日本経済新聞 2005/4/3-

技術遺産を訪ねる 

@韮山反射炉
A関谷の地震動模型


@韮山反射炉
 幕末、洋式製鉄の始まり

 黒船来航に揺れた幕末。外国勢力に対抗し、鉄製の大砲を作るため、反射炉と呼ばれる金属溶解炉が各地に作られた。静岡県伊豆の国市の韮山反射炉(1857年完成)は当時の形をほぼ完全に残す。 

 炉の上にそびえる煙突は約16メートル。炉は耐火れんがで作られ、天井がアーチ状に煙突側に向かって次第に狭くなっている。材料の銑鉄を置いて石炭などの燃料を燃やすと、炎と熱が天井で反射して材料に集まり効率的に鉄を溶かす。反射炉の名の由来がここにある。

 建設を指揮したのは、江戸の台場(砲台)作りに携わったことでも有名な地元の代官・江川坦庵。オランダの資料を参考にして設計した。約7年間で百門以上の大砲を鋳造したという。

 欧米では高炉の改良に伴って反射炉はいち早く衰退した。一世を風靡した製鉄技術を伝える反射炉が見られるのは今では日本だけだ。

    ◇ ◇ ◇
 技術や科学研究のルーツを江戸・明治期などの事物に探す。

 


国指定史跡『韮山反射炉』

http://www.usui.co.jp/jp/kanko/nira_hansharo.htm

名称   韮山反射炉
指定区分   国指定史跡(大正11年3月8日官報第2877号)
所在地   静岡県伊豆の国市中字鳴滝入268の1
所有者   国有(文部省所管)
管理者   静岡県伊豆の国市
敷地面積   南北約59m,東西約52m,面積約3,068u
年代   安政元年(1854)6月7日起工,安政4年(1857)完成

◇反射炉とは

Aで燃焼した炎と熱は弯曲した天井(B)で反射してCに集中する。ここに置いた銃鉄を溶解した炎は煙突(D)に吸い込まれていく。このため、この型の溶解炉を反射炉と呼ぶ。

◇反射炉の構造
 
 現在見えるのは、炉体と煙突である。炉は、連双2基(計4基)で湯口側で直交する。炉体は、外面が伊豆石積み、内部は耐火レンガのアーチ積みである。炉内部は天井がアーチ状に作られ、煙突側に向かってしぼられていて、炉床に置いた銃鉄に熱を集中させるための工夫がみられる。 炉の側面には、銃鉄を入れる鋳口と燃料を入れる焚き口が開けられ、背面には方孔(のぞき穴)の下に出滓口と出湯口とが開けられている。焚き口から投入された燃料は、ロストルの上で燃焼し、灰は下の灰穴に落ちるようになっている。
 出湯口(湯口)から出た湯(溶解した鉄)は、4炉を合わせて地下の鋳台に置かれた鋳型に流し込まれる。鋳型や鋳込まれた大砲は、鋳台上屋に付けられた滑車によって出し入れされた。煙突は耐火レンガ積みの3段構造で、内部は68cm角と狭い。高さは湯口側地表から15.6mで、この高さはふいごなどの人力によらない自然送風を確保するためのものである。炉の基礎は大玉石の2段積みで、その下に松杭を密に打ち込んで堅固なものとしている。

 炉体及び煙突に使用された耐火レンガは約2万数千個で、操業当時はシックイで表面を塗られた白亜の塔であった。反射炉は、オランダの「大砲鋳造法」の原図を忠実に模しているが、各所に改良・工夫した様子がうかがえる。

 我が国において反射炉が存在するのは、山口県萩市と韮山のみで、ほぼ完全な姿を残しているのは韮山のほかにない。また、産業革命が進んだ西欧では、いち早く反射炉から高炉に変わり、現在では世界唯一の産業遺産となっている。


A関谷の地震動模型 
  揺れを針金で「一筆書き」

 抽象芸術のオブジェ?ーー。ぐにゃぐにゃに曲がっているのは針金。1887年(明治20年)1月に東京で観測した地震の揺れの様子を時間を追って再現している。地震動模型と呼ばれ、世界の地震研究者の間で評判を呼んだ。
 考案したのは帝国大学(現東京大学)地震学教授の関谷清景。英国から招聘したミルン、ユーイングらが日本で創始した地震学を引き継ぎ、世界で初めて地震学の専任教授になった。
 このころの地震計は表面にススを付けた円盤を回して、細い針でひっかいて記録した。円盤に刻まれた東西・南北・上下動の記録をもとに、関谷は針金で一筆書きをするように地震の揺れを再現した。約72秒続いた揺れを時間で3つに区切り、左から順に並べている。
 写真は関谷が作った模型を手本に国内の企業が教材用に製造・販売したもので、国立科学博物館の収蔵品。英国の科学誌「ネイチャー」にも紹介され、地震国日本の研究成果を発信することにもなった。