元テロ対策大統領特別補佐官
リチャード・クラーク
「爆弾証言 すべての敵に向かって」
 Inside America's War on terror
   Against All Enemies

 本書は、いかにしてアルカイダが出現し、9月11日にアメリカを攻撃するに至ったかを、わたしの観点から綴った物語である。また、アメリカに対する脅威の存在に気づくのが遅れ、それが本物の重大な脅威であると知ったあとも、なお阻止することができなかったCIAとFBIの物語である。そして、以下の4人の大統領の物語でもある。

○ロナルド・レーガン ベイルートの爆弾テロにより海兵隊員278名を殺害されたにもかかわらず、それに報復せず、イラン・コントラ・スキャンダルでは人質と交換に武器を売って、みずからの対テロリズム政策に違背した。

○ショージ・H・W・ブッシュ リビア人によるパンアメリカン航空103便爆破テロで乗客259名を殺害されたにもかかわらず、それに報復せず、公式の対テロリズム政策を作らず、サダム・フセインを政権の座にとどまらせたことで、サウジアラビアにアメリカの大軍隊を駐留させざるをえなくなった。

○ビル・クリントン 
テロリズムを冷戦後の主な脅威と認識して、アメリカのテロ対処能力を高める努力をし、(一般にはほとんど知られていないが)イラクとイランによる反米テロを抑え込み、ボスニアを支配しようとするアルカイダの企てを打ち砕いた。しかし、政治的な攻撃を続けざまに受けて力を失い、CIAや国防総省、FBIをテロに向けて充分に活動させることができなかった。

○ジョージ・W・ブッシュ 繰り返し警告を受けたにもかかわらず、アルカイダの脅威に対して9月11日以前に行動を起こさなかった。テロ攻撃後それをむしろ政治的な追い風にして、明らかにおざなりな措置を講じ、さらには、不必要なうえに費用のかさむ戦争をイラクにしかけて、イスラム原理主義者、イスラム過激派テロリストの動きを世界的に強めてしまった。

 

・ソ連のアフガニスタン侵略を押させるため、アフガン戦士にスティンガー供与
   ビン・ラディンのアフガニスタン支援
      ↓
・イランへの復讐のため、石油を求めてイランを侵略したサダム・フセインを応援
・フセインのクエート侵略でサウジに軍隊
      ↓
   ビン・ラディンが反対、対米戦争

 

9.11

 (2001年9月)12日の朝には、国防総省の焦点はすでにアルカイダから離れつつあった。CIAは、アルカイダがテロ攻撃の実行犯であることをすでに明確に示していたが、ラムズフェルドの副官のウルフォウィッツは納得しなかった。この作戦は、国家的な支援なしでやってのけるには、あまりにも洗練され、あまりにも複雑であるーーーイラクが後押ししたにちがいない、というのだ。

 ウルフォウィッツがまったく同じことを4月に言っていたのを、突然はっきりと思い出した。政府が、ようやくテロリズムに関する初めての次官級会議を開いたときのことだ。その場でわたしがアルカイダに対する行動開始を主張すると、ウルフォウィッツは1993年の世界貿易センターへのテロに立ち戻り、アルカイダが単独で実行できたはずはなく、イラクの後押しを受けたにちがいないと言った。アルカイダに焦点を絞るのはまちがいで、イラクの支援によるテロリズムを追跡しなければならない、とウルフォウィッツは4月に言ったのだ。93年以来、アメリカに対するイラク支援のテロリズムは起きていないというわたしとCIAの主張は、容れられなかった。今、それと同じ路線の考えかたが戻ってきたわけだ。
 12日の午後までには、ラムズフェルド国防長官は対応策の目的を広げ、"イラクをとらえる"ことについて話し始めていた。パウエル国務長官は反論し、アルカイダに焦点を絞ることを主張した。・・・・
 その日遅くなってから、ラムズフェルド長官が、
アフガニスタンには爆撃するのにふさわしい標的がなく、"もっとよい"標的のあるイラクの爆撃を考慮すべきだと訴えたのだ。最初、わたしはラムズフェルドが冗談を言っているのかと思った。しかし、彼は本気であり、ブッシュ大統領も、イラクを攻撃するという考えを即座にはねつけることはしなかった。それどころか、イラクに対してすべきことは、政権を交代させることであり、ラムズフェルドが提案したとおり、ただ巡航ミサイルを増やして叩けばいいというわけではないと言い添えた。

エピソード オウム事件(1995/3)

 ・・・「なぜオウムがアメリカにいないと言い切れるんだ、ジョン? FBIの捜査資料に載ってないからか? マンハッタンの電話帳をしらみつぶしに調べてみたか?」
 「まじめに訊いてるのかっ」(FBI長官)オニールが尋ねる。こちらが本気であることを告げると、そばにいた部下にFBIのニューヨーク支部と連絡をとりに走らせた。しばらくして部下が戻ってきて、メモを渡す。
 オニールがメモに目をやる。「くそ。電話帳に載ってる。5番街の東48丁目だ」
 それを聞いた全員の頭に同じ考えが浮かんだ。ニューヨーク市の地下鉄にサリンが撒かれる。オニールは応援部隊を求めた。「化学兵器の汚染除去班をそこに急行させたい。化学剤の検知や診断をできる人間も。陸軍がいい」
 CSGのペンタゴン代表はいい顔をしなかった。陸軍のオリーヴ・グリーンのトラックが轟音を響かせて繁華街に現われ、宇宙服のような格好の隊員を街なかに送り込む。昼食客でにぎわうロックフェラーセンター周辺は、たちまちパニックに陥るだろう。そのうえ、最も近い化学部隊の基地はメリーランド州だ。到着に4時間かかる。ペンタゴン代表は、軍がアメリカ国内での任務を求められたときに決まって唱えるラテン語の呪文を口にした。”ポシ・コミタタス(民兵隊法)”。南北戦争後に制定された1876年の法律で、連邦の軍隊が国内で文民警察活動に携わること(1865〜76年にかけて南部連合国でそういう事態が起きた)を禁じている。ただし同法には、緊急の場合、大統領の権限で超法規的措置をとれるとの条項が付されている。わたしの机の引き出しにも、超法規的措置をとるための書類が、あとは空欄を埋めて署名するだけという状態で入っていた。
 書類は取り出さずにすんだ。オニールがペンタゴンを説得して、ひとまず部隊をマンハッタンの州兵本部に待機させ、そのあいだに連邦検事が捜査令状に必要な情報を集めるという話にまとまった。一方、現場では"消防隊長"と称して、建物の抜き打ち検査に入っていた。見ると、オウム信者がレンタカーのバンに箱を積み込んで、出かけようとしている。FBIの車がバンを追ったが、5番街を数ブロック走ったところで、車の流れの中に見失ってしまった。連絡が危機管理室に入ったとき、オニールの顔は怒りに青ざめた。化学兵器をマンハッタンで見失った、自分の監視のもとで。わたしはとにかくアンソニーレイク国家安全保障担当補佐官に会おうと考えた。
 彼とわたしが大規模な避難誘導の進めかたを話し合っているところへ、オニールから電話が入った。バンを発見した。捜査令状も取った。箱から出てきたのは本だけで、48丁目の事務所にも危険物質はなかったという。
 のちにオウム真理教がサリンのほかに、炭疽菌を製造していたこともわかる。実は日本の米軍施設に手作りの炭疽菌が散布されていたが、胞子の大きさを間違えたため、被害は出なかった。と同時に、気づかれることもなかった。