西洋の地図と明治政府の混乱 in 1870

 

左の資料は、「竹島・松島、朝鮮付属に相成り候(そうろう)始末」という明治政府・外務省出仕の佐田白芽が1870年に発した公文書である。これを基に韓国は、日本政府は松島(韓国名・獨島)を放棄したと主張する。確かに現在の竹島は昔松島と呼ばれていた。しかしこの公文書にある松島とは、本当に現在の竹島であろうか?この疑問に答えるために、欧米諸国が書いた日本近海の図を年代を追って紹介しよう。

ダージュレー島とアルゴノート島
in 1787・1789

1787年に鬱陵島はフランス軍艦学校のLepaute Dagelet教授によって発見され、"Dagelet"と名付けられた。また1789年にはイギリスの探検家、James Colnettが同じく鬱陵島を発見し、"Argonaut"と命名した。アルゴノートは彼が乗っていた船の名前である。このダージュレー島とアルゴノート島はそれぞれ違う緯度と経度だった為に、後の欧米の地図では2つの鬱陵島が描かれる事になるのである。

Arrow Smithの図 in 1811

 

左の資料は「朝鮮と日本の図」の鬱陵島周辺の拡大図であるが、この地図は1811年、Arrow Smithによって書かれた。コルネット(Colnett)は1789年に対馬海峡から日本海に入り、日本の海岸を離れて西に進み、その後北上して西方海上において鬱陵島を発見した。この島はアルゴノートと命名されたが、同艦はこの島の南方海上でその舵を失った。このスミスの図には、コルネットの航路が点線で示されており、Argonaut lost her Rudderと注記されている。緯度と経度を見れば、ダージュレー島(Dagelet)も明らかに鬱陵島のことを指している。つまり、この地図には2つの鬱陵島が描かれているのである。

トムソンの図 in 1815

トムソンが1815年に作製した「朝鮮と日本」の図にも、2つの鬱陵島(DageletとArgonaut)が載っている。欧州の探検家や地理学者は、完全に日本海周辺の島を間違って認識していることがうかがえる。

シーボルトの図 in 1840

シーボルトは江戸時代の最も有名なヨーロッパ人であるが、彼が日本地図を作製するときに、日本の諸文献や地図から、隠岐島と朝鮮半島の間に、松島(現・竹島)と竹島(現・鬱陵島)があることを知った。他方ヨーロッパの地図には、日本寄りにダジュレー島、朝鮮寄りにアルゴノート島という2つの島が描かれていた事から、ダジュレー島を松島に、アルゴノート島を竹島として地図を作製した。これが、竹島と呼ばれていた鬱陵島が、松島と呼ばれる誤りを犯す発端になったのである。

Liancourt Rocks in 1849

実際の竹島(旧・松島)が欧州の地図に表れるは1849年で、フランス船、Liancourt号によって発見された。その時に竹島はこの船の名前をとってリアンクール島と名づけられた。また、1855年にはイギリスのホーネット号(Hornet)が同島を見つけ、その後イギリスでは、「Hornet Rocks」という名称で表れる。

ロシア軍艦の測量 in 1854

1854年に、ロシア軍艦のパルラダ号(Pallada)が鬱陵島の位置を精測した。その結果、さきにコルネットがアルゴノートと呼んだ鬱陵島の位置として報告された経緯度が不正確である事が分かった。その為、その後の欧米の地図では、アルゴノート島を点線で表したり、「現存せず」と注記したものが表れるようになる。

ハイネの図 in 1855

ウィルヘルム・ハイネ(Wilhelm Heine)は、シーボルトの図やその他の最新の知識を加えて、1855年に地図を作製した。北西部の第一島をアルゴノート、中央の第二島をダジュレーまたは松島、南東部の第三島は島名を挙げずに、イギリス軍艦ホーネット1855年と記している。

ペリー提督の日本近海図 in 1856

ハイネが地図を作製した1年後の1856年、ペリー提督の「日本遠征記」の折込み図にも、ハイネの図と類似した地図が載っている。実はハイネはペリーの極東遠征に参加した人物であり、日本海周辺の知識が酷似するのは当然のことである。このペリーの図にも、ハイネの図と同様、3つの島が描かれていて、朝鮮に最も近い島には、"Nicht Vorhanden"「現存せず」という注釈が書かれている。

Brueの図 in 1865

Adrien-Hubert Brue(1786-1832)はフランスの地理学者で、彼の死後、1865年に「Carte general de l'Empire Chinois et du Japon」(中国・日本全図)が発刊された。ここにも2つの鬱陵島(ArgonautとDagelet)があり、竹島に相当する島は書かれていない。

大日本沿海略図 in 1867

そして遂に、これら欧米の誤った地図が日本に逆輸入され、今まで正しく鬱陵島と竹島を認識していた日本に混乱を招く事になる。そのことを物語る象徴的な地図に、勝海舟(1823-1899)が作製した大日本沿海略図がある。ここに出ている「リアンクール」は現在の竹島(旧・松島)である。そして鬱陵島(旧・竹島)が「松島」として誤って記入されている。さらに島が現存しない場所に、「竹島」という島名が見える。

ワイルドの図 in 1868

1868年にジェームス・ワイルドが書いた図には、アルゴノート、ダジュレー、ホーネットの3島が描かれ、ダジュレー島には別名で松島と書かれている。この島の傍らには、「Boussole Rock」なるものがあるが、これは現在のチュクドである。

大日本四神全図 in 1870

勝海舟の「大日本沿海略図」の系統を引く西欧の翻訳図として、1870年に刊行された橋本玉蘭の「大日本四神全図」がある。上の図は鬱陵島周辺の拡大図であるが、本来、「リエンコヲルト・ロック」の所に松島と書かれていなければならないのに、鬱陵島の所に「松シマ」と書かれているのが分かる。

ウェラーの図 in 1872

このE. Wellerが書いた日本図は、かなり実際に近い日本図で、シーボルトが相継いで公開した日本製の地図に基づくものと思われる。日本本土に関しては、四国の佐多岬の先端が南に曲がっていることからして、シーボルトの"Nippon"(1832-54)に収録された長久保赤水の『日本輿地路程全図』の図形を採用した可能性が高い。だが日本海の朝鮮半島よりあるArgonaut島は、現存しないのに描かれているのである。E.Wellerはイギリスの地図作家兼彫版師兼出版業者である。

武藤平学「松島開拓之議」 in 1876

これら西洋の混乱した図に日本人も惑わされることになる。青森県士族・武藤平学は、鬱陵島の材木伐採や鉱山開発などの計画をたて、外務省に「松島開拓之議」を提出。ここでいう松島は、欧米系の誤った地図の鬱陵島を指す。

Rittauの図 in 1880

欧米の地図では次第にアルゴノート島が消えていくが、その一方で依然として島名の誤認が続いた。J. Rittauが1880年に編纂した「日本図」では、アルゴノートの名前は地図上からその姿を消し、ダジュレー島と、ホーネット・ロックスの両島のみとなっている。ダジュレー島は鬱陵島であるが、ここでは松島であるとの誤った認識の基に描かれてる。そしてホーネット・ロックスとはLiancourt、つまり松島のことである。


結論

1870年に、「竹島・松島、朝鮮付属に相成り候(そうろう)始末」とした2つの島は、存在しないArgonaut(竹島)とDagelet(松島=ここでは鬱陵島)のことであり、現在の竹島(旧・松島、Liancourt Rock、Hornet)のことではないのである。西欧の地図によって混乱する以前の日本の地図には、竹島の位置や大きさ等が正確かつ詳細に書かれている。そのことは、次の「日本の実効支配」で説明しよう。

 

 

 

 

 

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