毎日新聞

週刊サラダぼうる・森まゆみ

てくてくまち再見 理化学研究所旧23号館 科学者たちの楽園

大正時代に建てられた理化学研究所旧23号館。現在は日本アイソトープ協会として利用されている=東京都文京区本駒込で、田中泰義撮影

 そこは、うっそうと木が茂り、木陰を何やら白衣を着た人々が行き交っていた。東京の幹線道路の一つ不忍通り、六義園と反対側の一角、中学・高校とその前を通学していた私は最初、病院かな、と思った。「理化学研究所」とあった。やがて再開発で、ほとんどが高層賃貸マンションと商業施設に変わって、妙に明るくなった。

 その一角に、大正時代の建物が今も日本アイソトープ協会(旧23号館)として残り、仁科記念財団(旧37号館)もあるというので、見学させていただいた。1913年に高峰譲吉らが基礎研究を担う「国民科学研究所」設立を訴え、17年に渋沢栄一らが中心になって、補助金や寄付を集めて財団法人理化学研究所を本郷区駒込上富士前町(現在の文京区本駒込2)などに設立。関東大震災や第二次世界大戦などの混乱期に3代目所長を務めた大河内正敏時代には、ビタミンAのカプセルなどを製品化して「理研コンツェルン」と呼ばれるまでになる。

 「東大の教授で理研の研究員ということで双方から給料が出る場合もあった。研究費は潤沢で『科学者たちの楽園』と言われたそうです」と案内してくださった同財団常務理事の矢野安重さん。

 歴代所員はきら星のよう。寺田寅彦、長岡半太郎、池田菊苗、本多光太郎、中谷宇吉郎、鈴木梅太郎、仁科芳雄、嵯峨根遼吉、湯川秀樹、朝永振一郎。まだまだいるが、その多くがこの界隈に家を持ち住んでいた。中でも1890年生まれの仁科は我が国の素粒子論、宇宙線、元素変換、放射性同位体の生物・医学への応用研究の始祖といわれる。

 「仁科博士を中心に原爆開発を極秘に進めていたとは本当ですか」と聞くと、矢野さんは「確かに作ってみせると言って予算を取っていました。でも当時の技術では無理とわかっていた。仁科先生は、召集解除特権で優秀な科学者を温存しようとしたのでしょう」と説明した。

 広島への原爆投下の翌々日、仁科は政府調査団の一員として現地に直行、レントゲンフィルムの感光から原子爆弾と断定。放射線医学の弟子、武見太郎を通じて、その義祖父の牧野伸顕に連絡、牧野は昭和天皇に上奏し、ポツダム宣言受諾に至ったという。

 「仁科先生は1946年、理研の4代目所長になりますが、GHQ(連合国軍総司令部)に解散させられます。直ちに株式会社科学研究所として再興、ペニシリンやストレプトマイシンの製造を開始しました。現在は国立研究開発法人理化学研究所となっています。仁科先生は湯川先生を励まし、論文を書くよう勧め、その論文がノーベル物理学賞受賞につながりました」

 仁科博士の執務室は狭くて暗かったが、当時のものが残されていた。広島に行った時の放射線測定器や記録したノート2冊もあった。仁科はこの調査を踏まえ、「日本学術会議は平和を熱愛する」という有名な声明を起草し、原子力の国際管理を訴えた。

 現在、理研は埼玉県和光市などに広大な施設を持ち、旧23号館や旧37号館も老朽化で壊されるという。実にもったいない。文京区は鴎外、漱石、一葉ら「文人ゆかりの文京区」を標榜しているが、日本の近代科学を支えた人々がこれほどいたこと、その研究施設があったことも大事にすべきではないだろうか。

 
仁科芳雄博士の執務室で当時をしのぶ森さん=本人提供