2005年8月19日 日立ヨーロッパ社日立ケンブリッジ研究所

コヒーレンス時間を二桁向上する集積化に適したシリコン量子ビットの開発に成功
- シリコン半導体を用いる量子コンピュータの実現に向けたブレークスルー -
http://www.hitachi.co.jp/New/cnews/month/2005/08/0819.html

 日立ヨーロッパ社日立ケンブリッジ研究所(Hitachi Europe Ltd., Hitachi Cambridge Laboratory/以下日立)は、このたび、英国ケンブリッジ大学と共同で、量子コンピュータの実現に向けて、シリコン半導体で作成した二つの量子ドットから構成されるシリコン量子ビット(シリコン・キュービット)を開発しました。日立で培ってきた単電子トランジスタ技術を適用することによって、シリコン量子ドット方式の弱点であったコヒーレンス時間(外部からの擾乱に影響を受けない時間)を従来に比べて二桁向上するとともに、二次元アレイ状に配列可能な高集積化に適した素子構造を実現しました。開発した量子ビットは、シリコン半導体回路で実現できるため、標準的な半導体プロセスを用いたシリコン量子コンピュータの実現に道を拓く技術です。

 量子コンピュータは、現在の世界最速のスーパーコンピュータを使っても現実的な時間で解くことができないといわれる大規模な素因数分解さえ、瞬時に実行してしまうという未来の情報処理技術です。従来の計算機の情報は、1ビットについて0と1の二つの状態しかありえませんが、量子コンピュータでは 0と1の2つの状態の間を任意の割合で重ね合わせた状態が許されます。この0と1の間の重ね合わせ状態を量子ビット(キュービット:qubit)と言います*1。この量子コンピュータの動作は理論では証明されていますが、これを実際に作ることは極めて難しいとされています。その理由は、ひとつは、重ねあわせの状態を保持する時間、即ちコヒーレンスの保持時間(以下コヒーレンス時間)の維持が難しいこと、さらに、量子ビットの集積化が困難であることです。これまで、量子コンピュータに向けた量子ビットの開発は世界中で進められており、イオントラップ*2、NMR(核磁気共鳴方)*3、ジョセフソン接合*4、量子ドット*5など様々な手法が提案されています。 
 これらの中で量子ドットは、イオントラップやNMRに比べて集積化が可能なこと、また超伝導材料を用いるジョセフソン結合に比べて一般的なシリコン半導体材料を用いることができるという利点があります。しかし、コヒーレンス時間が他の手法に比べて短いことが、量子コンピュータへの応用に向けた展望を開く上で、大きな障害になっていました。

 このような背景から、今回、日立とケンブリッジ大学の研究チームは、従来のシリコン量子ビットの欠点であったコヒーレンス時間を大幅に向上し、かつ大規模演算回路への拡張性の高い新構造のシリコン量子ビットの開発に成功しました。

 開発したシリコン量子ビットの特徴は以下の通りです。
(1) 配線を必要としないシリコン量子ビット構造
 量子ビットは、シリコン半導体で作成した二つの隣接する量子ドット「二重量子ドット」で形成されています。量子ビットの初期化と制御にはゲート電極を、信号読み出しには単電子トランジスタを用い、それぞれ容量結合を用いて非接触で動作させることによって、量子ビットに電気配線を必要としない構造を実現しました。
(2) 長いコヒーレンス時間の実現
 量子ビットへの電気配線は、コヒーレンスを阻害する要因となると考えられます。開発したシリコン量子ビットでは、配線が不要になったことから、これまでの半導体材料(ガリウム砒素など)を用いた量子ビットで報告されている値に比べて、2桁大きな約200ナノ秒のコヒーレンス時間を実現しました。
(3) 大規模演算回路への拡張性
 開発した量子ビットデバイスは、さらに多数の量子ビットに対しても配線を用いない構成で二次元的に結合配列することが可能です。この2次元配列への拡張性は、従来のマイクロプロセッサと同様に柔軟なデバイス設計を可能とするものであり、シリコン半導体である特徴とあいまって、集積化という量子コンピュータ実現のハードルを超える可能性を示すものです。

 今回、開発した量子ビットは、シリコン半導体回路で実現できるため、標準的な半導体プロセスだけを用いたシリコン量子コンピュータの実現に道を拓く技術です。今後、従来型のコンピュータでは実現できない大規模な遺伝子解析、分子モデル計算、材料設計、暗号解読や複雑な暗号化、難解な量子力学の解析など様々な計算を瞬時に実行する量子コンピュータの実現に向けて、量子ビットの集積化や性能の向上を進めていきます。

 なお、本研究成果は、2005年8月発行の米国物理学会誌フィジカル・レビュー・レターズに掲載される予定です。また、2005年8月22日から25日の4日間、日立基礎研究所で開催される“第8回量子力学の基礎と新技術国際会議(
The 8th International Symposium on Foundations of Quantum Mechanics in the Light of New Technology: ISQM-TOKYO'05)"*6において発表する予定です。


図 開発したシリコン量子ビット


脚注

* 1 量子ビット:
 量子ビットは0と1の状態を同時に実現しているとも言えるため、n個の量子ビットを用意すれば2n個の状態を同時に実現していることになる。これらの状態を一括処理できれば、一回のステップで2n回の処理をしていることになり、処理能力は量子ビット数に関して指数関数的に増加する。上記で仮定した一括処理は「量子もつれ合い」と呼ばれる量子力学固有の性質を利用する。複数の量子ビットを互いにもつれ合った状態にすると、ひとつの量子ビットを操作しただけですべての量子ビットが自動的に操作される。即ち、一括処理できることになる。
* 2 イオントラップ:
 超高真空、極低温化でトラップされたイオンの相互作用を用いるもの。装置が大型化するために集積化は難しいと言われている。
* 3 NMR:
 原子核のスピンを用いるもの。集積化は難しい。
* 4 ジョセフソン接合法:
 ジョセフソン接合によって外部電極と結合した微小超伝導単一電子箱を作り、ゲート電極を作用させて重ね合わせ状態を作る。コヒーレンス時間が課題。
* 5 量子ドット:
 半導体微細加工により数十ナノメートルの寸法の量子ドットを用いる。量子閉じ込め効果によって離散的なエネルギー準位をとることを利用し、最適なエネルギーの光子の存在下で、電子が二つのエネルギー準位の間を行き来する状態を実現できる。コヒーレンス時間が課題。
* 6 ISQM:
 ISQMは、従来は思考実験でのみ扱われてきた量子力学の基本問題を、最新の実験技術をもちいて直接検証することにより新知見を得ると同時に、実験分野における新たな課題の認識、展開の着想を得ることを目的とする国際会議です。第1回会議は 1983年日立製作所中央研究所で開催され、ノーベル物理学賞受賞者C.N. Yang博士、アハラノフ・ボーム効果(AB効果)提唱者のアハラノフ博士、電子線ホログラフィーを用いて世界で初めてAB効果を検証した外村彰博士 (現:日立製作所フェロー)をはじめとする世界的な研究者が参加し、量子力学に関わる熱心な議論が交わされました。以後ISQMはその時々の最先端の話題をメインテーマに据えながら、1995年(第5回)以後は日立製作所基礎研究所に場所を移して継続開催されています。物理学が細分化されている今日、 ISQMは、量子力学の基礎から物性まで広い専門分野の研究者が一堂に会して「新技術」の視点を入れながら基礎科学の最先端テーマを議論するユニークな国際会議として、内外から注目されています。世界物理年の開催となる第8回ISQM(ISQM-TOKYO '05)では、スピントロニクス、量子情報処理、ナノ構造量子効果、超伝導など、広い分野にわたって量子力学の根本に立ち戻った議論が行われる予定です。

「ISQM-TOKYO '05」の概要
 日時 : 2005年8月22日(月)〜25日(木)
 場所 : 日立製作所 基礎研究所(〒350-0395 埼玉県比企郡鳩山町赤沼2520)
 主催 : ISQM組織員会(委員長:福山秀俊 東北大学教授)
 後援 : 日立製作所 基礎研究所、協賛:日本物理学会、応用物理学会
 参加者数 : 130名