2018/5

私の履歴書 インドネシア Lippo Group(力寶集團)Mochtar Riady(モフタルリアディ)

 

私の名はモフタル・リアディ。インドネシア生まれの華人だ。中国名を李文正と言う。1929年5月12日生まれであり、まもなく89歳になる。インドネシアでリッポーという企業を創業し、アジアから米国に広がるグローバル企業へと育て上げた。今もリッポーグループの会長だ。

私はかつて銀行の経営者だった。青年時代にインドネシア独立運動に身を投じ、共産主義に傾倒した時期もある。ーーー

 

私は1929年5月、オランダ領東インドのジャワ島で生まれた。そのころインドネシアという名前の国はまだ存在していなかった。

ジャワ島東部にある高原地帯のマラン地方が私の故郷だ。父の李亜美は中国福建省からマランのバトゥ(現在は市としてマラン県から独立)という保養地に渡ってきた。そこでジャワ島伝統の布地、バティックを売っていた。

マランに生まれついた私だが、生後5カ月で中国へと向かった。福建省に住む祖母ーーー

 

私は6歳まで父の実家の中国福建省莆田の村で育てられた。

私は8人きょうだいの5番目の子だが、上の4人はすべて女の子だった。後に生まれた下の3人も女の子だった。福建省の祖母にしてみれば私が初めての男の子の孫であり、目の中に入れても痛くないほど私をかわいがった。ーーー

 

オランダ人を初めて見たのはジャワ島の港湾都市スラバヤでだった。

オランダは17世紀初頭から今のインドネシアを支配し始めた。ジャワ島を拠点に周辺の島々を次々に植民地とし、300年以上にわたって統治していた。私の少年時代にはインドネシアはオランダ領東インドと呼ばれていた。

私たち一家は中国福建省の父の実家からジャワ島に向け旅立った。2週間ほどの船旅を経てスラバヤに上陸した。ーーー

 

中国から出国した華人華僑と呼ばれる人々は人とのつながりを大切にして生きた。

とりわけ重視したのは血縁と地縁だ。知らない土地でよそ者の華人華僑が生き抜いていくためには、血のつながる者同士、故郷を同じくする者同士が助け合うほかなかったからだ。

 

13歳で独りぼっちになった。私は父と二人きりの生活をしていたが、父が日本軍に拘束されてしまったからだ。

1941年12月に太平洋戦争が勃発、石油を求めて日本軍はオランダ領東インドに侵攻してきた。日本軍は42年3月にはジャワ島に上陸し、私と父が住んでいたマランにも進駐してきた。マランには中国福建省興化地方(今の莆田)の出身者が組織した同郷会の「福興会」があった。ーーー

 

1945年8月15日、日本は連合国に無条件降伏した。

私の住むマランでは中学校が復活し、私は中学に進んだ。父は日本軍から釈放されて帰ってきた。だが父はずっと何かにおびえていた。オートバイの音が聞こえると、その場から逃げ出した。日本軍に拘束された、そのときにバイクの音が響いていたからだ。

私は父をシンガポールに連れていき、しばらく滞在した。環境が変わると、父の恐怖心も和らいでいった。ーーー

 

中国南京にある国立中央大学に進学した私はますます左翼思想にかぶれていった。

日本の降伏後に米軍は中国華北地方に進駐していた。1946年12月末に北京大学の女子学生が米軍兵士に乱暴されたというニュースが流れた。中国の若者はこの事件に憤慨した。

年が明けた47年1月になると事件に抗議する反米デモが中国の各地に広がった。南京の大学にもデモは波及し、私は積極的に街に出て「米帝国主義反対」を叫んだ。ーーー

 

国共内戦を避けて南京から香港に避難してきたものの、香港に知り合いはいなかった。父の故郷である中国福建省興化(今の莆田市)の同郷会を訪ねた。興化の人ならば支援してくれるかもしれないと期待したのだ。思った通り、同郷会にいた人物が私の境遇に同情し、親戚の店に泊まれるように手配してくれた。

インドネシアに帰りたいと思ったが、身分を証明するような書類は所持していなかった。ーーー

 

1950年、私は香港からインドネシアの生まれ故郷マランに帰ってきた。オランダからの独立戦争時に知り合ったイマム・スカルトが私の身分を証明し、故国への入国許可が下りた。父はたった一人で待っていた。

インドネシアは前年末に独立の承認を勝ち取り、新しい国づくりに邁進していた。私は何をすべきか。学業は国共内戦のために中途半端に終わり、中国の共産主義革命にも加わらなかった。ーーー

 

結婚の承諾を得るために、恋人の李麗梅(Li Limei スリヤワティ・リディア)の実家を初めて訪ねた。実家はジャワ島の東端に近いジェンベルという街にあった。私の住むマランよりさらに東だ。彼女の一家はこの街で雑貨店を営んでいた。店は繁華街の一番にぎやかな場所にあった。以前は日本人の経営する店だったが、日本の敗戦後に彼女の一家が手に入れた。ーーー

 

事業を始めようとジャカルタに出たが、最初は慎重だった。父の故郷の中国福建省興化(今の莆田市)から出てきた華人はインドネシアで自転車関連の商売をしている者が多かった。私も自転車部品の販売を手がけようと考え、供給ルートから調べ始めた。

スマトラ島のメダンが部品の集積地らしいとつきとめた。メダンに赴くと実際の集積地はさらに北西にあるアチェ州のランサ県だった。ーーー

 

貿易業と海運業でそれなりに成功を収めた。

1958年の秋、父の様子がおかしくなった。食欲がなくなり、やせ始めた。いくつかの病院で診てもらったが、胃炎と診断された。シンガポールにも連れて行ったが、病状は良くならなかった。スラバヤの病院でレントゲン写真を撮り、ようやく食道がんだとわかった。ーーー

 

小学校時代、故郷のマランで見た欧風の荘厳な建物。それが銀行だった。建物のなかの人々は身だしなみを整え、忙しそうに働いていたが、商品らしき物を売っていない。不思議に思い、小学校の羅異天校長に何の仕事をしているのかを尋ねた。

「あれはオランダ人が開いた銀行だ。銀行は利子を払ってたくさんの人からお金を集め、商人にそのお金をもっと高い利子を取って貸している。銀行は仲介役として利益を上げている」。ーーー

 

銀行業に進出し、手応えをつかんだが、最初に経営した銀行では不正行為が横行していた。もっと信用できる銀行経営のパートナーが必要だ。ーーー

 

出会い 政商スドノ・サリムと 最大産業たばこ牛耳る人物
 

1960年代中盤、インドネシアの政治権力はスカルノからスハルトに移りつつあった。高インフレは終息するだろう。企業や商人は簡単に商品価格を引き上げられなくなる。そうなれば銀行から借りたお金を返せなくなる融資先が増える。銀行からすれば不良債権の山ができかねない。

それまで銀行は担保を取らずに融資をしていたが、この慣習を改めねばならない。私の経営するブアナ銀行は融資先に対し、金利を半分に引き下げる代わりに担保を入れるように提案した。提案は好評をもって受け入れられ、融資は担保付きへと変わり、融資額そのものも増えた。

66年には多くの銀行が倒れたが、ブアナ銀行は危機を乗り切った。私が最初に経営に携わったクマクムラン銀行は友人の呉文栄の貸し出し審査が甘く、倒産の危機に陥った。支援を要請された私は救済に乗り出した。前後して中国福建省興化(今の莆田(ほでん)市)出身者が経営するインドネシア工商銀行の支援も引き受けた。

妻の母親は私が相次いで銀行の支援に乗り出したのを聞きつけると、親戚にも機会を与えてほしいと頼んできた。妻の姉の息子を経営陣に迎え、スラバヤに新銀行を設立した。私は事実上、4つの銀行を傘下に持つことになった。

金融危機が一段落すると政府は再発防止策を練り始めた。中小の銀行を合併させ、大銀行をつくろうという構想だ。4つの銀行の合併を株主に提案したが、ブアナ銀行の株主からの支持は得られず、私は経営から離れた。残りの3行の合併は実現し、71年にパン・インドネシア銀行(パニン銀行)が発足した。

私はパニン銀行のかじ取りをし、外貨取扱銀行にもなったが、またしても不正が起きた。銀行幹部が個人名義で企業にお金を貸し付け、不良債権になると損失を銀行に押しつけるやり口だった。しかも親戚も関与していた。私は事件を表沙汰にせずに後処理をしたが、経営のあり方について考えさせられた。

何のために銀行業をするのか。大きくなりさえすれば良いのか。融資先がどんな悪辣なことをしても良いのか。銀行は事業者への融資を通じ、社会に富と雇用を生み出すべきではないのか。成功した銀行家より、良き銀行家にならねばならない。75年5月、私はパニン銀行を辞した。

スカルノ時代の左派を一掃したスハルトは68年に正式に大統領となった。スハルト時代に経済成長の波に乗ったのがサリムグループだった。創業者はスドノ・サリム(中国名、林紹良)。スドノは中国福建省の福清に生まれ、インドネシアに渡ってきた。独立戦争中に独立軍の部隊を支援し、後のスハルト大統領とつながっていった。

せっけん、紡績、セメントなどの工場経営で成長し、スハルト政権のもとで丁子(ちょうじ)(クローブ、インドネシアのたばこの香りの原料)、小麦の輸入独占権を得た。丁子の供給を通じてインドネシアのたばこ産業も牛耳っていた。私は、銀行のパートナーは当時インドネシア最大の産業の一つだった、たばこ業界に影響力のある人物でなければならないと考えていた。

75年、私は香港行きの航空機内でたまたまスドノの隣に乗り合わせた。この機会とばかりに私は自分の理想とする銀行の構想を伝えた。スドノは私と組むと即断した。

 

サリムの銀行を効率化 取引記録整理、送金も翌日に 

スハルト体制で民間企業の活動領域が広がった。新体制で急成長していたサリムグループと銀行ビジネスで組むことになった。総帥のスドノ・サリム(林紹良)は高等教育を受けていなかったが、優れた知性を備えていた。どの事業でもふさわしい人物を探し出し、その人物に委ねた。

私は資金決済ができる民間銀行をつくりたかった。スドノは私の理想に賛同し、グループ内のバンク・セントラル・アジア(BCA)の経営を私に任せた。スドノが事業に介入することはなかった。

1975年6月にBCAのオフィスに入ると、私はワークフローの検証を始めた。各部門の仕事内容は大量の文書で細かく記されていたが、ワークフローに沿ったシンプルな図表に改めた。図表の下に番号を振り、その番号ごとに仕事内容を記した文書を作成した。これなら新人でも業務をすぐに覚えられる。

同時に過去の取引文書の整理をさせた。文書室にはクモの巣が張っており、多量の文書を誰も見ていないのは明らかだった。本来なら取引記録は銀行の収益の源となるはずだ。60年から74年までの記録を月ごとに分類させた。

会計制度も改変した。利益だけを記載するのではなく、どの取引からどれだけ利益があったかの情報を分類させ記載させた。経営に問題が生じても情報を分析すれば解決法を導き出せるようにした。

支店幹部には各地の実業界のリーダーやその親戚を登用し、私自らがトレーニングを施した。当時の六大産業であるたばこ、布地、建材、食品、自動車、自転車に従事する現地経営者のリストをつくらせ、情報収集にあたらせた。家庭、趣味、財産、人柄ーーー。

一連の改革は20ヵ月かかった。78年からは業務のコンピューター化に全力を挙げた。煩雑な作業は人手も時間も要したが、迷わず実行した。中国の古典、老子にはこう記述されている。「天下の難事は必ず易より作り、天下の大事は必ず細より作る」。さらに老子はこうも言う。「千里の行も足下より始まる」。事業の成否は基礎をどう固めるかにかかっている。

85年になるまでインドネシアは通信手段が発達しておらず、銀行間の送金が40日かかった。BCAは翌日に資金を受け取れるように改めた。通信手段が未発達ならば列車などの交通機関を使って送金文書を運べば良い。送金時間の短縮で多くの新規顧客がBCAに口座を開いてくれた。

それでもBCAと取引したがらない有力企業も多かった。グダン・ガラムという当時のたばこの最大手との取引を狙ったが、たばこ業界に影響力のあるスドノが働きかけても取引は実現しなかった。

そこで私はこの企業の近くに支店を開き、社交的な者を送り込んだ。支店幹部はたばこ企業の財務、販売の担当者とバドミントンやテニスに興じるようになった。1年あまりたつとこの2人の幹部を通じて取引が始まった。

難しかったのはユニリーバのインドネシア法人だ。ユニリ一バ幹部にもBCAから担当者を派遣し、友達づきあいをさせたが、この企業には通用しなかった。そこで有利な為替レートや送金時間の短さを書いた紙を毎日、ユニリーバにファクス送信するように命じた。1年あまりでユニリーバからも連絡が入った。

 

米国進出、一度月は失敗 ターゲットはベトナム系華人

インドネシアは外貨不足に苦しんできた。私が貿易業務を手掛けた 1950年代は国内の銀行は信用状(L/C)の発行もままならず、貿易業者はシンガポールか香港の金融機関を利用していた。70年代でも状況は同じだった。

75年、サリムグループの銀行、バンク・セントラル・アジア(BCA) の経営を一任されたが、ぜひともこの銀行を外国為替の決済ができる国際的な金融機関に育てたかった。香港にBCAのファイナンス会社を築いたが、規模は小きかった。信用力のある米銀行の買収を考え始めた。

そのころ東南アジアの華人経営者はシンガポール、香港だけでなく台湾にも足しげく通った。私も年に数回は台湾を訪れた。76年に台湾の中央銀行総裁の愈国華氏の夕食会に招かれて参加したが、主賓は米国の元財務長官のロバート・アンダーソン氏だった。

この機会とばかりに米国の銀行を買収したい旨を告げた。翌年にアンダーソン氏から電話があった。ナショナル・バンク・オブ・ジョージアというジョージア州の銀行の大株主がまとまった株を売却したいという。仲介はアーカンソー州で投資銀行を経営するジャクソン・スティーブンス氏だと紹介してくれた。

私はすぐに米国へと飛び立った。先方と株式取得で合意し、後はサインするばかりとなった。だが交渉内容が新聞に漏れてしまった。実はこの銀行の大株主は当時のカーター大統領(民主党)の大物支援者のバート・ランス氏だった。政権の重要ポストの行政管理予算局長に就いていた。

公職との利益相反を避けるためランス氏は銀行株の売却を約束したが、株価下落で実現できずにいた。我々の買収は米民主党政権の救済のように報道された。面倒を恐れたインドネシアの財務相がサリムグループ総帥のスドノ・サリム(林紹良)を通じて取引を断念するよう要請してきた。

ランス氏との取引は流れたが、間に入ったスティーブンス氏と懇意になれたのが収穫だった。スティーブンス氏は80年にテネシー州のユニオン・プランターズ・ナショナル・バンク・オブ・メンフィスの株式取得を斡旋してくれた。このときは秘密裏に取引し、4.9%の株を取得した。

この銀行の幹部らを日本、香港、シンガポール、インドネシアに招いた。発展を間近に見た幹部らはアジア進出を決断。米側とBCA側 (私とスドノの個人名義) は折半出資で香港にファイナンス会社を設立した。米銀の力を借りる形で動かせる外貨は格段に増えた。これでBCAの顧客であるインドネシア企業の外貨資金の調達が容易になった。

残るはBCAの米国進出だった。米在住の華人華僑は米本土の銀行に口座を持っており、顧客になり得なかった。後から行った香港系華人も米シティバンクや英HSBCに口座を持っていた。スドノは進出に反対した
が私は説得を試みた。「米国には十数行の大銀行があるが、残りは1万数千の中小銀行。小さいなりにやれる方法はある」

私が狙ったのはベトナム系華人だ。共産化したベトナムを脱出したベトナム系華人の多くが難民として米国に移民していた。彼らは小さな小売店を営んでおり、我々は彼らの開業や商品貿易を手伝えば良いと踏んだ。85年、BCAはニューヨークに支店を開いた。

 

香港の富豪・李嘉誠と ビル買収など恩は数知れず

香港ナンバーワンの富豪といえば李嘉誠氏だ。中国の広東省潮州から香港に渡り、不動産とインフラの事業で巨万の富を築いた。友人を介して初めて会ったのは1971年ごろだ。香港に行くたびに食事をする間柄になった。

90年代の前半だったろうか。香港の李嘉誠氏のオフィスで昼食を取りながら彼に「何か良い物件があったら紹介してほしい」と頼んだ。すると九龍半島の繁華街ネイザンロードにあるビルを買わないかと提案してきた。ビルはホテルとして利用されており、李嘉誠氏と外資系関連の建設会社が所有していた。

彼は「場所が良いから必ずもうかる」と言いながら売却の手はずを整えてくれた。金額は約9億香港ドル(現在のレートで約127億円)。建設会社の経営者の方も私への売却に納得した。だが契約の直前になって建設会社が売却のキャンセルを申し出てきた。

その後に中国からの購入希望者が現れ、私より8千万香港ドル高い金額でビルの買収を提案したという。李嘉誠氏は建設会社の経営者に「契約前とはいえ約束を破ってはいけない。商売は信用が大切だ。足りない分は私が払う」と語り、私への売却を促した。

おかげで私は約束通り9億香港ドルで買収することができた。数カ月後、このビルをどうしても買いたいというタイの華人経営者が現れ、私は約21億香港ドルで売却した。
李嘉誠氏にお世話になったのは一度や二度ではない。

私は83年にマカオのセンヘン銀行(誠興銀行)を米投資・銀行経営者のジャクソン・スティーブンス氏、スドノ・サリム(林紹良)とで買収した。センヘン銀行の元の持ち主は香港の実業家とマカオの銀行家だった。買収
後にわかったのだが、売り主は担保不足の融資や不良債権の存在を隠したまま我々に売却していた。

売り主側は知らんぷりを決め込んだ。スティーブンス氏が香港に送り込んだ米側の幹部は憤慨し、訴訟も辞さない様子だった。怒る米側に対し「マカオの司法機関が公正に判断してくれるかわからない」と訴訟を制止した。私は売り主のマカオの銀行家が中国と深い関係にあることをつかんでいた。中国側の働きかけには弱いはずだとにらんだ。

そこで中国銀行香港マカオ管理事務所(当時)のトップに仲介してもらうことにした。案の定、先方は交渉に応じ、担保不足や不良債権の埋め合わせとして不動産を差し出してきた。私は市況を見計らってこの不動産を売り、逆にもうけさせてもらった。振り返ってみれば、最初に中国銀行の人々を紹介してくれたのも李嘉誠氏だった。

李嘉誠氏の恩といえば忘れてはならない取引がまだある。番港のビジネス街アドミラルティにボンドセンターという変わったデザインの高層ビルがあった。80年代末には日本の不動産開発会社のイ・アイ・イ・インターナショナルが所有していたが、その後に同社が経営不振に陥り、この高層ビルが売りに出た。

購入できるかどうかを探ってみると先客があるという。誰かと思えば李嘉誠氏だった。私はすぐに電話し「香港に事務所がなくて困っている。手助けしてもらえないか」と頼み込んだ。彼はあっさりと私に譲り、買収が完了した。ビルはリッポーセンターと名前を変え、今も香港島にそびえ立っている。

 

改革開放の中国に進出 祖母の言葉理解、故郷に電力

1986年、私は37年ぶりに中国大陸の大地に立った。国共内戦の戦禍を避けるために南京を離れて以来だ。スハルト大統領は中国との国交回復に向け、インドネシアの経済界代表団を中国に送り込んだ。私もバンク・セントラル・アジア(BCA)の頭取として北京に降り立ったのだ。

インドネシアはスハルト大統領が権力を握ると左派勢力を一掃し、67年に中国と断交した。中国はその後も急進的な社会主義路線を歩んだが、80年代になって改革開放の時代を迎えていた。両国の関係改善は民間交流から始めることになった。BCAと中国銀行が為替取引契約を結び、私が北京でサインをした。

北京で私をもてなしたのは葉飛将軍だった。葉飛将軍はフィリピン生まれの華僑だ。少年時代に中国に戻り、共産党のゲリラ部隊を率いて名をはせた。86年当時は全人代常務委副委員長(国会副議長)の職にあった。将軍は福建省出身であり、福建系華人である私を食事に招いてくれた。

将軍は中国の経済政策について意見を聞いてきた。私は知る限りの情報をまとめて問題点を列挙した。@頭脳労働が軽視されている A商品価格に比べて給与が低すぎる B商品価格が価値に応じて決まっていない C人民元の為替水準が高すぎる D画一性を求める法律は人間本来の欲求に合わないーなどと話した。

将軍の顔つきが険しくなった。86年当時、共産党は完全には市場原理を許容していなかった。話すべきではない内容を話したと後悔した。翌朝、将軍の使者がホテルまで来ていた。出かけようと言う。公安局に連行されるのではないかという恐れが高まった。しかし私が連れていかれたのは公安局ではなく、北京大学だった。将軍と学者らが待ち受けていた。将軍は昨日の私の話に感銘を受けたと話し、学者らにも聞かせたいと語った。私は若いときに学んだマルクスやエンゲルスの著作まで引用しながら、中国経済の問題点を指摘した。発言後に知ったのだが、集まった学者らは当時の趙紫陽首相の改革派ブレーンだった。

その後は父の故郷の福建省莆田市にも足をのばした。35年に祖母と暮らした莆田を泣く泣く離れてから半世紀以上が過ぎていた。福建省では共産党委員会書記、省長ら地元指導者が待ち構えていた。私という企業家の投資に期待が高まっていたのだ。

幼少期を過ごした父の実家のまわりを歩くと、昔よりも貧しくなっていた。十分な電気も水道もなかった。祖母が幼少の私に語った言葉がよみがえってきた。「村人は豊かになれる能力を持っていない。おまえは何かを身に付けて帰っておいで。そして村のためになることをするのだよ。おまえは帰ってくるため家を出るのだよ」。この意味がようやく理解できた。

経済発展には電力が不可欠だ。莆田に近い湄洲湾に発電所を建設する計画を立てた。銀行経営者の私はマニラのアジア開発銀行(ADB)幹部と顔見知りだった。ADBからの資金協力を得ながら、各国企業と連携し、総額7億5500万ドルのプロジェクトをまとめあげた。80年代から2002年まで福建省各地で指導者を務めた習近平現・国家主席とも懇意になった。

00年、発電所は運転を開始した。祖母の願いを果たした瞬間だった。

 

リッポー、まず輸入代行 香港で発展、銀行名にも使う

このあたりでリッポーグループの誕生についてお話ししたい。リッポーの名は1960年前後に思いついた。漢字で書けば力宝となる。一時期、私はエネルギー産業への参入を夢見ており、力(パワー、資金)の宝(源泉)という意味を込めた。残念ながらインドネシア政府は民間企業にエネルギー事業を開放せず、参入できずに終わった。

私はこのリッポーいう名前を使って貿易支援の会社をつくった。60年代から70年代初めにかけてと思う。すでに銀行を経営していたが、困った問題に直面していた。銀行のお客である輸入業者の信用状(L/C)の発行が私の銀行ではできなかった。

そのころインドネシアの民間銀行は外貨が扱えず、どの銀行も信用状の発行ができなかった。輸入業者はシンガポールの貿易代行業者に依頼し、代行業者を通じてシンガーボールの銀行から信用状を発行してもらっていた。私はこれに目を付け、インドネシア、シンガポール、香港に輸入代行業の会社を設立した。

それがリッポーだ。リッポーを通じて国外の銀行に信用状を発行してもらい、自分の銀行の顧客の輸入業務を手助けしたのだ。私の経営する銀行はブアナ銀行、パン・インドネシア(パニン)銀行などへと変遷したが、常にリッポーを使って顧客の貿易の決済を支援し続けた。

そのうち香港のリッポーは投資会社の機能も帯びていった。外貨調達の金利はインドネシアより香港が低く、メリットは大きかった。マカオのセンヘン(誠興)銀行、米アーカンソー州のワーゼン銀行の買収など米銀行家ジャクソン・スティーブンス氏といくつかの投資を手がけたが、香港のリッポーが窓口となった。

リッポーは中国との関係強化にも役立った“リッポーを通じて80年代半ばに番港華人銀行を買収したが、このときは中国政府系の複合企業の華潤集団〈チャイナ・リソーシズ)に半分の株を持ってもらった。福建省での発電事業も香港のリッポーからの投資という形式を取った。香港のリッポーグループの経営は80年代半ばから三男のスティーブン(李棕)に当たらせた。

リッポーはまず香港で発展したが、やがてこの名前を使ってインドネシア本国でも銀行を経営することにもなった。話は75年6月に遡る。私はスドノ・サリム(林紹良)からサリムグループ内の銀行、BCAの経営を任された。ちょうど同じころ友人の経済挙者を介してハシム・ニン氏という実業家とも出会った。

この人はバンク・プルニアガアン・インドネシア(BPI)という銀行を経営していたが、経営状況は芳しくなかった。再建への助言をするとハシム氏は私に経営への参加を要請してきた。私はBCAの経営を引き受けたばかりだったから、申し出を断った。

6年後、ハシム氏は再び経営参加を要請してきた。このときはBCAは成長軌道に乗っており、ハシム氏の銀行を引き受けても良いと考えた。私はスドノを誘って2人で81年にBPI株の49%を購入した。BPIは80年代末にさらに別の銀行と合併し、名前をリッポーに変えた。リッポー銀行の誕生だった。経営は私の次男、ジェームズ(李白)が見ることになった。

事実上、私はBCAとリッポー銀行という2つの銀行の経営を同時に指揮していた。

 

支店大増設、行員を育成 手術契機にサリムと別の道

インドネシアの民間銀行に飛躍のチャンスが訪れた。1988年、政府は外資系銀行と国内銀行の合弁銀行の設立を認めるとともに、国内の銀行に課していた支店開設の制限を撤廃した。私は傘下の銀行に支店開設の号令をかけた。1年内にバンク・セントラル・アジア(BCA)が150支店、リッポー銀行が100支店を開く目標を掲げた。

支店そのものは場所さえ見つければ開店できるが、支店で働く銀行員の育成が難題だった。1支店に40人の行員は必要であり、2つの銀行で250支店を開くためには1万人の行員を急いで育成しなければならない。これは私の理論好きが役に立った。

私は科学的管理の祖といわれる米経営学者フレデリック・テイラーの思想に魅了されてきた。テイラーは工場での作業工程を標準化する必要性を説いたが、私は彼の思想を銀行業務に応用した。新人でもすぐに対応できるように、支店業務をできるかぎり標準化してマニュアル化した。

米学者ではトフラー、ネイスビッツ、ドラッカーの著作も読みふけった。彼らは情報化社会の到来を予測していた。そこではコンピューターが決定的な役割を果たす。私は早くから情報処理やネットワーク構築に興味を持ち、米投資銀行家のスティーブンス氏の手を借りて情報化投資をした。インドネシアにATMを最初に導入したのも私だ。

業務の標準化と情報化が功を奏し、BCA、リッポー銀行とも支店開設の目標を1年で達成した。私が75年にBCAの経営を引き受けたときの店舗数は1つだけだったが、300を超えた。米ドル換算の資産も100万ドルから90年には30億ドルにまで増加。BCAは国内最大の民間銀行としての地位を確立した。

私はBCAとリッポー銀行の株式を上場し、オーナー経営から近代的な銀行経営に転換しようと考えた。だがパートナーのスドノ・サリム(林紹良)は経営が制御できなくなるとして反対し、BCAの上場は見送られた。リッポー銀行だけが89年にジャカルタで株式上場を果たした。

上場では意見が分かれたが、スドノとの関係は良好だった。スドノはたとえ事業で損をしても他人の悪口を言わなかった。スドノの度量の大きさがサリムグループをインドネシア最大の企業グループに押し上げた理由の一つだ。

スドノは私の健康も気遣い、米国の病院での診断を手配してくれた。診断の結果、心臓の血管に詰まりが見つかった。その後、89年に精密検査を受けると放置すれば命の危険があるとの結果が出た。バイパス手術を受けた方が良いということになり、オーストラリアで手術を受けた。

手術前に私は万が一に備え、自分の財産を整理した。スドノとは合弁や買収でたくさんの金融機関を共有していたが、権利関係を確認し合った。幸いにも手術は成功し、私は金融ビジネスに戻ったが、これがきっかけとなり、サリムグループからの独立を考えるようになった。

サリムグループはスハルト大統領との深い関係を生かして成長してきた。だがスドノとスハルト大統領はあまりにも親密だった。私はこれが不安だった。スハルト体制は四半世紀も続き、大統領は70歳になっていた。政権交代がないとは限らない。

91年、独立を決断した。

 

大統領三男ら開発強要 銀行巻き添え、取り付け騒ぎ

リッポー銀行の危機は思いがけないところからやってきた。1990年代前半、リッポーグループは債務不履行の担保として押さえていた荒れ地を住宅街や工業団地として開発していた。これを聞きつけたスハルト大統領の三男のフトモ・マンダラ・プトラ(通称トミー)が土地開発事業への協力を求めてきた。

ジャカルタの南には山が連なるが、そのふもとにスントゥールという風光明媚な場所がある。ここに首都が移転するという噂もあった。トミーははスントゥールの土地を手に入れ、住宅地として開発を狙ったが、実現できないでいた。トミーはこれをリッポーに開発させようとした。

私はお断りした。政治と企業はある程度の距離を保つべきだと考えていたからだ。66年にスカルノから権力を奪ったスハルト大統領は政府主導の市場経済路線にカジを切り高い成長を実現した。だが85年ごろから政権には緩みが目立ってきた。大統領の子女がビジネスに手を染め、官邸には政治屋が跋扈していた。

トミーは、権謀術数家として鳴らしたムルディオノ官房長官を通じて開発を求めてきた。私は断り切れなくなり、要請を受け入れた。だがトミーの人脈は腐っていた。彼が開発会社に送り込んだ財務担当者が建設会社や資材納入業者に対し不正に資金を強要し始めた。従わなければ業者に発注した仕事や商品の代金を支払わなかった。

不正な資金強要をきっかけにリッポーグループが開発事業で資金不足に陥っているという噂が広がった。噂は誇張され、リッポー銀行がつぶれそうだというデマとなった。預金を引き出す人々の長い列ができた。95年の出来事だ。

中央銀行のインドネシア銀行は取り付け騒ぎの数カ月前に金融検査を実施し、リッポー銀行を健全なAクラスだと評価していた。私は中銀に対し、デマを打ち消してくれるように書面で依頼したが、返事はなかった。最後は私自らが中銀に出向き、交渉した。

中銀総裁にリッポー銀行本店の鍵とともに、「デマを打ち消してくれなければリッポーの処理を中銀に委ねる」と記した書簡を渡した。リッポーに戻ってしばらくすると、かつてのパ一トナーのスドノ・サリム(林紹良)から「来てほしい」と電話が入った。

サリムグル一プのバンク・セントラル・アジア(BCA) 本店を訪ねた。スドノをはじめとする主な民間銀行の経営者ら5人が集まっていた。経営者らは「どのくらいの額の支援が必要なのか」と聞いてきた。中銀自身がリッポーを支援するわけにもいかず、他の銀行経営者にリッポーへの支援を要請したのだという。

私は「支援は不要だ」と答えた。代わりに「リッポーに関するデマが出ないように支店向けに声明を出してほしい」と訴えた。リッポーが危ないというデマを広めていたのは、実はそこにいる5人の経営する銀行の支店部なのだ。リッポーから預金者を奪い取ろうとの魂胆からだった。


私はその場で声明を起草した。五大銀行がリッポーの健全性を保証し、それぞれの全支店が全力でリッポーを支援するという内容だ。こんな声明が出れば各支店もデマを流せなくなる。思った通り、声明が出た翌日から取り付け騒ぎは沈静に向かった。

だが、それもつかの間、アジア通貨危機が襲来した。

 

通貨危機、銀行に見切り 土地開発や情報関連に集中

1997年7月2日、タイの通貨バーツの急落をきっかけにアジア通貨危機が始まった。バーツが急落した日に私は自宅にいた。大ごとになるとは思ってもみなかった。やがて通貨危機はアジア各国・地域に波及した。

次々にアジアの通貨は売られ、ドルに対して暴落した。外貨での借り入れの多かったアジア企業は返済に行き詰まり、倒れていった。通貨危機そのものはタイで始まったが、被害が大きかったのは韓国とインドネシアだった。

今でも私は通貨危機は米ファンドによる投機と、「通貨危機が来る」という噂が相まった生じたものだと考えている。97年当時、インドネシアは経済面では比較的良好だったにもかかわらず、自国通貨が暴落するという噂から皆が争ってルピアを売った。ルピア売りの加速が通貨暴落の引き金を引いた。

窮まったスハルト政権は97年11月、国際通貨基金(IMF)からの支援を受け入れた。それでも動揺は収まらなかった。危機前に1ドル=2000ルピア台だった為替レートは翌98年には一時、1万6000〜8000ルピアまで下がった。スハルト政権は98年5月、IMFの勧告に従って公共料金を引き上げたが、物価の上昇に不満を持った民衆の間で反スハルトの機運が高まった。民衆の暴動が発生し、略奪にまでエスカレートした。スハルト大統領は5月21日に辞任し、32年にわたる長期政権があッけなく幕を閉じた。

それかちが地獄だった。経済、政治、社会が混乱するなかで、銀行は融資先企業の相次ぐ破綻から不良債権の山を抱えた。銀行への取り付け騒ぎも頻繁に起きた。サリムグループ内で私が育てたバンク・セントラル、アジア(BCA)は政府資金の投入を受け、国有化された。

有力民間銀行のほとんどが国有化されたが、リッポー銀行は95年の取り付け騒ぎの教訓から手元の資金を手厚くする改革を進めていたおかげで国有化という最悪の事態は免れた。それでも不良債権は積み上がっており、処理の資金が必要だった。99年、リッポーグループはリッポー生命保険の7割の株を3億1千万ドルで米AIGに売却した。

明けて2000年、千年の区切りの年を迎えたが、私はリッポーの行く末を案じていた。私は41年間、銀行の経営に携わり、その間に5度の取り付け騒ぎを経験した。発展途上国は政治が安定しない。政治の揺れは経済の揺れとなり、銀行経営を直撃する。途上国は金融をなりわいにするには厳しい環境にある。インドネシアも例外ではない。

リッポー銀行も中央銀行のインドネシア銀行の厳しい監督下にあり、何をするにも中銀の許可を受けねばならなかった。経営者に自由は少ない。米国や香港に拠点を構えても、インドネシアの銀行であるという理由から高い自己資本比率を要求された。

銀行業は人もうらやむ事業ではあるが、途上国では苦労が絶えない。その苦労を子供、さらには孫たちに受け継がせて良いのだろうか。考え抜いた末に私は銀行業からの撤退を決断した。

04年末までにリッポー銀行だけでなく、マカオや香港、米国にあった銀行関連の事業のほとんどを売却した。リッポーは土地開発と情報通信関連の2つの事業に集中すると決めた。

 

学校・病院事業に進出 海外拠点はシンガポールに

リッポーグループは銀行業から撤退し、土地開発を事業の中核に据えた。

1990年代にジャカルタ西部の荒れ地だったカラワチKarawaci)に新たな街を造成したが、その際に意識したのが生活関連産業の集積だった。住宅街には生活関連の施設が集まっていなければならない。専門店が並ぶ商業モール、スーパー、百貨店、映画館、児童遊戯場、ホテル、病院、学校の8つが必須と考えた。

8つの事業にリッポーは進出していかねばならなかった。しかも、それぞれの事業を企業として独立させ、インドネシア各地にチェーン展開させようと考えた。小売事業など多くの新規事業は買収や提携で進出できたが、難しかったのが学校と病院だ。インドネシアではまだ産業化されていない分野だったからだ。

英語で授業をする小中学校のペリタ・ハラパン(希望の光)学園を93年にカラワチに開いた。米国から教師を招請し、生徒数を1クラス10人ほどに限定する少人数方式を採用した。これとは別にインドネシア語で授業する学校も設立。こうした学校をリッポーが開発した住宅街に多数展開し、産業として成り立たせていった。後にはペリタ・ハラパン大学もカラワチに設立し、医学、法学などを教えている。

医療事業ではシンガポールで名高いグレンイーグルス病院を説き伏せ、96年にカラワ0チに誘致した。残念ながら赤字が続き、グレンイーグルス病院は撤退した。リッポーは残った病院を単独で引き受け、シロアム病院と改名して運営を続けた。

どれほど崇高な事業でも赤字では永続性は得られない。私は病院の経営改善に乗り出した。かつて銀行で実施したと同じように業務のワークフローを図表にして赤字の原因を検証した。図表の完成までに1年半と長い時間を要したが、これで重複する業務や無駄を洗い出すことができた。

レントゲンのフィルムを廃止しデジタル化したほか、薬品の購買や在庫管理も厳格化した。細かいところでは食堂のメニューも減らした。わずかながら利益が出るように財務体質を変え、リッポーは今ではインドネシアで32の病院を経営するほどになった。

香港を拠点にしていた海外事業も大胆に組み替えた。事業の中核を金融事業から土地開発に移すのに伴い、2000年に拠点をシンガポールに移したのだ。香港は少数の巨大華人財閥が不動産事業を独占しており、発展の機会が少ないと判断したからだ。

06年にはシンガポールの不動産開発会社、OUE(華聯企業)を買収した。OUEは目ぬき通りのオーチャード通りにマンダリンホテルを経営していたが、ホテルの1階は昔風の大きなホールになっており、繁華街に位置するせっかくの地の利を無駄にしていた。我々は1階から4階までをモールに変え、ブランドショップやレストランを呼び込んだ。ホテル宿泊客だけでなく地元客もショッピングや飲食に興じられる。

OUEは地元DBS銀行の旧本社ビルを買収し、4階までをジムやクリニック、共同キッチンなどのフロアに再編した。ビルはオフィスとサービスアパートが融合する職住一体の施設に変わり、古いビルの価値は一気に高まった。

リッポーはアジア通貨危機を経て新たな企業に生まれ変わった。

 

 2016/8/30

リッポー・カラワチの病院事業にファンド出資

 
リッポー・カラワチ(インドネシアの不動産大手) 

欧州の大手投資ファンド、CVCキャピタル・パートナーズがリッポーの病院事業の株式15%を取得すると30日までに発表した。買収額は2.2兆ルピア(約170億円)。

リッポーによると、双方は26日に合意文書に調印した。CVCはシロアム・インターナショナル・ホスピタルズの株式の9%をリッポーの子会社から買収し、残り6%は別の株主からの買収とシロアムが計画している増資の際の取得で手当てする。

リッポーは現在、シロアムの株式の60%以上を保有する。同社は病院事業について今回の売却後も「長期的に過半数の株式を所有し続ける」という。

報道向け発表では、「(リッポーは)株式の過半数を所有することで得られる収入をシロアムの病院ネットワークの拡大やシロアムの増資の引き受けに振り向ける」方針を明らかにした。

リッポーはすでにこの案件をインドネシアの金融庁に伝えた。今後、株主と当局の承認が必要。手続きは今年12月までに完了する予定。

シロアムはインドネシア17都市で23の病院と16のクリニックを運営している。昨年のシロアムの売上高は24%増だった。一方、不動産開発やショッピングモール事業を含めたリッポーの全事業の売上高はほぼ同じ比率で減少した。

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2017/5/4 

インドネシアで都市開発2.3兆円 三菱商事など参加

インドネシアの大手財閥、リッポー・グループは4日、ジャカルタ郊外で大規模な都市開発に着手したと発表した。東京ドーム1000個分を超える5000ヘクタールの土地に住宅やオフィス街、文化・教育施設などを建設する。計画の一部には三菱商事など日系企業も参加する。事業費は278兆ルピア(約2兆3000億円)でインドネシア最大級の都市開発計画となる。

「メイカルタ Meikarta」の名称で、ジャカルタ郊外の西ジャワ州チカラン Cikarang で建設を進める。第1弾として今後3〜5年で住宅25万戸や少なくとも数十棟の高層ビルを建設するほか、商業施設や国内外の大学などを誘致する計画。一部はすでに「オレンジカウンティ」として三菱商事とともに開発を始めている。リッポーは三菱商事のほかに日系企業十数社が開発に参加するとしている。

メイカルタ Meikarta はリッポーグループCEOであるジェームズ・リアディの母(李麗梅 Li Limei スリヤワティ・リディア)の名前であるメイとジャカルタから名付けられ、「インドネシア国内だけでなく東南アジアでもっとも美しい街」をコンセプトに掲げた、278兆ルピアを投資するリッポーグループ創業以来67年間で最大のプロジェクト。

 


4日、記者会見したリッポーのジェームズ・リアディ最高経営責任者(CEO)は「新しいジャカルタをつくる」と意気込みを語った。高層マンションなどの建設を進め「20年後には1500万人が住む都市にしたい」と述べた。

ジェームズ氏は「リッポーの67年の歴史の中で最も大きな投資だ」と話す。グループの中核企業、リッポー・カラワチの売上高の26倍にも及ぶ巨額の事業費に関しては「勇気がなければこの事業は不可能だ」と述べ、社運を懸けた大事業であることを強調した。今年はまず20兆ルピアを投資するという。資金調達方法の詳細は明らかにしなかったが、自己資金や金融機関からの借り入れ、社債発行などで賄う方針だ。

リッポーが新たな大規模都市開発に乗り出した背景には、インドネシアでは都市人口の増加によって慢性的な住宅不足が起きていることがある。特にジャカルタ首都圏では住宅難が深刻で、2月に行われた州知事選挙でも争点のひとつとなった。「この計画には商機がある」。リッポーは若い世代でも買うことができる住宅を用意するなど幅広いニーズに応えることで販売を伸ばす。

ジェームズ氏は記者会見で開発地の「地の利」を何度も強調した。開発地の周辺はトヨタ自動車など自動車産業の工場などが集積する地帯で、すでに多くの人が近隣で働いている。さらにジャカルタと主要都市バンドンを結ぶ高速道路にも近いほか、ジャカルタまでのLRT(次世代路面電車)の建設も進むなど、インフラも整いつつあるためだ。「インドネシアで最も重要な都市になるだろう」と“予言”した。

リッポーはジェームズ氏の父、モフタル氏が創業した。銀行業が中核事業だったが、アジア通貨危機で経営難に陥り、事業を不動産開発に転換した。現在は百貨店など小売業や病院運営、三井物産などと組んでネット通販などIT(情報技術)関連事業にも業容を広げている。

  • Mochtar Riady is founder of $7.5 billion (revenue) Lippo Group, now run by sons James and Stephen.
  • Born in East Java, Riady opened a bicycle shop at age 22 and went on to build a successful banking career until the 1997 financial crisis.
  • Today Lippo Group's interests include real estate, retail, healthcare, media and education.
  • Riady's son Stephen runs Singapore property outfit OUE, which owns the iconic U.S. Bank Tower in downtown Los Angeles.
  • Grandson John, who heads Lippo's e-commerce venture MatahariMall, is also overseeing a digital banking drive through their Bank Nobu.

 

 

 

政治家とは一定の距離 クリントン氏への献金は教訓

中国に紅頂商人と呼ばれる人物がいる。19世紀の清朝時代に浙江省杭州で金融業者の下働きから身を興し、金融業や商業で巨万の富を築いた胡雪巌だ。金の力で政治家を操り、権勢をほしいままにした。清朝官僚のかぶる中央部が赤くとがった帽子を特別に与えられ、紅頂商人とあだ名された。

だが末路は悲惨だった。政争に巻き込まれて事業が行き詰まり、失意のなかで亡くなった。彼を描いた小説を読み、私は政治家とは一定の距離を保つべきだと考えた。私のパートナーだったサリムグループ総帥のスドノ・サリム(林紹良)はスハルト大統領と親密な関係にあり、インドネシア政府から数多くの許認可事業を獲得していた。

スドノを通せば政府関連の事業を簡単に始められたが、私はそうはしなかった。スハルト政権の最後の10年は腐敗が進み、政治家と関連する事業に関われば無理な要求をのまされかねなかった。98年にスハルト大統領が退陣するとサリムグループヘの批判も高まり、身の安全のためにスドノはシンガポールに退避せざるを得なかった。

国外の政治家ではクリントン元米大統領と懇意になった。知り合ったのは84年ごろだ。私は米国のパートナーのジャクソン・スティーブンス、スドノ・サリムの3人でアーカンソー州のワーゼン銀行を買収した。買収を祝うパーティの前にスティーブンス氏が「知事と会うか」と聞いてきた。電話をすると15分で駆けつけてきたのが30代のビル・クリントン州知事だった。

次男のジェームズ(李白)をワーゼン銀行の経営者としてアーカンソー州に派遣した。この銀行が地方債発行の引受業務を手がけていた関係からジェームズはクリントン氏と懇意となり、一緒にジョギングをする間柄になった。やがてクリントン氏が米大統領選に出馬し、ジェームズは友人として再選時も含めて政治献金をとりまとめた。

だが米国の政治抗争に巻き込まれ、ジェームズの政治献金は違法だと判断されてしまった。この事件は大きな教訓を残した。私が常々語る「政治家とは一定の距離を保つべきだ」という言葉の意味を息子も悟ったに違いない。

中国の習近平国家主席との付き合いも忘れられない。私は中国福建省に80年代後半から90年代にかけて度々訪れていた。そのころ出会ったのが今の習近平国家主席だ。習氏は福建省福州市の共産党委員会書記をしており、30代後半だった。習氏は85年から2002年まで一貫して福建省の各地で勤務し、02年に浙江省に移った。

私は福建省湄洲湾に発電所を建設するプロジェクトを進めており、習氏とは度々お会いした。習氏は福建省勤務時代にインドネシアを3度訪問しているが、カラワチにあるリッポーの私の執務室に来てもらったこともある。

ちょうどリッポーがカラワチに住宅地を造成しているさなかであり、民間企業の手で開発する都市の姿を視察してもらった。3度目の訪問では習氏を自宅に招き、父の故郷の福建省田の料理を振る舞った。

企業を経営するうえで政治家との縁はできる。だが私はどんなに親密な間柄になっても政治家とは一定の距離を保つという原則を守っている。

 

 

60歳過ぎキリスト帰依 アリババ会長と新たな交流

私の履歴書も残り少なくなった。ここで信仰や交友関係などの私生活を紹介したい。
私は60歳を過ぎてキリスト教徒になった。

 中略

交友関係も少し振り返りたい。香港の実業家、李嘉誠氏にはビジネスで何度もお世話になった。インドネシアのカラワチの土地を開発する際には李嘉誠氏に開発会社の株主にになってもらった。彼がなぜ私に良くしてくれたのかは今もってわからない。李嘉誠氏の先祖の戸籍地は中国福建省莆田だ。私の父の故郷も莆田であり、同郷のよしみを私に感じてくれたのだろうか。

私を米国投資に導いた米投資銀行家のジャクソン・スティーブンス氏も忘れられない。人口300万人にも満たなかったアーカンソー州を本拠地に活躍した伝説の投資家だ。州内の有力企業を見いだし全米にデビューさせる仕事を続けた。ウォルマート、タイソンフーズ、・JBハントはアーカンソー州に本部を置くが、上場や資金調達ではスティーブンス氏が世話をした。

スティーブンス氏は2005年に亡くなったが、家族間の交流は続いている。私の次男ジェームズの長男であるジョン(李川)はアーカンソー州に1年半滞在し、スティーブンス氏の孫と交流を重ねた。

新たな友もできた。中国ネット大手のアリババ集団のジャック・マー(馬雲)会長だ。一昨年、中国浙江省杭州にマー氏を訪ねたが、話が弾み、8時半から11時までの面会時間が午後5時までに延びた。ついにはマー氏の自宅に招かれ、夜9時半まで話し込んだ。全部で13時間、IT(情報技術)産業の未来について語りあった。

私は年の離れた人間との交流が得意のようだ。若いときはゲリラ部隊の指揮官など年長者とつきあった。逆に年をとった今はマー氏ら若い人と交流を重ねている。

 

再び金融、最新機能付加 インドネシアの発展を確信


もう銀行はやらないつもりでいた。リッポーはアジア通貨危機で銀行を手放してから中核事業を土地開発と情報通信の2つに絞った。土地開発の必要性から小売り、学校、病院などの事業が派生したが、銀行への再参入は頭になかった。情報通信では携帯電話などの新事業に忙しかった。

だが思いがけなくも数年前にノブ銀行という小さな銀行を買収することになった。友人が助けを求めてきたのがきっかけだった。友人はこの銀行を買収しようとしたが、インドネシア銀行(中央銀行)が買収案件を認可しなかった。そこで私の名前で買収してほしいど頼んできたのだ。

この買収が明らかになるとメディアは「リッポーが銀行業に戻ってきた」と大騒ぎに、なった。友人への名義貸しぐらいに考えていたが、しだいに心変わりし、再び銀行を経営する気になった。デジタル化が進む銀行業は一種の情報通唇産業であり、eバンキングこそが時代の流れだ。

インドネシアでも買い物はネット通信販売が台頭し、我々の小売事業でもネット通販の会社を設立している。eコマースの普及とともに電子マネーやモバイル決済も広がっている。リッポーグループは電子マネーなど最新の金融サービスを提供する中核的な役割をノブ銀行に持たせた。

小売りと情報通信、金融がデジダル化で融合しようとしている。もう一つの例は病院だ。インドネシアは1万数千の島々かろなる島嶼国だが、一部大都市を除けば医療水準は極めて低い。レントゲン、CTスキャン、磁気共鳴画像装置(MRI)などの機械はあっても病気を診断できる医師や技師がいない。

人工知能(AI)を使って無人で病気を診断できないかと考えている。異なる事業分野と考えていた病院経営とIT(情報技術)事業が融合するのだ。この連載の冒頭で紹介した造成中の新都市メイカルタにはリッポーが持つすべての事業が詰まっており、様々な融合が起こるはずだ。

最後にリッポーの海外事業を一望したい。東南アジアではシンガポール、マレーシア、フィリピンで不動産事業を営む。ミャンマーとベトナムでは病院事業を拡大中だ。病院事業では日本や中国の企業とも提携関係を深めている。さらに中国の主要都市にオフィスビルやモールを有し、オーストラリアにもビルを持つ。かつて米国には銀行業で進出したが、今はロサンゼルスにタワービルを所有する。

なぜインドネシアという発展途上国に誕生した企業がこれだけのグローバル化を実現できたのか。それは地図を見れば一目瞭然となる。インドネシアの東側は太平洋が広がり、米国まで続く。北には中国を含む大陸が横たわり、南に目を向ければオーストラリアが控える。そして西にはインド洋が開け、インド、アフリカへと延びる。インドネシアは太平洋とインド洋という2つの成長センターが交錯し、つながる場所だ。

インドネシアは東と西の文明が収斂、融合する場と言っても良い。そこに2億6千万の人々が住み、中間層が増え続けている。この国は計り知れない可能性を秘めている。私の人生の記を通じてインドネシアに関心を持たれた方はぜひ足を運んでいただきたい。