GHQの処分

竹島問題は大きく分けて3つに分かれる。
1.誰が最初に発見し、実効支配をしたか
2.1905年の日本の竹島編入の有効性
3.戦後のGHQの竹島処分

日本人が竹島を先占したのであるから、1905年の竹島編入は決定的な出来事と言える。しかしGHQは戦後、竹島を日本の行政権から外した。これが原因で竹島問題が起こっているのだ。もしGHQがこのような処分をしていなければ竹島領有問題など起こっていない筈だ。そしてこの処分が韓国にとっては絶好の機会となる。

日本領は北海道本州九州四国と約一千の隣接島を含むとしたが、SCAPIN677号の第三項で鬱陵島、獨島(Liancourt Rocks)、済州島を除外すると定めた。これに基づき、獨島は当時の駐韓米軍に移管され、1948年8月15日大韓民国成立により自動的に全ての領土が大韓民国に返還され回復された。(韓国の主張)

韓国はGHQの処分を踏まえて、上記のように竹島も韓国に返還されたと解釈し主張している。しかし
GHQの竹島に対する発令は行政権の停止であり、領土権を日本から取り上げたものではない。このSCAPIN667(Supreme Command for Allied Powers Instruction No.677)の覚書の中には、「この指令中のいかなる規定もポツダム宣言の第八条に述べられている諸諸島の最終的決定に関する連合国の政策を示すものと解釈されてはならない」と断りがある。さらに、SCAPIN1033(マッカーサーラインとも呼ばれている)もこれと同様に、日本の統治権、漁業権の最終決定に関する連合国の政策を表明しない、との覚書がある。つまり竹島に対するGHQの処分は最終的なものではないのだ。実際、小笠原(68年返還)も沖縄(72年返還)もラインの外に置かれていた。

戦後の日韓とFRUSについて

「日本との平和条約」の起草段階において、連合国内及び米韓間でなされたやり取りからも、竹島が日本の固有の領土であることが示されている。米国は、占領間の調査から、日本が竹島を古くから正当かつ有効に領有していた事実を確認している。

FRUSは、「Foreign Relations of the United States」の略で、アメリカ国務省の外交機密文書を纏めた書籍。
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FRUS1949年7巻898、及び900ページ以下
740.0011PW(Peace)/11-1449:電報
駐日政治顧間代理(シーボルド)から国務長官へ
     東京1949年11月14日

秘密
495、バターワースへ。マッカーサー元帥と私は、貴殿の11月4日け書簡とともに送付された11月2日付の条約草案、安全保障条項が入る予定の第五章を含まないものに対し個別に注意深い検討を加えた。マッカーサー元帥は次のような意見を提出した。(中略)以下は、我々が極めて重要であると考える条項に関する我々の予備的コメントである。

第四条  おそらく安全保障条項が、台湾および隣接諸島の終局的決定をもたらすであろう。国民投票による台湾信託統治問題を検討してはどうか。

第五条第二項  日本は間違いなく、択捉、国後、歯舞および色丹に対して強い領土主張を行うであろう。合衆国はそのような主張を支持すべきであり、草案中でこの事態における特質を然るべく見越しておくべきであると信ずる。恒久的国境線および漁業の問題にかんがみ、この問題を極めて重要と考える。

第六条 リアンクール岩(竹島)の再考を勧告する。この島に対する日本の領土主張は古く、正当と思われる。安全保障の考慮がこの地に気象およびレーダー局を想定するかもしれない。(後略)

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FRUS1950年6巻1327、及び1328ページ以下
694.001/10-2650
北東アジア課ロバート・A・フィアリー氏による日付のない覚書
           〔ワシントン〕

秘密
合衆国が準備した対日条約に関する原則の表明に対しオーストラリア政府が提出した質間に対する回答(中略)

瀬戸内海の島々、隠岐列島、佐渡、奥尻、礼文、利尻、対馬、竹島、五島群島、琉球諸島最北部および伊豆諸島、いずれも古くから日本のものと認められていたものであるが、これらは日本によって保持されるであろうことが考えられている。(後略)

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FRUS1951年6巻 1202、1203ページ以下
北東アジア課朝鮮担当官(エモンズ)による会談覚書
  (ワシントン)1951年7月19日
秘密

主題 対日平和条約

出席者

ユーチャン・ヤン博士、韓国大使

 

ピョーウーク・ハン氏、韓国大使館一等書記官

 

ジョージフォレスター・ダレス大使

 

アーサー・B・エモンズ氏、朝鮮担当第三事務官

韓国大使は、本日午後二時、事前の面会約束によってダレス氏を訪問した。ヤン博士は、会談の開始に際し、韓国政府が対日平和条約に組み入れることを考慮してほしいと希望するいくつかの点を掲げる国務長官あての公文(添付資料)をダレス氏に提出した。(中略)

ダレス氏は韓国大使の伝達文第一項が対馬島に言及していないことを指摘し、韓国大使はこれが落とされたことに同意した。次いでダレス氏はドク島、パラン島二島の位置について尋ねた。ハン氏は、これらは日本海にある小島であり、大体鬱陵島の近くだと思うと述べた。ダレス氏はこれらの島が日本の朝鮮併合前に朝鮮のものであったかどうかを尋ね、大使は肯定した。ダレス氏は、もしそうであれば条約中の日本による韓国領土の領土権放棄に関する適当な箇所にこれらの島を入れることについて、特に問題はないとした。(中略)

この通常無人島である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐支庁の管轄下にあります。この島は、かつて朝鮮によって領土主張がなされたとは思われません。

国際司法裁判所提訴についての口上書 in 1954

日本政府は1954年に、韓国に対して「国際司法裁判所提訴についての口上書」と題する書簡を送った。下記はその原文である。

-----------------国際司法裁判所提訴についての口上書-----------------
外務省は、在日本大韓民国代表部に敬意を表するとともに、竹島の領有問題に関し、次のとおり申し述べる光栄を有する。

一、日本国政府は、竹島が日本国領土の不可分の一部であることを確信し、これを韓国領土なりとする大韓民国政府の主張を屡次の公文、特に一九五四年二月十日付外務省口上書亜二第十五号をもって反駁して来た。しかしながら、大韓民国政府は、日本国政府の見解を全く無視した。のみならず、日本国政府の度重なる申入れ及び厳重な抗議にもかかわらず、大韓民国官民による竹島に対する侵犯、同島周辺の日本国領内における漁猟並びに同島にわける大韓国領土標識及び灯台の設置等の不法行為が繰り返され、更に最近同島の現況調査のため派遣された日本国巡視船が同島より突然銃撃を受け損害を被るに至った。

二、本件は、国際法の基本原則に触れる領土権の紛争であるので、唯一の公正な解決方法は、本件紛争を国際裁判に付託し、判決を得ることにあると認められる。日本国政府は、紛争の平和的解決を熱望し、本紛争を日本国政府及び大韓民国政府の合意の下に国際司法裁判所に付託することをここに提議する。

三、日本国政府は、大韓民国政府がこの紛争の最終的解決を最も公正にして、権威ある機関、すなわち国際司法裁判所にゆだねることを確信し、早急に好意ある回答を寄せられんことを期待する。日本国政府は、ここに、国際司法裁判所の下すいかなる判決にも誠実に従うものであることを誓約する。

四、裁判所の判決のあるまでの期間、両国政府が事件をこれ以上紛糾させないためにあらゆる手段を尽すことは、最も希ましいことと考えられる。よって、外務省は、日本国政府が竹島などその周辺において困難な事件の発生を防止するための共同の暫定措置について大韓民国政府と協議する用意があることを同代表部に通報する。

外務省は、在本邦大韓民国代表部が前記の諸提案を大韓民国政府に伝達し、それらの提案に対する同国政府の見解を同省に通報せられんことを要請する。

昭和二十九年九月二十五日
-------------国際司法裁判所提訴についての口上書・終わり-------------

ここまでの流れを纏めてみる     

 

1943年11月27日

カイロ宣言

 

1945年07月26日

ポツダム宣言

 

1945年08月15日

日本、ポツダム宣言を受諾

 

1946年01月29日

SCAPIN 677(竹島を日本の行政権から外す)

 

1946年06月22日

SCAPIN 1033(竹島を日本の漁業権から外す)

 

1947年09月16日

SCAPIN 1778(竹島を米軍射爆に指定。第一次)

 

1949年09月19日

SCAPIN 2046(SCAPIN-1033を廃止する旨の指令書)

 

1949年11月14日

駐日政治顧間代理(シーボルド)から国務長官へ

 

1950年?月?日

北東アジア課ロバート・フィアリー氏による日付のない覚書

 

1950年06月25日

朝鮮戦争勃発

 

1951年07月06日

SCAPIN 2160(竹島を米軍射爆に指定。第二次)

 

1951年07月19日

北東アジア課朝鮮担当官(エモンズ)による会談覚書

 

1951年09月08日

サンフランシスコ講和条約に調印。(韓国の領土に竹島は含まれず)

 

1952年01月18日

李承晩大統領の海洋主権宣言

 

1952年01月28日

日本による抗議

1952年04月28日

サンフランシスコ講和条約発効。

 

1953年02月04日

第一大邦丸事件

 

1953年02月27日

アメリカが米軍の演習地区から除くと発表

1953年04月20日

独島義勇兵を結成した韓国の青年が竹島に上陸

 

1953年06月19日

島根県が県漁民に対し、竹島に関する漁業許可権を下す

 

1953年06月26日

日本側が竹島に「日本島根県隠岐郡五箇村」の標識を立てる

 

1953年07月12日

韓国の獨島守備隊が日本の海保庁巡視船に発砲

 

1953年07月27日

朝鮮戦争終結

 

1953年10月17日

日本の国会議員が海上から竹島を調査

 

1953年10月21日

島根県水産試験船・島根丸の船員と記者が竹島に上陸

 

1953年10月23日

海上保安庁の巡視船2隻が竹島に近付いて韓国の領土標識を撤去し、日本の領土表示を設置

 

1954年09月25日

国際司法裁判所提訴についての口上書

 
                

国際司法裁判所

日本政府は李ラインが引かれた直後、上記に示したように国際司法裁判所への付託提案をした。しかし韓国は裁判への付託を拒否、沿岸警備隊の配属、灯台、無線電信所設置など実力行使をしている。ここでもう一つの韓国の背信行為を指摘したい。1965年に日韓関係が正常化された際に、竹島の帰属だけは意見の一致がみられず、その際取り交わされた紛争解決に関する交換公文は、別段の合意がある場合を除くほか、外交上の経路を通じて解決されなかった紛争は、調停によって解決を図ることとした。しかし、韓国側は竹島問題は交換公文にいう紛争ではないと主張して竹島の占拠を続け、島根漁民の操業にも影響を与えている。78年9月の第10回日韓定期閣僚会議で竹島の帰属に関する継続協議、安全操業の確保が決定されたが、日本は韓国の不法占拠に繰り返し抗議を続けている。

于山島が竹島であると主張し、1905年の島根県への編入が無効だと考えるのであれば、韓国政府は日本の要請に応え、国際司法裁判所に出廷し自らの意見を述べ、竹島問題の解決を図るべきである。

 

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