毎日新聞 2004/1/1
頑張った人にだけドラマが待っている
真夏の球宴の魅力 前日産自動車監督・村上忠則さんに聞く
社会人野球の最大イベント、都市対抗野球大会(毎日新聞社、日本野球運盟主催)は今年、75回目を迎える。後楽園球場や東京ドームなどで数々の名勝負が生まれ、華やかな応援合戦が大会を彩る「真夏の球宴」。現役で活躍するプロ野球選手の多くが大会から育ち、球史に残る記録も刻まれてきた。選手、監督として出場27回を誇り、5回の優勝を経験している前日産自動車監督の村上忠則さん(54)に思い出を語ってもらった。村上さんの言葉の一つ一つからは、長年にわたって都市対抗野球大会を見続けてきた熱い気持ちが伝わってくる。
ー 都市対抗に多く出場した村上さんにとって、都市対抗とはどんなものですか。
夢の舞台ですね。社会人野球に携わるすべての人が目指している最高の場所です。かつての後楽園球場でのしゃく熱のゲ−ム、地域の人や会社の人が後押ししてくれる大応援団……。他のどんな野球にもないような魅力がありました。
ー 一番印象に残っている場面は。
75年の第46回大会準々決勝の日本石油戦です。2−1でリードしていた九回表の守りで、2死から同点本塁打を打たれてしまったんです。でも、その裏、先頭打者でサヨナラホームランを打って勝利しました。無我夢中だったけど、うれしかったですね。前年の予選の代表決定戦でも全く同じことが起きていたので、びっくりしました。
ー 3チームを渡り歩き、すべてのチームで優勝を経験されました。
行く先々、その時代の日本一の激戦区でした。大昭和製紙北海道が優勝した74年以降は、北海道拓殖銀行(札幌市)、札幌トヨペット(同)が準優勝するなど、北海道勢はいつも上位に進出していました。日産自動車に移籍してからも神奈川勢は毎年のように決勝に進んでいましたからね。常に切瑳琢磨できる場所に身を置くことができたから、好きな野球を長く続けられたんだと思う。優勝できたのは、いい方向に導いてくれる人との出会いや縁があったからです。僕のカではないですよ。
ー 移籍するということは不安も伴うと思いますが。
北海道に行った時は不安だらけでした。でも、ひとつの場所にとどまらなかったからこそチャレンジ精神が持続した。ずっと気を張っていたから年を取ってもいられなかったし(笑)。
ー 都市対抗ならではの補強選手としても頂点に立たれました。
補強制度はいいですね。他チームに必要とされ、(補強選手として)違う釜の飯を食べることができる。日本石油の補強で優勝した86年、僕は36歳。予選では試合に出ていなかったのに当時の監督の磯部(史雄)さんが呼んでくれて、本大会ではずっと試合に出してもらってうれしかった。都市対抗という夢舞台には必ずドラマがある。でも、頑張った人にしかドラマの場面はやってこないと思っています。みんなが主役になって、あの大きな舞台で輝いてもらいたいですね。
むらかみ・ただのり 1949年8月4日生まれ。兵庫県出身。現役時代は捕手。兵庫・津名高から68年、大昭和製紙(静岡県富土市)に入社。大昭和製紙北海道(白老町)や日産自動車(神奈川県横須賀市)への移籍を経て、86年に現役を引退。日産自動車の監督に就任し、選手、監督を通じ計4チームで5回の都市対抗優勝を成し遂げた。97年には計25回(選手で17回、監督で8回)の都市対抗出場で都市対抗特別賞を受けた。選手時代は強肩強打の好捕手として日本代表メンバーにも選ばれ、数々の国際大会で活躍。昨年、キューパで行われたワールドカップでは社会人選手だけで編成した日本代表チームの監督を務め、3大会ぶりに銅メダルを獲得した。 現在は神奈川日産自動車法人事業部長。 |