肥料と石油化学
http://www.jttk.zaq.ne.jp/bachw308/page049.html#539

 現在インドネシアは2地点で天然ガス液化工場を操業している。一つはスマトラ島の北端のアチェ州(のアルンは早くから拓けており液化工場の所在地はかって日本軍の飛行場があったところである。液化工場のすぐ近くにロック・スマウェ(Lhokseumawe)という古くからの港湾都市がある。無尽蔵と思われた天然ガスの埋蔵量の枯渇が懸念されるようになっただけに政府の対応が注目される。
  LNG工場に隣接して一際目立つのが尿素プラントである。尿素プラントなど肥料工場は資本集約の装備産業である。設備のスケール・アップのためには大市場の確保が必要であるが、インドネシア一国にだけでは市場が不安であった。
 1967年に発足したASEANは地域経済協力としてアセアン・プロジェクトの方式は60%を地元国、残り40%は他の加盟国が共同投資を行う。その
ASEAN工業プロジェクトの一つがロック・スマウェの尿素プラントである。製品はアセアン諸国に引き取られる。
 アルンの尿素プラントは天然ガスの原料立地であり、57万トンの生産規模である。ちなみにマレーシアのサラワク州ビンツルのLNG基地にもアセアン・プロジェクトの尿素プラントがある。
タイはソーダ灰の化学工場を分担した。
 ASEAN各国において経済規模の発展にともない自国だけで相当な市場が見込めるようになったこと、規制緩和、民営化などでその後のASEAN新規共同プロジェクトはない。

  石油化学工業は石油もしくはガスを原料とする。インドネシアは産油国であるため原料確保で優位である。石化製品の国内市場がかなりの規模に達することから石油化学への進出を意図した。石油についても石化製品にして輸出したいという動機があった。
  インドネシアが石油化学に進出する計画は1980年代にあった。プルタミナを主体として精油所とコンビナートが検討された。石油化学プロジェクトに強引に割り込んできたのが、チュコン企業(政商の華人企業)の
バリトー・グループであった。ビマンタラを取り込み国家プロジェクトに位置づけられた。 
  チャンドラ・アスリ(Chandra Asri)プロジェクトはジャワ島西端のチレゴン近くにエチレン年間52万トンを生産する。総事業費約19億ドルで、資本金10.5億ドル、長期借入金約8億ドルであり、日本側は丸紅がパートナーであった。
  石油化学工業は高度の技術を必要とする資本集約の装置産業である。スケール・メリットがあるので規模を大きくするためには、相応の販路がなければならないが、チャンドラ・アスリは計画段階からキラキラ(インドネシアでは
キラ:計算の二乗のキラキラは“概算”とか“約”の意味になる)であったらしい。
 1995年から操業しているが、経営状況は悪く赤字の累積は1000億円以上に達しており、インドネシア政府にはKSと同様の荷物になっている。
(注)チャンドラ・アスリは単年度決算において黒字を出したのを機会に丸紅はチャンドラ・アスリ・プロジェクトからの撤退を明らかにした。2005年5月


(クラカタウ製鉄(PT Krakatau Steel 略称KS)はインドネシア国営の製鉄一貫工場である。その規模は240万トン/年であるが、常時発生する技術的ネックのため2/3程度の能力でしか稼働していない。)

 

バリト・パシフィック・グループ

 彭雲鵬(プラジョゴ・パンゲツ Prajogo Pangestu)はインドネシア経済界に突如として現れたバリト・パシフィック(Barito Pacific)グループの総帥である。彼は南カリマンタンのバンジャルマシンの合板事業から拡大し、林業王、合板王といわれるようになった。
 プラジョゴ・パンゲツは西カリマンタンの小さな町出身で、父は農園の労働者であり苦学して地元の華人学校を出た。ミニバス運転手など職種を転々とし、25歳の時に木材商人の華人のブルハン・ウライと出会い、ジャヤンティ・ジャヤ(Djajanti)の設立に参加して木材業界に入った。ジャヤンティ・ジャヤも今日の合板業界の有力な会社に名を連ねているのは彼の功績である
 1977年プラジョゴ・パンゲツは雇われ経営者から独立してバンジャルマシンにバリト・パシフィック(BPT)を設立した。森林利権を取得したが、当時は誰も注目しなかったマルク州に眼をつけ、最初の投資としてマルク州マンゴレ(Mangore)島に合板工場を建設した。マンゴレ島は合板生産ラインは最終的に10本に達する大規模工場である。ちなみにディアジャンティ・グループはセラム島ワイサリサに大規模の合板工場を建設している。
  1980年にインドネシア政府は原木丸太の輸出禁止政策を発表し、1985年から実施されることになった。国内合板工場とともに東インドネシアへの投資を奨励していたため、BPTのマンゴレ島の工場の完成は政府の政策と合致するものであった。見方を変えると政商の都合に合わせて政策が実施された。
  原木伐採権が合板工場を持つ者のみに与えられたため、それまでの林業企業に代わってBPTは波に乗って事業を拡大してきた。BPTは続いてタリアブ(Taloabu)島、セラム島に広い面積の林業租借地を得た。レルナト島、ハルマヘラ島にも森林租借地を得た。
  グループ全体で28の工場を所有し月産能力は88,000?という合板事業の最大手となり、プラジョゴ・パンゲツは「合板王」と呼ばれるようになった。急速な拡大は80年代に競争相手を買収した結果である。
  BPTの事業は合板事業から川上方面では植林事業へ、川下方面では紙パルプ事業に拡大するとともに、スハルト大統領との癒着も目立つようになった。自動車のアストラ社が頓挫した際に株を共同買収し、アストラ・グループの最大株主になった。
  スハルト末期におけるチュコン企業(政商の華人企業)としてのBPTは急成長した。他の華人財閥が中国投資を増やしたのに対してBPTは中国投資がないことがスハルト大統領の評価を受けたといわれる。ただしマレーシアへの投資で脱インドネシアの保険はかけていた。
  順風満帆に見えたバリト・パシフィックにも新規事業の南スマトラのパルプ工場も石油化学プロジェクトにも問題が起きている。

ビマンタラ・グループ

 インドネシアの企業の番付けには華人企業がずらりと並ぶ。
華人系でないプリブミ企業といわれるものもたまにある。その筆頭がスハルト政権時代に伸長の目覚ましかったビマンタラ(Bimantara)グループである。
 ビマンタラの出発は1981年にスハルト大統領の次男バンバンが29歳の時に学友が加わり設立したビマンタラ・チトラという貿易会社である。創立以来10年余りの急成長である。そのオーナーはバンバンと姉婿のインドラ・ルクマナ(Indra Rukmana)である。
 この企業が何かと話題になるのはバンバン(Bambang Trihatmodjo)がスハルト大統領の次男であるからである。インドネシアのジャーナリズムの目からも聖域になっているので事業の全容については明らかでなく、時たまビマンタラ社の記事が出るのは外国のマスコミである。
 香港誌(Far Eastern Economic Review 30 April 1992)によるビマンタラ社の概要は次のとおりである。
 ビマンタラ傘下82社の資産総額3兆1470億ルピア。51%以上保有の子会社の内訳、自動車関係12、輸送関係11社、ケミカル関係10社、商社2、薬品2、通信・放送関係5、金融・保険関係8、不動産関係14、アグロビジネス10、鉱業・エネルギ−6である。関係会社も含めると134社、グループの総収入は2.2兆ルピア、従業員1.1万人である。
 同グル−プの主要企業である石油会社の「Permindo Oil Trading」はインドネシア石油の海外販売を行っている。「Panca Holding」はプラスティク原料の輸入を行っている。船舶については韓国向けのLNG船の会社に参加している。その他のめぼしい事業はインドネシア初の民間テレビ【RCTI】、ガル−ダに対する航空機のリース事業、東ジャワ沖のガス田からグレシックまでのガスパイプの敷設もある。

サリム

チュコンの代表ともいうべきスドノ・サリムは一代にしてサリム・グループというアジア屈指の財閥を築いた。サリム・グループの大きな特色はスハルト大統領一族との癒着である。スハルトが大統領の座に座るや、サリムは丁子輸入権の特権を手にした。サリムは権力に取り入り、スハルト一族との共同事業によって事業を拡大した。
  グループの中核であるインドネシア最大の民間銀行バンク・セントラル・アジア=BCAをはじめ、サリム・グループの企業の株主にはスハルト夫婦一族と家族が名を連ねた。スハルト一族が身銭にをきって出資したとは思えない。一族の役割は事業許可の特権を得ることである。その見返りは高額の配当である。
 初期の製粉やセメント事業では独占権が与えられた。放送や通信などの新しい事業分野ではチュコンでない者には事業機会が閉ざされた。
  スドノ・サリムは世界有数の資産家としてランクされるようになった。彼はインドネシア国籍を取得したからインドネシア人である。インドネシアから世界有数の資産家が出たことは慶賀すべきである。バルセロナのオリンピックで中国系インドネシア人がバドミントンで金メダルを取った時はインドネシア中が興奮した。サリムが資産家ランキングで世界有数であったにもかかわらず、インドネシア人は慶ばないのみならず嫌悪感を露にした。インドネシア人の嫉妬だと等閑視はできない。

華僑の林紹良(リム・シウ・リョン Liem Sioe Liong)、インドネシア名をスドノ・サリム(Sudono Salim)が一代で築き上げたサリム・グループの売上高はアストラ・グループの約3倍にも達するインドネシア最大の企業グループであった。
 サリムの経歴は1916年、福清県海口鎮牛宅村の農家の3兄弟の次男に生まれた。22歳の1938年、兄に続いて叔父を頼りにジャワ島へ渡った。中部ジャワのクドゥスで石鹸などの製造商売をしていたが、独立戦争当時に軍への物資納入を通じてディポヌゴロ師団の幹部、後に大統領となるスハルト将軍との人脈を築いた。
  スハルトが大統領になるとともにジャカルタに進出し、丁子の輸入独占権をえて事業の基盤を築いた。さらに製粉、セメントに進出し事業を拡大した。彼の事業は政権との癒着によって独占権によって暴利を得たことである。
  金融へ進出ではバンク・セントラル・アジア(BCA)を設立し、銀行家モフタルの手腕によってBCAはインドネシアの最大の民間銀行になった。後にモフタルはリッポウ・グループとして独立した。
  1980年代にインドネシアの経済発展に対応しサリム・グループの国内事業の多角化、多国籍化が進められ、事業は@農園、A食品、B化学、C建設資材、Dエネルギー・林業、E自動車、F輸出工業、G通信、H金融、I不動産、J流通の11の事業部に再編し、売上高223億ドル(1996年)、傘下企業450社、総従業員28万人(内インドネシア23万人)のコングロマリットであった。
 サリム・グループの事業活動はインドネシア国内にとどまらずアメリカ、香港の銀行、オランダの商社の買収など国外にまで拡大し、サリムは世界有数の富豪になった。サリムの海外投資でとりわけ中国の故郷である福建省への投資に熱心であったことは同グループに対するインドネシア人の感情を逆なでした。
  三男の息子のアントニー・サリム(林逢生)が事業を引き継ぎ、それなりの経営の近代化は行われたものの「土地があり、水があり、太陽があり、そして政府がある」という言辞にあるようにスハルト政権との癒着がグループの根源であった。
  事業推進の資金は金利の安い外国銀行から大量に借り入れ、1997年末で海外借入残高は55億ドルあった。しかしアジア通貨危機でルピアが暴落したことからルピア返済債務が急膨張して返済困難になった。グループ企業の返済能力の低下によりグループの要である銀行の不良債権は急速に増加し、財務破綻に陥った。
  5月暴動事件の際にサリムの自宅は放火され、BCAの青ガラスの建物は投石の的であった。スハルト大統領の辞任でBCAは取付けにあった。BCAは政府資金の投入を受けて国有化され、返済にサリム家の個人資産の提供を求められ、企業の持株は売却された。企業株の売却によってサリム・グループは解体されて劇的な再編を余儀なくされ、食品と自動車だけが残された。しかしサリム資産の売却の買手にしばしばサリムのダミーの名が取りざたされている。


インドネシアの話題 http://fps01.plala.or.jp/~searevie/new_page_4.htm

トミー・スハルト、15年から10年に減刑(05年6月28日)

スハルトの三男フトモ・マンダラ・プトラ、通称トミーは2001年11月28日に1年と24日振りに逮捕された。警察庁長官のビマントロが交代させられる前日のことである。
トミーは 刑事局長ソフヤンに肩を抱きかかえられて警察署に迎え入れられた。トミーは薄笑いさえ浮かべて少しも悪びれる様子はなく、手錠もかけれれていなかった.。
トミーは2000年11月に食糧調達庁ブログとの土地取引をめぐる不正行為で18ヶ月の実刑判決を受け(トミーの逃亡期間中に同じ南ジャカルタ高等裁判所で無罪の逆転判決を受ける)、収監直前に姿をくらました。
その後、かってトミーに有罪判決を下したシャフィウディン・カルタサスミタ高裁判事が01年7月何者かに出勤途上銃殺された。
また、トミーから直接以来を受けたとされる爆弾所持者が逮捕されるなど、過去1年の間に数回起こった爆弾テロ事件にも関与していた疑いが持たれていた。また、トミーの自宅を捜索中にライセンスの無い銃器が複数押収された。
トミーが1年間も逮捕されなかったのは、警察が所在を突き止めながら、何らかの理由で逮捕を怠っていたのではないかという疑惑すら持たれている。
また、トミーの逮捕時に彼のボディー・ガード もおらず、すんなり逮捕されたことも逮捕劇に対する疑惑を深めている。トミーは拘置所内では特別待遇を受けていることも批判の的になっている。
これ以外にも、トミーの逮捕によって前大統領のアブドゥラマン・ワヒドに思わぬ「汚職」容疑が降りかかっている。
というのはトミーはワヒドに実刑の「特赦」を願い出て、ワヒドと直接会談していたことは広く知られているが、その時ワヒドとの会談を斡旋した人物に150億ルピアを渡し、その一部がワヒド側(夫人)に渡されたというものである。
ワヒドはトミーの「特赦」要請を断ったが、刑事犯がいくら元大統領の子息だからといって直接現職の大統領とホテルで面談し「特赦」を願い出るなどということができたこと自体異常という外ない。
しかし、スハルト一族からは莫大なる買収資金が警察、検察、裁判所などに流されることが予想され、結局トミーは罪を免れる可能性もかなり高いと見るべきであろう。

(02年7月26日追加)
トミーに対する判決が本日言い渡された。求刑通りの15年の禁固刑判決であった。そもそも求刑が異常に軽すぎたのであり、これでは大多数のインドネシア国民は納得はしないであろう。
トミーは今回の判決には不服で控訴すればスハルト一家にとってはさらに多額の買収資金が必要となるであろう。(控訴せず刑は確定)
また、今回の裁判で全く触れられていない事件がある。それはジャカルタなどで起こった爆破事件(2000年9月の証券取引所爆破事件で10名の死者がでている)である。これにはトミーがかなり関与しているとみられている。
彼ばかりか軍の「特殊部隊」関係者も事件にかかわりがあるという見方がされている。
スハルトの女婿であり、故スミトロ・ジョヨハディクスモ博士の長男のプラボオ元特殊部隊司令官の影響力も噂されている。スミトロ博士は汚職批判などしばしばおこなっていたが、自らも汚職の嫌疑をかけられたこともあるしたたかな学者であり、Bank Pelitaのオーナーでもあった。
トミーの有罪判決が出た直後、偶然の一致であろうがアンボンでまた爆発事件が起こった。インドネシアの軍(特殊部隊)の中に依然として「スハルトに忠誠を尽くしている」部分が存在していることは間違いない。

(02年8月2日、3日追加)

2-3. トミー・スハルト、15年から10年に減刑(05年6月28日)

トミー・スハルトは自分に不利な判決を下したシャフィウディン・カルタサスミタ(Syafiuddin Kartasasmita)高裁判事を殺し屋を使って銃殺した罪で15年の禁固刑(この刑そのものが異例の軽さ)でヌサカンバンガン(Nusakambangan)刑務所で服役中である。
ところが、最近になって、カネモチ階級にはやけに情け深いことで知られるインドネシアの裁判所(この場合は最高裁バギール・マナン裁判長)はトミー・スハルトの要求に応え、禁固刑を15年から10年い減刑するという思慮深さ(?)を発揮した。
バギール判事はこれが担当判事が一致して認めるインドネシアの正義であると主張しているという。あきれはてた正義である。
しかし、トミーはまだ不満で「即時釈放」を求めていたらしい。要するに、銃器の不法所持もカルタサスミタ判事殺害も全てがでっち上げ打というのである。それならば、なぜ地裁の判決が出たときに控訴しなかったのであろうか?
しかし、最高裁はトミーの要求を聞かない代わりに、きわめて迅速に刑期の短縮をおこなった。よっぽど、即効性のあるオクスリが利いたものとみあっれう。インドネシアの国民はこれにはさすがに黙っていらえないであろう。
こういう国で事業をやるというのは外国人にとっては大変なリスクであると認定せざるをえない。このような桁はずれの「正義の判事」がインドネシアの法廷から一掃されない限り、インドネシアの「投資環境」は重大な欠陥を持っているといわざるをえないであろう。
あちらこちらが腐っているのが今のインドネシアであるが、徐々に改善されつつあるのも事実である。それを成し遂げるのは為政者ではなくて一般国民であるということがインドネシアの悩みである。
SBY大統領がどこまで本気でやる気があるのか?それは彼が国軍の浄化をどこ迄やるかを見てればすぐにわかることである。そのひとつの試金石はアチェのGAMとの和平交渉であり、ムニール事件の処理であろう。


シンガポールのタマセク、インドネシアの主要民間銀行支配を目指す(04年2月11日)

シンガポールの国営持ち株投資会社タマセク(Tamasek Holding)はインドネシアの有力銀行BNI(#48 BIIの記事参照)の51%の株式(IBRA所有)の買収に成功する可能性が高まっているという。
そのことに対する危機感が現在の経営陣や議会にも高まり、改めてメガワティ大統領やラクサマナ国営企業担当相の政治姿勢が問われる可能性が出てきた。
タマセクは既にバンク・ダナモンとバンク・インターナショナル・インドネシアを実質的に支配下に置き、さらにバンク・ネガラ・インドネシアも買収しようとしている。
またインドサットの買収にも成功し、インドネシアの通信事業や金融機関の良い部分を押さえようとしているという非難が出てきている。
確かに、今までの一連のIBRA資産の売却方針をみればシンガポールのタマセクに優良部分が優先的に売却されてきたことは間違いない。


 

IBRA所有のBahana の約束手形2.9兆ルピアを3,680億ルピアで売却(04年2月24日)

IBRA(インドネシア銀行債県庁)が所有していたPT. Bahana Pembinaan Usaha Indonesiaの2.9兆ルピアの資産(10年年賦の約束手形)が、国営企業担当相ラクサマナの承認を得て、PT. Teknologi Nasional Indonesia(TNI)にわずか3,680億ルピアで売却された。
 回収率はわずかに12.7%である。(現在1万ルピア=128円)2.9兆ルピア=371.2億円、3680億ルピア=47.1億円。
これは3ヶ月前にIBRAが行った「入札」でTNI社が1番札を入れて落札したものであるが、もしBahanaがTNI社に負債を支払わなければBahanaは破産宣告され、清算される可能性もあった。
しかし、実際はそうはならなかった。このTNI社というのは実はトンネル会社としてしか機能していない「幽霊会社」に等しかったのである。その辺のカラクリを週刊誌テンポは最新号で見事に暴いている。 (http://www.tempo.co.id/ Feb24-Mar1 ,2004 参照)
このBahanaというのは政府系金融機関であり、過去にもさまざまなスキャンダルの渦中にあった。Bahanaはインドネシア銀行への債務が支払えず、上記の約束手形をIBRAに差し出していた。
ところが、このBahanaには大物の債務者がいた。主な顔ぶれは、@プラヨゴ・パンゲツ(バリトー・グループで木材財閥、チャンドラ・アスリのオーナー)、AモハマドS. ヒダヤト(Hidayat−不動産王で2月22日にインドネシア商工会議所会頭に選ばれた。ゴルカルの会計部長)、BPeter Sondakh、CAgus Anwarであり、4人の債務は3兆ルピアである。
TNI社は203年2月に設立され、事務所はテンポ襲撃事件の首謀者として悪名高いトミー・ウィナタのアルタグラハ・ビルにあり、事実上のワンマン・オフィスである。そもそもこんな怪しげな会社にBahanの手形を引き渡すとはIBRAも異常なことをやったものである。
しかし、それは政治的取引であったことが明らかになる。
テンポの記者はゴルカルの幹部ヒダヤトにインタビューすると、そこで、この取引はTNI社に1%足らずの口銭を渡して、Bahanaの手形を買い取り、それをBahanaに持ち込み、借金を棒引きしてもらうという内幕が暴露されてしまう。
この取引で、BahanaもIBRAへの債務が解消され、プラヨゴ・パンゲツ以下のBahanaの主要債務者も借金を83%も値引きしてもらって、返済することにより「身ぎれい」になれるという幸せな物語である。


IBRA悲喜劇のうちに6年間の幕を閉じる(04年3月1日)

IBRA(Indonesian Banking Restructuring Agency=インドネシア銀行再建庁)は通貨・経済機の真っ最中の1989年2月にIMFの構想に基づき設立さ、今年2月27日に予定通り解散された。残りの業務はPT PPA(Asset Management Company)に引き継がれる。
インドネシア語ではBPPN(Badan Penyehatan Perbankan Nasional) として知られていた。インドネシアの主要紙の経済欄にBPPNの文字が出ない日はめったになかった。Penyehatanという意味は「健全化」ということである。 
通貨・経済危機でガタガタになったインドネシアの銀行機関を再建するのが目的であった。
政府は71の破綻銀行の処理をIBRAに託した。また、政府機関が保有する372,930件の不良債権(340兆7200億ルピア=約400億ドル)と他の不良資産360兆ルピアを引き取った。
それらは額面の数字であり、実際価値ははるかに低く、法的にも問題のある物件が少なくなかった。
しかし、IBRAはたとえ額面上とはいえ合計770兆ルピアを超える資産を保有する一大政府機関になってしまい、その処分権はインドネシアの歴史上最大のものであった。
当然、IBRAにはさまざまな政治勢力、悪徳ビジネスマン、悪党どもが群がり、利益をむさぼろうとした。その中で最も悪辣なのはIBRAに差し押さえられた自分の会社の資産をIBRAから、あるいは市場から安値で買い戻そうという動きである。
うまく安値で買い戻せれば、差額は「借金」を負けてもらったと同じ結果になるのである。
結果的にIBRAは差し押さえ資産の売却によって簿価に対して28%しか資金を回収できなかった。残りの72%は国民の税金から支払われることになる。
IBRAが解散になっても1,128件の訴訟中の案件が残っており、金額にして25兆ルピア、債務者の数は447名が未解決である。
未解決の主要なビジネスマンの名前が公表された。次の4名は解決に非協力的であると名指されている人たちである。
@Kaharuddin Ongko; 3兆4,800億ルピア、A Samadikun Hartono;2兆6,630億ルピア、B Trijono Gondokusumo(PSP Bank);3兆ルピア、CAgus Anwar;7,000億ルピア。
また、IBRAへの債務28.4兆ルピアを完済したといわれるSjamsul Nursalim 関連の書類が警察と検察庁に届いておらず、Nursalimの所有するPT Gajah Tunggal Mas(タイヤ・メーカーで上場企業)とPT GT Petrochem Industries のGaribaldi Venture Fundへの売却は凍結されているという。
IBRAはNursalimの11兆ルピアの抵当として受け取った資産をGaribardiに1.83兆ルピアで売る格好にして現金を受け取ることになっているが、Garibardiは即金での支払いはできないといっているという。
GaribardiはPTGaja Tunggal Masの株式78%とPT GT Petrochem Industriesの株式20.4%を受け取るという。これはIBRAの典型的な資産処理のやり方である。 (http://www.bisnis.com/ 04年3月2日参照)
IBRAの資産売却については終始一貫汚職の臭いが付きまとっていたといっても過言でないであろう。


アンソニー・サリムがインド・フードの社長に就任(04年7月1日)

スハルト最大の華人クローニーであったスドノ・サリム(林紹良)は1998年5月のスハルト政権崩壊に伴い、国外に脱出し、政府への多額の借金返済に多くの財産を失ったが、世界最大のインスタント・ヌードル・メーカーであるインド・フードだけは何とか権利を維持してきた。
インド・フード(PT. Indofood Sukses Makmur)社は6月25日の株主総会においてスドノ・サリムの長男であるアンソニー・サリム(Anthony Salim)をCEO(最高経営執行者=この場合は社長)に選出した。
前任者はEva Ryanti Hustapeaという女性経営者であり、1996年から社長を務め、98年の経済危機を何とか乗り切るなど手腕を発揮してきたが昨年末に辞任を強いられ、それ以降はアンソニーが社長職を「代行」していた。
サリムグループは1998年の経済危機後はインドネシアにいたたまれず、香港のFirst Pacific社に本拠を移し、そこから逃避資金を活用し、フィリピンの長距離電話会社(PLDT)の経営権を掌握するなどの活動を行っていた。
インド・フードの株式もサリム・グループがFirst Pacificを通じてマジョリティー(52%)を保有している。
株主総会では強気のエヴァ女史も今まで守り育ててきたインド・フードから理不尽に追放されることが正式に決まり、感極まって泣き出し、大変悲痛な雰囲気に包まれたという。なおエヴァ女史はインドサットの監査役メンバーに転出することになった。
インド・フードの年間売上高は20億ドルといわれており、従業員数は5万人というインドネシア最大の民間企業である。同社の国内シェアは2000年には95%を占めていたが、最近では新規参入が相次ぎ80%にまで落ちているという。
インド・フードの製品はインスタント・ヌードル(年間130億個)のほか、小麦粉(360万トン)、食用油、調味料、乳幼児食品、スナック菓子など多岐に及んでいる。
サリム・グループがインドネシアに復帰を果たすなどということは一時期は考えられないことであったが、メガワティ政権はサリム・グループの支援を受けているとの噂が絶えず、今回メガワティが「最後の恩返し」をしたという見方もされている。
サリム・グループではインドネシアにこそ最大のビジネス・チャンスがあると常々主張しており、次はサリム・グループとしてはかつての自社の銀行であったBCAの奪還も狙っている可能性がある。
これらの動きをインドネシア国民がどう受け止めるかは今後の問題であるが、サリム・グループの跋扈をそう簡単に許すはずもないであろう。


2007/03/12 Indonesia Today

"Polyprima deal"

PT Polyprima is the second largest purified therephthalic acid (PTA) producer in Indonesia with 450,000 t/y capacity behind Mitsubishi Chemical (600,000 t/y). While the company has been integrated with a PET resin plant (90,000 t/y), the company has to rely on raw material supply from other company. Pertamina, Petronas, and Ashmore are competing to control the company. But whoever takes over the company needs to integrate upward with paraxylene facility. Why?

Polyprima was one of the first batch of debtors restructured by Indonesia Bank Restructuring Agency (IBRA) sometimes six years ago. But why it failed?
Petrochemical is not an easy game especially if you're in mid-stream without security of raw material supply and downstream to absorb the output.
PTA needs paraxylene at the ratio of 0.67 to 1. In Polyprima's case, the company needs paraxylene supply of around 300,000 t/y. The whole country's PTA capacity has been around 2 million tones/year or equivalent with around 1.3 million t/y paraxylene. For many decades, the country had only one paraxylene plant
operated by Pertamina in Cilacap, Central Java with installed capacity 275,000 t/y. The country has just operated the second paraxylene plant in Tuban owned by Tuban Petrochemical Industries (controlled by the state through PT PPA and Tirtamas Group led by Hashim Djoyohadikoesoemo). The capacity of Tuban paraxylene facility is around 500,000 t/y. So, even if these two facilities run at full capacity, the country is in shortage of paraxylene supply at least 600,000 t/y that should be imported.
Pertamina should have been in a better position because it has both paraxylene and PTA, but the locations (paraxylene in Cilacap while PTA in Plaju, South Sumatra) give no benefit to the company.
Any move to acquire Polyprima should be premium for Pertamina because it has 15% shares in Tuban Petrochemical. By theory, Pertamina should get integration benefit because transporting paraxylene from Tuban, East Java or Cilacap, Central Java to Polyprima in Cilegon, West Java should be cheaper than transporting the same material from Malaysia or Singapore should Petronas do the same.
The problem for Pertamina, the company's petrochemical business was a total mess. The company operated the first methanol plant in Bunyu, but it was almost collapsed until it transfer the operation to Medco Energi.
The company's PTA, polypropylene, propylene, paraxylene, and other chemical plants have been running at very low rate compared to their installed capacity.
Meanwhile,
Petronas has expressed its interest to develop petrochemical business in Indonesia for so long, but none materialized.
It's interesting to see, whether Pertamina is serious this time in developing an integrated petrochemical business or Petronas in expanding its investment horizon here. As for Ashmore, I have no information about this company. Except that the company is reportedly owned by people once work for IBRA.