規模を上回っています(図表18)。米欧の場合、この比率が上昇したのはリーマン・ショック後のことに過ぎないのに対し、わが国の場合は、それよりもずっと前からこの比率が上昇しているため、リーマン・ショック後の日本の増加状況が目立ちにくい印象を与えます。しかし、リーマン・ショック後に限定しても、マネタリーベースの増加金額の対名目GDP比は、日本は米国やユーロ圏と同規模です。また、マネーのもうひとつの概念、すなわち、民間経済主体の手元資金に相当するマネーストックを、やはり対名目GDP比率でみますと、これも日本は米欧を上回っているほか、現在も明確な上方トレンドにあります(図表 19)。マネーを増やせば物価が上がるという貨幣数量説は一見わかりやすいですが、近年の日本や米国のようにゼロ金利が続く経済では、現実を説明できません(図表20)。ちなみに、2000年度を起点にとって、貨幣数量説通りにその後のマネーの伸び率が物価に反映されたとすれば、この間の日本の消費者物価の年平均上昇率は、マネタリーベースで計算すると+4.8%、マネーストックで計算すると+1.6%となっていたはずです。これは、実際の−0.2%とは大きく異なります。この点は米欧でも同様です。デフレ脱却のためには、金融環境の緩和だけでなく、それを活用する成長力が必要という先程来の議論は、現実のマネーと物価の関係からも明らかだと思います。

ところで、こうしたマネー指標に即した議論とは別に、やや感覚的な表現ではありますが、日本銀行はもっとどんどん「お金」を刷るべきだ、というご意見も少なくありません。ただで「お金」をもらえるという、うまい話が実際にあるのならば、それは誰でも歓迎しますが、そんな話はもちろんありません。

日常会話で「お金」というと、現預金、すなわち、手元流動性のことを指すことも多いですが、所得や財産の意味で使うことも多いように思います。実際、「お金持ち」とは多額の所得や財産を持つ人のことです。しかし、日本銀行が供給する「お金」はそれとは違います。日本銀行の資金供給が、しばしば比喩的に「お金を刷る」と言われるために、誤解が生じてしまうのですが、日本銀行の資金供給とは、例えば日本銀行が金融機関から国債を買い取り、その購入代金を、当該金融機関が有する日本銀行の当座預金口座に振り込むことです。すなわち、金融緩和とは、「ただでお金をばらまく」ことではなく、国債などの資産を買い取ったり、国債を担保に貸し付ける等価交換であり、その段階では所得や財産という意味での「お金」は増えません。

増えるのは日本銀行の当座預金という意味での「お金」です。こうした中央銀行の行動によって金利が低下し、これが企業の資金需要を喚起し、投資などの様々な経済活動が活発になっていくことを通じて、所得や財産という意味での「お金」がようやく増えることになります。

ありうる反論として、ヘリコプター・マネー、すなわち天からお金をばらまけば、景気が良くなり物価は上がるはずだ、という議論があります3。これも一種の比喩です。最近、英国で中央銀行の保有する国債について償却を行ってはどうかという議論が行われ話題になりましたが、これは正にヘリコプター・マネーの議論の本質を表しています。仮にそうしたことが行われると、中央銀行は損失を計上し、政府への納付金が減少するか、政府から資本不足分の補填を受ける必要が生じます。いずれにせよ、税金の裏付けが必要であり、これは政府や議会が決定する財政政策です。

色々申し上げましたが、現在のようなゼロ金利環境ではマネーの保有にはコストがかからないので、いくら供給してもスポンジが水を吸うように吸収されてしまいます。マネーの総量は重要であり、日本銀行による今の資産買入れを前提とすると今後もマネタリーベースは大幅に増加していきますが、現在、それ以上に重要なことは、成長力の強化を通じて、マネーの回転速度を引き上げることです。

3 イングランド銀行のキング総裁は、2012年10月23日の講演において、貨幣創造(money creation)に関する考え方や金融政策と財政政策の混同の問題について言及している。

外債を買うべきか

金融政策を巡る第4の論点として、円高を是正するために日本銀行が外債を購入すべきとのご意見も聞かれます。しかし、為替介入と同等の効果を狙った外国為替の売買については、日本銀行法上、日本銀行は「国の事務の取扱いをする者」、すなわちあくまで財務大臣の代理人として行うことになっており、介入の意思決定は財務大臣の所管となっています。現在の日本銀行法が国会で審議された際、為替の問題には常に相手国が存在するため、通貨外交は政府に一元化しておくことが望ましい、という考え方が示され、こうした規定になっていると認識しています。いずれにせよ、現在の法律の枠組みのもとで、政府は必要と判断する場合には、今でも為替介入を行える体制になっており、現に2010年以降の介入金額は累計で15兆円を超えています(図表21)。また、介入に必要な政府短期証券も事実上のゼロ金利で潤沢に発行できる状況にあります。

この間、日本銀行は、為替相場の動向が経済・物価に与える影響については、常に重大な関心をもって注視しています。とりわけ、海外経済の先行きを巡る不確実性が大きい昨今においては、円高が輸出や企業収益の減少、企業マインドの悪化などを通じて日本経済に対してマイナスの影響を及ぼす可能性に、十分注意する必要があると考えています。日本銀行としては、これまでもこうした点を十分考慮に入れながら金融政策を運営してきましたし、今後もその方針は変わりません。

為替相場の変動要因は複雑ですが、リーマン・ショック以降の円高の背景としては、米欧の金利が大幅に低下して日本の金利との差が縮小したことに伴い、円キャリー・トレードが巻き戻されたことや、欧州債務問題が進行する中で円が安全な通貨とみなされたことなどが挙げられます。なお、為替レートの決定要因として前述のマネタリーベースの動向が影響しているのではないかという見方が示されることもありますが、過去の経験からいっても、マネタリーベースと為替相場との間には、全体として明確な関係はみられないように思います(図表22)。いずれにせよ、日本銀行が、極めて低い金利水準をさらに低下させるなど強力な金融緩和を推進してきたことは、円高への一定の歯止めとして作用してきたと考えています。

7.おわりに

以上、本日は、日本銀行の金融政策運営を巡る様々な論点や、成長力強化の重要性などについてお話ししてまいりました。最後に、デフレから脱却し持続的成長経路に復帰する上で重要と考える「意識」や「気分」について、触れたいと思います。「意識」や「気分」というと、中央銀行総裁が語るには相応しくないと思われるかもしれませんが、ケインズがアニマル・スピリッツという言葉で表現しているのと同じ問題意識です。

「意識」や「気分」の問題に触れるために、私が最近いつも言及している事実をご紹介します。それは、金融危機前の2007年と現在の実質GDPの変化に関する国際比較です(図表23)。日本は欧州諸国と同様、現在も2007年の実質GDP水準を下回っています。一人当たりGDPでみると、米国を含め、主要国はリーマン・ショック前の2007年の水準を下回っていますが、落ち込み幅は日本が一番小さくなっています。そして、生産年齢人口一人当たりでは、米欧が危機前の水準を下回っているのに対し、日本は危機前の水準を上回っています。言い換えると、日本は生産年齢人口自体が減少しているため、一国としての成長率は低くなりがちですが、働く日本人の一人一人は、米欧を上回るペースで、付加価値の増加に貢献しています。このことは我々が過度の悲観論に陥るべきではないことを意味しています。しかし、同時に、我々が現状を放置し成長力強化の努力をしなかった場合には、日本経済は今後厳しい状態になることも意味しています。この先10年、20年という期間の平均的な成長率は潜在成長率に規定されます。潜在成長率は就業者数の伸びと就業者一人当たりの実質 GDPの伸び率、すなわち、付加価値生産性の伸びに分解できます。足もとの男女別、年齢別の労働参加率を前提にすると、将来の就業者数の推移はかなり正確に計算できます。それによると、2010年代は−0.6%、2020年代は−0.8%と減少します。付加価値生産性については、2000年から2008年という比較的良好な時期をとると、+1.5%となります(図表24)。もちろん、付加価値生産性の引き上げの努力は必要ですが、キャッチアップ過程の終わった先進国経済について恒常的に2%とか、3%といった高い伸び率を期待することはできません。そのことを冷静に認識した上で、付加価値生産性を少しでも引き上げる努力と、労働参加率引き上げにより就業者数を増加させる努力の両方を続けていくことが重要です。

そうした努力の出発点は、今申し上げたような事実の冷静な認識と、日本経済の強みを認識することから生まれる前向きの気分を持つことです。日本経済は、世界のどの国もこれまで経験したことのない急激な少子高齢化という、強い逆風に直面していることは事実ですが、一方で、日本経済の有する強みが客観的に認識されていないようにも感じています。例えば、日本の場合、2000年代半ばに大規模な信用バブルが発生しなかったため、現在、企業の多くは健全なバランスシートを維持しており、金融機関の経営も安定しています。少なくとも「3つの過剰」の解消に追われた1990年代とは全く状況が異なり、成長力強化に取り組む財務基盤は整っています。さらに、わが国が、高齢化やエネルギー制約という世界共通の課題に最初に直面していることは、今後それらへの対応の面でも世界の先頭を走り、日本の存在感を高めていくチャンスだと捉えることもできます。いわゆるソフト・パワーも、決して無視できない日本の比較優位だと思います。先月48年振りに東京で開催されたIMF・世銀総会において、警備や会議運営を含め、日本のイベント運営能力の高さや優れたホスピタリティーを世界に改めて印象付けることができたのも、そうした力の表れだと感じました。

これら様々なプラスの側面にも目を向けながら、切迫感を持ちつつも悲観論には陥らず、日本全体の力を結集して、成長力の強化に真剣に取り組んでいくことが重要です。日本銀行としても、引き続き、デフレから早期に脱却し物価安定のもとでの持続的な経済成長の実現に向けて、中央銀行として最大限の努力を続けていきたいと考えています。

本日は、ご清聴ありがとうございました。