2020/3 日本経済新聞  私の履歴書 

(1)不意の人事 新聞で知った社長起用 住商から段ボールメーカーへ

19世紀半ばに英国で生まれた段ボール。シルクハットの汗取り用に使ったのが始まりとされる。今では飲食品、日用品から農産物、工業製品まで幅広い包装材として需要のすそ野は広がる一方だ。私はその段ボールを作る会社の社長を20年間務めている。

「ツボさん、ちょっと日経新聞を読んどいてくれ」

2000年3月のある日、こんな電話が東京からかかってきた。通話の主はレンゴー社長の長谷川薫さん。当時私は住友商事常務欧州総支配人としてロンドンに駐在。数日前に副社長へ昇格の内示を受けたばかりだった。

新聞を取り寄せて見ると「レンゴー新社長に住商の大坪常務」との見出しが目に入った。驚いた私が「どないなってんですか」と尋ねても、「宮原(賢次、住友商事社長=当時)さんとは話がついとるから」と長谷川さんは言うだけで要領を得ない。

一番驚いたのはワイフだったかもしれない。帰宅して記事を見せると「なによこれ」と絶句。自宅で仕事の話をしないのが流儀だったから無理もない。説明すると「あなたが決めたことなら仕方がないわね」と理解してくれた。

その日から周囲の環境は一変。ロンドンの社員たちに「どうもレンゴーの社長にならざるを得なくなった」と伝えると「えっ」と絶句する者が大半だったが、中には「ウワサを聞いていました」という早耳の部下もいた。以前から私の「レンゴー行き」の人事観測が海を越えて飛び交っており、知らぬは本人ばかりなり、の状況だったらしい。

不意の人事は、私には付き物だ。住友商事に入社して3カ月に満たない1962年6月、誕生間もない紙パルプ課に配属されていた私は担当役員(後の社長)の植村光雄さんと直属の部長(同専務)の芝梅太郎さんに「辞令が出るからちょっと来い」と呼ばれた。商社マンであるからには当然、海外勤務志望だ。「もう外へ出してもらえるのか」と喜び勇んで馳(は)せ参じると思いもかけない辞令が待ち受けていた。

「摂津板紙(後のセッツ、99年にレンゴーと合併)へ出向を命じる」

海外赴任の期待を裏切られたうえに聞いたこともない会社への出向だった。「へー、そこで私は何をするんですか」と2人へ問い質(ただ)すと「尼崎の工場へ行ってイチから製紙のことを習って来い」とのこと。おっとり刀で出向先の門を叩(たた)いた私を待ち受けていたのが、摂津板紙創業者で当時専務(後の社長)だった増田義雄さんである。

私は商いの基本を全て増田さんに教わった。1896年生まれの増田さんは20代半ばに古紙回収業で身を起こし、戦前は兵庫県明石市や広島県呉市で製紙工場を経営。戦火でこれらの工場を失ったものの、戦後兵庫県尼崎市に摂津板紙を設立し、有数の板紙メーカーに育て上げた。

「ロスはこぼれる利益である」「ドライヤーの下で寝た者でなければ紙漉(す)きの気持ちは分からない」――。直接耳にした箴言(しんげん)の数々を私は「増田語録」として書き留め、今でも手元に置いている。

我が道を振り返って思うことは、増田さんや長谷川さんをはじめ、ビジネスの世界で巡り合った方々との縁(えにし)が私の人生そのものだということである。あの時あの出会いがなければ、全く違った道を歩んでいたのだろうと思うことは枚挙に暇(いとま)がない。

これからひと月、そんな人生を振り返る話にお付き合いいただければ幸いである。

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(2)大阪生まれ 丁稚奉公から独立した父 やんちゃなガキ大将 算数は得意

生まれは大阪・豊中で誕生日は1939年3月15日。男4人・女3人の7人きょうだいのちょうど真ん中の次男坊だった。磁器で知られる佐賀県伊万里市に大坪という地名がある。400年ほど前の「古唐津」の窯跡などが残る古い街で、わが大坪家はここから曽祖父の代に大阪へ出てきたと聞いている。

私の父は商売で身を立てようと、江戸期以来の豪商として知られた大阪の加島屋の流れをくむ食品問屋に丁稚奉公。加島屋は大同生命保険の創業一族である広岡家が代々経営してきた米問屋で、幕末同家に嫁いだ浅子さんはNHK連続テレビ小説「あさが来た」のモデルになったことでも知られる。父は丁稚奉公の後、独立して店を構えた。戦前は大きな商いをやり、百貨店などとの取引もあって一時は羽振りが良かったようだ。

しかし、太平洋戦争が始まると、統制色が強まり、商いは困難の連続。とりわけ物不足の中、商品の仕入れに大変な苦労があったらしい。ようやく終戦と思ったら、今度は闇市などを取り締まる物価統制令に引っ掛かり、父の店は一斉摘発を受け、食材などの商品をごっそり差し押さえられてしまったという。

その後、父は苦労の末に再起し、そこそこの商売をやるようになるが、幼少期のことなのでそれ以上の詳しい事情は分からない。ただ、私が成長するにつれ、商売からビジネス全般に広く関心を持つようになったのは、父と同じ事業家の血が流れていたからのような気がしている。

45年4月に、私は大阪城の南西側、谷町筋の近くにあった南大江国民学校へ入学した。この年3月から大阪でも本格的な空襲が始まり、我々新入生は学校へ入った途端に滋賀県蒲生郡日野町へ集団疎開することになり、8月15日の終戦までそこで暮らした。

終戦で疎開先の日野町から半年ぶりに大阪へ戻ると、市内の中心部は焼け野原で、学校も講堂をはじめすべて焼け落ちて満足な授業などできる状況ではなかった。落ち着いて勉強ができるようになったのは、学制改革で校名が南大江小学校に変わった3年生くらいからだったと思う。

小学校で最も印象に残っているのは6年生の「こども銀行」の授業である。担任の金川圭二先生の発案でクラス全員が10円ずつ支出する貯金箱を作り、集まったお金をどう使うかを話し合った。銀行の仕組みやお金の使い方、大切さをこどもたちに理解させる狙いだったのだろう。

この授業を聞きつけた日本銀行が私たちを表彰してくれることになり、日銀大阪支店に児童6人が招かれた。淀屋橋に近い土佐堀川沿いに立つ辰野金吾らによる名建築の建物の中で、私が代表として当時の一万田尚登総裁から表彰状を頂戴する栄誉に与(あずか)った。さらに鉛筆数箱の賞品もあり、クラス全員に1本ずつ配ったことも覚えている。

金川先生とは長くお付き合いをし、当時の級友も集まり昔話をよくした。自覚はないのだが、級友たちの話では私はかなりやんちゃなガキ大将だったようだ。勉強の方はというと、こちらも記憶はほとんどないものの、算数だけは得意だったと思う。

追い追い話を進めていくが、高校・大学時代はバレーボールに明け暮れ、勉強は疎(おろそ)かなままだった。ただ、数学はずっと好きな科目で、レンゴーに来てからもホワイトボードに微分積分の式を書いて説明したことがあったが、皆がぽかんと聞いているだけなので最近はやっていない。

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(3)大手前高校 バレーボール部の「4番」 徹底研究で弱いチーム変身

7人きょうだいのうち一番上の姉から私までの4人はそろって大阪府立大手前高校にお世話になった。1886年に大阪府女学校として開校し、戦後男女共学になった伝統校。長姉が在校時にバスケットボール部で活躍していた縁で私も体育指導の先生に目をかけられ、バレーボール部に入ることになった。

当時のバレーボールは9人制。私のポジションは中衛のレフトだった。強打で得点を稼ぐ役で、野球でいえば「4番打者」。それまでバレーボールなどやったことがなかったが、入学前に身長が急に20センチ以上伸びて170センチを超えていたこともあり、主軸の役割を任されたのだと思う。

入部当初のチームはとにかく弱かった。府下の高校で5部リーグの上位か4部の下位に食い込めるかどうか、といったレベル。新入生の頃は高津高や港高、八尾高といった他の府立校と戦ってもこてんぱんにやられたが、次第に強豪校と互角に戦えるようになり、4部から3部、3部から2部へと昇格していった。

強くなった理由は「なぜ負けてばかりなのか」「どうすれば勝てるのか」とトコトン研究したからだ。身体も大きく実績のある相手に、ウサギ跳びだ、ランニングだ、と闇雲に練習をしても効果があるとは思えなかった。

それより相手が思いつかない、不意を衝く方法を考えるべきではないか。バレーボールが飛んでいく際の空気抵抗の研究をした方が良いのではないか――。そんなことをチームの仲間と議論したことを覚えている。

我々が武器にした主な戦術は2つ。時間差攻撃とフローターサーブだ。当時はネット際のブロックを「ストップ」と呼んでいた。体格で劣る我々が得点を挙げるにはストップのいない所へ打つしかない。おとり役のアタッカーが打つと見せかけ相手のブロックをかわす時間差攻撃は、後にミュンヘン五輪の男子バレーチームの得意技として一世を風靡するが、私の高校当時この戦術を実践しているチームは大阪になかったと思う。

フローターサーブは無回転のボールがネット前でフワッと浮き、ネットを超えるとサッと落ちる変化球。野球でいえば、ナックルボールだ。9人制ではサーブが2本まで認められていて、最初はオーバーハンドの強打で狙うが、これは滅多(めった)に入らない。2本目に使ったのがフローターサーブで、我々の練習の成果もあり、これが面白いように決まった。「セカンドサーブで点が取れる」というのが私たちのチームの大きな強みとなった。

ポイントゲッターの役割を担った私は、皆が休憩している間にも自分でいろいろな方向へトスを上げ、それを打つ練習を繰り返しやっていた。そのおかげでセッターが前を向いたまま、後方へトスを上げるバックトスにもうまく対応できるようになった。それほどの強打は打てなかったが、相手の不意を衝けば、それで十分だったのである。

3年生になると、一連の取り組みが成果を挙げ、わが大手前高男子バレーボール部は1部リーグの2位にまで浮上する。当時高校バレーは春と秋にリーグ戦があり、さらにトーナメントの大会も開かれていた。一年中、土曜と日曜をほぼ部活動に費やした。当然ながら勉強はそっちのけである。

ただ、弱いものが強いものに勝つには研究・工夫を重ね、他者と違う戦術を編み出せば決して不可能ではない。これをやり遂げたことは私の後の人生に大きな意味を持つようになる。

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(4)神戸大 朝練・授業後 昼から麻雀 2年かけ読んだ「国富論」の原書

1958年、高校でのバレーボール熱が冷めやらぬまま、大学へ進学した。神戸大を選んだのは前身の神戸高等商業学校が日本で最初のバレーボールチームを作った伝統校だったことが理由。人並みに受験勉強をやり、なんとか経済学部にもぐり込んだ。


神戸大のゼミ仲間と恩師・田中薫先生(前列左)を囲んで(2列目左から2人目が筆者)

関西の大学リーグでも高校時代の時間差攻撃やフローターサーブが効果を発揮。我々が加わった神大バレーボール部は3部から1部へトントン拍子に昇格するが、さすがに1部になると関西大、関西学院大、同志社大といった強者(つわもの)が待ち構えている。

おまけに3年生の後半にリーグ戦は9人制から6人制へ変わった。ネットの高さは2.38メートルから2.43メートルへ上がりコートも狭くなる。得点ルールも21点先取のラリーポイント制から、サーブ権移動後に得点が入る15点先取のサイドアウト制となり、弱者が勢いで強者を破る番狂わせが起きにくくなった。6人制移行後の対関学大戦。あるセットを0対15で失い、屈辱感を味わったのをよく覚えている。

情熱を注いだバレーボールはそんな風に限界を感じるようになっていったが、大学生活は到って呑気(のんき)なものだった。午前中は朝の練習が2時間あり、その後授業があれば出席し、すぐ昼食時間になる。そこからは麻雀(マージャン)タイムだ。

当時は東南の2場で終わる半荘(ハンチャン)はなく、東南西北の4場をやる一荘(イーチャン)戦だったから、長丁場であっという間に夕方になる。夜は専ら社交ダンスのレッスン。近隣の神戸女学院の学生のお相手が我々神大生の役目とされていた。

こんな調子だから勉強に身が入るはずもない。ゼミナール担当の田中薫教授は「君は運動を一生懸命にやっているからそれでよろしい。この本だけを読んでおきなさい」と言って一冊の本を与えてくれた。アダム・スミスの名著「国富論」の原書である。

これを2年間読み続けた。読んだけれども、本当のところ、よく分からなかった。しかし、繰り返し読んだことで頭には残る。例えば後年、実社会でビジネスに携わるようになって、ふと「分業論(division of labour)」という言葉が頭に浮かんだ。

国富論第1章を読み返すと、待ち針(ピン)の製造を例にとり、機械の知識のない労働者だと1日1本も作れないが、ある者が針金を引き伸ばし、次の者がそれを真っすぐにし、3人目が切断、4人目が先を尖(とが)らせ、5人目がその先端を磨く。こうした分業で、10人いれば4万8千本以上を製造できるとあった。これは古紙回収から原紙製造、貼り合わせや製箱といった工程が分立する段ボール製造にも当てはまるのではないか。

なるほど、そういうことかと興味がわき、「見えざる手(invisible hand)」に行き着く。個人がそれぞれ自己の利益を追求すれば市場メカニズムが働き、無駄のない資源配分が達成され、社会の利益が高まる。そうか、「見えざる手」は般若心経でいう色即是空の「空」やインド人が発見した「ゼロ」の概念に通じる真理かもしれない――。我流の解釈が次々わき、今更ながら古典の奥義を実感できた。

田中先生は地理学の権威でもあり、戦後は被災都市の視察で各地を回る傍ら短期間だが貴族院子爵議員も務めた。奥様の千代さんは著名な服飾デザイナーだった。2年かけて「国富論」の原書を一通り読み終え、報告に行った私に先生は仰った。「そうか読み終えたか。君を信用しよう、質問はしないよ」。ほんとうに素晴らしい恩師だった。

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(5)商社志望 初の面接 津田社長自ら 夜行列車で移動中 「採用」電報

海外で仕事をしてみたいと漠然と思い始めたのは大学に入って2〜3年たった頃。当時、若者の憧れの場所といえば米国のサンフランシスコとシアトル、それに豪州のシドニーの「3S」。自分もいつかそんなところで働ければいいなと考えていて、それが総合商社を就職先として志望した動機の一つだった。

ただ、決定的要因となると、これもバレーボールが関係する。大学3年生の頃、神戸大バレーボール部の6期上で住友商事に入社した先輩がいた。ある時「誰かうちの女子バレー部のコーチをやってくれないかな」と相談を受けたのがそもそもの始まり。

「どんなチームですか」と尋ねると、メンバーはそろって容姿端麗という。実業団リーグに名を連ねるわけでもなく、試合といえば、せいぜい住友系各社のグループ対抗戦。勝負にこだわる必要はなく楽しんで指導ができる。「そうですか、ならばオレが行きます」と自ら手を挙げた。

実際、練習に赴くと、メンバーは初々しく快活な娘たちばかり。「よし、どうせなら就職もこの会社にするか」という流れで志望先を決めた。このあたりの動機は決して純粋といえないが、会社を選り好みしたのではなく「海外で働いてみたい」という仕事の中身を選んだのだと自分では思っていた。

当時の住友商事は「十大商社の9番目」。住友金属工業(現日本製鉄)関係の取引が際立つ「鉄鋼商社」と言われてもいた。住友家初代の政友(1585〜1652年)が標榜した「浮利に趨(はし)り軽進すべからず」という事業精神の存在が、三井、三菱といった他の旧財閥に比べ系列商社の設立を遅らせることになった。住友が日本建設産業(住友商事の前身)の社名で商事部門に本格的に進出したのは終戦3カ月後の1945年11月である。

私が入社試験を受けたのはそれから16年しかたっていない頃で、総合商社としての歴史は浅く、まだ新興勢力の部類だった。61年の9月だったと思う。面接に来いと呼び出しがあり、大阪・淀屋橋の本社に馳せ参じると、いきなり当時の津田久社長が登場。両脇に津田さんの後任社長になった柴山幸雄さん、その次の社長の植村光雄さんも控えていた。

最初の質問は「大学時代に何をしたか」。包み隠さず「バレーボールばかりやっていました」と答えた。「田中薫先生のゼミでアダム・スミスだけはしっかり読みました」と付け加えると「ほう、それは楽しみだねえ」と津田さんが仰る。そんな調子で私もつい気軽に「これから3商大(神大、一橋大、大阪市立大)のバレーボール対抗戦で東京へ行かねばなりません」と口にすると「そうか、ならすぐに行きたまえ」となった。

正直いって「こりゃダメかな」と思った。いきなりの社長面接で調子に乗り、相手のペースにはまって、あまりに好き放題に喋(しゃべ)り過ぎたのだと。ところが、後で分かったことだが、女子バレー部のコーチを探しに相談に来たあの先輩が、人事部への紹介や根回しを周到にやってくれていたらしい。

面接を終えた足で大阪駅から夜行列車に乗り、3商大対抗戦のある東京・国立へ向かっていた車中に住友商事から「採用」の電報が届いた。おそらく当時の国鉄は電信を使ってそんなサービスをやってくれていたのだろう。

車掌から合格電報を受け取った時は最高の気分だった。もちろん、こんな時に試合に負けるはずがない。対抗戦は圧勝。みんなで祝杯を挙げたのは言うまでもない。

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(6)配属 2カ月で出向 摂津板紙へ 創業者の増田さん 現場の「鬼」

就職活動の最初が住友商事の社長面接だったことは前回述べたが、その際、津田久社長に尋ねられたことがもう一つあった。「入社したら、どこに配属してほしいか」

他の学生に比べ会社研究が十分だったとはいえなかったが、それでも住友商事の花形部門が鉄鋼や化学品だったことくらいは承知していた。だが、そんな部署はエリート揃(ぞろ)いで先輩・上司の使い走りばかりやらされ、自由に裁量を発揮できないかもしれない。そう考えた私は「一番弱い部門を希望します」と答えた。

1962年4月、住友商事に入社した私の配属先は誕生したばかりの物資部紙パルプ課。文字通り白紙の部署で、希望は叶(かな)えられた。そしてすでに触れたように、私はその年の6月に摂津板紙への出向を命じられる。

実績ゼロの紙パルプ課にとって唯一の足掛かりが摂津板紙とのソール・エージェント(一手販売)契約だった。摂津板紙は57年に三菱商事と「三摂板紙」という共同出資会社を設立したが、うまくいっているとは言い難い状況だった。摂津板紙としては、総合商社のパートナーを三菱から住友へ試しに変えてみようという考えだったのだろう。

私を迎えてくれたのは増田義雄さん。摂津板紙の創業者だった。いきなり「ネクタイと万年筆で仕事ができるとは思うな」「契約書は破るためにある」と言って出鼻(でばな)を挫き、社会人1年生の私を当惑させた。

レポートを毎日提出しようとすると「そんなもん要らん」というのが増田流。「大切なのは現場だ」と繰り返し、「ドライヤーの下で寝た者でなければ紙漉(す)きの気持ちは分からない」が口癖だった。「それほど言うなら本当に寝てやろう」と尼崎工場に3日間泊まり込み、そのうち1日は、構内にゴザを敷いて一晩を過ごした。

真夜中、静まり返った工場の床に寝転がり、耳を澄ましていると、ドライヤーの配管に残る水の音や機械を這(は)う配線の中を電気が流れる音が聞こえてくるような気がした。そして不思議なことに、紙を漉く抄紙(しょうし)機がどんなものであるか次第に分かってきたのである。

そうすると、増田さんのもう一つの口癖の「ロスはこぼれる利益である」もイメージが湧いてくる。抄紙機を動かすと、品質が安定せず「損紙」が発生したり、古い原料がタンクの底に溜(た)まったり、様々なロスが出る。それを「操業時のロスは仕方ない」と諦めるのではなく、工程を工夫・改善し、ロスを減らせばそれだけ利益が増えるのではないか、というのが増田さんの考え方なのだ。

工場に足繁(しげ)く通っていると、現場の技術者や作業員の私に対する態度が変わり、親しみを持って接してくれるようになった。出向2年目に摂津板紙が紙管原紙製造に進出すると、増田さんから「お前がこれを売ってこい」と販売を任された。紙管は卒業証書を収めたりポテトチップスを詰めたりする民生用から、レーヨンの糸巻きやステンレスコイル向けなどの工業用まで用途は幅広い。

増田さんに認められたら、もう怖いものなどない。私は昭和丸筒(大阪府東大阪市)や日本紙管工業(大阪市)といった紙管メーカーに「飛び込み営業」を行い原紙の供給契約を次々にモノにした。これらの取引先は現在も付き合いがあり「摂津板紙営業部 大坪清」という私の名刺を「今でも持っていますよ」と冷やかされることがある。

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(7)製紙業界 存在したヒエラルキー 摂津と住商 事業拡大へ組む
 

一口に製紙業界といっても、新聞用紙や印刷用上質紙などの洋紙から、ティッシュペーパーなどの家庭紙、段ボールなど分厚い板紙、洋紙の原料となるパルプまで主力製品が異なるメーカーが混在し、そこには目に見えないヒエラルキーがかつてはあった。

例えば、洋紙会社から見ると、板紙は声に出せば「イタガミ」で、そこから生まれる「ダンボール」も同様に濁音がつく。「ヨウシ」「セイシ」と澄んだ音の自分たちとは違うんだという意識を感じることがレンゴーの社長になった当初何度かあった。「上から目線」に近い感覚だ。

私が20代の血気盛んな頃に仕えた摂津板紙の増田義雄さんは、大正末期から昭和にかけそうしたヒエラルキー構造の業界で古紙回収業から身を起こし、一代で国内有数の板紙メーカーを築き上げた立志伝中の人物だ。その増田さんの愛車は高級輸入車「リンカーン」。1日の仕事を終えると、尼崎の本社から大阪の北新地へ食事に行くのが増田さんの日課で私もしばしばお供で同乗させてもらった。

その頃、堂島川の川沿いで古紙をいっぱいに積んだリヤカーを引く中高年男性をよく見かけた。増田さんは必ず運転手に「ちょっと止めて」と言って車を降り、男性のところへ行って「ご苦労さん」と声をかけ、札入れから何枚か取り出し渡していた。往時を振り返り、初心忘れるべからずの思いからだったのかもしれない。そんな人だった。

住友商事はその増田さんをパートナーに紙・パルプ部門を主力事業の一つに育てようと考え、片や増田さんは住友の資本をバックに摂津板紙の事業拡大を目論(もくろ)んでいた。当時、両社間での最大の懸案は摂津板紙の関東への本格進出。具体的には、埼玉県八潮市での新工場建設プロジェクトだった。

摂津板紙が1957年に三菱商事と共同出資で「三摂板紙」を設立したことは前に触れたが、東京・足立区に立ち上げた工場は規模が小さかった。増田さんは新工場を「東京工場」と名づけ、関東一円への供給力を一気に拡大する思惑だったが、実現のために多額の資金が必要だった。

当時の新工場建設計画書には63年から3カ年で総投資額25億1400万円と記されていた。摂津板紙の主力銀行は住友銀行(現三井住友銀行)だったが、これほどの大型融資を単独で取り付けるのは難しく、パートナーの住友商事の力添えが不可欠だった。

増田さんと、住友商事の私の上司で当時常務だった植村光雄さんや社長の津田久さんの間で、資金調達を巡る丁々発止のやり取りがあったに違いない。実際、増田さんが私が居る前で「植村くん、摂津のことはこんな若い者に任せた方がうまく行くよ」と牽制(けんせい)球を投げる場面もあった。おそらく増田さんから見れば、私は住友商事が送り込んでくれた格好の「人質」だったのかもしれない。

仕事では厳しく、時に辛辣な叱責も受けたが、夕飯時には北新地の馴染(なじ)みの料亭に誘われ「風呂でも入れ」との気遣いがあり、あがってくると「あそこの店へ行ってうまい物でも食べてこい」と送り出してくれる。

私が23歳で摂津板紙へ出向した当時、増田さんは66歳。子どもが娘さん一人だった増田さんは私を息子か孫のように見ていてくれたと思う。出向して3年がたった65年、「ぼちぼち住友の仕事もせないかんな」と増田さんから言い渡され、私は住友商事へ復帰する。

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(8)住商へ復帰 パルプ始動 直後に「事件」 泥沼 労使紛争打開へ乗り込む

1965年、3年ぶりに原籍復帰した住友商事での最初の仕事はパルプ事業の立ち上げだった。私の入社時に発足した住商の紙パルプ部門のうち、紙の方は摂津板紙との一手販売契約で形がついたが、パルプの方は3年経っても仕事がない状況だった。

そこで、国内のパルプ会社から相手にされないなら、海外に望みを託そうと米林業大手ウェアーハウザー社の東京事務所にアプローチし、取引を始めた。

パルプ事業が緒についた頃、摂津板紙の増田義雄さんから、ある段ボールメーカーで労働争議が起きて大変だから手伝いに行ってほしいとの要請を受けた。外部の活動家に労組がオルグされ、工場はロックアウト。生産停止に追い込まれてしまったという。その会社が聯合紙器(現レンゴー)だった。

聯合紙器の創業者、井上貞治郎は1881年、兵庫県揖保郡上余部村(現姫路市)の農家長谷川家の三男として生まれ、2歳で遠縁の井上家の養子となった。神戸の雑穀問屋での丁稚(でっち)奉公を振り出しに石炭仲買人や馬糧商など職を転々とし、朝鮮、満州(現中国東北部)、上海を放浪。28歳で帰国した直後、東京・上野公園の満開の桜の木の下で「まだ人生半ばだ」と再起を誓う。この決意の日、1909年4月12日をレンゴーは創立記念日としている。

貞治郎は隅田川のほとりの道具屋で手動の段ロール(段ボール製造機)を見つけたのをきっかけに、それまで国内では誰も手がけていなかった段ボール製造の起業を思い立つ。この年8月、品川に「三盛舎」(後に「三成社」)を設立。さらに1920年に主要取引先の東京電気(東芝の前身)の支援を受け、同業の5社が統合し聯合紙器が誕生した。

増田さんの要請で私がストライキ中の聯合紙器へ乗り込んだ際、労務担当常務として、泥沼の争議の打開策に取り組んでいたのが後にレンゴー(聯合紙器からの社名変更は72年)社長となる長谷川薫さんである。長谷川さんは、貞治郎の5歳下の弟で戦前聯合紙器の常務兼名古屋工場長を務めた長谷川進の次男。名字こそ違ったが、創業家の一員だった。

長谷川さんは、労務対策を経営者・労働者・学識経験者の三者構成による中立機関として戦後発足した日本生産性本部に委ね、同本部の指導に沿い、労使協調路線の新労組をつくって旧労組から引き離す分断工作を展開。最終的に労使紛争は収まったものの、旧労組の反発は尾を引き、随分と時間を要した。

まだ20代半ばだった当時の私から見ても聯合紙器は隙間の多い会社に思えた。5社統合による聯合紙器誕生を支援した東京電気はその後も経営に大きな影響力を持ち続けたが、戦後になると、東京電気に代わり東洋製罐が大株主として君臨するようになった。政財界の重鎮、高碕達之助が創業した東洋製罐は積極的な株式投資でも知られ、虎視眈々(たんたん)と勢力拡大を狙う油断ならない相手だった。

63年11月に創業者の貞治郎が亡くなり、経営陣の求心力が低下。権力の空白が生まれ、そこを急進派の労組が突いてきたというのがこの時の大争議の背景でもあった。

一方、段ボールの原紙を手がける増田さんはライバルの本州製紙(現王子製紙)や大昭和製紙(現日本製紙)などを押しのけ、摂津板紙を聯合紙器のメイン・サプライヤーにしようと戦略を練っていた。この後、私は聯合紙器、摂津板紙、東洋製罐の三つ巴(どもえ)の争いの渦中に巻き込まれていく。

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(9)再編への序章 3社入り乱れ勢力争い レンゴー、摂津と取引全面停止

戦後、聯合紙器の大株主となった東洋製罐は、大阪・高槻出身の高碕達之助が米国やメキシコで習得した缶詰、製缶の技術を元に1917年に立ち上げた。缶にこだわらず、合成樹脂や紙器など包装材全般に事業領域を広げていった中で、聯合紙器との関係構築も着々と進めていた。

聯合紙器は49年5月に大阪証券取引所に株式上場し、50年2月に新株を発行。東洋製罐が株式を取得したのはこのタイミングだったようだ。50年3月末に系列の東罐商事が筆頭株主となり、60年3月末には東洋製罐グループが27%の株を押さえるに至った。

62年に高碕達之助が聯合紙器の取締役となり、64年2月に達之助が亡くなると、5月に長男の芳郎さんが取締役、後にレンゴー社長となる加藤礼次さんが専務として東洋製罐から送り込まれた。片や聯合紙器では63年11月に創業者の井上貞治郎が亡くなり、東洋製罐の影響力が増していくのは避けられなかった。

ちょうどその頃、摂津板紙に出向していた私のところへ、住友銀行の若手行員が紙・パルプ産業について教えてほしいと訪ねてきた。後に頭取となる西川善文さんである。生まれは西川さんが1年早いが、摂津板紙で仕込まれた知識や経験を私は大いに語り、西川さんは口数少なく、謹厳な姿勢は頭取となってからのイメージと少しも変わらなかった。西川さんとの長い付き合いはこの時から始まる。

おそらく当時の住銀は成長著しい紙・パ産業の再編、今で言うならM&A(合併・買収)の動きが不可避と見て、業界動向調査を始めていたのだろう。ただ、悩ましかったのは東洋製罐も聯合紙器も摂津板紙も住銀の取引先であり、特定の企業に肩入れできなかったこと。紙パ業界の再編問題に住銀が本格的に介入してくるのは77年に始まる磯田一郎頭取時代からになる。

72年1月、聯合紙器は「総合包装産業への脱皮」を目指し社名をレンゴーへ変更。商号を変える決断をしたのは亡くなった井上貞治郎から社長を引き継いだ山野種松さんだったが、70年の大阪万博後の景気の急速な冷え込みで段ボール事業の業績が悪化し、その責任を負う形で山野社長は任期途中の73年2月に退任。東洋製罐出身の加藤礼次さんが後任の社長となった。

社長交代でレンゴーにおける東洋製罐の影響力はますます強まったが、そこに楔(くさび)を打つような動きをする人物が登場する。摂津板紙の創業者、増田義雄さんの娘婿である増田芳久さんだ。東大農学部を卒業し、東京銀行勤務を経て摂津板紙へ入社した芳久さんは、その経歴が示すようにファイナンスに一家言あり、現場第一だった岳父の義雄さんとは対照的に財テク投資に熱心だった。

78年3月、会長に退いた義雄さんに代わり、芳久さんが社長に就任。トップの座に就いた芳久さんは東洋製罐に対抗してレンゴー株の買い集めを始める。摂津板紙によるレンゴー株の大量保有が明らかになったのは83年春。800万株強を買い集めた摂津板紙は持ち株比率7.4%で3位の大株主に躍り出た。

東洋製罐から送り込まれていたレンゴー社長の加藤さんは当然のことながら激怒し、摂津板紙との取引の全面停止を決断する。

当時、段ボール原紙を中心にしたレンゴーと摂津板紙の取引は月間6000〜7000トン。両社の間を取り持つ住友商事は金額にして4億〜5億円の取引高を失うことになり、担当の私は真っ青になった。

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(10)カエルと蛇 株取得合戦 過熱の一途 収拾に奔走 下った「磯田裁定」

レンゴーと摂津板紙の取引停止を、私は指をくわえて見ていたのではない。両社の仲を取り持とうと、レンゴーの加藤礼次社長と摂津板紙の増田芳久社長のトップ会談を設けたこともあった。だが、二人は聞く耳を持たず、逆にレンゴーは自社株の大量買いへの報復に摂津板紙の株を700万株も買い集めるなど事態はエスカレートしていく。

芳久社長の舅(しゅうと)である義雄会長は健在だったが、80代後半の高齢だったこともあり、婿の経営方針に口を挟まなくなっていた。打開策を探ろうと私はレンゴー側にも働きかけたが、妥協の糸口を見つけられなかった。加藤社長が働きかけに応じなかったのは摂津板紙に3年間出向し、創業一族の増田家と親密だった私を警戒したからかもしれない。

確かに、私はレンゴーのためには東洋製罐の子会社となるよりも、独立を維持していく方が会社は強くなると確信していた。そのことが、私の言葉の端々ににじみ出ていたと思う。というのも米インターナショナル・ペーパーはじめ世界の有力製紙会社はいずれも素材から最終製品までの一貫生産を手がけるメーカーだったからだ。

缶詰生産から事業を立ち上げた歴史を持つ東洋製罐は素材である鉄板を外部調達し、それを成型して出荷する加工メーカーとして自らを位置づけている印象が強かった。製紙分野でも子会社の東罐興業が1952年から段ボール生産を始めるなど、包装材全般を手がけようという横の広がりへの意識は感じられたが、素材である原紙の製造に手を伸ばす縦のラインの強化には関心がないように見えた。

一方、東洋製罐とレンゴーという大会社に喧嘩(けんか)を売った形の増田芳久社長は、東京銀行(現三菱UFJ銀行)出身のバンカーだった経歴に由来する自信からなのか、少しも臆することなく、レンゴー株を買い集める自分の戦略を「カエルが蛇を呑(の)む」と表現していた。

芳久社長の策士ぶりは、一見派手な投資を行う傍らメインバンクである住友銀行の磯田一郎会長の下に足しげく通い、資金の使い途(みち)や思惑を逐一報告していたことから窺(うかが)える。結局、このレンゴーと摂津板紙の感情的な対立は住友銀行の仲裁で関係修復が成されていく。会長自ら指揮をとったことから関係者の間では「磯田裁定」と呼ばれた。

その磯田裁定が下ったのは1984年5月初め。83年末時点で摂津板紙が保有していたレンゴー株約1600万株(発行済み株式の約15%)、レンゴーが保有していた摂津板紙株約700万株(同約8%)を両社がそれぞれ500万株まで減らすというのが骨子。さらに摂津板紙が手放すレンゴー株を住友商事が引き取ることも盛り込まれた。

レンゴー株買い取りについて住商社内の稟議(りんぎ)を通すのは紙パ部門の担当者である私の仕事だったが、当時東洋工業(現マツダ)の再建を巡り住銀と住商の間に軋轢(あつれき)があり、住商には磯田裁定に対する感情的な反発も少なくなかった。「レンゴーにとっても住友商事にとってもプラスになることだから」と説明し、何とか納得してもらった。

だが、これで一件落着とはならなかった。磯田裁定にはさらに隠し球があった。レンゴーは5月28日の取締役会で加藤社長の退任(会長就任)を決める。後任社長は創業者、井上貞治郎の甥(おい)にあたる副社長の長谷川薫さん。11年ぶりの生え抜き社長誕生だった。

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(11)転換点 生え抜き 長谷川社長誕生 レンゴー中枢部の緩衝材に
 

「レンゴーの社長をいつまでも東洋製罐から出すわけにいかんだろう」

住友銀行の磯田一郎会長のこんな発言を私に電話で伝えてくれたのは摂津板紙の増田芳久社長だった。互いの株を買い集めたレンゴーと摂津板紙の対立を仲裁した「磯田裁定」が下った前後、増田社長が磯田会長から直接聞き出したコメントだった。

東洋製罐からレンゴーへ送り込まれ11年間社長を務めた加藤礼次さんに代わり、創業者の甥(おい)で生え抜きの長谷川薫さんを後任の社長に据えるという衝撃的なトップ人事を示唆していた。私が長谷川さんに電話でこの発言を伝えると「そうか、ありがとう」という弾んだ声が受話器から聞こえてきた。

後に振り返ると、この人事はレンゴーの経営の転換点になった。1984年6月に長谷川社長が就任。会長になった加藤さんは2年後に亡くなり、東洋製罐は社長の高碕芳郎さんが非常勤取締役を務めていたものの、レンゴーに対する影響力は低下し、代わりに住友色が強くなった。

実は、レンゴーを住友に近づける出来事がもう一つあった。安宅産業という住友系商社をご記憶の方も多いと思う。カナダの石油開発の失敗で75年に経営危機に陥り、77年に伊藤忠商事に吸収合併された。その安宅傘下に段ボールの中芯原紙(2層になっている表面の間に挟み込む波形の板紙)を製造する福井化学工業という子会社があった。

この会社の専務だった竹内一郎さんと私は親しく付き合っていたが、安宅の破綻が決定的になった時、こんな相談を受けた。「坪やん、今ウチに本州製紙と大王製紙、それに摂津板紙から買収の打診があるんやけど、どこへ話を持っていくのがええやろか」

私は「今後、製紙部門を必要とするのは原紙からの一貫生産を目指す会社でしょう。レンゴーへ行くべきです」と進言し、当時副社長だった長谷川さんを紹介。長谷川さんは前向きだったが、加藤社長はレンゴーの単独買収では荷が重いと腰が引けていた。

そこで私は上司で担当役員の植村光雄さんと打開策を練った。60年代後半、住商と安宅の間で合併構想が浮上し、合意寸前まで話が進んだが、創業一族である安宅家の反対で破談に終わったといわれていた。経営陣同士の関係は良好で、安宅系企業への支援には住商側も積極的だった。

レンゴーに対し、住商は福井化学の買収費用を分担する案を提示。最終的にレンゴーが75%、住商が25%を出資することで話がまとまり、76年8月に福井化学はレンゴーの子会社となった。後の話だが、福井化学は91年にレンゴーに吸収合併されている。

出資比率25%の株主になったことで、住商は福井化学の製品を一手に扱うようになり、紙パルプ部門の商圏は一段と広がった。ただ当時、レンゴー社内では取引商社の部長代理や次長にすぎない私が社長の加藤さんや副社長の長谷川さんの執務室に頻繁に出入りするのを見て「レンゴーの経営の中枢へ土足で踏み込んでくるヤツがいる」と良からぬ噂が立ったこともあった。

私は「土足で踏み込んでいる」つもりは毛頭なく、互いに本音を言わない社長と副社長の間に入り、衝突や軋轢(あつれき)を避けるクッションの役割を果たしているのだと解釈していた。当事者同士が感情のままにぶつかり合うよりも、間に緩衝材があった方が良い。それが商社マンの役割だとも思っていた。

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(12)異才の技術者 電光石火 得能さんの眼力 己を省みる大切さ教わる

1970年代から80年代にかけレンゴーは東洋製罐や摂津板紙との株主問題に悩まされたが、一方で生産設備は独創的な新技術導入で目覚ましい成果を上げた。その先導役は大昭和製紙からスカウトされた得能正照専務である。

抄紙機の紙切れを劇的に減らした改良型円網抄紙機「ウルトラフォーマ」をはじめ、段ボール原紙を貼り合わせるコルゲーターに取り付けた「オートスプライサ」(原紙自動紙継装置)など従来の常識を覆す開発を次々手がけた得能さんは国内のみならず海外でも注目され、「タイガー・トクノウ」というニックネームで世界の紙・パルプ業界で広く知られた存在だった。

得能さんは1923年に広島・三原で生まれた。41年12月に江田島の海軍兵学校に入学し、卒業後はまず駆逐艦、次に潜水艦に乗艦。九死に一生を得て、終戦を佐世保の海軍ドックで迎えた。

戦後、お母さんが大昭和製紙の創業者である斉藤知一郎さんの妹だった縁で大昭和系の朝日製紙へ入社した得能さんは米国の製紙技術を学ぼうと自費で渡米したが、会社の許可を得ていなかったことを理由に解雇されてしまう。

そこで大昭和本体に移籍し、吉永工場(静岡県富士市)の工場長を任される。しかし、実績を上げたにもかかわらず、知一郎さんの長男で後継者だった了英さんと対立。辞表を出した直後に聯合紙器の井上貞治郎社長の声がかかり63年に入社する。この素早いスカウトを仲介したのは海兵73期の同期生で、当時常務だった長谷川薫さんである。

私が得能さんと知り合ったのは井出製紙という会社を訪ねたのがきっかけ。この会社の創業家にお姉さんが嫁いでいた縁で技術指導に来ていた得能さんの話を聞くうち、豊富な知識と発想に惹(ひ)かれるようになった。得能さんが私の得意先である聯合紙器に移ってくると、接する機会が増え、技術から人間関係に至るまでいろんな相談を互いにするようになった。

得能さんとの付き合いで最も感銘を受けたのは2つ。「五省(ごせい)」と「瞥見(べっけん)視力」である。

五省は海軍兵学校での訓戒の言葉。生徒たちは就寝前に頭の中で唱えていたという。至誠に悖(もと)る勿(な)かりしか、言行に恥づる勿かりしか、気力に缺(か)くる勿かりしか、努力に憾(うら)み勿かりしか、不精(ぶしょう)に亘(わた)る勿かりしか――。言行不一致はなかったか、気力は十分だったか、ズルをしなかったか。得能さんに教えられて以来、今も就寝前に五省で一日を振り返るのを習慣にしている。

瞥見視力は一瞥で見たもの全て脳裏に焼き付ける能力。潜水艦で潜望鏡を悠長に使うと敵に発見されるため、覗(のぞ)いた一瞬で敵船の形や進行方向、速力を見極めねばならない。海軍兵学校で訓練を受けた得能さんの瞥見視力に舌を巻いたことが何度もある。

海外の有力企業の工場視察に同行した時のこと。ラインに差し掛かると得能さんが「急いで歩け」と囁(ささや)く。指示に従い速足で工場を一周した後、得能さんはホテルへ戻り、ラインの隅々まで完璧な見取り図を描き上げた。ほんの数秒、横を通り抜けただけで、なぜこれほどの描写ができるのか不思議でしょうがなかった。この図を見せながら、こう言った。

「急いで歩けと言ったのは相手にこのラインに興味があると思わせたくなかったからだ。こちらの手の内を見せてはならない」

戦後のいち早い経済復興を支えたのはこうした異才の人たちであるとしみじみ感じた。

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(13)マレーシア赴任 修羅場経験 見込まれて 現地事情 ライバルに教え請う

初の海外勤務の辞令はまたもや突然だった。1988年5月、私は住友商事クアラルンプール支店長としてマレーシアへ赴任した。入社後26年間、紙パルプ一筋でドメスティックな世界しか経験がなく、「そんな大坪がなぜ」と誰もが思ったに違いない。

この人事は訳ありだった。支店管理職の一人が「ゲンティン・ハイランド」と呼ばれるカジノに入り浸り、経理上の問題を起こした。支店長は更迭。さらに支店の体制を抜本的に立て直すため、レンゴーの株主問題などで修羅場をくぐり抜けた私が後釜に選ばれたというわけである。

英語には自信があったので言葉の問題はなかったが、マレーシアの国情や現地日本企業の動静などは当然のことながら白紙の状態。事情通に聞くと、マレーシアにおける日本の総合商社で抜群の存在感を発揮しているのは在任10年を超えるベテラン支店長が君臨する三井物産だという。

そのベテラン支店長とは鈴木一正さん。57年に物産に入社し69年から7年間クアラルンプール出張所に赴任。この時、パイナップルの缶詰を生産するマレーシア食品工業公社の会長だった、後のマハティール首相と知り合った。

81年のマハティール政権誕生を受け、鈴木さんは83年にクアラルンプール支店長に就任。84年から亡くなる1年前の2006年まで22年間マレーシア日本人商工会議所会頭を務めるなど、現地日系企業社会では押しも押されもせぬ"ドン(首領)"だった。

私は着任早々、鈴木さんに面会を申し込んだ。敵を知るには懐に飛び込むしかないという思いからだったが、意外にも鈴木さんは現地の事情を懇切丁寧に教えてくれた。同業のライバルとはいえ「住友商事なら大したことはない」と思われていたのだろう。

当時住友金属工業(現日本製鉄)が国営石油会社ペトロナスからパイプライン用鋼管の受注を切望していたが、どう働きかければ良いか見当がつかない。私が相談に行くと「こんな人がいるよ」「こういうルートを使っては」と鈴木さんはヒントをくれた。

もう一つ、私が鈴木さんに感謝しているのは「マレーシアで本格的に仕事をやるならリエゾン・オフィス(連絡事務所)ではなく、別の組織を作った方が良い」と教えてくれたこと。マレーシアでは外国企業のリエゾン・オフィスには外国人が現地人の1割しか駐在できないルールがあったが、現地資本主体の法人ならばその限りではない。

そこで住商は89年に現地資本が70%、住商が30%を出資する合弁会社スムール・チャハヤを設立。経営陣はマレーシア人主体だが、実際にビジネスを切り盛りするディレクターの日本人4人を送り込んだ。この合弁会社を通じ、住商の取引はエネルギー関連のほか機械や自動車部品など広範囲に及ぶようになった。

当時のマレーシアは、ルックイースト政策をはじめ親日路線のマハティール政権下で日本企業の存在感は高まる一方だった。その象徴が、クアラルンプール日本人会が主催する盆踊り大会である。

浴衣姿の日本人と民族衣装をまとったマレーシア人が一緒に炭坑節や東京音頭を踊るこのイベントは年々参加者が増加。鈴木さんに「どこか大きな会場を設営できないか」と依頼された私は探索の結果、松下電器産業(現パナソニック)の現地工場の近隣の広大な土地に目をつけた。許可を得てそこで開催した大会の参加者は1万人。草の根の国際交流とはこういうものだと実感した。

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(14)強気の支店長  現地スタッフ「差別」撤廃 グローバル企業は柔軟さ必要

クアラルンプール支店長に着任後、まず気になったのはオフィス環境。従来の事務所は建物が老朽化し、従業員の士気に影響しそうだった。そこで、市内中心部にあるシャングリ・ラ・ホテルの隣に完成したUBNタワーへの移転を決断。15階のワンフロアを借り切り、新しいオフィスを開設すると、地元採用の従業員が「シャングリ・ラの隣で働けるなんて素晴らしい」と職場が一気に活気づいた。

この盛り上がりを利用しない手はない。国営石油会社ペトロナスをはじめマレーシア重工業公社と三菱自動車の合弁自動車メーカーであるプロトンなど、有力取引先との窓口役を現地採用スタッフに任せることにした。いったんパイプが出来れば、日常的な情報交換は現地スタッフ同士の方がうまく行くことが多い。

実際、マレーシア人や中国系のスタッフがパイプライン用鋼管や自動車部品などの商談を次々にまとめてくるようになった。一人がうまく行くと、それが成功モデルとなり、「次は自分も」と波状効果が生まれる。

クアラルンプール支店の活気が東京の本社に伝わり「マレーシアはそれほど潜在力のあるマーケットだったのか」と理解が深まっていった。勢いに乗じ、私はさらに改革を打ち出した。本社採用の日本人社員と現地スタッフとの間の「差別」撤廃である。

現地スタッフの活躍の場が広がると、日本人社員と一緒に出張に行く機会も増えるが、出張手当や宿泊費にかなりの差があった。採用形態の違いからサラリー(給与)が異なるのはやむを得ない。だが、職務に伴う経費の部類に入るアローワンス(手当)に差をつけるのはおかしい。そう主張したのである。

「区別(segregation)は許されるが、差別(discrimination)はいかん」というのが私のモットーだった。ところが、東京の本社にアローワンスの一本化を働きかけても一向に分かってくれない。その頑なさにしびれを切らした私は「ならばマレーシアだけで単独でやります」と通告し、強引に制度を変えてしまった。

グローバル企業がルールを作る際に必要なのは、それが民族や生活習慣の異なる国に合致しているかどうか、時代の変化でズレが生じていないか、そうしたことを常に検証していくこと。私が前のめりに実行したアローワンスの一本化は、しばらくして全社で採用された。

プライベートライフの思い出といえばゴルフだ。ビジネスでも接待ゴルフは不可欠で、1週間で11ラウンドを回ったこともあったが、さすがにこの時は「しばらくゴルフはいい」と感じた。だが、休日のプレーは楽しかった。

サザン・クロス・トレーディングという現地の合板メーカーを創業した佐藤恒雄さんを先生役に「サトウ・スクール」と名づけたゴルフの会があり、名門コースのロイヤル・セランゴールGCで毎週土曜日にコンペが開かれた。

そのロイヤル・セランゴールで王貞治さんとプレーした。その日前半は絶好調で私のハーフスコアは40で5打差をつけてリード。ところが後半は50を叩き、36で回った王さんに逆転されてしまった。

翌日、日本人会主催の王さんの講演会で出席者全員が「巨人の星」を歌った。88年に不本意な形で巨人の監督を退いたばかりの「世界の本塁打王」を励まそうと皆が声を張り上げた。幼少期から大の巨人ファンである私にとって、生涯最良の2日間だった。

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(15)取締役選任 営業離れ ソフト底上げ MM21再開発にゴーサイン

4年のマレーシア赴任を終え本社へ戻ったのは1992年。6月の株主総会で取締役に選任された。当時の住友商事社長、秋山富一さんは私に「営業ではなく業務をやってもらう」と命じた。

新しい肩書は取締役生活物資統括室長。建設・不動産、繊維、農水産品など社内で「ソフト部門」と呼ばれる事業の収益力の底上げが私の任務だった。営業の第一線からコーポレート部門に移り仕事の内容はガラリと変わった。

印象的な案件に横浜市のみなとみらい(MM)21地区の再開発があった。オフィスビルやホテル、コンサートホールなど計6棟の建物からなる大規模事業で、私は現地を隈なく歩き、住商にとってシンボル的なプロジェクトになると判断しゴーサインを出した。97年に開業し、「クイーンズスクエア横浜」の名で親しまれている。

一期先輩の和田文男さんと取り組んだ製油事業の強化策も思い出深い。和田さんとは常々社内の会議で互いに丁々発止の持論を展開し、やり合った。「和田さんのご説はもっともですが…」「大坪さんはそうおっしゃいますが…」といった具合で、周囲は「天敵の二人」と呼んでいたが、実は大の仲良しだった。

住商傘下の吉原製油に出向し、副社長まで務めた和田さんは私と同じタイミングで住商の取締役となり、農水産本部長を委嘱されていた。和田さんはホーネンコーポレーション(現J―オイルミルズ)に狙いを絞り、吉原製油と関係を深める戦略を立案。実現は2003年になったが、味の素製油を加えた吉原、ホーネンとの3社統合はここからスタートしたといえる。

例外的に営業マンの立場に戻った案件もあった。その一つが紙パルプ部門の取引先だった丸三製紙の機械設備更新の件。老朽化したマシンを一新するため百数十億円の投資が必要で、住商に資金面での支援を求める話だった。

担当の紙パルプ部長はデューデリジェンス(資産査定)をもとに行けると判断し、私に協力を求めてきた。「よっしゃ分かった」と私は稟議書を片手に関連役員を順次訪問。ところが、常務財務本部長の米津武彦さんだけは「大坪くん、これはダメだな」とにべも無い。

設備更新で丸三製紙の生産能力は増強されるが、「それを売り切る販売力があるのか」と米津さんは疑問を投げかける。「『売れない』と決めつけるのはおかしい」と私は反論。「いざとなったら私が全部売り切ってみせます」と大見得を切ると「君は今、営業の立場ではないだろう。これから先、人事でどこへ行くかもしれないじゃないか」と米津さんも譲らない。

延々と議論した結果、私は「いいですよ、それなら財務本部長の承認は空欄にして社長に持っていきます」と宣言。すると米津さんは「それほど言うなら判を押すが、私の気持ちはこうだ」と言って自分の印鑑を逆さまに押して私に渡した。その稟議書を社長のところへ持っていくと、秋山さんはニヤリとし「財務本部長の意思はよく分かった。ただ、私の判断でこれはやろう」と決断を下した。

米津さんとやり合ったからといって、普段から不仲だったわけではない。むしろ何でも語り合える尊敬する先輩だった。しかし、仕事は別だ。互いに慮って空気を読んだりしない。言うべきことを言い、論議を尽くすことが大切なのだ。経営トップにとって周囲の忖度は一番の敵。このことはトップに立つと身にしみて分かるようになる。

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(16)繊維本部長 カネボウ粉飾 当たった勘 銅取引巡る巨額損失の足音

3年前、クラシエホールディングスからお呼びが掛かり、発足10周年記念の会で私に挨拶をしてほしいとリクエストがあった。ご存じの通り、クラシエは破綻したカネボウの日用品、食品、医薬品を引き継いだ会社。どうして私なのかと不思議な気もしたが、大切なお得意先なので喜んで一言お祝いを申し上げた。

役目を終え引き揚げようとしたところ、クラシエのさる方から「あの時は正しいご指摘をいただき、ありがとうございました」と声を掛けられた。そうだった。それで思い出した。そしてなぜ私に声が掛かったかも腑に落ちた。

1994年6月から3年弱、私は住友商事の繊維本部長を務め、在任中にカネボウとの商談にストップをかけたことがあった。商談の中身はというと、当時カネボウのアクリル繊維の最大の納入先だった興洋染織という会社が作る毛布や絨毯の販売だった。

カネボウはこれらが「売れている」と説明したが、私には「あやしい」とピンときた。繊維本部の現場へ徹底的に調べるよう指示を出し、後日結果を聞くと勘は当たっていた。「売れている」どころか在庫の山だったのである。

後に報道で明らかになるが、興洋染織が製造した毛布や絨毯はまずカネボウが買い取り、手形を振り出す。カネボウは子会社や商社を使い毛布や絨毯の販売を試みるが、売れずに返品されると、最終的に興洋染織が引き取る仕組みだった。これは私たちが「A&A取引」と呼んでいたもので、会社A(カネボウ)と会社A'(興洋染織)の間で物品を回転させて売買を装う循環取引のようなものである。

売れない品を引き取る興洋染織は在庫が膨らむが、カネボウの手形を換金すれば即座に破綻はしない。ただ、山積みの在庫を隠すため決算の粉飾が必要になる。その結果、興洋染織だけでなくカネボウにまで破綻の輪が広がってしまう。これが2005年に表面化したカネボウ巨額粉飾事件の私なりの解釈である。

クラシエの会で声を掛けていただいたのはカネボウOBの方だった。当時、住商が興洋染織関係の取引を打ち切り、その判断を下したのが繊維本部長だった私だったことを覚えておられたようだ。クラシエを築いた幹部や社員はカネボウ在籍時代、粉飾に手を染めた主流派の言いなりにならず、一線を画していた人たちと伺った。芯のある人材に育てられたことで、本当に良い会社になったと実感した。

経済事件は時にカネボウのように会社を消滅させ、グループや下請けを含め万単位の人々の生活を脅かす。破綻に至らずとも、事件の影響でその後のビジネス人生が大きく変わる人も少なくない。

入社以来決して平坦でないサラリーマン生活を送ってきた私だったが、自分の会社に起きた事件の余波で2度目の海外赴任のお鉢が回ってくるとは思ってもみなかった。

繊維本部長となって2年余りが過ぎたある日、幹部が出席する会議が終わる頃に非鉄金属本部長が立ち上がり「このたび5億のロスを出してしまいました。皆さんにお詫びします」と頭を下げた。

私は隣にいた農水産本部長の和田文男さんと「一生懸命でも5億の損が出ることはあるわなあ」と話したのを覚えている。二人ともてっきり5億は「円」だと思っていた。だが、後日それが「ドル」だったと判明。公表後その額は時間とともにさらに膨らんでいく。会社を大きく揺るがした銅地金取引を巡る巨額損失事件の始まりだった。

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(17)ロンドン赴任 「非常時の男」事件舞台に 全容把握「現場にこそ真理あり」
 

2〜3年前、ロンドンの日本大使公邸に招かれたことがあった。敷地の一角の大きな桜の木を見て、私は同行者に「この木は二十数年前、私たちが植えました」と紹介した。住友商事欧州総支配人としてロンドンに赴任していた当時、日本から訪れた国会議員団と植樹したものだった。

元非鉄金属部長が10年間も銅のオプション取引や多額の銀行借り入れを不正に続けていた銅地金事件。1996年6月の公表時の損失は約2000億円だったが、その後、複雑な取引を手仕舞いしていく中でさらに1000億円が加わった。

会社のイメージダウンは避けられず、とりわけ事件の舞台だったロンドンでは取引先の信用回復に加え、スタッフの動揺を収めるなど体制の早急の立て直しを迫られた。

その任務を担い、私がロンドンに着任したのは97年4月。「なんでまた自分が」との思いは強かった。マレーシアの時もそうだったが、住商の経営トップには「非常時の大坪」とのイメージが刷り込まれていたような気がする。

虎穴に入らずんば虎子を得ず――。着任後、そんな思いでロンドン金属取引所(LME)を訪ねた。世界の金属相場を動かすこのマーケットで何が起こったのか、現場に入り、自分の目で確かめたかった。だが、専門用語を早口でまくし立てられると、とても理解できない。後日専門の通訳を伴い出直して、ようやく呑み込めるようになった。

以下は私なりの推論である。相場用語のロング(買い)とショート(売り)をご存じの方も多いと思う。総合商社といえども、単純にロングとショートの取引を繰り返すだけなら、これほどの損失を被ることはなかったはずだ。

事態が予想外の方向へ進んだのはオプション取引に手を出したから。つまり、ロングとショートという現実の世界から、プット(売る権利)とコール(買う権利)が交錯する予測の難しい未来を占う世界へ舞台が広がったのだ。

オプション取引では権利の買い手が売り手に支払う「プレミアム」と呼ばれる手数料が発生する。売り手は前もって手数料を受け取れる。これを利益計上し「儲かった」と喜んでいると、読みが外れて相場が動いた場合に大変なことになる。その大変なことが現実に起こったのが銅不正取引事件だった。

オプション取引を否定するつもりはない。リスクヘッジの手段としての重要性は十分認識している。ただ、そこへ参加するなら、相場を知り尽くしていなければならない。LMEでオプション取引をやるなら、責任を負える立場の人間が数年間は腰を落ち着け、相場の流れをすべて把握しておく必要があったのだ。

銅取引で起きた全容を自分なりに理解した時、「現場にこそ真理がある」との思いを一段と強くした。いかなるビジネスも、現場を知らなければ始まらない。その場所の空気を吸うだけで、それまで見えなかったものが見えてくることが必ずある。

この「現場」という日本語のニュアンスを正確に伝える英語がなかなか見つからなかった。そこで私はこんな言い回しを思いついた。「ブーツ・オン・ザ・グラウンド、ショウ・ザ・フラッグ(Boots on the ground,Show the flag.)」。前段は派兵を意味するフレーズでもあるが、大坪流では「地に足を着け、そこで旗を掲げろ」と訳す。ロンドンのオフィスでこの言葉を発すると、最初は戸惑っていたスタッフも、繰り返すうち、次第に頷いてくれるようになった。

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(18)2つの肩書 戦略部署厚く 成長の礎 BPと長期契約 助け合う心共有
 

ロンドン着任当時の私の肩書を正確に記すと、常務取締役欧州総支配人兼欧州住友商事社長。支社長と現地法人トップを兼務しているようなもので、激務といえなくもないが、身が持たないというほどでもない。それよりも、役職に従ってオフィスが分かれ、別々に部下がいることの効率の悪さが目に余る。何しろ案件の中身によって、私があっちへ行き、こっちへ行きするのだ。

不合理が目につくと、黙っていられない性分。すぐに2つのオフィスを統合し、スタッフも再編して、ビジネスの最前線の人材を強化した。当時英国内の住商の人員は日本人が約100人、英国人が約250人、そして欧州各国から来た外国人が1000人近くいた。非効率な配置を見直し戦略的な部署の陣容を厚くしたことで、その後の欧州事業の成長に繋がったと思っている。

英国以外の欧州約20カ国にあった住商の拠点にはビジネスの発掘に全力を注ぐよう指示した。当時欧州連合(EU)の通貨統合の動きが加速し、各地で新しいプロジェクトが立ち上がりつつあった。

ロンドンへの細かい報告書は不要とし、代わりに私が現地へ出向いた。留守を任せるためロンドンに私の代理を務める優秀な人材を東京の本社から一本釣りし、欧州住友商事の副社長に据えた。おかげで私の活動範囲は大きく広がり、欧州各国・地域への頻繁な訪問が可能になっただけでなく、先に触れたロンドン金属取引所(LME)で詳しい調査に取り組む時間も確保できた。

ロンドンでの私の在任中、印象に残ったプロジェクトの一つにブリティッシュ・ペトロリアム(BP)との間で1999年に結んだ石油輸送用鋼管の長期一括契約がある。供給するのは住友金属工業(現日本製鉄)が和歌山製鉄所で製造するシームレスパイプ(継ぎ目無し鋼管)などである。当時住金副社長だった下妻博さんとはマレーシアのペトロナスとの商談をまとめて以来親しくしていたが、この時も非常に喜んでくれた。

当時BPを率いていたジョン・ブラウン社長兼最高経営責任者(CEO)とは交渉の過程で意気投合した。90年代前半、BPは巨額の赤字を計上し、経営不振から数千人を解雇する苦境に立たされていたが、95年にブラウン氏が社長兼CEOに就任して以来、業績は劇的に改善。2007年の引退までに、同社は米エクソンモービルに次ぐ石油メジャーとして立ち直った。

ブラウン氏の発した言葉で私の心を揺さぶったのが「ピア・アシスト(仲間の援助)」というフレーズである。

当時BPはスコットランド地方アバディーン市の沖合で英蘭系シェルや米エクソンなどと新たな北海油田の共同開発を進めていた。海底油田の開発では「リグ」と呼ばれる海上に設置する掘削装置が不可欠だが、そのリグで日々発生する課題をロンドンのオフィスがひとつひとつ管理できるはずがないとブラウン氏は判断。それよりも専門分野の異なる現場スタッフが知恵と知識を結集し、課題解決に取り組んだ方がはるかに効率的と考えたのである。

部門の壁を越え、現場の力を結集することを表すキャッチフレーズが「ピア・アシスト」だった。言うまでもなく、これは「現場にこそ真理がある」という私の信条にピタリと重なる。ブラウン氏にその英訳版の「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」の思いを伝えると、我が意を得たりとばかり、満面の笑顔になった。

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(19)セッツの危機 バブル崩壊で財テク失敗 社長の芳久さん 諦観の引責辞任

ロンドン駐在は1997年4月から3年間。銅地金事件後の体制再建やEU(欧州連合)全域での事業拡大など、住友商事欧州総支配人としての職務は順風満帆だった。

一方、日本では私の古巣の紙パルプ部門で悩ましい問題が起きていた。86年に摂津板紙から社名変更したセッツの経営危機である。私が入社2カ月後に出向した有力な取引先であり、創業者の増田義雄さん、婿養子の芳久さんの歴代社長と親しい関係にあったことは何度か触れた。

芳久さんは本業の板紙製造より金融への関心が強く、80年代後半のバブル期に転換社債やワラント債を次々に発行。1000億円前後の資金を株式運用やM&A(合併・買収)に投じた。一時は金融が製紙を上回る利益を上げたこともあったようだが、バブル崩壊で市場が一変するとひとたまりもなかった。91年3月期単体決算でセッツは株式評価損と処分損で計82億円の損失を計上。61年の株式上場以来初の赤字決算となった。

社長の芳久さんは91年6月に引責辞任し、後任に尼崎工場長などを務めた鎌田利雄さんが就任。メインバンクの住友銀行(現三井住友銀行)から経理・財務担当専務が送り込まれ、財テク失敗の後処理に当たることになった。

住銀がセッツの再建に役員を派遣したのは銀行自身が財テクに深く関与したからだった。芳久さんと同行元頭取の磯田一郎さんは二人がそれぞれ経理担当常務、審査担当常務の時代から親しく、約800億円を投じた米印刷会社ユアルコ社の買収案件などは同行の紹介といわれていた。

芳久さんとは若い頃から何度も杯を酌み交わしたが、酔いが回るとよく「なあ大坪くんよ、お世辞でもいいからオレを褒めてくれんか」と言っていたことを思い出す。

レンゴーのために株を買い集めて筆頭株主の東洋製罐の影響力を薄めたり、果敢な財テクで注目されたことを評価してほしかったのだろう。周囲はイエスマンばかりでお世辞を聞き飽きていたのかもしれない。しかし私は「訳の分からん会社を買い、マネーゲームばかりやっていると、大変なことになりますよ」と耳障りなことを言い続けた。

セッツの財テク処理は難航した。バブル期に同社は摂津興産、菱大商事という子会社2社を通じ投資を行っていた。91年の社長交代を機にセッツは財テクから手を引いたが、2つの子会社の債務整理はなかなか進まなかった。

山一証券と北海道拓殖銀行が相次ぎ破綻した97年以降、セッツは両社に融資していた7つの金融機関に総額1080億円の債務免除を要請。セッツも両社への無利子貸付金420億円を放棄した。さらに赤字を垂れ流していたユアルコ社を売却。その売却損が450億円に達した。

99年3月期にセッツは338億円の連結債務超過となる。自立再建の道は絶たれ、レンゴーとの合併で活路を見いだすことになった。私は善後策の協議でロンドンと日本の間を何度も往復したが、そんな中、芳久さんと久しぶりに杯を交わす機会があった。

かつて対座した大阪・北新地の料亭と違い、場所は兵庫・尼崎のセッツ本社に近い杭瀬のラーメン店。2つの子会社を整理したばかりの頃である。私が「言いたいことはあるだろうが、すべて任せた方がいい」と言うと、もはや達観していた芳久さんは「分かっている」と答えた。勘定の際、私が払おうとすると「これくらい、まだあるわい」と一言。それが私と芳久さんの最後の酒宴だった。

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(20)セッツ救済  レンゴーが衝撃のM&A 「板紙でトップに」統合派を説得
 

財テクの失敗で窮地に陥った板紙メーカー2位のセッツを、段ボール最大手のレンゴーが救済合併する第一報が報じられたのは1998年2月。板紙製造でも4位のレンゴーとセッツの合併で板紙市場で王子製紙を抜きトップに立つという業界では衝撃のM&A(合併・買収)だった。

私はレンゴー社長の長谷川薫さんから何度も相談を持ちかけられた。まず、合併前にセッツの債務整理がどの程度進むのか。主力銀行の住友銀行との交渉が不可欠で、長谷川さんは銀行にこう言ってほしいとわざわざロンドンの私のところへ連絡してくる。

ある時「そんなこと、自分で仰ったら」と私が言うと「いや、セッツを一番よく知っているのはツボさんだから」と譲らない。別の時にはブリュッセルの出張先に長谷川さんが秘書を伴い突然現れ、私を驚かせたこともあった。

セッツ救済を長谷川さんが決断した理由はライバルの本州製紙(現王子製紙)や日本製紙に渡したくないということだった。その気持ちが先走り、セッツと「合併」なのか、別会社で残し系列化する「統合」という形を取るのか、明確になっていなかった。レンゴー経営陣の大半は「統合でいいじゃないか」という空気だったが、私は「合併で一つの会社にならないと意味はない」と力説した。業界トップになってこそ成長の糧になると確信していたからだ。

ただ、例外があった。段ボール部門である。セッツの段ボール部門は後発でレンゴーとは技術力も人材面でも力の差があった。財テクの失敗で社長の座を追われた増田芳久さんとの最後の酒宴のことは前回触れたが、合併のことは「全て任せる」と了解した芳久さんが「一つだけ頼みたい」と言ったのがこの段ボール部門のことだった。

セッツの板紙部門は創業者で岳父の増田義雄さんがゼロから立ち上げた事業だが、段ボール部門は芳久さんが手塩にかけ育てたという思いが強かった。「セッツの段ボール事業の人間はレンゴーの巨大組織と合併したら埋没する」と芳久さんは懸念した。

確かにそうかもしれない。私は長谷川さんに「セッツの段ボールは独立させましょう」と進言。レンゴーとセッツは99年4月1日付で合併にこぎ着けたが、その1カ月前に「セッツカートン」と名づけた子会社を設立し、セッツ直営の段ボール製造5工場を集約した。結果は大成功。セッツカートンは独立経営で力をつけ、今ではグループの中核企業の一角を成している。

こんなふうにレンゴーとセッツの合併に深く関与した私は何度も日本へ帰国し、両社や銀行の関係者と打ち合わせを済ませ、ロンドンへとんぼ返りする生活を続けていた。

当時、住友商事の本社は東京・竹橋にあり、社長の宮原賢次さんにはもちろん逐一報告していた。「合併の話は外に漏れないようにしないとな」とクギを刺されたのを覚えている。その宮原さんと長谷川さん、住銀頭取の西川善文さんらとの間で私のこれからの役回りについてトップ会談があったのかもしれないが、本人の知るところではなかった。

つらかったのは「どうしてチョコチョコ日本へ行ってるの」と家内に聞かれても合併の件を話せなかったこと。「本社との打ち合わせ」で通していたので合併が実現した時はホッとした。だがその翌年、さらに家内が驚く「事件」が起きる。住友商事からレンゴーへの転職、それもいきなりの社長就任である。

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(21)落下傘社長   製紙業界の慣習 高い壁 「異議なし」取締役会で持論展開
 

私のレンゴー社長就任が「新聞辞令」だったのは初回に紹介した通り。前任者の長谷川薫さんからは1999年10月くらいに「セッツとの合併もあったし、将来のレンゴーのために来てほしい」と誘いがあったが、私は住友商事でもう一仕事したい気持ちが強く「話は聞いておきますが、しばらく考えさせてください」と返事を留保していた。

それから半年。諦めてくれたかなと思っていたところへ、いきなり「レンゴー新社長に住商の大坪常務」の記事。こうなったら腹を括(くく)るしかない。2000年4月1日付で住商副社長に昇格し、ロンドンから帰国。席を温める間もなく6月29日の株主総会でレンゴー取締役に選任され、その日の取締役会で正式に社長に就任した。

ただでさえ、新社長のスタート時は目まぐるしい忙しさだが、社外から落下傘で舞い降りるように着任した私のような場合、事情を知らずに戸惑うことも少なくない。社長就任の挨拶回りの時もそうだった。

製紙業界のお歴々への表敬で各社を訪ねたが、皆さん珍しそうに私を迎えている。長谷川さんは「適当に行っといて」と同行していなかったので分からなかったのだが、よくよく聞くと、レンゴーの歴代社長が大手製紙会社に就任挨拶に出向く習慣がなかったと教えられた。

前にも触れたが、この業界は「ダンボール」や「イタガミ」といった濁音のつく製品を作る会社と「セイシ」「ヨウシ」など澄んだ音の事業の会社の間に高い壁があった。その壁の存在をその後も折に触れ私は思い知らされる。

社長就任直後の最初の取締役会も印象に残っている。会議が始まってすぐに私は違和感を覚えた。出席者が何も発言しないのである。議長役の長谷川会長が紙に書かれた文言を淡々と読み上げ、それが終わると「異議なし」の声があちこちから上がって一件落着。この繰り返しだった。

住友商事の取締役会は違った。私や私の「天敵」といわれた和田文男さんが議論の火付け役だったことは前に紹介したが、他の出席者も好き放題に発言し、大論争になることも珍しくなかった。

対照的に静寂が続くレンゴーの取締役会。財務報告になると、もう我慢できなかった。私は発言を求め「段ボール原紙のことには触れているが、その原紙の材料である古紙については在庫の記載がない。これはどういうことですか」と疑問を呈した。一瞬、静まり返った後、長谷川さんがポツリと「そういえばそうですね」と言った。

レンゴーは段ボール製造用原紙である板紙を外部調達するだけでなく、利根川工場(茨城県)や旧福井化学工業の金津工場(福井県)、それに合併したばかりの旧セッツの八潮工場(埼玉県)などで自社製造していたが、それほどの工場を抱えながら、板紙原料の古紙の在庫管理がなされていなかったのだ。聞けば、原料のコスト計算では外部調達の古紙の相場をもとに弾き出しているという。「それではどこで利益が出ているか分からないじゃないですか」と私は言わずにいられなかった。

製紙技術の大家だった得能正照さんは88年に専務を退任。それ以後、レンゴー経営陣には製紙部門を理解する役員がいなくなっていた。さらに長谷川さん自身も気づいていたが、創業一族出身のトップが16年間君臨した影響なのか、社内は風通しが悪く、活気も失われていた。私に課せられた任務はこの流れを変えることなのだと社長就任早々悟った。

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(22)  フルコスト主義 「価格ない」契約に目疑う 成り行き任せ体質 改革に挑む
 

紙パルプ担当の商社マンを長くやった私でも、その分野の企業のトップに立つと目に見える景色はがらりと変わった。とにかく驚くべきことの連続。レンゴー社長就任後、原料の売買契約の際に最も肝心な「価格がない」のに気づいた時もそうだった。

2000年当時、段ボール業界を細かく分類すると、主原料の古紙を抄(す)き段ボール原紙の板紙を作る製紙会社が約30社、中芯原紙とライナ(原紙)を貼り合わせ段ボールシートを作るシート会社が約300社、段ボールシートを加工し各種ケース(紙器)を作る完成品メーカーが約3000社あった。

製紙会社の経営者は工場の稼働率を重視するあまり「限界利益さえ確保できれば」と需給状況を顧みず増産に走る。すると当然のことながら値下げ競争が起き、値崩れすることを繰り返していた。しかも契約書を結ばない商慣習がはびこり、当初の設定価格が半年後、1年後に取り消されることも珍しくなかった。

例えば、シート会社が製紙会社から年初に1キロ=50円で原紙の購入を決めたとしよう。だが、夏場になると「状況が変わったので40円にしてほしい」と要求してくる。他の業界なら一蹴されるのがオチだが、製紙会社はそれを請けてしまう。だから「価格がない」ということになる。

これは「限界利益」の偏重に起因する。売上高から原材料コストなど変動費を差し引いたのが限界利益であり、大半の製紙会社はそのメドさえ立てば、あとは人件費などの固定費をカバーするため増産すればいいと考えていたのだ。経営者が需給バランスを考えないのも信じ難いが、後になって値下げを求める段ボール会社にも問題がある。原材料費が決まらなければ、製品ユーザーとの価格交渉で説得材料がなくて困るはずだ。

一刻も早く改めようと、私は01年の新年互礼会で業界幹部を前に「新しい製品価格の決め方」をテーマに大演説をぶった。そこで打ち出したのがフルコスト主義である。

従来は利益の中から絞り出してきた「資本分配」「労働分配」「租税」「社会貢献」の4項目をあらかじめ必要なコストとみなして製品価格を決める考え方だ。これが実現すれば、成り行き任せの経営を排除できる。予想通り、長時間に及んだこの大演説は猛反発を食らったが、私には信念があった。

我々のビジネスは原料となる「古紙」、その古紙から段ボール原紙を作る「製紙」、さらに製品に仕上げる「段ボール」という3つの業界で成り立っている。「価格がない」の事例で示したように、かつては互いの業界が損を押し付け合う構造だった。業界間に不信感が蔓延(まんえん)し、それゆえ合理的な行動が取れない、いわゆる"囚人のジレンマ"がその背景にあった。

しかし、それは間違っている。古紙から作る段ボールはリサイクル率の高さで知られる。このリサイクルの輪こそがビジネスの生命線であり、価値の源でもある。業界間の叩(たた)き合いは排除すべきだし、街中で毎日額に汗して古紙回収に携わる人々への配慮も必要だ。彼らの生活が成り立たないということは、段ボール産業が成り立たないのと同じことだと考えなければならない。

製品価格のフルコスト主義を含め、私が一連の意識改革を「三位一体の改革」と名づけたのは、古紙・製紙・段ボールの3つの業界が手を携えて取り組まなければ我々のビジネスに未来はないという強い思いからだった。

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(23)内憂 2つの労組 社員に深い溝 賃金・組織統一 高まった士気
 

社長就任1年足らずで打ち出した「三位一体の改革」。古紙・製紙・段ボールの3つの業界の従来のやり方が間違っていると批判したわけで、挑戦状を叩きつけられた側の反発は当然激しかった。レンゴーは「価格の合わないものは一切納めない」と宣言。値下げ競争の悪循環から脱するためで業績の落ち込みは覚悟の上だった。とはいえ内外の圧力は相当なものがあった。

業界数社のトップから説得を受けたが、中には電話で「出来っこない。あなたの隣の部屋(会長室)にいらっしゃる方に聞いてみるといい」とまで言われた。会長の長谷川薫さんからは「そこまでやらん方が」とたしなめられもしたが、総じて私に任せてくれた。おそらく言いたいことは山ほどあっただろう。

売上高が頭打ちなら、収益力を引き上げるしかない。しかし、大きな支障があった。合併で吸収された旧セッツとレンゴーの従業員間の意思の疎通が、いまひとつうまくいっていなかったのだ。

会社同士は1999年4月に合併したが、労組はレンゴー労働組合とセッツ労働組合が併存したままだった。社内では「一社二制度」と呼び、組合間に賃金格差があった。仮にレンゴーの方が33万円だったとすると、セッツ側は30万円といった感じである。

レンゴーに救済された旧セッツ側にはもともと引け目があった。旧セッツの段ボール部門を独立させたセッツカートンの人間に聞くと、レンゴーからの出向者が「上から目線」のため、コミュニケーションを取りづらいという。

一方で段ボール製造が祖業のレンゴー社内には昔から、原料の板紙を製造する製紙部門に対する優越感があり、旧セッツに対し「合併してやった」との意識が垣間見えた。レンゴーでは製紙部門へ異動の辞令が出ると「飛ばされた」と受け止める向きが多かったということも耳にした。

これではいけない。前にも引用したが「区別(segregation)はいいが、差別(discrimination)はダメ」というのが私の信条である。同じ仕事をする従業員が、所属する労組の違いで待遇が異なるというのは、明らかに「差別」ではないか。

レンゴーの長老格の役員は「10年くらい時間をかけて一本化すればいい」という構えだったが、そんな悠長なことは言っていられない。私は「一つの会社になろう」と関係各所へ働きかけた。

焦点はいうまでもなく賃金格差解消。3万円の差があるとして、双方が1万5千円ずつ増減させることで統一賃金とする提案をした。ネックは賃金が下がるレンゴー側の反発である。給料が減って喜ぶ人間はいない。私は「ノーペイン、ノーゲイン(痛みなくして前進なし)」という表現で粘り強く説得を続けた。

トゲトゲしい空気が変わってきたのは、私が業界を相手に「三位一体の改革」を掲げ孤軍奮闘している様子が社内に広まったのと同じ頃。「社長は退路を断ち本気でやっている」と伝わったのかもしれない。02年4月、2つの労組は組織を統一した。

レンゴーには、上が決めた方針にはピシッと従う社風があった。これは会社を長く率いた長谷川さんや元専務の得能正照さんが残した旧海軍兵学校の気質だったと思う。つまり、卒業年次が1年でも違えば上の命令は絶対というもので、それがマイナスになる場合もあるが、この時は良い方に出た。一本化された労組は士気が高まり、一連の改革実現の原動力になっていく。

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(24)長谷川さんの死 「会社を頼む」最期まで 生産性向上 役員人事にもメス

労組統一の効果はすぐに表れた。組織の壁を取り払ったことで組合員だけでなく、非組合員の幹部の仲間意識も高まった。ロンドン時代に知り合ったBPのジョン・ブラウン社長兼最高経営責任者(CEO)が提唱した「ピア・アシスト(仲間の援助)」精神が行き渡り、昨年のラグビーW杯の日本代表でいえば「ONE TEAM(ワンチーム)」が出来上がったのだ。

特に目覚ましい貢献をしたのが旧セッツ八潮工場(埼玉県)と尼崎工場(兵庫県)。レンゴーとの不平等感が解消し士気が一気に上がった。

当時両工場の生産量は年合計120万〜130万トン。操業時の製品歩留まりは92〜93%が限界だった。私は「工程を工夫して、どこまで数字を改善できるか、やってみてほしい」とハッパをかけた。

板紙の製造過程で起きる問題の一つに「紙切れ」がある。原料内の不純物の除去が不十分だと紙切れが発生し「通紙」と呼ばれる紙をつなぐ作業が必要になる。その通紙で機械が1時間弱止まってしまう。両工場はリファイナー(精製機)の改善や作業手順の見直しなどで紙切れの削減に成功。さらに紙抄き工程で水分を除去する搾水装置をニップ(挟む)プレス型から、靴を磨くように幅広く脱水できるシュープレス型に変更することで作業効率を高めた。

一連のライン改造の結果、歩留まりは5ポイント改善。両工場合計の年間生産量は約150万トンに増加した。新しい機械を入れたのではなく、既存のマシンの改造だけでこれほどの成果が上がるとは私自身も驚きだった。

こうなると改革に勢いがつく。さらに私は最もデリケートな問題である役員人事に手をつけた。2004年は昭和9年(1934年)生まれの方々が70歳に到達する年でもあり、それを機に昭和一ケタ生まれの役員の皆さんに引退していただくことにした。

この年はレンゴーにとってもう一つ重大な出来事があった。会長の長谷川薫さんが年初の1月9日に亡くなったのである。79歳。社長交代からわずか4年後のことだ。

前にも触れたが、レンゴーの創業者である井上貞治郎は長谷川家の生まれで、2歳の時に遠縁の井上家の養子になった。長谷川さんは貞治郎の甥にあたり、2人の社長在任期間はざっと50年に達する。私が社長にスカウトされるまでレンゴーが同族色の強い会社と見られていたのは、そんな歴史があったからだ。

確かにレンゴーに来て感じたのは創業一族への恭順度が高く、経営陣、従業員双方に「長いものには巻かれろ」的な気風があったこと。それゆえ、将来のレンゴーを担う人材が育っていないのを長谷川さんは十分認識していた。病が重くなってからも筆談で「思うようにやってくれ」「(レンゴーを)よろしく頼む」と何度も私に伝えた。

海軍中尉だった長谷川さんは終戦3カ月前に特攻出撃し、沖縄近海で米艦に撃墜されたものの、九死に一生を得て生還した稀有な経験を有していた。指揮者の岩城宏之さんとは学習院の同窓で親しく、その縁で岩城さんが音楽監督を務めていたオーケストラ・アンサンブル金沢をレンゴーが支援していた。

長谷川さんの死を悼み、岩城さんは大阪市内で開かれたコンサートで追悼曲「海ゆかば」を番外で演奏した。長谷川さんが亡くなった翌日のことだった。2年後に岩城さんも逝去されたが、お二人の縁を大切にし、レンゴーは今もアンサンブル金沢の支援を続けている。

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(25)リーマン破綻 吹き飛んだ引退への道 リストラ横行に苦々しい思い

来月1日に私は会長兼CEO(最高経営責任者)となり、20年近く務めた社長を退く。「死ぬまで社長をやってくれ」と言ってくれたOBもいたが、真に受けるほど世間知らずではない。ただ、こんなに長くやるとは正直思っていなかった。2009年4月にレンゴーは創業100年を迎えたが、実はその少し前から、この節目の年に後任へバトンを渡そうと考えていた。

業界の価格正常化を目指した「三位一体の改革」が軌道に乗り、レンゴーと旧セッツの労組一本化で従業員の士気も向上。改革を進めていけば社長が代わっても成長していける。その手応えが感じ取れるようになったからだ。

ところが、予想外の事態が起きる。08年9月のリーマン・ショックである。前年のサブプライムローン問題が表面化した頃から、米国を中心とした金融資本主義が行き過ぎてしまったと感じていた。

リーマン・ブラザーズの破綻は乾いた火薬庫に松明(たいまつ)を投げ込んだようなものだった。欧米の金融市場のあちこちで火の手が上がり、信用収縮の連鎖が発生。09年にかけて世界経済は混乱の渦に巻き込まれていく。日本経済も例外ではなかった。そんな状況下で「引退する」とはとても言えなくなってしまった。

「世界同時不況」という言葉が経済の混乱ぶりを如実に表していた。リーマン・ショックは日本の基幹産業のエレクトロニクスや自動車など製造業を直撃。キヤノンやトヨタ自動車といったこの国を代表する企業が雇用調整に踏み切るような事態に至った。

1990年代にIT(情報技術)革命が起き、00年以降「時代はニューエコノミー」という表現が定着。ニューエコノミー論には経済だけでなく社会のあり方も変えようという発想も含まれていたように思う。IT革命と並行する形で米国流株主資本主義が叫ばれ、日本企業はそれに対応せざるを得ない状況が続いた。00年代前半、当時の小泉純一郎首相と竹中平蔵・経済財政担当相が主導した「新自由主義」と呼ばれた改革もその流れに沿ったものだった。

03年に国会で成立した労働者派遣法改正によって製造業への人材派遣が解禁されると、内外の市場で熾烈(しれつ)な競争を繰り広げる日本の製造業は次々に工場に派遣労働者を受け入れた。レンゴーも人材派遣子会社のレンゴーサービスを通じ、そこで雇った社員を全国のレンゴーの工場へ送り込むようになった。

ただ、株主資本主義が広がる中で、私は労働を商品化することにずっと違和感を感じていた。労働は本来神聖なものであるはずだが、派遣労働を原材料費などと同じように変動費と位置付けるなら、それは商品化しているのと同じことだ。企業活動は土地と資本と労働を使い財貨・サービスを生み出す行為だ。サービスや財貨にも人間の心がこもらなければ真の利益は生み出せないと私は考えてきた。

09年に入ってもリーマン・ショックの余波は収まらず、苦境に陥った企業は人員削減主体のリストラを次々に発表。世間では「派遣切り」が流行語になりつつあった。そんな頃、経済団体の会合である経営者が「1万人を削減する」と発言。本人にそのつもりはなかったかもしれないが、私には自慢げに聞こえた。

「その前にご自分がお辞めになったらどうですか」と私が言うと、それをきっかけに大議論に発展した。人員削減が流行になること自体が間違っている。私はレンゴー独自の雇用対策を進めていた。

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(26)    2009年問題  派遣全1000人を正社員に 強まった結束 コスト増カバー

きっかけは「2009年問題」だった。07年に製造業での派遣社員の契約期限が1年から3年に延長。09年は派遣契約を直接雇用にするか、一定期間のクーリングオフを経て再び派遣で受け入れるか、請負契約に切り替えるか、選択を迫られる時期だった。

リーマン・ショック後の不況下で「派遣切り」や「雇い止め」が話題になり、09年問題も注目を集めた。レンゴーで対象となる派遣社員は約1000人。私は「この際、まとめて全員を正社員にしよう」と決断。具体的には、レンゴーサービスが雇用する派遣社員を本人の意向を確認した上で転勤の可能性があるナショナルスタッフと転勤のないローカルスタッフに分類。賃金水準や福利厚生などはそれまでの経験年数や年齢などを勘案し決めることにした。

09年4月に「派遣の正社員化」を始めると発表すると、経済界やマスコミから大きな反響があった。1000人の正社員化は「大変な出費」と心配される向きも多かったが、コスト増は4億〜5億円。この程度なら社員のモチベーション・アップ(士気高揚)による生産性向上で十分カバー可能と私は踏んでいた。

実際「派遣の正社員化」以降、段ボール加工のロス率がみるみる改善した。従来派遣社員と正社員は作業着の色や帽子のマークが違い、休憩中も別々。不良品が出ても派遣社員は「余計なことは言うまい」「自分たちは関係ない」といった感じだったが、正社員化で雰囲気は一変した。

例えば、段ボール工場で給紙係だった旧派遣社員は完成品の形に合わせて給紙をすることで原紙シートの端切(ロス)を削減した。段ボール加工のロス率は13〜14%から10%弱に低下。4ポイントの改善は数億円のコスト削減となる。

予想外の効果もあった。生活基盤が安定した旧派遣社員が次々に自宅を建て始めたのである。正社員になると会社の住宅購入補助制度が使え、さらに銀行でローンも組めるようになる。派遣契約では若者が結婚もできず、それが社会問題にもなった。彼らは正規雇用になったことで家族を持ち、さらに自分の家を建てるようになった。北海道や九州で住宅購入補助制度の申請が続いていると聞き、ささやかながら地域経済活性化にも役に立ったかなと思った。

家族といえば、06年に増額した出産祝い金も話題になった。それまで1人目が1万円、3人目が5万円といった制度だったが、これを1人目が2万円、2人目が5万円、そして3人目以降は1人につき100万円に引き上げた。

この制度改定を検討した会議では当初「3人目は30万円に」「いや、やり過ぎ。10万円でいい」といった議論だったが、私がつい「みみっちいことを言うな。100万円くらい出したらどうや」と口を挟んだら本当にそうなってしまった。効果はてきめん。3人目以降の祝い金はそれまで年10人程度だったのが、一気に30人くらいに急増した。

一人100万円で30人なら計3000万円の出費。個人なら大金だが、会社としてその程度の負担はたいしたことはないと私は考えている。それよりも子供が増えて「やるぞ」と勤労意欲を上げてくれる方がはるかに望ましい。

社員にインセンティブを与え労働の価値を引き上げることが、結果として企業の持続的な発展に結びつく。そうしたことを常に考え続けるのが経営者の仕事だと思っている。

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(27)東日本大震災  仙台工場 津波で壊滅 「雇用守る」即座に移転先探し

2011年3月11日午後2時46分、東日本大震災が起きた時、私は伊丹から羽田に向かう航空機内にいた。着陸時間が近づくと機長から「羽田空港が混雑していてしばらく上空で待機します」とのアナウンス。その後富士山付近をぐるぐる旋回し始めた。

「ただ事ではない」と私は直感した。結局、搭乗機は引き返し、午後4時半ごろに伊丹に帰還。空港ロビーで初めて大地震と知り、急ぎ中之島の本社へ戻った。会議室で幹部が対応に当たっていたが、仙台工場(仙台市宮城野区)と連絡が取れないという。

その頃、各地を襲った津波の一報が入り始めた。仙台工場は仙台港に隣接する臨海部にあった。不安が募る中、午後7時頃にようやく仙台工場長から連絡が入った。約130人の社員は全員無事。ただ残念なことに、協力会社の社員1人が亡くなられた。

1週間後、私は新幹線と車を乗り継ぎ仙台入りした。現場は惨憺たる状況。工場の従業員は地震で一度避難した後、様子を見に戻った時に津波が到来したという。トラック十数台が流され、工場の1階が水没。段ボールシートからケースまで一貫生産していた機械設備は損傷し、使いものにならなくなっていた。

「修復不能」と即座に判断した。仮に設備を一新し操業を再開してもまた津波にやられる可能性がある。ただ、ここからの撤退は考えなかった。共に働く仲間の雇用を守ることが最優先。そのためには一刻も早く新工場を建て、稼働させなければならない。

「時間との勝負」ということは強く意識した。仙台工場の従業員は一時的にレンゴー傘下の他工場で働いてもらうが、その間、家族とは離れ離れになる。新工場の操業開始が遅れるなら、それだけ離散状態が長引くことになる。

もう一つ、忘れてならないのは飲料や食料、日用品など生活必需品を運ぶ手段として段ボールが不可欠なこと。天災に見舞われた地域に向け、これらの品々を工場で生産しても、段ボールでパッケージ化し被災地に向けて大量輸送できなければ意味がない。

東日本大震災には間に合わなかったが、16年の熊本地震以降、高齢の被災者らの体調管理に有効な段ボールベッドの需要も高まっている。段ボールなくして地震や豪雨の被災地の復旧・復興は今や考えられない。段ボールの供給体制を隙間なく整備しておく使命が我々の業界にはある。

さて新工場である。移転先はすぐに見つかった。内陸部の宮城県大和町にある工業団地で近くにトヨタ自動車系の車載電池工場などがある。私は宮城県知事の村井嘉浩さんに掛け合い、大急ぎで建設許可を取得。さらに施工を請け負う鹿島の中村満義社長(当時)に「細かいことは言わないから、必ず1年で完成させてほしい」とお願いした。
震災から1カ月に満たない4月8日、レンゴーは大和町への仙台工場移設計画を発表した。実は、中村さんには内々に「来年の私の誕生日までになんとか」と思いを伝えていて、文字通りの突貫工事でそれが実現した。12年3月15日、73歳の誕生日に新仙台工場の起動式が行われた。

戦国武将の毛利元就は故郷・安芸の居城である吉田郡山城の改築の際、人柱の代わりに「百万一心」と刻んだ石碑を普請現場に埋め、作業の無事を祈願したとされる。その故事に倣い、新仙台工場用地の一角に「一心の塔」と名づけたモニュメントを建てた。皆が心を同じくして力を合わせれば、何事も成し得るという思いを込めたものである。

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28)環境への配慮 太陽光で超エコ段ボール 目先の業績より未来見据えて
 

東日本大震災後、東北の段ボール生産を支えたのは福島矢吹工場(福島県矢吹町)である。旧郡山工場(同郡山市)の移転拡張のため県南西部矢吹町に約14万平方メートルの敷地を確保したのが2008年4月。新工場完成は震災9カ月前の10年6月だった。

新工場は約9千枚の太陽光発電パネルで消費電力の3分の1を賄う最新鋭のエコ工場。ボイラー燃料は液化天然ガス(LNG)で建物も高断熱構造。旧工場に比べ二酸化炭素排出量を約4割抑えた。

再生可能エネルギーには早くから着目。07年に新京都事業所(京都府長岡京市)に段ボール業界で初めて太陽光発電設備を導入。福島矢吹工場では「もっと先行しよう」と考え、太陽光パネル市場で鼻息の荒かったシャープの町田勝彦会長に「一緒にやりましょう。イメージアップにもなりますよ」と働きかけた。

投資額は約115億円。従来より1〜2割膨らんだが、得意先の飲食品、電気製品などのメーカーは環境問題に敏感でレンゴーのブランド力向上を考えればお釣りがくる。新工場のキャッチフレーズは「軽く、薄く、二酸化炭素発生量も少ない超エコ段ボールを生み出す工場」とした。

同じ福島県内で南相馬市にある子会社の丸三製紙は震災後3カ月の操業停止を余儀なくされた。設備の損傷は少なかったが、福島第1原子力発電所から約25キロの距離にあり、放射線量の影響を見極めるのに時間を要したからだ。

11年6月の操業再開にはレンゴー金津工場(福井県あわら市)で生産している吸着素材「セルガイア」が貢献した。吸着効果のある鉱物ゼオライトの結晶をパルプ繊維内に人工的に作るもので、抄紙機で使う水のタンクなどにセルガイアを入れ、浄化する仕組みを採用。丸三製紙の操業再開時には、全国に散らばっていた従業員約250人はほぼ全員が戻ってきた。

金津工場は、遡ること44年前に私がレンゴー傘下入りの橋渡し役をした旧福井化学工業の流れをくむ。もともと技術力に定評があったが、親会社の安宅産業が破綻したためレンゴーとの縁ができた。

実は、同じように福井化学に由来する技術で開発が進み、私が注目する製品がある。金津工場と並び福井化学の主力だった武生工場(福井県越前市)は今、木材由来素材のセロハンを主原料とする商品の開発に傾注している。

同工場は1934年に福井化学の前身企業が立ち上げた東洋セロファンの工場として発足。戦前から包装材として普及していたセロハンは一時耐久・耐水性に優れたプラスチックフィルムに市場を奪われたが、昨今の脱プラスチックの流れを受け、使用後に自然分解し、環境に優しい素材として見直されている。

私の社長就任時、レンゴーの経営陣の大半が武生工場をリストラ対象と考えていた。古株の役員が異口同音に「あそこはもういいでしょう」という。ただ、透水性のあるセロハンには人工透析向けなどの需要が見込めたほか、ライバル他社が次々に製造から撤退していたため「なんとか生き残る道があるのではないか」と私は考えた。

セロハンの技術を応用したセルロースビーズ製品は近い将来、化粧品や歯磨き粉などに使われているマイクロプラスチックビーズの代替素材になると見られている。

目先の業績に翻弄され、安易なリストラに走れば、未来の稼ぎ頭の芽を摘むことになりかねない。あの時、武生工場を残して本当に良かったと思っている。

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(29) 夜遊び 入社後すぐ北新地通い レンゴー歴代トップも贔屓に

私の話も終盤になった。今回はアフターファイブの出来事を振り返ってみよう。高度成長期に商社マンだった私は「得意先との付き合い」を免罪符に夜の会合は人並み以上に頻繁。「飲む」「打つ」は今でも盛んで、このうち「打つ」方は大学時代に雀荘通いが始まり、かれこれ半世紀以上。ただ私の雀風は勝負は二の次。酒を飲みながらおしゃべりをするのが何よりの楽しみだ。

住友金属工業(現日本製鉄)社長だった下妻博さんの雀風は私とは正反対。酒は一滴も飲まず、常に真剣勝負だった。戦績はその気構えに比例し、のんびり屋の私はいつも引き立て役になった。
2年先輩の下妻さんとの付き合いはマレーシアのぺトロナスとの鋼管商談がきっかけ。2000年に共に社長に就任した時、私を訪ねて来て「社長として何をやるべきか」と長時間話し込んだことをよく覚えている。残念ながら5年前に亡くなられた。

三井住友銀行初代頭取の西川善文さんとの付き合いも長い。摂津板紙時代の初対面の話は前に紹介したが、その後しばらく接する機会がなかった。頻繁に夜の会合を持つようになったのは私の取引先だったレンゴーの担当者が西川さんと阪大の同期で、3人で盃を交わすようになってから。西川さんが大蔵省(現財務省)担当、いわゆるMOF担だった時には密談の場と思われる東京・銀座の高級クラブに連れて行ってもらった。

ただ、私の本拠地は何といっても大阪・北新地である。レンゴーとの関わりも深く、創業者の井上貞治郎が贔屓にしたお茶屋「鶴太良」は今も健在。終戦後に聯合紙器(レーンゴーの前身)が宣伝用に制作した衣装箱のポスターのモデルは割烹「ふじ久」の当時のおかみさんである。

17世紀後半以来の歴史を持つ北新地に初めて足を踏み入れたのは入社間もない頃。出向先の摂津板紙の創業者、増田義雄さんは船大工町にあった料亭「しまたけ」の旦那(オーナー)で1日の仕事が終わった増田さんをそこへ送り届けるのが日課だった。
店に着いて一息つくと、増田さんは近隣の店の名を数軒挙げ「今日はご苦労さん、そのあたりへ行ってうさを晴らしてこい」と送り出してくれる。店には連絡が入っていて、勘定を請求されることはなかった。20代初めの頃から私が北新地に頻繁に通えたのはこうしたからくりがあったからなのだが、事情をよく知らない一部の同僚たちからは「大坪は何か良からぬことをやっているのでは」とウワサを立てられたこともあった。

私もご馳走になりっ放しだったわけではない。入社2年目で初めてもらったボーナスは3万円。当寺の住友商事は小切手て支給していた。喜び勇んで増田さんに報告に行くと「若い者がこんなん持っとったら毒や」と言うなり、小切手を取り上げられてしまった。正確な貨幣価値は分からないが、今なら10万円は下らない感じだ。
もちろん、増田さんにお世話になった勘定に比べれば微々たるもの。私が出向を解かれ住商に復帰してからも、たまに思い出すたび「あの小切手は……」と話を振るのだが、返してはもらえなかった。

87年7月17日、増田さんはこの世を去る。91歳の大往生だった。告別式では様々な思い出が去来し、若き日に頂いた言葉の数々が胸に響いた。遺影の前で手を合わせながら「あの小切手は増田さんへの香典になりましたね」と心の中でつぶやいた途端、涙が止まらなくなった。

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(30)人との縁 信頼に応える心 貫いて 情のない経営は評価に値せず

妻の圭子は旧姓櫻井。京都生まれの快活な女性で半世紀以上前に出会った時はさる企業のソフトボールチームの選手だった。馴れ初めを聞かれ「くたびれていたので拾ってやった」などと言おうものなら大変、「何を言うの。寂しそうだったから慰めてやったのよ」と返される。「会社では社長、家では平社員」というのが大坪流だ。

2人の娘はサラリーマンと結婚し子宝に恵まれた。5人の孫のうち男が4人。高校や大学でサッカー選手として活躍中の子もいる。スポーツの才能は私たち夫婦のDNAかもとひそかに自惚(うぬぼ)れている。唯一の孫娘は小学校の頃から歌やバトンダンスが好きで将来の夢はタカラジェンヌだったが、それを実現した。2011年に宝塚音楽学校に入学した99期生で、花組の男役。名前を帆純まひろという。

来し方を振り返って思うのは人の世を取り結ぶ縁のこと。私が入社2カ月で出向した摂津板紙をもう一つの得意先だったレンゴーが救済合併する。その筋道をつくった私が新生レンゴーの社長としてスカウトされ、2つの組織の融合に心を砕くというのはいかにも因縁めいた話である。

旧福井化学工業のレンゴー傘下入りの話を繋いだのも私で、その福井化学の流れをくむ金津工場(福井県あわら市)で製造した吸着素材セルガイアが原発事故後の丸三製紙(福島県南相馬市)の操業再開に役立った。丸三製紙も私の住商時代の得意先。この会社から設備更新の資金協力を求められ、稟議(りんぎ)書を持ち役員を訪ね歩いたが、反対する財務担当常務の米津武彦さんの説得が難航し、承認の印鑑を逆さまに押された話は前に紹介した。

こんなふうに私が関わった案件は次々に話が繋がっていく。これを偶然と考える人もいるだろう。だが、人生の流れを変えた出来事を振り返ると、その背景には、必ずといっていいほど過去に私と縁のあった人々の存在がある。

様々な人たちの縁は海外にも広がる。レンゴーは16年、自動車部品や航空機部品などの梱包に使う重量物段ボールの世界最大手トライウォールホールディングス(ケイマン諸島)を傘下に収めた。

トライウォール社オーナーだった鈴木雄二さんとは若い頃からの付き合いで「自分の会社を最後に託すなら大坪さんに」とM&A(合併・買収)に応じてくれた。このエピソードを耳にしたのか、続いて欧州企業から親会社になってほしいとの要請があった。ドイツの重量物段ボール大手トライコーパッケージング&ロジスティクスである。

トライコーの最高経営責任者(CEO)であるマーティン・ミュラーさんは創業2代目。息子さんがいるが、後は継がないため、会社の将来をレンゴーに託したいという。「ミスター大坪のことは記事で読んで信頼できると思った」と初対面の私に語りかけてきた。

リーダーに必要な要素は5つ。モラル(道徳)、エシックス(倫理)、フィロソフィー(哲学)、センチメント(感情)、シンパシー(惻隠(そくいん)の情)である。人は信頼されたらそれに応えようという気持ちが働く。情のない経営は評価に値しない。そんな思いが海外の人にも理解されたことがうれしかった。

紙数が尽きた。1カ月間私の話にお付き合いいただき、深く感謝したい。世界の明日を担う人々に私の経験が少しでも参考になったならば幸いである。