信越化学 社史より                                

高度成長下で既存事業の積極的拡大(昭和41〜44年)
 鹿島コンビナートヘの参加
  石油化学の大型化を背景に

2.大型塩化ビニル工場の建設
 原料・製法転換への模索
 当社の常務委員会で初めて鹿島計画が論議されたのは昭和41年9月である。これまで34年の石油化学2期計画をはじめ、塩化ビニル、ポバールを中心に、しばしばコンビナートヘの参加要請を受けたことがあるが、これは資本系列色の比較的薄い企業に共通するもので、当社に限った現象ではない。また、36年ころ独自に太平洋岸へ進出する構想を明らかにしたが、それは具体的な計画を伴うものではなかった。直江津でのOA計画の展開はむしろそれに逆行するような動きでもあった。その後40年代に入ってから、直江津における石油化学コンビナート建設が常務委員会で検討されたこともある。これらに対して今回取り上げられた鹿島計画はより現実性のあるものとして議論された。それは次に述べるような背景があったからである。
 その第1は石油化学、塩化ビニル工業を取り巻く情勢の変化である。エチレン設備認可基準の引き上げ、競争力強化のために必要な連産留分の総合利用、
エチレン誘導品としての塩化ビニルの成長見通し、さらにオキシ法の登場などがその主なものである。
 第2は当社の塩化ビニル業界における地位向上、すなわち、前年の40年11月に日信化学の全株式を取得し、当社枠と合わせると第4次増設枠を加えて
年産10万トンを超えるわが国最大のメー力一になったことである。にもかかわらず当社が第4次増設計画以降、必ずしも原料、製法そして立地について明確な展望を持っていなかった点もあげておかなければならない。
 当社は第4次増設を機に脚光を浴びるようになったオキシ法について調査を終了していた。同法採用の是非は比例費、すなわちエチレンコストによるところが大きいが、低廉なエチレンからの塩ビモノマーを受給するためにはわが国では石油化学コンビナートヘ参加せざるをえない。しかもそれはすべて太平洋岸に立地していた。
 さらに第3の背景は、41年夏ころに
三菱商事を通じて鹿島計画参加の打診を受けたことである。総代理店としての同社メタノール担当者によるものであった。後に述べるように、三菱油化は、鹿島計画において塩ビモノマーの大型設備を塩化ビニル企業などと共同で建設する構想を持っていた。それは新規エチレン設備の大型化に対応する計画として、各コンビナートでも積極的に進められていた。

 塩ビモノマーセンター構想の登場
 昭和39年以降、塩化ビニル事業への新規参入を計画する企業が増加する傾向をみせていた。加工企業の原料自給、あるいは特殊塩ビの製造を目的とする計画に次いで、EDCおよび塩ビモノマーの専業企業が登場し、さらにこれらの企業の重合部門への進出がみられるようになる。これを促進した一つの要因がアンモニア法ソーダの電解法への転換である。
 30年代後半以降の塩化ビニル需要の急増に対し、
電解法ソーダ企業は設備増強により急増する塩素需要にこたえてきた。しかし、これによって余剰苛性ソーダの処理、アンモニア法ソーダの減産などの問題が派生し、これを解決するためアンモニア法ソーダの電解法への転換が進められた。この転換は36年度から通産省の指導によって、40年度を目標に進展したが、同省は転換により増産される塩素は原則として自家消費するよう指導したことから、アンモニア法4社はそれぞれEDCの生産を開始した。
 その後オキシ法の優位性が伝えられ、エチレン設備の大型化機運のなかで、
アンモニア法4社はオキシ法の自社開発、技術導入を進め、EDC分解、塩ビモノマーの生産のために既存および新規コンビナートに参加して、塩ビモノマーセンターを建設する計画を推進した。41年12月公表された通産省の塩ビモノマーセンター構想はこのような動きを背景としている。
 三菱油化が四日市に次ぐ第2の工場立地として鹿島地区進出を決めたのは39年8月である。これより前34年に茨城県は“陸の孤島”といわれた鹿島地区の開発準備に着手し、翌35年にはマスタープランを作成した。計画区域1万ha、うち工業地域3,300ha(1,000万坪)、これに周辺地域を含めると約2万haに及ぶ壮大な計画である。工業地域の中心を占めるのが鉄鋼、石油化学コンビナートであった。臨海型工業地域として最大のネックと考えられていた人工港の建設が38年に開始されたあと開発は軌道に乗り、首都圏に近いこともあって新工業地帯として脚光を浴びるようになった。三菱油化が第2立地の候補地を全国から選び、ほぼ鹿島に焦点をしぼったのはこのころである。
 折からエチレン設備の増設を追られていた同社は、エチレン年産10万トン基準に対応する増設を四日市で行うことを決めたあと、鹿島では当初15万トンを計画、これを修正して41年9月に
年産30万トン計画を通産省に提出した。これを契機に各社の大型化計画の公表が相次ぎ、翌年6月、30万トン基準が決定されている。同社は30万トン計画の立案に際し低密度ポリエチレンなど自社で実施する製品を確定、その他製品はコンビナート方式によるメリットを最大限に追求するため、「他企業との提携もしくはコンビナートヘの参加を求めて実施することを前提に検討を進めた」(三菱油化30年史)。その代表的な製品が塩ビモノマー、食塩電解、塩ビ樹脂およびアンモニアである。そして同社はこれらを企業化するために有力企業を誘致することが、鹿島計画の成否を左右する大きな要素であると考えていた。

 鹿島進出で基本合意
 三菱油化のエチレン誘導品企業への働きかけは同社が鹿島進出を正式決定したあと活発化し、各企業は昭和40年4月、41年9月の2次に分けて茨城県と用地購入の予約を行っている。すでに述べた通産省への30万トン計画認可申請はその直後である。この中には塩ビモノマー10万トン計画が含まれているが、当社の進出が決定したのはそれより後の42年5月である。
 各地でアンモニア法ソーダメーカ一中心の塩ビモノマーセンター計画が進展するなかで、三菱油化は鹿島で同様の計画を実現するためソーダおよび塩化ビニル企業に働きかけていた。しかし、それらの企業は独自計画を優先して部分的参加となったので、塩ビモノマーセンターの規模は縮小せざるをえなかった。当社への参加要請は、この規模を拡大するために必要であった。42年5月に当社との首脳会談が行われたころ、すでに三菱油化では鹿島開発本部を発足させ、社長直属の各プロジェクト担当別の企画室を設置して、当社との折衝も進めるようになった。これが基本合意後は頻度を増し、計画が徐々に具体化されていった。
 鹿島コンビナート計画のその後の動きで特筆すべきことは、
コンビナート・リファイナリーとして鹿島石油の設立が決まり、42年8月の石油審議会において製油所建設が認められたこと、また10月のコンビナート参加10社の社長会で45年春の稼働、共同出資による鹿島塩ビモノマー、鹿島電解、鹿島アンモニアの設立を決めたことである。これら3社は43年1月の通産省による鹿島計画認可後相次いで発足した。
 こうして当社の鹿島計画はいよいよ建設段階に入るが、これについて触れる前にややさかのぼって当社の鹿島進出決断に至る過程について簡単に述べる。その過程は曲折に冨み、その寸前まで川崎地区のコンビナート参加などが検討されていた。41年夏に打診があってから三菱油化との折衝を続ける一方、42年初めころ当社では塩化ビニルのほか酢ビ・ポバールの徳山計画が検討された。後の南陽工場ではなく、徳山積水化学との提携および徳山石油化学から酢酸ビニルを受給してポバールを生産する計画である。塩化ビニルについてはこのほか1,2の計画が検討の対象になった。これらは石油化学センターへの進出に当たり、「当社を高く評価し、有利な条件で進出しうることを基本に弾力的に検討する」ことを基本方針としていたためである。
 これらの計画はその後いずれも姿を消して、42年7月に社内で鹿島計画が明らかにされた。その後、徳山において東洋曹達工業からオキシ法塩ビモノマーを受給して塩化ビニルを生産する南陽計画、さらに現地区における酢ビ・ポバール計画が公表され、当社の太平洋岸進出、コンビナート参加計画は実現に向かって大きく歩み始めることになる。

3.鹿島塩ビモノマー、鹿島電解の設立と工場建設
 
鹿島塩ビモノマーに50%出資
 昭和43年2月、
鹿島塩ビモノマー、鹿島電解の両社が設立され、塩ビモノマー年産22万トン、苛性ソーダ同26万4千トンといずれもわが国最大級の設備を建設することになった。両社はそれぞれ出資比率を異にする三菱油化、旭硝子、旭電化工業、鐘淵化学工業に当社を加えた5社の共同出資により設立された。当社の比率は前者50%、後者23%で、鹿島塩ビモノマーの社長は小坂徳三郎社長が兼任した。このほか当社も参加した鹿島北共同発電が8月に発足している。
 当社は鹿島塩ビモノマーから原料を受給して
年産20万トンの塩化ビニルを生産するが、鐘淵化学工業も同5万トンを生産する計画である。大型化によって低コストのエチレンが生産され、さらにオキシ法大型設備の運転による低コストのモノマー受給によって、塩化ビニルの生産コストの大幅引き下げが期待された。しかし、これを可能にするためには当社にとっては初体験ともいラベき多くの課題が残されていた。主なものをあげれば、採用するオキシ法の選択、鹿島電解で生産される苛性ソーダの処理と塩ビ重合設備の大型化である。このほか工場建設に伴う用地買収、整地などをコンビナート各社に遅れることなく進めることはもちろん、コンビナートの建設管理を円滑に進めるための諸設備が必要である。また、要員派遣、組織整備なども急がなければならない。
 まず採用するオキシ法については2回にわたり調査団を海外へ派遣した結果、すでに操業実績を持ち、操業、安全両面における信頼度が高く、しかも経済性で有利な
B.F.グッドリッチ法を採用することになり、43年8月に鹿島塩ビモノマーが技術導入契約に調印した。このように技術導入交渉は極めて順調であったが、各地での塩化ビニルの増設計画が相次いでその調整が遅れ、政府認可が予想より半年遅れて44年3月になったため、建設期間の短縮を余儀なくされた。
 塩素とほぼ同量併産される苛性ソーダの販売は当社にとっては難問である。苛性ソーダの引き取り比率は30%弱とはいえ大型設備のためその量は年間7万トンを超える。当時、レーヨンは減産傾向をたどり、アルミ用への出荷が期待されたがこれにも限界があり、結局は安値で輸出せざるをえなかった。このため、硝子ペレット、瓶の生産を計画したが、経済性に難点があることが分かりこの計画は中止された。亜硫酸ソーダを生産する苫小牧化成を43年11月に設立したのは、その苛性ソーダ消化対策の一つであった。
 当社の鹿島計画の中で最も重視したのは
大型重合機の採用である。当時、内外の塩ビ企業が採用していた重合機は20〜30m3が一般的であったが、鹿島工場では130m3重合機を設置した。しかも操業をコンピューターで制御する方式をとるなど最大限の合理化をはかった。この大型重合機については次節の南陽工場の項で改めて述べる。

 昼夜を分かたぬ突貫工事
 当社の鹿島計画は共同出資各社との調整をはかりつつ日を追って具体化し、これと並行して建設準備が開始された。昭和43年1月、本社に工務本部、技術部を設置し、前述した塩ビモノマー技術の検討を進める一方、5月には現地調査、用地買収促進のための現地事務所を開設した。同時期に信建産業も営業所を設け、翌6月からは工務本部派遣の技術者も現地入りしている。
 建設準備が本格化するのは7月にK工事臨時建設本部が設置されてからである。同本部には4部が設けられた。第1部は工場建設に関する設計、施工、試運転に関する業務、第2部は港湾、鉄道、用水などの共同工事関連、第3部は土地、厚生関連施設、第4部は信建産業および工務本部関係の各プロジェクトを担当する。本部長には小坂徳三郎社長、本部委員に副社長以下専務、常務が就任、鹿島計画に社運をかける態勢が整った。同本部の陣容は逐次強化され、神田分室に集められた技術陣は最盛期には70人に達した。同年11月、鹿島塩ビモノマー、鹿島電解の各基本契約が新会社を含む6社間で締結された。このなかで両社は大型化と効率化によって、真に国際競争力のある製品の製造を目指すことを目的としており、各社の製品引き取り枠、製品価格の設定方法等について定めている。
 当社が茨城県と土地譲渡の予約契約を締結したのはその翌月43年12月である。県当局による用地の買収が遅れて建設計画に影響を与えるおそれがあり、当社の建設予定敷地内の土地買収率も70%程度にとどまっていた。しかし、コンビナート参加企業との足並みを揃えるために、工場用地の更地化を急がなければならない。このなかで44年5月、コンビナート参加企業11社の合同起工式が行われた。各社の申し合わせによる45年春稼働のためにはこれ以上先へ延ばすことはできなかった。とはいえ当社の整地開始は7月となり、他社に比べて大きく遅れざるをえなかった。民有地の6割を代替保証し、4割の提供を受ける買収方式のため、一部の未買収地を残したままの整地開始となった。
 工事の先陣を切って着工した鹿島北共同発電1号機のテスト運転が44年11月に行われた。このころ鹿島石油、三菱油化の設備建設が急ピッチで進められる中で当社の建屋建設も始まり、年末には機器、タンク類の基礎工事に着手した。鹿島工場設置事務所と臨時建設本部の鹿島事業所が開設されたのは45年2月である。未舗装の道路を砂塵をあげて走り回るトラック、これが雨ともなれば泥沼と化し、どこが工事現場か分からない状態となる。大型機器が中央航路から陸揚げされて大型トレーラーで工場敷地内に運び込まれると、休む間もなく据え付けが開始される。まさに戦場のような慌ただしさであり、この中で昼夜を分かたぬ突貫工事が進められた。
 
 世界初の大型重合機で製造開始
 
昭和45年春に機器据え付け、配管作業が始まるころ、直江津工場で待機していたオペレーター要員が鹿島に到着して建設グループに加わり、建設工事にいっそう拍車がかかった。4月に鹿島石油、6月には三菱油化が試運転を始めており、たとえ1日でも工事が遅れることは許されない。工事関係者の多くは44年秋に完成した独身寮で起居を共にし、その一部は45年に入って完成した社宅に移ったが、商店や娯楽施設もほとんどない不便な環境のなかで、休日返上、連日残業の生活が続いていた。
 こうした努力が重ねられたあと各装置のテストが繰り返され、
7月には鹿島塩ビモノマーのプラントが完成した。すでに石油精製、電力、ナフサ分解設備が試運転に入っており、これに電解が加わってモノマー製造のための原料、ユーテイリテイの受給が可能となっていた。諸設備が整ったことを確認してモノマープラントがスタートアップしたのは7月19日である。B.F.グッドリッチから派遺された6人の抜術者に直江津工場からの応援が加わって行われた運転は、大型で複雑な工程特有のトラブルはあったものの基本的にはスムーズに推移し、8月12日には全工程が運転に入ることができた。新プラントで製造されたモノマーを完成したばかりの当社鹿島工場の重合機に仕込んだのは8月23日、完工式の3日前である。
 巨大な大型重合機から脱水・乾燥工程を経て姿を現した白い製品を目にした従業員は、長い労苦の結果もたらされた喜びを分かち合い思わず歓声をあげた。
130mという世界初の大型重合機による塩化ビニルの製造だけにその喜びは当然であった。
 45年8月26日、鹿島塩ビモノマ一、当社鹿島港場の完成を祝う合同完工式が現地で開かれた。完工式に出席した小坂徳三郎社長は、無事故で、工事を完成した関係者の労苦をねぎらい感謝の言葉を述べると同時に、鹿島計画への参加は三菱油化池田社長の壮大な計画に魅力を感じたためであると挨拶、鹿島コンビナートヘ参加できたことの喜びを披瀝した。