日本化学工業協会 「日本の化学工業50年のあゆみ」より

合成繊維工業の確立

 わが国化学工業のなかで,化学繊維は戦前ならびに戦後復興期において極めて重要な地位を占め,出荷額でも高いウエイトを持っているがその中心はレーヨン工業であった。しかし,戦後,欧米においては合成繊維工業が急速に発展してきたことから,わが国の基幹産業である繊維産業を発展させるためには既存の天然繊維,レーヨン工業に加えて合成繊維工業を確立することが急務との認識が高まっていた。
 こうした情勢を反映して商工省は,1949年5月に「合成繊維工業の急速確立に関する件」を省議決定,合成繊維工業の育成に乗り出した。すでに戦前から研究開発を続け,一応の工業化技術を確立していたナイロン,ビニロンが本格的に生産を開始することになった。
 最初に企業化されたのは
ナイロンで,1950年に東洋レーヨンは日産1トン設備を滋賀工場に完成させ,原料のカプロラクタムは東亜合成化学から供給を受けて生産を開始した。
 また,1950年には
倉敷レイヨンが,冨山工場にカーバイド・アセチレンを原料とするポバール日産5トン,岡山工場にビニロン日産5トン設備を完成,世界で最初のビニロンの工業生産を開始している。
 東洋レーヨンのナイロンおよびカプロラクタム製造技術は,同社が独自に開発したものであったが,同社は特許面での配慮から1951年に米・デュポンからナイロン製造技術を導入した。
 その後,
ビニロンについては大日本紡績ナイロンでは日本レイヨンが新規参入して2社体制となった。

 その他の合成繊維では,塩化ビニリデン繊維を1953年に旭ダウが企業化したのに続いて呉羽化学が生産を開始している。

 ナイロンの急成長に象徴される合成繊維工業は,新規戦略産業の花形として注目を集め,以降,アクリル繊維,ポリエステル繊維が各社で検討されるなど新たな段階を迎えた。この過程で各種育成政策が実施されたが,その中心は需要の積極的な喚起と経済規模による量産体制の整備で,例えば,1953年の合成繊維産業育成対策では,繊維製品を大量に使用する保安隊,国鉄,郵政省などは「可及的大幅に合成繊維製品に使用転換を図る」とし,政府が率先して需要拡大に取り組むことを決めている。

アクリル繊維の国産化とアクリロニトリル

 アクリル繊維は,1957年から1960年にかけて鐘淵化学,旭化成,日本エクスラン,三菱ボンネルが本格生産を開始したのに続いて東邦レーヨン,東洋レーヨンも試験生産を開始した。
 アクリル繊維は,その特徴から羊毛に代替する合成繊維として主として織物分野を中心に市場開拓が進められたが,品質上の問題もあって成功せず,1962年まで低迷を続けた。しかし,1962年からセーター,肌着メリヤス,ジャージーなどを主体とする編物が “ニットブーム”となり,これが安定した中核市場となってアクリル繊維はナイロン,ポリエステルに次ぐ3大合成繊維の1つとしての地位を確保することになった。
 アクリル繊維とアクリロニトリル企業化の動きは,1950年代から活発化するが,これはアンモニア・化学肥料工業の合理化問題と密接な関係を持っている。アクリロニトリルの製法は,青酸とアセチレンを原料とする直接法であったが,この青酸の製法としては,一酸化炭素とアンモニアを原料とするホルムアマイド法と,メタンとアンモニアを原料とするアンドリューソ法が世界的にも主流となっていた。
 特にわが国のアンモニア・化学肥料企業にとっては,ホルムアマイド法は一酸化炭素源にアンモニア合成時の副生ガスや力一バイド炉の廃ガス,さらにはメタノール合成用の水性ガスなどを利用できるというメリットがあった。また,アンドリューソ法は,アンモニアのガス源であるメタンを使用できることから,アンモニアの合理化と結びついた新規多角化製品であった。
 アクリル繊維4社のうち最初に企業化したのは
鐘淵化学で,1957年7月から生産を開始した。同社は,塩化ビニルモノマーの用途展開の1つとしてアクリロニトリルとの共重合繊維を開発したもので,企業化にあたっては,鐘淵紡績ならびにアクリロニトリルメーカーの日東化学,東洋高圧の出資を得てカネカロンを設立している。
 
日本エクスランは,アンモニアの合理化と経営多角化の一環としてホルムアマイド法によるアクリロニトリルの企業化を検討していた住友化学と東洋紡績が,合弁で1956年に設立した会社である。
 また,
三菱ボンネルは,アンドリューソ法によるアクリロニトリルの企業化を計画していた三菱化成が,三菱レイヨン,米・ケムストランドと合弁で設立したものである。

 アクリロニトリルは,1957年に日東化学が自社技術で生産を開始したのに続いて,1958年には東洋高圧,1959年には住友化学,三菱化成が本格生産を開始した。このうち東洋高圧は天然ガスのメタン,三菱化成は炭鉱の坑内ガスを原料に使用した。
 わが国でアクリロニトリルの生産が本格化した直後の1960年,後述するようにアメリカで
ソハイオ法が登場してきた。このためわが国では,石油化学工業第2期計画のプロピレン利用もからんで既存メーカーに加えて各社が相次いで技術導入を行った。
最初にソハイオ法アクリロニトリルを企業化したのはアクリル繊維メーカーの旭化成で,1962年5月から生産を開始した。続いて1963年に日東化学,1964年に三菱化成,三井石油化学,1965年に東洋高圧と短期間にソハイオ法への転換が進んだ。


ポリエステルの工業化と急伸

 ポリエステル繊維は,東洋レーヨンと帝国人造絹絲の両社が英・ICIから技術を導入,1958年から生産が開始された。ポリエステル繊維はステープルが中心で,レーヨン,綿,毛,麻との混紡による織物が各種衣料に使用され,市場は爆発的に拡大した。例えば,レーヨンとの混紡では紳士替えズボン,学生服,子供服,綿混ではワイシャッなどであり,両社の商標である“テトロン”はポリエステル繊維製品の代名詞となった。
 両社がICIから導入した技術には,パラキシレンを硝酸酸化によりテレフタル酸を製造,これをエステル化してジメチルテレフタレート(DMT)を作り,エチレングリコールを加えてポリエチレンテレフタレートチップとし,これを紡糸するという一連の技術が含まれていた。
 しかし,テレフタル酸の技術としては,無水フタル酸,安息香酸を原料とする西独・ヘンケルが開発したヘンケル法,パラキシレンを空気酸化する米・サイエンティフィック・デザイン(SD)が開発したSD法などがあり,これら新技術が注目されていた。
 このため最終的には,東洋レーヨンはSD法による三井石油化学,ヘンケル法による川崎化成の両社からテレフタル酸を購入,DMTからポリエステル繊維を一貫生産する形となった。一方,帝国人造絹
は,無水フタル酸を購入してヘンケル法でテレフタル酸を自給する一方,SD法によるテレフタル酸を丸善石油から購入し、以降一貫生産することになった。
 すなわち,ポリエステル繊維の原料は,石油化学工業第1期計画で国産化されたエチレングリコールとパラキシレンを原料とするSD法テレフタル酸に加え,石炭化学製品である無水フタル酸からのテレフタル酸であった。
 ポリエステル繊維の順調な市場拡大と,石油化学工業第2期計画の進展に伴う原料供給体制が整うなかで,1964年から
倉敷レイヨン,東洋紡績,日本レイヨンの後発3社が新たに生産を開始した。先発2社はDMTを自給していたが,後発3社はDMTを購入してポリエステル繊維を企業化することにしたため,これを契機に丸善石油,三井石油化学,川崎化成,さらには三菱化成がDMTの生産を開始した。このうち,三菱化成は川崎化成に資本参加するとともに自社でも第2ヘンケル法によるテレフタル酸およびDMTを企業化したものである。


ナイロンの後発企業とカプロラクタム

 ナイロンは国産化以来わが国合成繊維工業の中核を占め,東洋レーヨン,日本レイヨンの両社は高い成長を続けていた。ナイロンの特徴を生かして衣料用の各種織物,メリヤスなどの編物,漁網綱や産業用のロープ,タイヤコードなどに既存の天然繊維やレーヨンにかわって使用されるとともに新しい市場の開拓に成功したからである。
 ナイロン原料のカプロラクタムは,フェノールないしシクロヘキサンからシクロヘキサノンを経て生産される。わが国で最初にナイロンを企業化した東洋レーヨンは,当初フェノールを原料に東亜合成化学が生産するカプロラクタムを購入して生産を開始したが,増設にあたっては東亜合成化学からシクロヘキサノンを購入,カプロラクタムは自社で生産を開始した。
 ナイロンの増設に伴いカプロラクタムの需要が急増するなかで
東洋レーヨンは,1962年にPNC(Photo−Nitrosation of Cyclohexane:光ニトロソ化)法を開発,世界で初めて工業化に成功,以降同設備を増設した。
 一方,日本レイヨンは必要なカプロラクタムを宇部興産から購入したが,宇部興産のシクロヘキサノンはフェノールないしベンゼン直接法で生産されていた。
 このようにナイロン原料の中心は,フェノール,ベンゼンであり,石油化学工業よりも石炭化学工業に依存する比率が高かった。また,1960年代を迎えてカプロラクタム需要が急増すると,アメリカからのシクロヘキサンの輸入が大幅に増加した。アメリカのシクロヘキサンはわが国に比べてベンゼンと水素が安いことから極めて安価で,国産化のメリットがなかったからである。

 ナイロンは,先発2社による寡占体制が長く続いたが,1963年から1964年にかけて帝人,鐘淵紡績,呉羽紡績,旭化成の後発4社が生産を開始したことから新たな段階を迎えた。

 ナイロン後発4社の参入に伴い,カプロラクタムの供給体制は大きく変化した。まず唯一の外販メーカーである宇部興産は,日本レイヨンに加えて帝人,旭化成への供給を開始すると同時に新インベンタ法によるシクロヘキサノン,カプロラクタム設備を大幅に増設した。
 またナイロン後発メーカーの新規企業化を契機に,三菱化成および日本ラクタムの両社がカプロラクタムの生産を開始した。このうち
三菱化成は,日本レイヨンから新インベンタ法のサブライセンスを受けて1964年から生産を開始し,日本レイヨンと鐘淵紡績への供給を開始した。一方,日本ラクタムは,1963年に住友化学,帝人,呉羽紡績が合弁で設立した会社で,西ドイツのBASF法を導入,1965年から生産を開始した。カプロラクタム需要の急増に伴い,シクロヘキサンの輸入は増加するが,国内で自給体制が完全に整うのはエチレン30万トン設備が相次いで完成する1970年以降になる。

 

“夢の繊維”ポリプロピレン

 ポリプロピレン繊維は,石油化学工業第2期計画におけるプロピレン留分の主力製品としてポリプロピレンが計画され,この最有力分野として国産化された。すなわち,ナイロン,ポリエステル,アクリルの3大合成繊維に続く第4の合成繊維として“夢の繊維”といわれ,高い成長が期待された合成繊維である。
 企業化にあたっては,伊・モンテカチー二の技術を導入した
三菱油化は三菱レイヨン三井化学は東洋レーヨン住友化学は東洋紡績とそれぞれ提携して,1962年から繊維会社がポリプロピレン繊維の生産を開始した。また,1963年には新日本窒素肥料が子会社で生産を開始したのに続いて,日東紡績,東亜紡織,大和紡績などが相次いで生産を開始した。

 しかし,ポリプロピレン繊維は軽くて寸法安定性が優れるなどの特徴を持っていたが,染色性が悪く耐熱性が劣ることなどから適性を生かした用途を確保できず,合成繊維としては成長しなかった。
 この結果,ポリプロピレンは合成樹脂として成形材料の市場を拡大することとなる。

 わが国の合成繊維は,1950年代にナイロン,ビニロン,ポリ塩化ビニリデン,ポリ塩化ビニル,アクリル,ポリエステル,ポリエチレン繊維が企業化され,1960年代にはポリプロピレン,スパンデックス繊維などが企業化された。しかし,合成繊維別にみると,1963年にはナイロン,ポリエステルに続いてアクリルがビニロンの生産量とほぼ並び,以降ナイロン,ポリエステル,アクリルの3大合成繊維の時代に入った。
 ナイロンの靴下,ポリエステルのワイシャツ,アクリルのセーターは,3大合成繊維が天然繊維の牙城に浸透,独自の地位を確保したことを象徴するものであった。この結果,1963年にはわが国の繊維需要の糸別構成で合成繊維は20パーセントを超えた。