毎日新聞 2009/4/27

時代を駆ける 江上剛

一勧の仲間が次々特捜に…泣いた

野村証券など大手証券と第一勧業銀行(現みずほ銀行)のトップらが逮捕された総会屋利益供与事件。97年5月20日午前8時59分、東京・内幸町の一勧本店に東京地検特捜部の係官約100人が入り、家宅捜索に着手した。この事件を背景にした小説「非情銀行」などを著した江上さんは、このとき一勧の広報部次長だった。事件を基にした高杉良氏著の小説と映画「金融腐蝕列島」のモデルでもある。

 驚くほど落ち着いてましたね。実は事件前年の96年4月に、問題の不正融資を知ってました。ある記者が「これどう思う?」と言って「小甚ビルディング]という会社の謄本を持ってきたんです。総会屋の弟が経営する企業への40億円に上る融資を示している。実際には延べ400億円もあったんですけどね。一応返済されてるので「別にいいんじゃない」と。その時はごまかしましたが、「これが表に出たら、銀行は確実につぶれる」と嫌な予感がしました。
 代々の頭取がこの総会屋と親しいことも分かりました。でも、調べ始めると、総会屋の窓口となる総務部はとぼける。ある上級幹部は「足を突っ込むな!」ですよ。

6月には、5600万円の別の総会屋側への融資が新聞ですっぽ抜かれて、緊急会見には200人も記者が集まった。

 それで、後に逮捕されるトップに忠告したんです。「実は総会屋への40億円の問題融資が隠れています。5600万円でこの騒ぎですから、大変なことになります。そのときには辞任する覚悟を決めてください」と。
 それでも役員らは本気にならない。97年3月、野村証券がこの事件で立件され、野村での株取引資金が一勧からの融資と分かり、ようやく調査委員会ができました。でも、会議で出された意見書は「バブル期にはあり得る融資」「銀行に強制捜査は入らない」。あまりの能天気さに腹が立って「待ってくれ」と叫ぶと、首脳は「黙つてろ」です。泣きましたよ。1週間後に捜索が入ると聞いてましたから。

事件前後から一勧再生に取り組んだ「改革4人組」の一人だった。7月までに、会長ら11人が商法違反(利益供与)で次々と逮捕される。

 相談役には退陣してもらい、会長も頭取も辞めてもらって上層部を替える。問題融資は洗いざらい公表する。企画部副部長だった後藤高志さん(現西武ホールディングス社長)ら「4人組」で改革を進めました。近藤克彦頭取(当時)が会見で、総会屋との関係を断ち切れなかった理由として使い、後に映画の題名にもなった「呪縛」という言葉は、私が考えたんです。
 でも6月に入ると、目の前から仲間が、先輩がどんどん特捜に連れて行かれる。「おれ、明日逮捕されるから」と言って夜まで仕事していた専務が、翌朝車に乗って地検に淡々と向かう。これはつらい。このときには、また泣きましたよ。

少しだけ伏せた宮崎遺書

ー 総会屋事件までは、行内の不祥事をもみ消すのも大きな仕事だった。これを後に悔やむことになる。

 自分で言うのも何ですが、私は「隠ぺいの天才」でしたね。例えば94年6月、ある都内の支店長が失跡・自殺した事件があったんです。ゴルフ場にいた私はすぐに戻り、本店に役員らを集め、遺体の引き取り、遺族への対応、警察発表の内容把握などを「指示」しました。実は、背後には不正融資があったのですが、これにはフタをした。上司には「お前、怖いね。慣れてるね」なんて言われたんですが、人事部時代(90〜94年)の数々の不祥事処理で培った能力でした。
 役員の女性問題はもみ消し、融資を巡るスキャンダルも闇に葬る。ちょっと得意になっていたんですが、実はこれらが全部、行内で腐っていたんです。
 不祥事は総会屋などの窓口となる総務部の案件となり、こうした「腐ったネタ」をかぎつけた総会屋らが総務部を訪れ、金を受け取る。ハイエナのようにね。渡すのは全部裏金ですよ。腐敗の延長線上に、あの総会屋事件があったんです。がく然としましたね。不祥事の対応には「ドラキュラの法則」というのがあるんです。ドラキュラは光を当てれば死ぬ。明るみに出さないとだめなんです。隠ぺいしたり、もみ消したりせずに、公表することが大切なんです。隠せば腐る。そして総会屋らへのエサになるんです。

ー 総会屋事件では97年6月29日、宮崎邦次元会長が自宅で首つり自殺した。午後6時15分、搬送先の杏林大学病院(東京都三鷹市)前で、広報部次長だった江上さんは「残念ですがお亡くなりになりました。コメントする言葉を思いつきません」と涙ながらに発表した。つらい広報だった。

 事件の最中でしたが、6月27日の株主総会を初めてテレビモニターで公開し、何とか乗り切ってほっと一息でした。毎日のように記者が家に来ていたので、応対に疲れた妻を旅行に出して、日曜日の29日午前中、テレビ朝日の「サンデー・プロジェクト」を見ていました。その速報で、宮崎さんの自殺を知ったんです。秘書室は教えてくれなかった。「この野郎」と思って病院に駆けつけました。
 夕方になって息を引き取ったとき、上層部は「マスコミには伏せろ」と言う。武田信玄じゃあるまいし。現実には、警察情報でマスコミは知っていたので、すぐに発表し、遺書の内容も公表しました。
 「大変こ迷惑をかけた。身をもって責任を全うする」というものでしたが、実は少しだけ伏せました。「佐高さんにほめられる銀行にしてほしい」という一節。経済評論家の佐高信さんと何か話したんでしょうね。その佐高さんが5年後、私が書いた最初の小説の推薦文を書くことになる。不思議な巡り合わせです。
 もう一つ変えたものがあります。宮崎さんは東京地検特捜部の調べについて「身に覚えのないことばかり聞かれる」と言っていました。でもこれでは特捜を刺激する。そこで、報道陣には「記憶のないことばかり聞かれると言ってました」と話したんです。

ー この5日後、前会長が逮捕され、一勧への捜査は終結へ向かう。でもここから、新たな戦いだった。

 7月になって、業務監査統括室副室長兼社会的責任推進室長になって、総会屋や暴力団への融資を洗い出し、関係断絶に向けて動き出しました。
 金は与えない。購読紙は全部やめる。線引きが難しいので、新聞社系の週間誌だってやめた。受けた圧力は苦情や脅しなんてもんじゃない。誰も助けてくれない。そんな中で「小畠(江上さんの本姓)だけに命はかけさせられない」と表に出て対応してくれたのが室長だった「改革4人組」の一人、後藤(高志・現西武ホールディングス社長)さんでしたね。総会屋らへの融資をリストアップし、回収も進めました。警察からはモデルケースとして評価されたんですが「改革」は後に、どんどん劣化するんです。

 

「非情銀行」 行内ではばれず

ー 99年8月20日、第一勧業銀行、日本興行銀行、富士銀行が経営統合すると発表した。後のみずほフィナンシャルグループだ。統合交渉が本格化する中、江上さんは00年1月、本店から高田馬場支店長に転出する。同支店長時代に最初の小説「非情銀行」を書き始め、作家への一歩を踏み出す。

 総会屋事件ではトップ以下11人が逮捕され、銀行を去りました。「改革」はうまくいったと思います。ですが、一段落して落ち着いてくると、揺り戻しが来るんです。結局、一番反省した人、つまり逮捕された人が銀行からいなくなるので、反省が生かされず、そのDNAが失われる。
 「改革4人組」と言われて、役員にもずけずけものを言う私に「焼け太り」とか「何様だ」という批判が出るようになった。総会屋事件の裏には、第一勧業銀行の旧第一、旧勧業の系列が残り、対立してきた「スキ」もあったので、「みずほ」になるにあたってはこれは解消したいと考えた。

ー だが、行内には、合併交渉の中で一勧の利益を第一に考える風潮があった。

 私は「富士のシステムの方が優れているから、そちらに合わせたらいい」などと言う。「小畠(江上さんの本姓)は合併に邪魔だ」という声があるのは知っていました。
 「本店でやれることは分かった。支店でできるかどうかだ」。役員にこう言われて高田馬場支店長になったんですが、私は「体よく出されたな」と思いました。
 もちろん仕事は一生懸命やりました。地域の中核的な企業の再建もしたし、業績を上げて支店職員のボーナスだって上げた。でも、わだかまりはある。それに気づいた妻が、ある日言ったんです。「このままだとぬれ落ち葉になるわよ」って。そこで、どういうわけだか、昔、学生時代にちょこっと書いていた小説でもやろうかとなったんです。

ー 00年3月、新宿住友ビルで開かれていた松成武治さん(当時「オール読物」編集長)の小説講座の門をたたいた。400字詰め原稿用紙80枚のコース。総会屋事件をモチーフにした「ささやかな抵抗」という企業小説を書いた。

 思いのほか評判がよくて、勧めもあって小説現代新人賞に出したら、賞には入らなかったけど、本に題名と名前だけ出たんです。気をよくして、かつて取材を受けたこともある高杉良さんに読んでもらおうと家のポストに入れたら、これが新潮社に知れて、小説新潮の00年6月号に出ることに。
 まだ銀行員でしたから実名を出すわけにもいかないので、ペンネームを考えようと。とりあえず妻の旧姓と大好きな高杉晋作を合わせて「近藤晋作」で行きました。
 面倒を見てくれたのが、編集長の校條剛さん、単行本担当者の上田恭弘さんと江木裕計さん。実は「江上剛」という名前は、この3人から1字ずつもらったんです。

ー 数力月後、江木、上田両氏と神楽坂で飲んでいた際「続きを書いてほしい。読者はあの後を読みたがっている」と言われた。

 毎月100枚書けというから後先考えず「分かりました」と。
 毎朝4時に、猫のさくらが起こすんです。息子が拾ってきた8歳のオスなんですけどね。7時まで毎日3時間書いて出勤という生活ですね。100枚になると、支店を抜け出して、高田馬場から地下鉄で神楽坂へ行き、坂を上って新潮社にいそいそと届ける。でも、結構冷たいんですよ。「その辺置いといてください」なんて。読んでるのかどうかも分からない。
 それでも、1000枚になると江木さんが「ご苦労様でした」って。これが「非情銀行」になる。総会屋事件そのままなので、行内では私を疑う声もありましたが「小畠ならもっと過激に書くはずだ」と、ばれませんでした。
 でもある日、日本橋の丸善に入って、自分の本が積まれていたのを見たときには、何か怖くなって回れ右しちゃいましたね。

 

井伏鱒二さんとつくだ煮を食べ感涙

ー 銀行の支店長をしながら小説を書いていた江上さんにはもともと、作家になる素地があった。井伏鱒二(1898〜1993)との交流である。72年、早稲田大政治経済学部に入学以来、付き合いは井伏が亡くなるまで続いた。

 高校のとき文芸部にいたこともあって、1年生のとき文学部教授、紅野敏郎さんの「作文論」を取りました。政経学部なのにね。「近代文学の作家について書きなさい」という宿題が出て、何の気もなく親しかった同級生の交易場修君と「早稲田の先輩の井伏鱒二さんに会ってみたいな」ということになったんです。
 当時は学生運動が盛んで、ある日友人が「革マルが攻めて来るんで助けてくれ」と言うんです。どういう経緯か、僕と交易場君が守ることになった。攻めてくるという日、腹の周りに週刊誌や新聞紙を入れてヘルメットもかぶって、待ちました。「生きてたら、井伏さんちへ行こう」なんて言いながらね。

ー 何事もなく終わり、、井伏さん宅に電話を入れた。

 ご本人が出て「来なさい」と言う。「豪邸だったら入りにくいなあ」なんて言いながら、荻窪駅で降りて歩いて10分ほど、杉並区清水というところのお宅へ行きました。古い木造の平屋で、名刺の裏に「井伏」と書かれ画びょうで留めてある。ちょっと安心して小さな庭を横切って玄関に入ると、丸くて小さな74歳の先生は「上がりなさい」と言いました。
 昼過ぎだったでしょうか。近くの丹波屋からうなぎを取ってくれて。うまかったですね。ジョニ黒も飲ませてもらったなあ。チェリーの吸い方がまた粋でね。

ー 学生の身分で来たのは、太宰治以来だった。

 「太宰はピンクのリボンで原稿を結んできた」と言ってました。「あれは自殺じゃない」ともね。僕は原稿を見せるどころか、ときどきお邪魔して、当時ちょっとやっていた民俗学の取材旅行で仕入れた民話などの話をして、帰る。そんなお付き合いでした。
 やる気のない学生でね。単位を取れず卒業できなかった。そんな時、故郷からマツタケが送られてきた。井伏さんに持って行くと一緒に食おう」と言う。「僕には食べる資格がない」と断ると「じゃあ、つくだ煮にして取っとく」。翌年、就職が決まってあいさつに行くと「上がれ」と言って、そのつくだ煮を出してくれました。泣きましたね。そして革靴を2足買ってくれました。

ー 小学校時代、「毎日小学生新聞」に短歌を投稿して掲載されたこともある。

 何の話か忘れましたが、差別をなくそう、という人権の作文が入選したこともあります。中学校では、故郷の兵庫県山南町(現丹波市)は日本のへそだから、文化・芸術でも日本の中心に、などと買いて佳作になった。高校では文芸部で「汎羅の木」という同人誌に小説も書いてました。
 結構いろいろ書いたし、井伏さんのお宅で出版社の人と何度も会った。でも、そのころは、ただの一度も作家になろうと考えたことはないですね。

築地で「起死回生」に協力

ー 03年1月10日午前O時、みずほ銀行築地支店長だった江上さんは、自宅から人事部にファクスを送った。先着500人の早期退職申し込みである。

 501人目じゃ、しゃれになりませんからね。募集日になった瞬間、早期退職を申し込んだんです。
 02年のみずほ銀行発足の日、大規模なオンライン事故がありましたよね。あれは起こるべくして起きた。他行のシステムが優れていればそれを採用すべきだった。なのに合併前の第一勧業銀行などは、自行のプライドを大事にし、自行の利益だけを主張した。そして事故は起きた。
 あの総会屋事件で反省した人は銀行を去り、僕が「ポツダム役員」と呼ぶ“戦後”の役員に、あの事件の教訓は結局、引き継がれなかったんです。
 この年の12月25日、支店長が集められて会議が開かれ、1兆円増資のため顧客から金を集めるよう命じられました。築地支店管内の企業の多くは当時、資金繰りが大変でした。だから「優先株を買ってくれなんて言えるか!」って文句言ったんです。そしたら「金を集められない支店長は失格だ」と言われた。ガックリしましたね。何か終わった感じがした。そこに、早期退職募集の張り紙が目に入ったんです。

ー 実家も資金繰りには苦労していた。それだけに、銀行への思いはあった。

 僕の実家は兵庫県山南町(現丹波市)の山奥で、ツチノコが出るようなところでした。大正15(1926)年生まれの父は、山から榊やしきみを切ってきたり、正月の門松を作るような商売をしてました。オート三輪で大阪まで売りに行く。集金してきた時は座敷にお札が山と積まれ、父が「触れ」なんて言うんです。でも、給料などの支払いが終わると残らない。心配になって「学校行かれへんなあ」なんて言うと「大丈夫。取ってあるから」と母は返すんですが、方々で借金をして大変だったようです。
 だから、銀行へ就職が決まったとき、父は「お客さんには、目の前に落ちとる5円玉を拾うように頭下げんといかん」と言いました。僕はそれを守ってきた。最後の築地支店長のときにも、懸命に地元企業を支え、再生させた。これが、銀行の貸しはがしにあらがい、事業再生にかける男たちの闘いを描いた2作目「起死回生」の土台になったんです。銀行内部の問題をえぐったことで「銀行小説の『白い巨塔』」なんて言われた作品です。刊行は3月25日で、退職は3月31日付。これで初めて、作家になるんですね。

ー 銀行を辞めたくなるまで作家になるつもりはなかつた江上さんだが、いろいろなものを書いていた。

 学生時代には、ストリップ専門新聞の「芸報ジャーナル」に記事を書いたこともあります。「浅草フランス座」のダンサー、浅草駒太夫さんの夫の故・佐山淳さんが編集長でね。18歳か19歳でしたが、原稿料は1枚4000円だから、実は今とあんまり変わらないんですよ。横浜の鶴見なんかに行って、楽屋でダンサーの取材をする。「ひも」が持ってくるすしをごちそうになったり、酒を飲ましてもらったりもしました。
 佐山さんは「(原稿に)情が入りすぎて哀れすぎる」って言うんですよ。「女優はもっと乾いて仕事している。もっとウキウキするような原稿を」と注文されるんだけどできませんでしたね。タダで見る喜びもなくなって、いつか辞めてました。

ー 銀行に入ったのは、たまたま同じクラスの女子学生の知り合いが一勧のリクルーターだったからだ。

 「小畠(江上さんの本姓)君を何とかしてあげて」と言ってくれて、面接を受けることになった。面接者が「銀行をどう思う」と聞くから「親のかたき」と答えたのを面白がってくれたようなものですよ。一生懸命やったけど、入った理由なんてそんなものでした。
 結局は、49歳になって、作家という仕事を自分で選んだ。今は「書くことがこんなに楽しいとは」と思いますね。

 

自分を貫く人 小説で応援

ー 江上さんは、銀行員時代と同じように、毎朝4時に飼い猫のさくらに起こされて、1日8時間は机に向かう。現在抱えている連載は小説5本とエッセー10本。出版した本は20冊に上り、一部は文庫化もされた。人気経済小説家としての地位を築いた。

 怠けようと思えば怠けられる。だからサラリーマンの時と同じ労働時間を確保してるんです。月に400字詰め原稿用紙で300〜400枚は書きます。
 昨年8月に東京都杉並区の自宅を改装したんですが、いまは一人息子が独立して妻と2人暮らしです。寝室だけ確保して、あとは家全部を吹き抜けにして、ロフトを書斎にしています。でも、銀行を辞めて作家になった03年当時は、2階の廊下の隅に机を置いて書いていました。
 その後少し“出世”して個室、といってもベランダに面した3畳くらいの小部屋ですが、そこに移ったんです。でもその部屋は、取り込んだ洗濯物を置くところで、下着やシャツに囲まれて書いてました。雑誌なんかの取材が来ると恥ずかしくてね。でも書ける場があるだけでもありがたい。

ー 小説とは「虚実の皮膜」だと思っている。

 タイヤ脱落事故と大手自動車メーカーのリコール隠しをテーマにした「空飛ぶタイヤ」という池井戸潤さんの作品があります。第136回直木賞の候補作になって、このときは「該当なし」でしたが、選者の中には「これは小説ではない。創造力がない」という意見があった。でも、この作品には情報性があり、人間の悲しみや面白みが描かれている。僕の作品と同じ感じがあるんですよね。
 僕の書くものは、ジャンルでは経済小説ということになってるけど、例えば「非情銀行」は第一勧業銀行の総会屋事件が下敷きで、やはりとてもリアル。僕はこれも小説だと思っているんです。そして僕の本を読んでくれる人は、これを欲してるんですよ。
 僕の原点は、組織人として懸命に生きながら、つぶされたり亡くなった人の思いを代弁すること。やはりあの総会屋事件で逮捕された人、自殺した宮崎邦次元会長らへの思いが強い。組織防衛のために総会屋と癒着せざるを得なかった。そして逮捕されたけど、みんなとても立派な人たちだった。成し遂げられなかった未来を書き残したい。ジャーナリストだって小説家だって写真家だって、みんな何かを残したいと思って、伝えたいと思って仕事してるんでしょう?

ー でも、組織は冷たかった。自分のやってきたことがすべてだった。

 小説家としてやっていけるかなあ、と思っていたころ、ある出版社の人がこう言いました。「江上さんの経歴は面白い。大銀行で26年も過こし、総会屋事件を闘い抜き、学生時代に井伏鱒二さんと交流がある。絶対いけますよ」って。確かにそうかもしれない。けど、兵庫の田舎に生まれて、早稲田の学生として5年過ごして、そして銀行員になって経験してきたことが、僕の小説の土台になったということなんですよね。
 最初は銀行の何分の一かの収入でしたが、広報部時代に付き合った新聞や雑誌の記者さんたちが「コラム書けば」などと言って仕事を持ってきてくれました。
 支店長時代のお客さんも、仕事を紹介してくれた。おかげで食えた。結局「組織」は助けてくれない。

ー 企業の不祥事が相次ぎ、総会屋事件の直後に起きた金融危機が、再び訪れた。大事件にもまれた元銀行マンは何を書くのか。

 今の時代は不確かで、先が読めない。就職も大変です。こんなとき、既に勤めている人も新人も、会社色に染まりやすいんですよね。でも、こんなときこそ決してあきらめず、自分を信じ、貫いてほしい。会社を自分色に染めるくらいにね。そして、そんな人を僕の小説で応援したい。井伏さんはいつか「書くなら、方三寸に来るものを書きなさい」と言ってました。腹にじんと響くものを、という意味でしょうか。そんな小説を書いていきたいですね。

えがみ・ごう
 本名・小畠晴喜(こはた・はるき)。54年1月7日、兵庫県丹波市(旧山南町)生まれ。早稲田大政治経済学部卒業後の77年、第一勧業銀行(現みずほ銀行)に入行した。97年の総会屋利益供与事件当時は広報部次長で、経営刷新に奔走した「改革4人組」の一人。築地支店長だった02年に最初の著作「非情銀行」を出版し、翌年退職した。