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「原発事故と放射線のリスク学」を著した中西準子さん

2014年07月22日  毎日新聞

 化学物質のリスク評価の第一人者、産業技術総合研究所の中西準子フェローは新刊「原発事故と放射線のリスク学」(日本評論社)の中で新しい除染・帰還の目標値として「放射線の追加被ばく線量が年間5ミリシーベルト」を示した上で、移住も住民の選択肢に含めるべきだと主張した。放射線の健康への影響や除染の費用対効果も踏まえ、「研究者生命をかけて」政策提言に踏み込んだという。原発事故のリスク評価になぜ取り組み、このような政策を提言したのか。中西フェローに聞いた。【石戸諭/デジタル報道センター】

 ◇一人一人が選択する際に必要な条件を探る

 −−著書の中で提案しているのは「年間5ミリシーベルト以下」という新しい除染・帰還の目標値です。

 ◆今回の本は主に原発事故で強制的に避難を余儀なくされた自治体、住民の方に向けて書きました。数字自体にはもちろん根拠がありますが、「全員帰還」「除染による原状回復」といった側面ばかりが強調されてしまい、一人一人の住民が今後の対応を決める際に必要な条件が出ていないのではないかと感じました。私が目指したのは、住民が決めることを前提に、必要な条件と根拠を探ることです。福島県の外に住む私がこのような提案をしてもいいのかという大きな葛藤もありました。

 避難された住民の方々は第一に原発事故の被害者です。責任追及や原状回復への思い、補償に対する思いを受け止めながらの提案が必要だと感じました。年間5ミリシーベルトというリスクを選択し、受け入れてほしいという提案ではなく、移住という選択肢も必要だという点を強調したいと思います。

 では、なぜ5ミリシーベルトという基準を出したのか。一つはリスクを許容できる範囲の値を決めないと帰れない人も出てくるという事実です。除染の目標として年間1ミリシーベルト(国が長期的に目指すとした放射線の追加被ばく線量)という数値が独り歩きしています。1ミリシーベルトを目指すことにこだわりすぎると、帰還を希望しても一生帰れない人が出てきてしまいます。国が直轄する除染事業「除染特別地域」は福島第1原発周辺の浜通りから放射性物質が大量に飛散した中通りにかけて1119平方キロもあります。事故前の2010年の人口は約8万6000人でした。

 現在の除染作業は技術的な限界が見えています。繰り返し除染を実施しても線量はそれほど下がらない可能性がある。環境省が帰還困難区域の除染結果を公表しましたが、住民が生活するための線量に戻るには相当な時間が必要だと感じています。戻ったとしても、必要なインフラ整備など課題は残ります。仮に5ミリシーベルトを除染と帰還の目安として設定すれば、2年ほどで約6万5000人が戻ることが可能になる計算になります。もちろん、帰還を決定するのは個々の住民ですが、帰還したい人が帰還しても、リスクを最小限に抑えた上で生活できる。時間や除染費用を考えながら、希望する人が帰還できて、かつ被ばくのリスクを受容できる条件を考えていく目安としての数字が5ミリシーベルトです。

 これに対してもっと自由に帰還できる数値設定が必要という見解もあるでしょう。例えば年間20ミリシーベルトを帰還の基準としてもいいじゃないかという考えです。しかし、年間20ミリシーベルトは原発などで通常時に働く人たちの被ばく量限度と変わりません。長期に生活していく上で許容できるような数値ではないと私は考えます。逆に1ミリシーベルトは先に話したように技術的な限界があり、いたずらに時間だけが過ぎていく可能性が高い。

 −−年間5ミリシーベルトの理論的な根拠は何でしょうか?

 ◆放射線リスクについては、私が研究対象にしてきた他の化学物質のリスク研究よりも進んでいて、分かっていることも多い。まず一生涯の被ばく量が広島、長崎の被曝者の追跡調査で明確にリスクが増加するか分からないとされている100ミリシーベルト以下にするというのが大前提だと考えました。もちろん、100ミリシーベルト以下はリスクがゼロだという意味ではありません。自然放射線だけでも、年1ミリシーベルトでも、それに応じたリスクは発生します。一般的に放射線のリスクはこれ以下なら大丈夫という「しきい値」が無いというモデル(LNTモデル)で考えます。

 5ミリシーベルトという数字を出すと「10年住んだら50ミリシーベルト、20年なら100ミリシーベルトの被ばくがある」という意見も耳にします。しかし、実際の現場に即した事実でしょうか。除染して5ミリシーベルトまで下げることができれば、その後、放射性物質が物理学的に崩壊したり、雨や風で流されたりして自然に減少していきます。15年後には年間1ミリシーベルトまで減ることが見込めます。そうなれば100ミリシーベルトを超えることはありません。そして、帰還を望む人が帰ることができる数値です。

 ◇移住も選択肢に入れる必要がある

 −−著書では、移住の権利にも言及しました。年5ミリシーベルトという基準でリスクを許容しようという姿勢と一見、相反するような提案ではないですか?

 ◆5ミリシーベルトを基準として提案した以上、それ以下の人はみんな帰還すべきだ、とするのではなく、同時に移住の権利も認めるべきだと、一貫して主張してきました。一つは聞き取り調査などを通じて、当たり前のことですが、生活の条件がみんな違うことが分かったからです。特に職場自体がなくなって避難した人は戻る理由がないという方もいます。こうした生活条件の違いを考慮せずに帰還だけを目標に据えても合意形成は進みません。ただ許容を求めるだけでなく、別の選択肢も用意しなければ、数値を示して住民に納得を要求するというだけの話になってしまい、議論にはならないのです。

 そこで提示したのが移住です。これも無根拠に移住を提案するのではなく、除染の費用対効果、費用対便益も考慮しつつ考えようというのが私の提案です。

 除染費用に対し、どの程度の便益があるのか。この本の中で、経済学者の飯田泰之氏(明治大准教授)に頼み、移転費用や失った資産などに関する基本的な考え方を伺いながら、試算しました。その結果、除染にかける費用 1.8兆円に対し、回復できる便益は1兆円です。失った資産は1.7兆円という結果が出ています。あくまで一つの目安ですが、除染という選択肢だけにこだわってコストを費やしても、回復できる便益は限られています。除染にかける費用を仮に倍にしたとしても、物理的な放射線のリスクはそれほど減りません。

 原発事故から時間も経過しました。除染も終わらずに3年もたち、率直に申し上げて、みんなで帰るという合意を作るのは難しいです。費用対効果も踏まえて、選択肢を示しリスクを踏まえて各人に考えてもらう。これでやっと、リスクを許容するという考えを提案できます。年間5ミリシーベルトというリスクに納得できないという方には、国や東電が責任を持って移住の選択を示す。納得して、戻るべきだと考える人は戻るようにすることが重要です。

 −−東電の責任でばらまかれた放射性物質のリスクを「許容」しなければならないとする主張には、東電や原発政策を推進した国の代弁者だという批判もあります。

 ◆こうした批判はよく分かる点もあります。特に強制的な避難を余儀なくされた方々はこうした思いを持つと思います。先にお話ししましたが、責任追及や原状回復への思いは強い。避難された住民の皆様に許容も必要だというだけのコミュニケーションは成立しません。今回は通常のリスクコミュニケーションの範囲から外れた事態が起きていることを認識した上で、提案しなければいけないと意識しました。繰り返しになりますが、一定のリスクを許容しなければ帰還を望む人が帰れなくなるという現実があります。ならば現実を踏まえてどの程度なら帰還を認めていくのか、という議論をすべきではないでしょうか。

 私はむしろ国の政策についておかしいところはおかしいと言ってきました。大事なのは個々人が納得できる基準を示すことです。私は社会の相場観として年間5ミリシーベルトはあっていると思いますし、除染だけでなく移住やお金による補償を併せて打ち出すことで解決できる問題もあると思っていますが、これが絶対だとは思っていません。もっと他に具体的な提案が出てくることは大いに歓迎します。

 いずれにしても、震災、原発事故に伴う避難からもう3年が経過しました。方針を早く決めて取り組んでいくことが必要です。特に除染については後手後手に回っている印象を受けます。今、国が取り組むべきは再度、全体方針を見直していくことではないでしょうか。無理に帰還の実績を作ろうと躍起になったり、目標達成が難しいとわかっている除染に取り組んだりすることではないでしょう。

 −−「リスク」をベースに考えるという主張の意味が伝わりにくいとは思いませんか?

 ◆リスクという考えを整理します。リスクは単純な危険ではありません。例えば、放射線そのものはたくさん浴びれば有害という意味で危険(ハザード)はあります。しかし、被ばくした量(曝露=ばくろ=量)が少なければ危険(リスク)は減らしていけます。リスクという考えが伝わらないと言いますが、誰に伝わらないというのでしょうか。整理しなければいけません。私は、今回の問題ではあくまで大枠ですが(1)避難を余儀なくされた住民(2)福島県内で線量が低く抑えられた地域の住民(3)首都圏、その他の地域−−で分けて考えようと思っています。

 伝わらない、と指摘されることが多いリスク論ですが、実のところ、みんな分かっているような気もするのです。以前、ダイオキシンが社会問題となったとき、埼玉県で講演をしました。実際の曝露量や別の有害物質の議論を比較しながら紹介したのです。講演を聞いてくれたお母さんが後で手紙をくれました。「リスクは難しいと思ったけど、結局やりくりの話だと分かった」という内容でした。一つの見識だと思います。子育てでも近くの公園が少し荒れているからといって、自分の子供を家に閉じ込めようということではなく、外にいる時間を減らそうとか、別の公園で遊ばせようとか。いろいろなことを皆さん考えているわけです。

 この話を切り分けていくと、リスクを回避して外で遊ばせず家に閉じ込めることで発生してしまう別のリスクと、外で遊ばせるというベネフィット(利益)をどう考えるかという問題につながります。それは、私が研究を続けてきたリスクのトレードオフ(あるリスクを削減させようとすると、別のリスクが発生し、リスク削減の効果が得られなくなる現象)であり、リスクとベネフィットの関係と同じ構造の話をみんな日常的にしているわけです。リスクは難しいとか分からないとか言っているのではなく、説明に納得していないのだと私は考えています。

 「住民の不安を考えると中西案やリスク論は納得できない」と言われる方もいます。それは、あなたが納得できないのか、本当に住民が納得しないのかどっちなのか。私には分からないのです。「不安」を理由に、現状をどうすべきかについて何も言わないというのはおかしいと思います。不安が重大な問題だと思うなら、何に不安を感じているのか、どのような不安なのかを徹底的に考えるべきです。一人一人受け止めている不安は違うでしょう。一様でないものを不安の一言でまとめるのは違和感があります。リスク全体を拒絶しているだけでは議論は前に進みません。いたずらに時間が過ぎていくだけです。住民がより良い生活が送れるために選択肢を提示する必要があると思うのです。

 私が大事にしてきたのは「自治」という考え方です。自ら治めるというのが民主主義の基本だと思います。全体を見渡すと、絶対に許容できない部分、部分的であっても認められる提案が出てくるはずです。これはリスク論につながってくる考えではないでしょうか。

 ◇自治のために必要なリスク論

 −−住民の自治のためにリスク論が必要だという視点ですか?

 ◆そうです。リスク受容を語るのは自治のために必要だからだという思いが、私の根底にあります。自分たちの暮らしをどうしたら立て直せるのか。その目安をファクト(事実)を基に伝えていく。絵に描いた餅ではなく、具体的な提案をベースにして折り合いがつけられる点を見つけて、自分たちで決めていく。これが自治ではないでしょうか。

 私は反公害運動、下水道の問題からリスク論にたどりつきました。下水道は迷惑施設で作ろうとすると、必要であっても必ず反対運動が起きました。地元の人たちに私の提案を話そうとすると、反対運動に取り組んでいる政党や市民団体から「改良主義」だと批判されました。今「国の代弁者」だと言われるのと同じ構造ですね。彼らは「そもそも下水道はいらない」「下水道がなくても問題は解決できる」の一点張りです。住民大会では拍手喝采です。ところが、実際に地元の人が自治体と交渉しても、そういう主張では、役人は相手にしないわけですね。ちっとも話し合いにならない。

 下水処理場や下水道の問題では、水銀やカドミウムを含んだ工場排水を流すのはやめようと私は提案していました。個別の化学物質ごとに適した処理方法があり、何でもかんでも下水処理場に集めてリスクを負わせるのは良くない、という主張です。これは工場を管轄する企業の責任で処理させる。

 その上で心がけたのは市民にとって「いい下水道」を作ろうと、ファクトを基に対案を出すことです。やはり、下水道は必要でした。家庭から出す排水については自分たちで処理しよう、その方法を考えよう。そのために、どのような下水道が可能なのか? つまり、どこまでなら自分たちでリスクを受容できるか、という話をする。住民とプロセスを丁寧に積み上げると、時間はかかるけど折り合いを見つけることができます。関わった自治体では対案を出すことで計画そのものを変えるという経験もできました。

 提案を繰り返すことで、住民と自治体が一緒になって少しでも住民が納得できる下水道にしようという方向にみんなの意見がまとまってくる。当時の行政はこうした提案を一番、恐れたと思います。自分たちが進める政策に、住民の側から「ここだけは譲れない」という案が出てくるわけですから。対案のない絶対反対では、権力に「(住民にとって)よくない下水道」が作られ、押し切られてしまう。反対運動が終われば、権力が作った下水道をただ利用するだけ。これは責任が問われない楽な道です。

 100かゼロかの運動を続けるだけでいいのか、と当時から感じていました。無責任な反対論に終始して、具体案を出さずに「絶対反対」を続けることが果たして自治なのかと。福島の問題でも同じことを繰り返し続けるのは良くないと思うのです。やはり、ファクトに基づく具体的な提案を続けていく必要があります。

 この著作でも、ただ「気持ちに寄り添う」のではなく、具体的にどうしたら一人一人が選択しやすくなるのか、費用対効果のない政策にお金を費やすのか、同じ費用を移住を希望する住民にどう回すのかといった点までファクトをそろえて検証しました。現実的に不可能な提案ではない、と思っています。これが私の役割です。

 −−中西さんはどうしてファクトに基づく提案にこだわるのですか?

 ◆私の生き方に関係する問いですね。私の父は南満州鉄道の調査部に勤め、治安維持法違反などで逮捕、投獄もされました。転向者、二重スパイだと事実と異なる攻撃をされたこともありました。思想的な闘争はお互いを死にまで追いやるのに、小さな違いや勘違いから激化する。ところが、技術や自然科学の現場でファクトを出すと、みんなの意見が変わる。下水道問題に関して言えば、ファクトを出さないと国や自治体の出す政策に太刀打ちできない。データを固めて、提案しないと人に伝えることはできません。住民にとってもプラスになりません。

 ファクトを固めて伝えていけば、思想が違っても、考えを変えることができる。合意できる部分が出てくる。これが私の信念なのです。

 ◇中西準子(なかにし・じゅんこ)さん

 1938年、中国・大連市生まれ。61年、横浜国立大工学部卒。東京大環境安全研究センター教授、横浜国立大環境科学研究センター教授を経て、産業技術総合研究所安全科学研究部門長に就任。現在は同研究所フェロー、横浜国立大名誉教授。2010年に文化功労者、13年に瑞宝重光章を受章。「環境リスク学−−不安の海の羅針盤」(日本評論社)で毎日出版文化賞を受賞している。