ピレスロイドの開発

  住友化学社史より

  山本亮 「私と農薬」  日本農薬学会誌 創刊号(1976)

  西川虎次郎 (元住友化学専務) 「蚊遣り水」   医薬ジャ−ナル 1974.5   
      除虫菊、蚊取線香、ピナミン開発


住友化学工業社史より 

ピナミン 
 殺虫剤ピナミンの製造も、戦後開始された新事業の一つであった。
 戦後、大阪製造所では、復興とともに新分野の農薬部門へ進出を企てた。当社の嘱託であったわが国農薬学の権威
山本亮博士に種々意見を求め、農薬事業の創始には前もって技術者を養成することがもっとも必要であるとして、20年12月東京・京都両帝国大学にそれぞれ技術者を一名ずつ派遣した。
 京都帝大に派遣された松井正直は、かつて理化学研究所において、山本のもとで行なっていた除虫菊の花の有効成分の研究を継続した。除虫菊の主成分ピレトリソの化学構造は、スイスのスタウディンガー (H. Staudinger)、ルチカ(L. Ruzicka)、アメリカのラフォージュ(F. B. La Forge)らの長年にわたる研究によって、ピレトリンTおよびUが確認されていたが、さらにラフォージュらはこれらのほかにシネリンTおよびUが存在することを発見し、その構造を解明して、除虫菊の殺虫有効成分の全貌を明らかにした。ついで24年2月にその類縁化合物の合成法をも開発して特許を出願した。アメリカの殺虫剤協会はこれをアレスリンと名付けた。アレスリンは有望な新合成殺虫剤として注目を浴び、アメリカ政府はこれを国有特許として開放し、カーバイド アンド カーボン ケミカルズ社(Carbide & Carbon Chemicals Co.)ほか2社が生産にあたることになった。
 松井の研究もその間一段と進み、ラフォージュと同じピレトリンの類縁化合物(アレスリン)の合成に成功し、24年10月にその使用特許を含む一連の特許を出願した。しかし当社の出願は、アメリカの出願より半年余り遅かった。そこで松井は、予想される米国法とは別個の当社独自の方法の開発に努め、各工程にわたって特許を出願した。さらに類縁化合物の研究を行ない、25年にはフレスリンを含めてその特許件数は28件にも及んだ。
 アレスリンの合成は複雑で、約20に及ぶ工程からなり、また不安定な中間体を取り扱うため、他の部門と異なった技術が要求されたので、26年から27年にかけて、工業化のために、研究部と酉島工場の技術者が協力して集中的研究を続けた。その結果、合成工程の抜本的改良に成功し、アメリカの製品に対して、品質・コストともに競争できる見通しを得た。そこで27年2月に、アレスリンの試験生産を開始し、ついで翌28年3月、酉島工場に月産100キログラムの設備を設けた。そして28年8月厚生省の製造承認を得、ピナミン
(R)と名付けて、蚊取線香および殺虫剤メーカーに試験的に販売した。これが当社農薬事業の始まりである。
 この間、すでにフレスリンの製造技術も完成していた。これは速効性(ノックダウン性能)に特徴をもっていたが、当面は蚊取線香用に熱安定性に富むアレスリンの商品化を優先させた。

 酉島工場でのピナミン月産100キログラムの設備が完成した28年は、ちょうど除虫菊の豊作年にあたり価格は大暴落した。一方発売当初のピナミンは、濃い黄褐色の液体で、蚊取線香に配合したと.きの色合いが思わしくなく、また天然品の除虫菊との香りの違い、副原料との配合技術上の不安などが重なって、需要は全く伸びなかった。販売関係者は、ピナミンは天然除虫菊のように価格変動がなく、また熱安定性・揮散性にも優れているなどの利点をあげて懸命に啓蒙活動も続けたが、なかなか受け入れられなかった。
 ところが29年に入って、和歌山の大同除虫菊(現ライオンかとり)上山彦寿社長が、社内の反対を抑えてピナミンをとりあげ、みずからの発明品である蚊取線香製造機で線香を製造した。
 上山社長は父の事業を受け継いだ大正3年から蚊取線香製造の機械化に努め、昭和18年には特許をとるまでになったが、使用するには至らなかった。戦後は労務費の急騰や、食糧増産に伴う除虫菊生産の減少などから、上山社長はピナミンヘの切替えを推進しようとしたが、社内での支持が得られず、これも実施に至らなかった。たまたま洪水によって工場設備が全壊したので、この大改革に踏み切ったのであるが、その結果できあがった蚊取線香が、在来品よりも効力が優れているうえに、大きく労務費の節減ができた。これが次第に他社に伝わって、この新しい蚊取線香の自動連続製造装置は、にわかに業界を風靡することとなって、昭和30年には発明協会から発明賞が与えられた。この蚊取線香の機械生産方式への切替えが動機となって、ピナミンの需要は次第に増加した。
 またピナミンは、これまでの除虫菊に比べて価格が安定していて、計画的にいつでも入手できることが認識されて、需要は年々増大した。29年の大同除虫菊との大口取引きに続いて、30年には除虫菊の不作による大暴騰もあって、ピナミンの販売量は5トンをこえ、31年8月には設備を月産2.5トンに増強した。まことに上山社長の機械が現れなかったら、合成蚊取線香がこの世に出るのが著しく遅れ、また、ピナミンがつくられなかったら、彼の機械にも本格的活躍の舞台は与えられなかったであろう。
 一方、日本へ出願されていたアレスリンのアメリカ特許がこの前年に公告されたが、その特許権は範囲が著しく広く、当杜の製造法もそれに抵触することが判明したので、この特許の権利者であるアメリカのFMC社(Food Machinaery & Chemical Corp.)と交渉し、31年10月、特許実施権の導入契約を結んだ。(32年7月認可)

ネオピナミンの開発
 ピナミンは、蚊取線香製造技術の普及によって堅実に伸び、37年3月、酉島工場の生産能力を増強した。ここに至って線香用の天然除虫菊は、合成品のピナミンに全く置き替えられることになった。しかし、ピナミンは、蚊取線香(燻煙)用に適していたが、それ自体エアゾール(噴霧)にすると、速効性(ノックダウン性能)で、除虫菊の主成分ピレトリンに劣っていたので、鋭意研究を重ね、39年7月に、速効性で優るピレスロイド化合物を発見し、40年3月、ネオピナミン
(R)として発売した。このころから家庭用殺虫剤が、手押ポンプによる方法から、取扱いの簡単なエアゾールヘ移行しはじめ、ネオピナミンは急速に普及した。また海外出願の特許が相次いで確立されるにつれて、海外からの引合いも多くなり、輸出は増加した。

ピレスロイド系殺虫剤の展開
 ピナミンの売上げはその後も著しく増加した。これは日本人の生活様式が洋式化し、またテレビを中心とする一家団欒の一般的慣習が生まれ、蚊取線香の消費が増加したためであった。さらにピナミンが蚊取線香の原料天然除虫菊の欠点であった価格の投機的不安定性を完全に払拭したので、原料をピナミンに切り替えるメーカーが急増したためであった。
 ネオピナミソも発売以来、エアゾールの取扱いの簡便さから好調であった。また海外市場の開発にも力を注ぎ、自らピナミン原体の輸出に努めるかたわら、大手線香業者で結成された線香輸出協議会を通じて、ピナミン含有商品の優秀性の認識普及に努めた。
 このような努力の結果、46年のピレスロイドの販売は、国内向け72%、輸出向け28%となり、国内向けでは蚊取線香用63%、エアゾール用18%、電気蚊取用17%、その他であった。輸出向けは、当社による原体輸出が60%、線香メーカーによるもの40%の比率であった。
 しかし、この前後から国内需要は伸び悩み状態となったので、45年には、32年来のピナミン懇話会を改組強化してピナミン会を設立し、さらに46年12月には、家庭用殺虫剤の強力な業界機関として、日本殺虫剤工業会の設立に協力した。
 この間、イギリスのNRDC(National Research & Development Corp.)によって、新しいエアゾール用ピレスロイド(一般名レスメトリン)が開発された。これは驚異的な致死効力をもっていたので、これをネオピナミンと混合すれば速効性と致死効力を兼ね備えた製剤が得られることに注目し、まず42年に同社とオプション契約を締結し、その合成法を検討した。その結果、経済的な製法とともにネオピナミンと混合する製剤処方を確立したので、44年7月、同社と日本国内での独占実施契約を締結するとともに、月2トンの設備を酉島工場に設け、46年12月、クリスロン(R)と名付けて発売した。

ピナミンの多角化
 ピレスロイドの国内需要はすでに頭打ちの状態となり、50年4月のピナミンの特許切れを控えて、その前途は楽観を許さなかった。しかし輸出は、多年にわたる普及活動の成果がようやく実りはじめ、著しく増加してきた。そこで実施を見合わせていた菊酸クロライド・ピナミン・ネオピナミンの増設工事を再開し、47年12月に完成した。その際、菊酸の中間体オクタジェンの製造を新居浜製造所の開発した新しい合成法に改め、48年7月、大分製造所に設備を設けた。
 この間、ピナミンの有力な対抗品が海外において相次いで現れ、その前途には多難が予想された。この情勢に対処するため、設備増強と新製品の開発、製品の多角化に努め、48年3月、クリスロンを増強し、また大日本除虫菊が発明したピナミンーD(R)(一般名フラメトリン)を酉島工場で生産し、47年6月から電気蚊取器マット用として同社への出荷を開始した。これはすこぶる好評で、翌48年3月にはさらに生産能力を増強した。
 フランスのユクラフ杜(Roussel Uclaf S.A.)が開発した光学活性体のバイオアレスリンは、ピナミンに比べると効力が約2倍といわれていたので、当社ではかねてその対抗品の開発研究を進めていた。ようやく菊酸の光学分割の製造技術を確立したので、光学活性体菊酸を使用して48年9月ピナミンーフォルテ(R)、49年1月ピナミンDフォルテ(R)と引きつづいて販売を開始した。ピナミンーフォルテはピナミンの約2倍の効力があって、好評を博し、今後のピナミンの後継商品の本命と目されることとなった。またクリスロンについても光学活性体の一連のものとしてクリスロンーフォルテ(R)の製造販売を企て、50年1月には製造の承認を得た。
 こうしてピレスロイド系殺虫剤は、家庭用に順調な伸びを示してきたが、これらを防疫用として開拓するため、48年3月、製剤会社と共同で防疫用ピレスロイド研究会を設け、その推進に努めた。
 この間、49年4月、エアゾール製品に使用された噴射用の塩化ビニルモノマーが、アメリカで発癌性物質と疑問視されて以来、わが国でも問題となってきたので、同年6月、殺虫剤などに多く使用されていたエアゾール製品はすべてメーカー側で回収して廃棄せねばならなくなった。これによる損失は殺虫剤業界全体で2000万本、金額にして数十億円にのぼり、関係各社は経営上大きい打撃を受けたが、当社も原体供給者の立場からその苦境の打開に積極的に協力した。

三沢進出計画
 この問にも、ピレスロイドの需要増大に対処するため、50年9月には酉島工場で部分的増強を行なったが、今後予想される需要増加に対しては、すでに酉島工場には拡張の余地がなかったので、新しい土地での新工場建設が必要となり、各地に適地を物色して、青森県三沢市淋代工業団地にピレスロイドの新工場を建設することとした。青森県と三沢市でも工場誘致を検討していたおりでもあったので、当社の進出を歓迎した。そこで50年3月に三沢工場建設部を設け、78万1000平方メートルの用地の買収交渉を進め、同年12月には農地転用の認可を得て土地購入を完了し、52年7月の竣工をめざして、建設を進めた。

ピレスロイド系類似化合物の開発
 ツマグロヨコバイ防除用として、ピレスロイド系殺虫剤とカーバメイト剤との混合剤の試験を行なっていたことは前に述べた。さらにこれを光学活性化してS−2539F(商品名スミスリン(R))として、家庭用および防疫用に開発し試験を行なったところ、クリスロンと同等の致死効力が認められたので、50年11月、その原体と10%乳剤の製造承認を申請した。またこれをエアゾール用殺虫剤として、ヨーロッパ・オーストラリア・ニュージーランド・アメリカで試験を実施し、まず50年10月、アメリカで原体の登録許可を得、51年3月から輸出販売を開始した。つづいて同年12月からは国内販売を始めた。
 つぎに、当社が発明したピレスロイド類似の新化合物S−5602(商品名スミサイジン(R))は、かねてシェル社と共同開発を進めていたが、50年にはアメリカ・中南米・エジプト等で、パラチオンなどに対して感受性の低下してきた棉害虫に卓効があり、また果樹・野菜の害虫にも優れた効果のあることが認められ、51年4月から海外向けの試験販売を開始した。一方、国内でも、この年、果樹・野菜・茶・花卉などの主要害虫を対象にこの試験を行ない、優れた効果(とくに残効性)が確認されたので、ただちに慢性毒性試験を開始することとした。このように、スミサイジンは内外の市場の大きさからみて、スミチオン以来の大型農薬として期待された。
 ピレスロイド類似化合物として、イギリスのNRDCが開発したNRDC−143(一般名パーメスリン)には、的確な効果と優れた残効性があり、またハエ.蚊.ゴキブリなどの家庭用、シロアリを含む防疫用、キクイムシ用にも効果が認められたので、50年2月、NRDCと日本・フィリピンをテリトリーとする製造販売実施権のオプション契約を結び、商品名をエクスミン(R)と名付けて原体の製造承認を申請し、家庭用・防疫用に52年の発売をめざした。
 これらの新規化合物はいずれも特異な殺虫力をもち、効力・安全性からみて、将来の発展が大いに期待されるものであったので、その育成に努めた。


日本農薬学会誌 1(1976) 

随想 私と農薬  山本亮   (Ryo Yamamoto、東京農業大学)

 大正5年(1916年)の秋,当時東大農学部(駒場町)鈴木梅太郎先生の研究室で生物化学の勉強をしていた私は,先生から大原農業研究所(岡山県倉敷町)に行って除虫菊花の殺虫成分を研究するようにとのお話を受けた。これが私の農薬研究の動機であった。同年年末私は大原農業研究所での研究員になった。

  大原研究所における農薬研究

 まず大正6年頃の農業薬剤としてはイオウ剤・ボルドウ液・ノミトリ粉・タバコ粉末であって石灰イオウ合剤や水銀(有機)剤はまだ市場に出ていなかった。除虫菊は当時岡山県の特産物であり、蚊取線香が主産物であった。農薬としては乾花粉加用石鹸水が水田イリミミズの駆除に,また石油抽出液が稲ウンカの防除に用いられていた。私の研究の最初の目的は除虫菊花から強力な殺虫剤を得ることであったが、研究を進めるにつれて殺虫主成分の純粋分離とその化学構造をを知ることが必要になってきた。当時(1917年)除虫菊殺虫成分について研究している人はなく、わずかに1909年薬学畑の藤谷巧産氏(1)がこの殺虫成分は1種のエステルであって、Pyrethronと命名していたが、その後の研究発表はなく殺虫成分の本体はまったく不明であった。私は無人の野をさまよう思いで,大正6年春から大原農業研究所において大胆にもこの大問題の研究にとりかかった。当時第1回欧州大戦中であったので薬品、化学機械、書物の入手が困難であって、1gの粗製殺虫成分(ピレトリン)を得るにもいろいろと苦労があった。しかし生物面での仕事は研究所昆虫部に春川忠吉氏が研究員八木誠政氏が助手として勤めていたので、イエバエの飼育やバイオアッセイには助力を受け好都合であった。約2カ年苦心して花の殺虫成分ピレトリンを高濃度に抽出することができて、その主成分がエステルであることを確認し、これを酸とアルコールに分離することができた。同時にこの殺虫成分を所内の果樹や野菜の害虫に応用し殺虫効果を確かめた。私の得た除虫菊花の合理的利用法は乾花粉末を石油類により殺虫主成分を抽出し、石鹸液で乳化した石油乳剤であって最も確実な効果を示した。私は以上の研究(2)をまとめて、大正7年12月大原農業研究所を退職し,殺虫成分ピレトリンの純化学的研究を志し東大農学部鈴木梅太郎先生の研究室に戻らせてもらった。

  駒場の研究室

 駒場の研究室では除虫菊粉末を10kg単位で大型の抽出機を用い工一テルで抽出したのち、少量の石油エーテルに移し精製した。当時多量の石油エーテルは入手困難であったのである。分離したピレトリンエキスは精製したのち純粋分離をくりかえし行なったが、私の実力ではついに結晶化ができなかった。やむなく活性のエキス(ピレトリン)をアルカリで加水分解して酸とアルコ一ルに分ち、まず比較的に組しやすい酸性成分から研究を進めた(大正8年)。上記ピレトリンの分離研究のほかに、私はは除虫菊花粉末の燻蒸成分の研究を行なった。これは当時貯穀害虫(主としてコクゾウ)の被害が大問題になっており、その駆除について鈴木先生は農商務省から駆除剤の研究を委嘱されていた。私は大正8年夏理化学研究所の研究員に採用された(当時所長は桜井錠ニ先生で鈴木先生は主任研究員であった)。この貯穀害虫駆除剤の研究はピレトリンの研究とともに旧理研における私の最初の仕事になった。

  クロルピクリンの研究(3)(旧理研において)

 私は上記燻蒸による殺虫成分として低級脂肪酸のエステルが殺虫力があり、とくに蟻酸のアミルエステルが害虫コクゾウの駆除に有効であることを見いだした(4)。 ところが同年(1919)年晩秋フランスでクロルピクリン(第1次大戦中の毒ガス)がコクゾウ駆除に特効があることが発見されたと朝日新聞が海外電報で報じてきた。さっそく私は研究室(当時駒場農芸化学理研研究室)でクロルピクリン2封度を合成し、西ヶ原農試木下周太昆虫部長の協力を得て、小型倉庫に玄米数俵を入れコクゾウのガス燻蒸試験を行なったところ、きわめて好成績を得た。これに力をえて、クロルピクリンの大倉庫燻蒸を行なうことになった。しかしこの毒ガスを穀物に使用することは,現在のパラチオン以上に毒性上の取り扱いが問題であった。当時毒ガスの研究は陸軍軍医学校の小泉博士(当時軍医少佐でのちに軍医中将、初代の厚生大臣)が担当されていた。私は博士を訪ねクロルピクリンの毒性や取り扱いについて意見を求めたところ、博土はこのガスは催涙刺戟性の呼吸性毒であるが毒性は弱く心配するほどのものでない。今軍医学校にドイツから購入した防毒マスク(日本最初のもの)が3個あるから米倉庫燻蒸の節は貸してやるとの厚意をえた。次はクロルピクリンの製造であるが、まずピクリン酸から出発せねばならない。当時ピクリン酸は爆薬の原料として、その製造は軍の機密に属していた。私は理研大河内所長の紹介により陸軍火薬廠々長朽木少将に面接し主旨を話ししたところ、少将は快く承知してくれ火薬廠内での見学など便宜を与えてくれた。私は2週間赤羽の火薬廠に通い、工業的製造を習得した。この事は大戦中の同廠教科書に引用されていた。たまたま私の助手(台北帝大)金子君が応召されて同廠で教育を受けたとき、教科書中クロルピクリンに関して私の名前を見いだし、わざわざ報告してくれた。クロルピクリンの工業的製造は三共製薬会社品川工場で行なわれることになった。同社の大獄了氏が工場長、私が立案者として(技師格)石炭酸一ピクリン酸一クロルピクリンの一貫工程で製造する工場が完成し(大正10年春)、夏までにクロルピクリンを順調に製造することができた。小規模ながら、わか国最初の農薬合成工場である。最初の倉庫燻蒸は大正10年8月山形県酒田市の山居倉庫7万7千立方尺の米倉で行なうことになり、理化学研究所の責任において行なった(農商務省は協力しなかった)。私は三共のクロルピクリン70封度を久保俊介君(三共)とともに心配しながら、列車内に持ち込み無事に酒田市につき、千俵以上の米を用い千立方尺につき0.5封度の割合で蓆上から薬を滴下散布し、一部は私自身陸軍病院から借用した防毒マスクを着用して床上に散布した。48時間後倉庫を開放した結果、殺虫効果はまさに100%であり,周囲の民家に影響なく燻蒸米を試食したが、香味変わらず、もちろん中毒はなく、大成功であった。この試験がもとになり、その後政府の保有米燻蒸がクロルピクリンによって行なわれるに至った。

  再びピレトリンの研究にもどる

 大正10年で私はクロルピクリンの仕事から解放され、ピレトリンの研究に専念した。まず酸の純粋分離をエステルとして真空蒸留によって行なった。当時真空ポンプは国産品は良いものなく10¯³mmHg程度を得るに苦心した。幸い鈴木先生がドイツから持ち帰られた水銀ポンプ(手回し)を農学部から借用して成功した。溜分エステルは加水分解し遊離酸をクロム酸酸化することにより、カロン酸(トランス)を結晶状に得た(5)。天然物からシクロプロパン環をもつカロン酸を分離したことは興味多く、菊酸の骨格はこれによって決定したのであった。この発見は文献上(1923年)私が最初であってスタウジンガー、ルチカ両氏の発表(1924年)に先んじたものであった。両氏らのすばらしい研究成果は私の研究を覆ってしまった。両氏とものちにノーベル化学賞を受賞された大家であって、私はピレトリンから菊酸の骨格カロン酸を彼らよりも先に発見したことで諦めざるをえなかった。大正12年末で、私はピレトリンの研究をまとめ理研英文報告38号(1925年9月)に発表(6)した(私の学位論文ー東大)。その後ピレトリンの研究を一応打ち切って、殺虫剤ニコチンを煙草粉から製造(抽出)する研究を鷲見瑞穂君(助手)とともに進めた。煙草粉を石灰乳でうるおし200℃に加熱し、これに過熱蒸気を通じて濃厚にニコチン水溶液を得る装置を考案して行なった。この考えは池田菊苗先生(当時理研主任研究員)の助言によった。しかし私は2カ年後に新設される台北帝国大学にまねかれて英独へ2カ年留学することになって、ニコチンの研究は鷲見君にゆだね、一時的に理研を去り、大正15年7月箱根丸で英国に向った。英国ではマンチェスター大学のロバート・ロビンソン先生の室で有機化学を学んだ。私の化学についての基礎を強化するためであった。しかし私にはマンチェスターの気候が健康に適せず病気がちであったので約1カ年で同大学を去り、気候のよいドイツ・ハイデルベルヒ大学に移った。さりながら、ロビンソン先生の学風は私の脳裏に深くきざまれた。

  台北帝国大学(台湾)において

 昭和3年6月私は帰朝し,新設の台北帝国大学の教授に就任した。大学では当局の希望もあり、また私の学術的興味から熱帯農産物、とくに果実の成分カロチノイドの化学、および台湾茶の研究に没頭した。農薬については手を広げる余裕がなかった。しかし学生には、農業薬剤学を昭和6年度から2単位で講義した。この農薬の講義は私が台湾を去った(15年)あとも大島康義教授によって引き継いで行なわれた。また昭和9年長瀬誠君(現昭和薬品加工会社社長)が台南病院(公立)薬局長を辞めて農薬の研究を希望し、研究生として教室にはいってきたので、同君に除虫菊蚊とり線香煙の成分を研究してもらった。同君はその後(16年)台湾を去り理研の研究生として私の研究室でかとり線香の殺虫成分研究をつづけ、鈴木梅太郎先生の推薦により東大から農学博士の学位を授けられた。同君の見いだした殺虫成分パイロシンは、のちに松井正直君によって合成された。また大島康義君(助教授)は台湾農業試験場毘虫部技師三輪勇助君と共同してミカンコミバエの誘引防除について研究し(昭和11年頃)、メチルオイゲノールがこの害虫の雄を強く誘引し実用価値があることを見いだしている。

  戦時中の農薬研究

 昭和15年6月私は台北帝大を辞し台湾を去って理化学研究所に復帰し、鈴木(梅)研究室に戻った。旧理研において私は理研の仕事として台湾で研究していた果実パインアップルの缶詰残さを利用してビタミンCを濃厚にとり出し、これに牛乳を添加して安定なビタミンC入り粉乳を製造する研究をまとめていた。長瀬君は除虫菊の煙からケトン類を分離し強い殺虫力(カ、ハエ)を見いだし、また、かとり線香の成分としてべ一タナフトールが有効であることを見いだし、当時民間で必要であった代用かとり線香の成分に上山彦寿氏(ライオンかとり会社の相談役)が取り上げてくれたが刺激性が強く実用性がなかった。

  住友化学の農薬事業に関連して 

 私は昭和17年7月から理研(研究員)のほかに旧住友本杜の顧問をひき受け、同社林業所の南方海域における農林事業の技術面の相談をひき受けた。同社の常任理事河井舜三郎君(故人)が中学校の同級生親友であって、とくに台北帝大時代から懇意にしていた。同君は私が旧蘭領インドネシア地方の農林物産について昭和12年2カ月にわたり視察研究していることを知っていたからである。15年4月戦災によって理研の私の研究室は焼失したので、私は20年6月理研を辞職し、松井正直君(16年東大卒業後理研の私の研究室でピレトリンなどの研究をしていた)とともに住友本社に(私は本社顧問、松井君は正社員として)入社した。
 終戦後昭和20年の晩秋住友化学工業会社の小林晴十郎社長(社長は住友本社の常任理事兼務で、私は17年住友本社入社以来懇意にしていた)から、住友化学は農薬(殺虫剤)を事業に取り入れることにした。また戦時中優秀な大学卒業生に入社してもらっが、戦争に巻き込まれて研究もできなかったから、適当な人を大学に送り将来のために再教育した。農薬については、適任者の人選と研究の所(大学)を私にまかせられた。私は住友の幹部が戦後いち早く農産物(食糧)の増産に農薬の必要を思いつき、また技術者の養成にまで遠大の考えを持っていることに敬服した。この小林社長の計画が現在のL同社農薬事業を盛り立てているものと思われる。私は農薬研究テーマとして、われらが従来から手掛けてきたピレトリンの合成を考え、これを松井正直君に託した。同君は戦後の混乱の中で研究可能であった京大理学部化学教室野津教授研究室でピレスロイドの研究に専念した。他に1人内本勝比古君(九大農化15年卒)が住友化学の技術人であったので同君には東大農学部藪田教授のもとで殺虫剤以外の農薬の研究をしてもらった。内本君も優れた化学者であったが、不幸にも病気にかかり再起不能になり約1年余りで退社された。
 松井君はパイロシンを合成し、つづいてアレスリンの新合成法を見いだした。これはアレスリンの発明者ラホージ博士の発表1年後であった。この松井君の発明したアレスリンの合成は住友化学の技術陣により工業化されピナミンの商品名で販売され、同社は現在年約300トン製造し世界的に市場をえている。また住友化学は純農薬として米国、ACC社およびドイツ、バイエル社から昭和26年パラチオンを、27年マラサイオンをACCから技術導入して自社で製造し商品化した。進んで同社の技術陣は低毒性有機リン殺虫剤スミチオンを発明した。34年(1959年)にはこれを工業化して、現在同社は年7,000トンのスミチオン原体を製造し3,000トンを輸出して農林作物の害虫防除、および衛生害虫の防除に寄与している。

  東京農業大学における農薬学の開講

 昭和29(1954)年から東京農業大学農芸化学科に大学院を新設するにつき、農薬学新講座を引き受けることになった。なお住友化学工業会社の技術顧問(非常勤)は従前のごとく務めた。台北帝大を辞めてから14年目に、思いがけなく教壇に立つことになった。同大学学部学生に農薬学を大学院修士学生には農薬化学を講義し、あわせて実験(農薬)の指導も引き受けた。昭和30年頃の農大は教室も実験室もきわめて不備であった。私は敗戦の日本で戦前のような大学教育は望めないものと覚悟していたが、せめて農業に必要な農薬の知識を学生に与えて、食糧の増産に寄与してもらいたい希望であった。実験設備はなく、農薬の知識ある助手もなく、研究費(実験費)もない研究室で毎年10名の専攻学部学生(35年度からは毎年20名を引き受けるのが農大のノルマであった)を引き受けどう教育するかに苦心した。農薬の分析は幸い農薬検査所の佐藤六郎化学課長の厚意によって、研究所の研究生名目で大学の夏季休暇を利用して手伝わせてもらいDDT、BHC、水銀剤などの分析を習得させた。なかには6ヵ月も検査所で勉強させてもらい卒業論文をまとめた熱心な学生もいた。次に、研究費を得るため農薬登録に必要な生物試験を引き受けた。たとえばマラソン乳剤のハエ防除効果について農場畜舎のハエの駆除、またハエ幼虫防除についでダイアジノンやBHCの比較効果など学生の実習になり依頼会社の目的にもかなった。かくて昭和35年まで助手本田博君とともに貧乏世帯を切り抜けて行った。
 昭和35年山本出博士が北里研究所から農大に助教授として就任された。同君は有機化学を専攻し、とくにアルカロイドに堪能であるので私は大喜びであった。さっそく私が大正10年以来考えていた、ニコチンの化学構造と殺虫力について研究してもらうことにした。同君は大学院学生上村英雄君を助手として研究に没頭され、2年後にニコチンの構造を変えたピリジルメチルアミンが殺虫力について必須構造であることを見いだした。この研究は1963年ロンドンで開催された第1回国際農薬シンポジウムに、私から発表した
(7)。この出君の考想は好評でトキシコロジーの分野において広く認められた。

  誘引剤の研究

 私は34年頃から研究室の陣容が一応整い、私自身も研究を始めたい希望が出てきた。しかし先立つものの研究費が、農大では年わずかに10万円(現在も変わりないようです)でありどうにもならない。ところかこの年(1964)米国農務省が化学薬剤を用いない貯穀害虫の防除研究という課題で研究者を求めているニュースが原田豊秋博士(食糧研究所)からあった。昆虫学の知識は勉強すれば得られる予想でとくに昆虫学者の援助がなくとも研究可能であろうと考えて出願したところ、"Constituents of Rice, Wheat, and Dairy Products that Attract Insects"なるProjectで、1965年から1969年4カ年の研究で米国農務省から研究費約1,800万円を支給するとの契約ができた。研究には大学院学生を協力させ、これに適当のサラリーを支給してよいとの通知もあって、学生も喜んで協力してくれた。問題とした生物(コクゾウ、ケナガコナダニ)の生物検定には苦心したが、1ヵ年半の努力で両害虫に適合した検定法が得られた。化学的研究にはガスクロマト、ガススペクトル、NMRなどを用い測定し、きわめて微量の誘引成分は合成により構造を確かめて道を開いた。山本出君は1964年10月から2カ年余りカリフォルニア大学バークレイ、Casida教授研究室で昆虫トキシコロジーの研究に没頭することになり、私は本田助手の援助を得て研究を進めた。
 第1のチーズからケナガコナダニを誘引する成分
(8)研究は大学院学生芳沢宅実が研究に当たり、総量200kgのチェダーチーズを用い5カ年間の研究により 8-nonen-2-oneなるケトンがチーズ特有の香気をもち、1μgでケナガコナダニを誘引する。これに 3-methylbutanolなるアルコールか共力して、ケナガコナダニを誘引することか判明した。含量はチーズ100kg中6mgである。
 第2の米、およびトウモロコシ粒から貯穀害虫コクゾウを誘引する成分の研究
(9)は最初米粒を用い誘引成分の分離を二人の大学院生に努力してもらったが、誘引物質の組成が複雑であり、かつ微量のため、約3カ年研究成果が挙がらなかったが、その後大沢貫寿(助手)本田博(助教授)がトウモロコシ粒を原料として誘引物質の分離を進め約10ヵ年研究をつづけ、1975年コクゾウを誘引する成分の主体をつかむことができた。すなわち、トウモロコシ粒(および米粒)のコクゾウ誘引成分は酸性および中性物質の複合体である。酸性成分は水に分配性の脂肪酸で、カプロン酸、エナント酸、4一メチルペンタン酸およびその異性体である。その他にエ一テル可溶の分子量150、ワニリン様香気をもつ酸が誘引に関与している中性物質の誘引主体である物質はγ-nonalactoneで、強力な誘引性(0.1μgで活性を示す)がある。その構造は合成によって定め、天然物と比較同定した。すなわちコーン粒、あるいは米粒中にはこれら酸およびラクトンが微量に存在しコクゾウを誘引するものである。

  むすび

 日本農薬学会の創立にあたり発刊される創刊号に、「私と農薬」と題して既述することを私は光栄と思います。
 さて大正5年(1916年)に始めました私の農薬研究は、今年(1975年)で終ります。この60年をかえりみるといまだ農薬という言葉もない未開発の科学分野を歩いてきました。私の残した足跡は微々たるものであって、わずかに最初のテーマそれは鈴木梅太郎先生から与えられた除虫菊花殺虫成分ピレトリンの研究において、その骨格の一部であるカロン酸を発見(1923年)したことである。このシクロプロパンカルボン酸を骨格にもつ新ピレスロイドの数々が、多くの研究者によって発表されている。そのうち実用価値のあるすぐれたピレスロイドをあげてみると、たとえば
   Allethrin     La Forge (1949年)       
   Tetramethirin Kato(Sumitomo) (1964年)
   Permethrin   M. Elliot (1973年) である。

    注 住化商品名は以下のとおり
     Allethrin     ピナミン、ピナミンーフォルテ       
     Tetramethirin ネオピナミン
     Permethrin   エクスミン 

 とくに Elliotにより発明されたPermethrin(NRDC-143)は理想に近い殺虫剤であると評価されている(10)

   

 また、ピレスロイドの優秀性は、今後も世界的に広く認めれられるであろう。

 私はここに60年前私に農薬研究の動機を与えられた恩師鈴木梅太郎先生に、また戦後私に農薬再研究の機会を与えられた旧住友本社河井f三郎氏、住友化学工業会社社長小林晴十郎氏に感謝申し上げます。また私の研究をサポートしてくださった松井正直博士、山本出博士、本田博博士の各位に厚く御礼申し上げます。

引用文献

1) K. Fujitani : Tokyo Igakukaishi, 21;Tokyo Igakukaishi, 5
2) R. Yamamoto : "On the Insecticidal Principle of Chrysanthemum Cinerariifolium" 大原農業研究所、Dec.21(1918)
3) 山本亮 : 理研彙報、第1輯第1号、大正11年(1922) 6月
4) 山本亮 : その他:理研彙報、第3輯2号、大正13年(1924)4月
5) 山本亮 : その他:理研彙報、第2輯1号、大正12年(1923)4月
6) R. Yamamoto : "On the Insecticidal Principle of Insectpowder (Chrysanthemum Cinerariifolium)" 理研科学報告 No.38
7) 山本出、上村英雄、山本亮 : 東京農業大学紀要、1963年3月
8) 芳沢宅実、山本出、山本亮 : 防虫科学36,1 (1971); T. Yoshizawa, I. Yamamoto, R. Yamamoto. Memories of Tokyo University of Agriculture (東京農業大学紀要) March 1972
9) T. Yoshizawa, I. Yamamoto, R. Yamamoto : 日本応用動物昆虫学会誌 Nov.30 (1968), Oct.15 (1969): 大沢貫寿:日本応用動物昆虫学会札幌大会講演、1974年8月
10)Chem. & Eng. News, July 28, 1975 Special Report

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           「蚊遣り水」       西川虎次郎

                              医薬ジャ−ナル 1974.5 新医薬芳名録(35)

三題噺

 追々とあとで触れるであろうが、蚊取り線香と、私は、長い古い因縁で結ばれている。

 そのころ私は割り合い足繁く箕島を訪れたものであった。ここは今では、有田市箕島となっているが、昔は紀州有田郡箕島という寒村であった。今の若い人たちには、数年前にこの地の学校に島本という学生がいて、春か夏かは忘れたが、甲子園の野球大会で優勝したことで、この町の名が覚えられているかも知れない。このあたりは有田蜜柑の名で古くから知られていたが、近年はむしろ、蜜柑よりも蚊取り線香の工場群があることでその名が広まっている。それらの工場の中に、当時大同除虫菊と称した会社があった。この会社はその名の示すように、群小の線香の町工場が寄り合って出来たものであるが、数年前から、ライオンかとり株式会社と改名して、今では、この文の柱として後で述べるつもりだが、金鳥印の大日本除虫菊に次いでの地位を占めている会社である。この会社に当時上山彦寿という常務がいた。この上山さんは、後にこの会社の社長から会長になり、今では相談役に退いているが、昔から少し聴力が弱いだけで、今も元気であるし、今の御崎文雄社長とは、仕事からゴルフを通して今日でも私は親しい仲である。ところでこの上山彦寿氏は、その生い立ちは詳しくは知らないが、蚊取り線香の、商売よりも、その製造上の技術に熱心であったし、数々の創意工夫に凝って、いくつかの特許をもったりしていた。耳が少し遠いせいもあって、余り口数をきかない、一見とっつきにくい堅物というか、余り冗談や軽口を言わない真面目一徹の人柄である。しかし長くつき合っている私には上山さんがけれん味のない誠実で、しかも温い感情を内に秘めている人であることは昔からよく知っている。

 ところで、この上山さんに何時のころだか、それは割り合い蚊取り線香がよく出て好調の時であったが、今のように、DDTや色々の農薬が出て来て、都会も田舎も蚊が少なくなっているのに、どうしてそんなに線香が売れるのだろうとたずねてみた。
 「いや、それがね---」と、上山氏は言うのであった。
 「蚊が少なくなったからですよ。線香がよく売れるのは----」
 その意味が解せなくて上山さんの顔を見ている私へ、上山さんはさらに言葉を加えた。「それにもう一つは最近のテレビの普及のせいでもありましょうね」
 妙な話になったが、上山さんはニコリともしないでいるのである。その解説はこうだった。 
 成程近ごろは蚊が少なくなった。そのために大阪本町筋の近江の蚊帳の商売が細くなってきてもいる。しかし、蚊が全くいなくなったわけではない。時おりブ−ンと、二匹三匹の蚊が耳元に飛んでくるのはうるさいものである。そんな時に一本の線香や一巻の渦巻が役にも立つし必要でもある。それに、近頃のように、子供たちまでが夜おそくまでテレビの前に座っているようになると、蚊帳を吊るほどでもないが、一家団らんの部屋にはどうしても線香がいるのである。それだから、蚊が少なくなったことと、テレビの普及が箕島の繁栄につながるのだと、上山彦寿氏は真面目な面持ちで話すのであった。
 テレビが出て来て蚊取線香屋が栄えるというと、このような小咄が好きな私の年齢を知っている友人たちは、風が吹いて桶屋が栄えるふうの、江戸の三題噺じゃないかと思うかも知れないが、恐らくは落語などは聞いたこともないかも知れないあの真面目な上山さんが真面目に話すのだから、そして、考えてみると成程と思われる節もある話である。

 この上山彦寿氏が考案した技術のなかに、今日の打抜き式の渦巻線香の製法がある。ところが、奇妙なことだが、これはこの筆者である私の着想であると、この業界でいわれていることを、せんだってこの文章の取材のために金鳥の本社を訪れた際に、老社長の上山勘太郎氏から聞かされた。何かの話から、昔の手巻きの線香から、打ちぬき法に触れた時に、あれはあなたの技術でしょう、と社長が言うのであった。
 「この業界ではあなたを忘れてはならないのですよ」とも勘太郎氏は言う。
 「いや、それは少し違いますよ」と私は昔を思い出して説明した。あるいは上山彦寿氏があれこれと思案をこらしていたころに何かの助言をしたかも知れないが、それよりも私がこの技術に関係したのは、それを上山彦寿氏の特許とすることについて、実は当時の大同除虫という会社が、先ほど書いたように幾つかの町工場の寄り合い世帯であったから、詳しくは忘れたし、今さらその会社のアキレス筋に触れる気もないが、あの当時上山常務の立場も心境も複雑で微妙なものがあったようである。それだから何ということなく私がその話の中に引き出されて、多少の意見も述べたし、最後には新和歌浦のある料亭で円満に話をおさめたことがあった、この話が誤って伝えられたのか、あるいは色々と入り組んだ筋もあったので慎重なあの上山さんが意識的に陰の人となったのかも知れない。しかしこれはあくまでも上山彦寿氏の創意であるし、その特許権の関係はどうなっているのかは知らないが、今では各社が大同小異の製法をとっているはずである。

山勘蜜柑

 私は最初から蚊取線香の現代版に触れたが、このあたりでわが国の除虫菊の軌跡をたどってみる必要がある。除虫菊というものは古来から欧州の中央から南部にまたがって、中央アジアからペルシャ地方の山野に自生していた野菊なのである。花には白と赤とがあって、赤花種は主として観賞用に供されて、白花種には除虫の効力があることを知り、これを最初に栽培したのはユ−ゴ−スラビアのダルマシア地方であって、今ではこの地が原産地とされているようである。それは今から三百年とも四百年前ともいわれているが、大体日本の徳川幕府の初期のころである。これが後に北米に移植されて、カリフォルニアを中心としてかなり広い範囲でもっぱら防虫用を目的として栽培された。それがわが国に伝えられた経路については諸説があるが、年代は大体明治二十年ごろであることは確かである。

 一説では明治十八年に玉利農学博士が米国からその種子を入手して駒場農学校に試播したのが最初であるというし、また他の説では明治十七年にオ−ストリアのゲオルグ領事が来任した時、日本の風土気候に適するとしてその種子を外務省に紹介したともいう。あるいはまた、その当時、薬学の始祖長井長義博士が欧州から持ち帰った、などと、いろいろの説があるなかで、民間人の上山英一郎がまたその当時除虫菊の種を入手していることを忘れてはならない。しかもほかの流入の経路の人たちは、ただ学問的な興味をもったり、試播したりしたのに過ぎなかったのに対して、上山英一郎は、その家に伝わる資力を投入して、これを広く農産物として日本の各地にひろめたし、遂には除虫菊を当時有力な輸出産業にまで育てあげたのであるから、数年の記録の上での違いがあるとしても、日本の除虫菊を語る上では、上山英一郎をその創始者であり功労者であるとすることが妥当であると私は信じている。されば私は、まずは上山英一郎の事跡から話をすすめることとする。

 上山英一郎は紀州有田郡で生まれた。このあたりは当時は勿論、もっと古い時代から紀州蜜柑の産地として広く世に知られていた。大体紀州蜜柑なるものがいつのころから栽培せられたかの沿革についてはこれまた諸説がある。今から千二百年も前の景行天皇のころに田道某なるものが唐からその種子を持ち帰って、最初に海草郡加茂村に試植したのが最初であるとの一説もあるが、比較的確かな資料としては、古くから紀州の蜜柑王として知られてきた上山勘太郎家に保存されているものによると、今から約七百数十年前とされている。それは栂尾山高山寺の明恵上人の遺文と称するものであって、この僧侶はまた上山家の外戚の人でもあった。今は蜜柑の由来を説くのが目的でないからその詮索はしばらくおくけれども、江戸時代に入って有田郡の糸我や宮原を中心として紀州藩によって保護奨励されて、このころから蜜柑は紀州との評価が高くなったことは事実である。江戸時代に、その晩年は悲惨であったが、痛快な紀州男子であった紀国屋文左衛門の話は、いろいろに脚色されてはいるが今も広く世の人の知るところである。紀文物語があまりに高い世評があったので、一般にはあまり知られてはいないが、栖原角兵衛なる人物がまた、紀文に劣らぬ、そして紀文の奇智や豪肝とは違って、幕末のころ有田郡栖川村から出て、蝦夷樺太にまで渡道して、着実な北海貿易で巨万の富を築いた。その事業の方針が地味であったので伝説的な話は残っていないが、そのころの紀州の若人たちにとっては、紀文と栖原とが郷土の誇りでもあったし、憧れの的でもあった。ことに上山英一郎は、当時としては海外であった北海道や樺太との貿易で名を成した栖原にむしろ傾倒するものがあった。上山家は紀州での大手の蜜柑業者であって、紀文によって大江戸の人たちに知られた蜜柑も、その業者の仲間では紀州山勘蜜柑とうたわれて、東京ではイ片(にんべん)の鰹節、山本の海苔と共に食通の間で三名物ともいわれていた。

 この上山家は系図的に見ると古くは大職冠藤原鎌足公に端を発していることになっているが、これは旧家にありふれた伝説としておいて、江戸時代から明治大正と続いてきた地方の素封家であり名望家であったことは間違いない。英一郎は少年期を有田郡で過ごしたあと、一度びは学を志して上京して慶応義塾に席をおいた。このころに福沢諭吉から受けた海外への知識と開眼とは後年の彼の行動の芽ともなった。福沢には特に目をかけられて、一時は福沢家の園芸係をも勤めたが、不幸にして脚気を病んで一時郷里に帰っていた。ちょうどそのころ、福沢を訪ねて来朝したサンフランシスコの植物会社のア−モア社長が、福沢のすすめがあって、紀州の上山家の蜜柑畑を視察に来た。当時多少は英語も話せたであろう若い英一郎は、父勘太郎や長兄の反対を押し切って、ア−モアを案内したり接待した。そして彼が辞去する時、蜜柑やその種子を彼に与えると共に、米国の未知の果実や種子類を送ってくれることを要望した。ア−モアは帰国の後、英一郎との約束をまもって、色々な果実等を送ってきた中に、野菊の種子が入っていた。そしてそれは、あちらでは、Insect Flowerと称して、その花が防虫用に供されて、米国では大きな農産業の一つであるとの説明があった。英一郎はこの文献とその種子に深い関心を払った。これがそもそも上山英一郎と除虫菊との出合いであって、それからの英一郎の運命を支配することになるのだし、今日の大日本除虫菊株式会社の陣痛の始りともなるのである。除虫菊の日本名はInsect Flowerの訳であるが、誰が最初にこの名を用いたのかは記録がない。英一郎は初めは蜜柑畑の片隅にその種をまいてみた。ちょうどそれは明治十九年のことであって、ほかの経路からこの種子が日本にもたらされたのもおおむねこのころであった。もともと蜜柑王の家に生まれたし、園芸に関心をもっていたので、英一郎はこの種子の発芽から、苗床への植出し、本場植付と、この業界でいわれる農耕を自らの手で工夫もし実施した。そして、英一郎が偉かったのは、単なる園芸家でなかったことである。ア−モアから送ってきた文献によって、その花は防虫用として広く多量に米国で販売され使用されていることを知った。さらにまた、この野菊は一年生のものではあるが輪作を嫌うものなのを知った。土はアルカリ性の、廃地荒蕪地に適し、金山突亢たる禿山もまた好適地であることから、地元有田郡ばかりでなし、瀬戸内の島々から中国九州路に、さらに未開の北海道の荒地にも除虫菊の栽培を説いてまわった。そのためには自ら指導者ともなったし、その花が輸出産業として米麦よりも有利なることを説いて歩いた。

 しかし最初は保守性の強い農民たちはなかなか英一郎の説には耳を貸さなかった。炎熱の中、あるいは冷寒の北地を、そのころには上山家の当主ともなっていた英一郎が、家財を傾けてまで全国にその栽培の奨励に熱中するさまを、郷里の人たちはあきれるように、しかし幾分冷いまなざしで眺めていた。このころの英一郎の苦心と熱意とを詳述していると、それだけで紙数がつきるであろうから、読者は私の省略法の活字の裏をくみとっていただきたい。このようにして、後年除虫菊がわが国の有力な輸出産業に育てられてからは、本来あまり農作物に適さない荒蕪地から農民を潤す収入源となったので、晩年の英一郎が農業振興の功労者として数々の栄誉に輝いたのは当然のことである。しかし別の見かたをすれば、本来米国市場を目指していた英一郎としては、輪作に適さないこの植物を、多量にしかも継続的に栽培するためには、紀州一円や上山家の畑地だけでは不可能なのを知って、広く各地に奨励し、その栽培の秘方をもあえて公開し指導したのだとも考えられるし、そう解釈することは別に、この一世の事業家であり先覚者であった上山英一郎を傷つけるものではないとも思われる。

 英一郎は一応除虫菊の栽培が緒につくと共に、日本の国内向けとして、最初はその乾花を粉にして炭火の上でくすべていたのだが、これを仏事用の線香の中に練り込むことを考案した。そのためには線香自体の製法をも会得する必要があって、その秘方を盗みもしたようだと、これは今日の金鳥の上山直武常務が笑いながら話すところであった。そして明治三十一年から菊粉の米国向け輸出をはじめて、そのために明治三十八年に日本除虫菊貿易合資会社を設立した。これが大日本除虫菊株式会社と改称したのは大正八年であるが、この間に上山家の事業はゆるぎないものになったし多大の産を積んできた。事実近年までは、日本は世界の中で最大の菊粉の生産輸出であったし、その市場相場は、天候の変化と共にその収穫量が変動して、米国を中心としての海外市場でも、ココアや胡椒と共に上下の変動の最も烈しいものとされて、一夜にして巨万の富をつかむ者も、翌日目が覚めてみると素寒貧になっていたりもした。しかし全国に農作地を支配してきた上山家は常に微動だにしなかった。

 これが、近年までは、とあえていった次第は節をあらためて触れることにする。

菊花哀史

 上山家の事業の基盤が固まりその繁栄を見るに及んで紀州有田郡では次々に、中小の業者が除虫菊に手を染めてきた。しかしこの事業にはいくつかのむつかしい問題が潜在していた。一つには原料の乾花を一度に一年分仕入れる必要があった。何分かさ高い品物であるからそのために相当広い貯蔵の場がなくてはならない、さらに問題なのはそのための資金と金利の負担が相当のものである。さらに乾花にとって宿命的なことは、それが国際的な相場商品であったから、価格の変動が極めて大きいことである。当時は貫目立てで取引されたが、乾花一貫目の市価が大体、六百円から三千円位までの幅で上下に揺れているのが常だった。それだから業者のなかには、真面目に加工業を営むよりも、その商品相場で、昨日は大阪の南地で豪遊していた人が翌日は尾羽打ち枯らして箕島の町をうろつくさまは、ともかくも浮沈の烈しい業界であった。そのなかで常に業界をリ−ドしていたのは勿論上山家であったし、ともかくも今日まで経営体型を維持してきた会社はそれほど多くはなかった。このような、一面では華やかではあったが、また多面では多くの人を路頭に迷わしもした天然の除虫菊に大きな革命をもたらしたのは合成品の出現であった。それは往時、印度の天然藍が合成インディゴによって深傷を負ったのと似ている。しかもインディゴは、若い英国の学徒マンスフィ−ルドが恩師ホウマンの研究室で偶然に成功したのだが、マンスフィ−ルドの家は皮肉にも大手の印度藍の輸入商であった。大体、除虫菊が蚊や蠅の駆除に有効なのは何に起因するのかということは長い間誰も疑問すら抱かず、解らぬのを不都合とも不審とも思わなかった。それが1910年に至って、後に高分子化学の始祖といわれた人だが、スイスのチュリッヒ工科大学のスタウディンガ−博士が除虫菊の有効成分を発見し、その化学構造式をも発表した。その研究には七年を要したが、教授はこれをピレトリンと命名したし、それが虫の体内での作業や、温血動物には無害であることなど、今日の薬理試験の結果をも完成し発表した。

 このピレトリン説をいち早くわが国学会に紹介したのは京都大学の武居三吉教授であったし、武居博士はさらに色々の追試に研究員を動員した。この意味で武居博士はピレトリン学会の先覚者であるし、私もまた教授とは面識をあったし交わりをもった時代があった。今は化学研究の報告ではないから記述を省略するけれども、その構造は極めて複雑な形をしている。しかも、この一見して得体の知れないほどの化学構造の物質を、化学的に合成してみようという、大胆というか、無鉄砲なことを思いたった若い研究者が現われた。その名は松井正直といった。そして、彼の文字通り煙をつかむような着想に、理解と支援とを与えたのは山本亮博士であった。山本博士は戦後台北から引きあげて来た人だが、篤学の農芸化学者として内地のその道の人たちには知られていた。この人は今の高齢ながらどこかの大学の講壇に立っているはずだし、その長男治夫氏はスキップの開発部長をしているはずである。ところでこのころ住友化学では農薬部門を展開するつもりだったので、この山本亮博士を顧問に迎えた。もちろん研究部門をみるためだが、その研究員のなかに松井正直氏がいたのである。もっともその当時は住友化学としても染料は化学兵器に、アルミは軍用機材にと、戦局に協力したあとだけに、将来のプロジェクトが固まらない暗黒の時代であったから、当分は研究員の自由自在に委ねていたのが真相である。

 それだから松井研究員もなすところなく、夢のような煙との闘いを始めたものであろう。しかしこの松井さんは、後にその研究で学位をとったし、後年東京大学から懇請されて、当時技術部長であった私は涙をのんで松井博士を東大に送り出したのだし、今日では東大農学部の古参教授でもあるが、この松井博士は化学合成については天才的な頭脳の持ち主だったし勿論努力家であった。それだから、数年して、昭和二十六年ごろであったであろうが、スタウディンガ−博士のピレトリンとは少し違うが、アレスレンと命名した物質の合成に成功し、その特許を申請したあとにその研究を学界に発表した時は、海外の反響をも含めて驚異と賞賛の声が松井さんの身に集まった。これを企業化するかどうかを決めるのがそのころの私の責任であった。そのためにピレトリンに比べての殺虫効力の試験確認と、将来の製造価格の見通しをたてるのが私の仕事であった。そして、この研究にいち早く目をつけて私たちに接近して来たのが当時の大同除虫菊株式会社であったし、その会社の上山彦寿常務であった。

 このようにして私どもと大同除虫菊、私と上山彦寿氏との交わりが始められたのである。これは上山氏たちの努力によってピレトリンに劣らぬ効力が確認されたが、製造価格のほうはどう試算してもキロ当り10万円位になるのが悩みでもあった。大体除虫菊の乾花のなかには、産地や収穫の時期によって多少違うが、大体ピレトリンの含有率は1%位である。それから換算して、乾花の相場の変動はあるものの、合成アレスリンの価格はキロ2万円位を目標としなければならないと計算した。私は技術担当として、研究部の可能な限りのデ−タに基いて、この困難な合成化学を企業化すべく決裁したのだが、その直後から皮肉にも営業担当に転出したので、数年は自分で決めたアレスリンの企業赤字で自ら苦しみ社内の批判をも一身に浴びる始末であった。

 しかし今はその回顧談を語るつもりはない。ともかくも合成ピレスリンは学界にも業界にも認められたし、数年赤字経営に泣いてきたが、今日では、商品名ピナミンは、スミチオンと共に住友の農薬の二本の柱とされるに至った。そして、これはあとで知ったことだが、真実は当時経営の苦境の谷底でもがいていた大同除虫菊が、除虫菊に代わってピナミンを使用することで、資金的にも技術的にも、さらに業績も立ち直って、売先の会社の上山彦寿氏からわざわざピナミンのお陰で会社は蘇生したと報告され礼を言われたことは、私にとっては初めてのことであり、驚きであったし、上山さんの率直な人柄に改めて敬意を覚えたのであった。

 私にとってもそれは汗と涙のピナミンとの闘いであったが、ともかくも大同の立ち直りから、次々と使用者が増えて、増産の態勢に入った。数年の間に、今や天然除虫菊の唯一の牙城は大日本除虫菊であったし、しかもそれは最大の強敵であった。当然私たちは金鳥を射ち落すことに全力を集中した。そのころの金鳥は、創始者英一郎の長男勘太郎が戦没したあとを継いで、三男が勘太郎を襲名して社長であった。この人が今もなお元気な老社長であるが、この勘太郎社長は、一見痩身で温厚そうに見えるが、思いのほか頑固な性格の人であった。金鳥は断じて合成品は用いないと言い張った。これは思うに。亡父英一郎が除虫菊に注いだ熱情と苦闘の跡を思えば、今さらその除虫菊から離れられないと勘太郎氏が思う心情は、今になって私には十分に理解出来るのである。

 「それにしても----」と、先日も勘太郎社長を訪問して笑ったものだった。
 「随分頑固な人でしたね、あなたは」
 「御同様ですよ。あなたの強引さというか、自信過剰というか、あの商売熱心は見習うべきだと会社の幹部に話したものである。住友の常務ともあろう人が、とね」と、同席の直武常務共々昔話を楽しんだ。

 その大日本除虫菊もさすがに時流にさからえられなくなって、数年後勘太郎社長自身が少し玉を出すようにと申し込んできたが、その時は余力がなくて一旦は断ったものの、私は内心凱歌をあげたことを今だから告白する。それから金鳥でもピナミンを使い出したが、そうなるとさすがにこの会社の力は他を圧するものがあって、たちまちにして一番大手の取引先となったのである。今年も夏が近づくと、テレビの画面に金鳥と美空ひばりが再々出て来るであろうが、金鳥が美空ひばりによって世に知られたというよりも、歴史も古く信用のある金鳥蚊取線香を背景にしてこの歌手がその名を売り出したとも言えるのではないかと、こんなことを書くと世のひばりちゃんのファンからは反撃をくうかも知れない。

 大日本除虫菊では今もなお、勲四等上山勘太郎氏が社長であるが、その長男で副社長の上山英介氏を始めとして、直武氏、久夫氏と、この人たちとも年代の差はあるものの長年親しくしてきた仲だし、特にこの三人は、私が技を競うのには少し強すぎるのではあるが、色々なゴルフ会でも上山三兄弟が上位の賞を受けるのを私はいつも末席から眺めている。

 


knak注

ライオンかとり株式会社 その後、同名のよしみでライオン歯磨(現ライオン)に買収されたが、更に日本ジョンソン(米国 S.C.Johnson & Sonの日本法人)に譲渡された。

蚊取線香の歴史

   明23 線香特許 伊藤幹  (特許利用なし)
   
   その後、仏壇線香に除虫菊を練りこむ形で販売され、後、手巻き線香が広がった。
   
      キング化学実績  大13  昭9
       長棒線香   42%   11%
       コイル    58%   89%


   自動打ち抜き機
     大正3 "渦巻線香"特許 上山彦松 (1 pair)
    昭18 "渦巻線香打抜き"特許 上山彦寿(大同除虫菊)(現行方式 7pair)

            
      昭29 大同除虫菊 自動打抜き機 本格採用(同時にピナミン採用) 

  *マットは昭和38年にフマキラーが開発した。

紀州山勘蜜柑   今も「山勘みかん」をつくっており、大日本除虫菊鰍ヘお歳暮に使っている。


除虫菊の栽培

  日本 瀬戸内海沿岸、北海道
     収穫量  1926(昭和元年) 7,250t(dry flower)
          1934(   9年) 7,800t
           35      12,750t
           36       11,050t  この頃内需 25%、輸出(米国向け中心)75%
           43(  18年) 4,150t  戦時中の食糧増産で減少

 ケニア 1928 試作、1933より輸出
     収穫量  1974/75     15,300t
           76/77     12,000t
           77/78     8,100t  旱魃で減少
           78/79     8,400t   

         三沢工場は酉島と比較し能力倍増で操業に懸念があったが、
         1978年春の竣工直後にケニアが大減産となり、当初からフル操業となった。