記者の目:日産自動車野球部の休部 川端智子(川崎支局)
社会人野球の名門・日産自動車(神奈川県横須賀市)の昨年限りの休部は、不況による企業スポーツ冬の時代を象徴する出来事だった。創部50年の 09年、都市対抗野球大会と日本選手権大会で4強という輝かしい結果を残した。私は地元記者として取材した。ナインらのひたむきさも印象に残るが、それ以 上に、収支の数字に示される「企業論理」だけでは測れない「企業文化」という無形の財産を、チームがはぐくみ続けていたとの思いが絶えることはない。
09年11月21日、京セラドーム大阪。日本選手権準決勝のJR九州戦は、事実上の最終戦となった。スタンドはチームカラーの赤で埋まっていた。 「大げさかもしれないが、野球部をきっかけに愛社精神が育ったような気がする」。その一角で横浜工場勤務の中村明夫さん(56)はしみじみと語った。野球部の応援は入社以来35年。「工場の人たちと工場に所属する選手たちを応援する。同僚の家族と球場で会ったりするうちに、家族的な付き合いが始まった」
話を聞くうちに、同級生と野球やラグビーを応援に行って校歌を歌い、盛り上がった大学時代を思い出していた。JR九州戦を取材しながらも、日産社員と共に応援する自分がいた。知っている選手を知人と一緒に応援し、試合の行方に一喜一憂する−−。その一体感、高揚感。職場外でのコミュニケーション が、職場のきずなを深めた経験は誰でも少なからずあるだろう。日産社員には球場がその現場だった。高度経済成長を演出した「古き良き日本企業文化」を体験できたと思った。
私は社会人野球専門記者ではなく、日産ファンだったわけでもない。09年4月、入社11年目で初めて担当になった。野球の知識もなく、当初は「取材したくない」が本音だった。当時チームは2カ月前の休部発表の余波で低迷し、人間関係もぎくしゃくしていた。私は何を聞いたらいいのかも分からないまま だった。
転機は6月の都市対抗県予選第1代表決定戦だった。日産は三菱重工横浜(横浜市)と延長十六回、5時間2分の死闘の末0−0で引き分けた(再試合 で三菱重工横浜が勝利)。登板した秋葉知一投手(27)は引き分け後「絶対あきらめたくない。このチームで戦うのは今年しかない」と断言した。久保恭久監 督(49)が言う「最後までしぶとく粘るのが日産野球」を目にし、「こんなすごい現場を取材できるのは幸せなのかも」と初めて思えた。
温かく迎えてくれたスタンドの存在も大きい。支局記者は主に選手の家族や同僚を取材する。試合を重ね顔見知りが増える度に親近感も増した。「川端 さんも一緒に応援しようよ」と誘われ、気付けば取材しながら応援歌「世界の恋人」を歌っていた。私と同い年(37歳)の伊藤祐樹、村上恭一両選手にも勇気づけられた。高卒ルーキーの息子がいてもおかしくない年齢。「おじさん」たちが、我が子のような若手としのぎを削っているのを見て励まされた。
今回の不況は、社会人野球界にも厳しい。日本野球連盟によると、企業チームはピークだった1960年代に230を超えたが、09年は83。年数億 円と言われる運営費がネックとされる。リストラの対象になることは理解に難くないが、部外者の私まで引き込まれたチームがもたらす「無形の財産」には、運営費以上の価値があるのではないか。
09年に新規参入した、東北から関西を中心に居酒屋を展開するジェイプロジェクト(名古屋市)の広報担当者は不況下で創部した理由を「別々の店舗で働く社員が、一つになれるものがほしかった」と説明する。10月に愛知県内の公式戦で、09年都市対抗準優勝のトヨタ自動車を破ったときは、社内は大いに盛り上がったという。私が感じた「企業文化」の重要性は、日産に限った話ではない。団結が不可欠な警視庁機動隊が12月に硬式野球部を新設したのも、それを裏付けていると思う。
日産の最高経営責任者(CEO)のカルロス・ゴーン氏は99年、都市対抗野球を観戦し、応援団と観客の盛り上がりを見て「都市対抗野球こそ日本の企業文化の象徴である」と、野球部存続を明言した。その考えはもうないのだろうか。
一方で、社会人野球の大会主催社の一員として、もっと競技を盛り上げられないだろうかという思いもある。昨春から多くの熱戦を見てきたが、試合によっては観客はまばらなこともあった。「すごいプレーなのに、もったいない」と何度も感じた。
もっとメジャーだったら、日産もまだ続けられたのではないか−−。そんな思いが今もよぎる。企業チームの日産は休部したが、地域で支えるクラブチームとしての再生を願う。社会人野球のともしびを消さないためにも。
日産、最後のユニホーム OB招きオープン戦
◇家族・同僚300人観戦
今月いっぱいで休部する日産自動車野球部が19日、本拠地の日産市沢球場にOBを招き、現役選手とのオープン戦を開いた。最後のユニホーム姿を目に焼き付けようと、選手の家族や同僚ら約300人が観戦した。
この日のグラウンドは霜が降り、ぬかるんだ状態。川越英隆さん(千葉ロッテマリーンズ)や野上亮磨さん(埼玉西武ライオンズ)らプロ入りしたOB も訪れ、皆、笑顔のリラックスムードで試合が始まった。初回にOBチームが先制したが、現役チームが四回に逆転し、3−1で勝利した。
現役は四回に高崎(横浜)―青木高(広島)―押本(ヤクルト)のプロ投手による豪華リレーを打ち崩し、逆転勝ちした。
2度目の都市対抗を制した98年当時のエースで最優秀選手賞「橋戸賞」も受賞した川越は代打で出場。投ゴロに倒れたが、「プロ球界で日産のプライドを見せていきたい。復活を信じて、車を1台でも多く買ってもらえるように営業します」と野球部再開へ“セールスマン”となることを誓った。
最終回の五回には久保恭久監督が登板。村上忠則さん(前監督)が捕手を務め、84年の都市対抗野球優勝時のバッテリー再現に大歓声が上がった。
試合後、久保監督は「野球部の50年の歴史を刻んできたこのグラウンドで、最後に皆さんと試合ができて良かった。近い将来、今日みたいな試合から 始まって、また復活できればと思ってやみません」とあいさつ。拍手と「待ってるぞ」の声がかかり、最後は現役選手が感謝を込めて久保監督を胴上げし、指揮官をねぎらった。
2009/12/22 読売
前夜は納会で明け方まで痛飲したという選手たち。久保監督は「本当にこれが最後という感じがしない」と話しながら、「日産の伝統である泥臭さ、しぶとさを最後の最後まで発揮してくれた」と拍手を送った。
ラストシーズンは都市対抗、日本選手権ともにベスト4。記憶に残る熱戦を多く演じた。一丸になって日本一を目指した選手たちは、来年から別々の道 を歩き始める。部員26人のうち、12人が新たなチームへ移って野球を続ける一方で、ベテランを中心に14人は会社に留まり、一線の野球を退く。
社業に専念する30歳の吉浦貴志主将は「最後の1年は思い出深い試合ばかり。今はすがすがしい気持ち」と振り返った。三菱重工名古屋へ移籍する新人の吉田承太は「先輩たちから学んだ『どんな状況でもあきらめずに攻めて行く』という姿勢を、次のチームで生かしたい」と前を向いた。
2009/12/23 毎日
最後のユニホーム姿 休部の日産、全員で応援歌合唱も
◇日本選手権報告会
年内で休部する社会人野球・日産自動車は22日、横浜市西区の同社本社で「日本選手権ベスト4報告会」を開いた。チームの公式行事は最後で、赤と白のユニホームも着納め。同僚ら約200人が野球部の活躍を祝い、休部を惜しんだ。
久保恭久監督が「夏に社員の皆さんからいただいた頑張る力が原動力になり、秋にもっと強くなることができました。本当にありがとうございました」とあいさつすると、大きな拍手がわき、目を赤くする人もいた。
会場には都市対抗や日本選手権の優勝旗が展示され、今季の活躍を記録した映像が流れた。選手たちは写真撮影やサインに応じ、最後は全員で応援歌を合唱した。
社会人野球:地元に恩返しを 休部する日産グラウンドに球音、「教室」を開催
◇21年目の少年大会に協力し「教室」を開催
今季限りで休部する社会人野球の日産自動車。11月の日本選手権ですべての公式戦日程は終了したが、本拠地の横浜市旭区のグラウンドは今も球音が絶えていない。
「これですべて終わりではない。(グラウンドがある)横浜に帰ったら、子どもたちに日産野球を伝えます」。日本選手権準決勝で優勝したJR九州に敗れた後、日産の久保恭久監督(49)はこんな計画を明かした。
11月末には、旭区の日産自動車市沢グラウンドに、横浜市やチームが所在地としている神奈川県横須賀市の小学生約60人を招いた。そして今月6日 には、同グラウンドで行われる「日産自動車杯少年野球新人戦大会」の開会式に合わせて急きょ教室を開き、大会に出場する小学生約110人を指導。ポジショ ンごとに分かれて、日産の選手たちがウオーミングアップの方法や、練習の心構えなどを手取り足取り教えた。
同大会はグラウンドのある左近山地区の少年野球チームなどの求めに、日産自動車が協力する形で始まり21年目。32チームが参加し、同グラウンドで土、日曜日にトーナメント戦を行う。
同地区の少年チームの元監督で、大会実行委員長の中川健二さん(72)は「日産の選手が練習する声が毎日のようにグラウンドに響いていた。休部で、それも聞こえなくなってしまうのは寂しいですね」と話す。
大会は、多くの小学生にとって、外野に天然芝が生えそろう本格的な球場でプレーする数少ない機会。中川さんは「近隣の小学生にとって、ここで試合 をするのは何よりの楽しみだし、励み。少年野球をバックアップしていただいていた会社のチームがなくなるのは残念極まりないが、なんとか大会を続けられれ ば」と話す。
今月半ばまで同グラウンドでは、平日は他社に移籍する約半数の日産の選手たちが、社に残る選手のサポートも得て練習を続ける。少年野球大会は来年2月まで。休部後のグラウンドの措置は未定だ。
休部する日産野球部・久保監督に聞く
社会人野球の日産自動車は、今月限りで50年の歴史にいったん幕を閉じる。世界同時不況下の経費削減の一環として、2月に日産本社がすべての企業 スポーツ活動の休止を発表した。今季は都市対抗、日本選手権とも4強入りを果たし、「最後の1年」を戦い終えた久保恭久監督(49)に、日産野球と社会人 球界への思いを聞いた。【聞き手・藤倉聡子】
−−休部発表は2月9日。3日後に、宮崎県串間市での春季キャンプが控えていた。
◆「日産の試合はノックから始まる」と常に言ってきたが、キャンプの最初のノックを見た時、いつもよりエネルギッシュなものを選手に感じた。選手は、休部を受け入れなくてはともがき、とにかく頑張ろうともがき、今後野球を続けられるのかという不安でもがき……。心中複雑なものを、グラウンドで打ち 消そうという姿がけなげだった。グラウンドに出れば一つになれるのだと実感した。
−−6人もの新人選手が加わった。
◆「積み重ね」を大事にしてきたチームだから、休部にばかり心をとらえられていては、今までやってきたことが無になる。新人には「1年しかないか ら」と、あれもこれも要求はすまいと考えた。焦らず、例年通り、1年目は1年目でいいと。コーチには「日産が目指すものは、しっかり教えてくれ」と頼ん だ。
−−「スポーツを通して人間性を磨く」と一般に言われるが。
◆一般的に過ぎる気がする。野球によって個々の人間形成がされるのにとどまらず、周囲を幸せにするにはどうしたらいいかを学んでいくのが素晴らしいのかもしれない。
給料を得て野球をやっている者は、技術で生き残ってきた人間だ。でも、入社5年目ともなれば、もう自分のことだけではだめ。年下の選手を引っ張る 感性も持たなくてはいけない。さらに、ベテランともなれば、技術以外でも、どれだけチームの力になれるかが、重要になってくる。
−−今季はベテランの活躍も目立った。トヨタ自動車との日本選手権1回戦は、1点を追う九回1死から村上恭一(37)の内野安打を足場に逆転サヨナラ勝ちした。
◆恭一さんは派手さのない、静かな人。でも、根負けしない姿に、若手も何かを見て、感じてくれる。野球で磨かれるのは、そういうことだと思う。個 人が素晴らしいのではなく、周囲の人々を包み、良い影響を及ぼす力があるということ。引退して職場へ入った時、スポーツをやっていたから頑張れるというだ けでなく、どれだけ周囲の人たちに「お返し」ができる人であるかが肝心だと思う。
選手の成長が監督の楽しみであり、使命であると思ってきたが、それだけでは、企業スポーツとしての野球は永遠ではないと実感している。では、「何を望まれるのか」と自問するが、答えはまだ分からない。
−−都市対抗の神奈川第1代表決定戦で三菱重工横浜と延長十六回引き分け再試合を演じ、最後の日本選手権でも優勝したJR九州との準決勝で延長十三回までタイブレークが3回続いた。今季はドラマチックな試合の連続だった。
◆10年監督をやっていると、ほとんどの出来事が想定内となってしまうが、今年は感情を揺さぶられた。シーズン前に、休部決定というこれ以上ない 底を経験してからは、選手の気持ちは上がる一方だった。移籍を目指す者、現役引退を決める者、それぞれの立場ながら選手の結合は逆に強くなった。若手は成 長を早めたし、ベテランはもう一花咲かせて日産野球を教えてやろうという気持ちを強めたのだと思う。
−−社員の出張費が大幅にカットされる中、大阪での日本選手権の応援は、休暇を取って駆けつける社員で例年にはない盛り上がりを見せた。
◆心からの応援であることを、グラウンドでひしひしと感じた。選手が根負けしない戦いができたのも、都市対抗予選以降、応援の中で勝つことで得た自信があったからだ。
−−シーズンを終えた今も「野球の何が人を引きつけるのか」と、心中での問いかけがやまないという。
◆技術の素晴らしさだけではなく、例えば、ミスをしても取り戻せば良いし、だれかがカバーすればいい。そんな人間性とか、組織力、チーム力といったものが表れるのが野球なのかな、と。
「勝利」が唯一最大の価値だとは思えない。壁にぶつかって、さらに壁を越える、苦しさと達成感を積み重ねていくのがスポーツの素晴らしさではないかと感じている。
−−「野球部の可能な限り早い復活」につなげようと、今季を戦い抜いた。部には、何が求められるのか。答えを今も探している。
◆地域貢献として野球教室などを開いてきたが、もっとほかにも、地域が野球部にしてほしいことがあったかもしれない。会社にとっても、地域とのかかわりは経営の重要な要素なのだから、仕事としての地域貢献を野球部として果たすこともできたのではないか。
これからの企業チームとしての野球部は、会社経営の中で重要な役割を負い、その位置づけを周囲に理解されている存在でなくてはならないと思う。地 域から、会社から、何を求められているかを把握し、「勝つ」とか「強い」ということ以外にもチームカラーを獲得していく必要があるように感じている。