仕事始めということで、
有機ELの話に戻ります。
有機ELというと、三洋電機を忘れてはいけません。
今はもうありませんけどね。
2001年のCEATECでの三洋電機のブースは感動的でもありました。
でかいブースで、有機ELを全面的に打ち出して、
間違いなく、有機ELディスプレイの技術では世界で一番進んでたと思います。
パイオニアと同じく、80年代の後半から大阪枚方の研究所で基礎研究から始め、パネル化技術、量産技術、とにかく、最先端を走ってました。
2001年の段階でここまでデモできる会社でした。
実用化近しを感じさせましたね。
この携帯も、フィールドテストということで、私もお借りして、約半年間使用させていただきました。
めっちゃカッコよかったです。
特に、飲みに行って、テーブルの上にこれ見よがしにおいておくと、
お店の人が、この携帯かっこいいですねえ、
と声をかけてくれるのが嬉しかったです。
で、2001年12月にはイーストマン・コダック社と有機EL生産会社(SKD)を合弁で設立しました。
また、製造装置に関してはアルバック が絡み、三洋、コダック、アルバックの最強トリオでした。
見た目は。
工場は三洋電機の岐阜工場。
枚方からも応援に行き、低温ポリシリコンTFTを用いた有機ELディスプレイの生産を開始しました。
しかし、2003年からデジタルカメラに搭載したものの、歩留まりが低く、数が作れないので、確か、オーストラリアとヨーロッパの地域限定販売でした。
実は、この歩留まりの低さは、TFT基板の歩留まりというよりも、むしろ有機EL部分の歩留まりの低さが原因でした。
真空蒸着で、シャドウマスクを用いてのRGBの塗り分け方式ですが、まず、蒸着方式がダメでした。
後に、蒸着機を見ましたが、あれじゃあ、まともなディスプレイはできないなあ、というような蒸着機でした。
このダメダメ蒸着機は、後にある有機EL照明パネルメーカーに引き取られることになります。
しかも、シャドウマスクの塗り分けも極めて高度な技術が必要で、マスクの位置合わせ等に問題を抱えていたと考えられます。
しかし、三洋電機がすごいのは、トッキ製の蒸着機をあらたに導入し、しかも、RGB塗り分け方式から、白色カラーフィルター方式に変更したことです。
一気に装置もカラー化方式も見直す潔さが素晴らしいです。
これで歩留まりが上がり、2006年にはデジタルビデオカメラ、ザクティにお搭載されることになりました。
日本のものづくり、ここにありです。
この時に確信しましたね。液晶の時代は終わった、と。
しかしです。
2005年に野中ともよ氏が会長兼CEOに就任し、赤字事業の見直しを開始。
そして、これまで赤字であった有機EL事業を2006年に解散。
せっかく量産に成功したというのに、これからという時に、金の卵を産む鶏の首を絞めました。
三洋電機の終わりの始まりです。
当時、三洋電機の有機EL技術者が言ってました。
野中氏が工場見学に来た時に、有機ELの前で立ち止まり、サングラスを外してチラッと見て、
あら、綺麗わね。
と言って立ち去ったこととか。
技術が理解できない経営者を持った不幸でしょうか。
技術で勝って、ビジネスで負ける。
その典型でした。
野中氏も2007年に辞任されてます。
ご存知のように三洋電機は2011年にパナソニックの子会社となり、2013年にはSANYOブランドは終了しました。
三洋電機の研究、技術者の中には半島の会社に転職した人もいました。
こうやって技術は流出する、の典型でもあります。
もしあの時、三洋電機が有機EL事業を続けてたら、スマホ用の有機ELを量産し、どれだけの売り上げていることか。
「もし」とか「たら」は、ナンセンスですが、平成の30年間、この国に新たなものづくり産業が生まれなかったのは、技術がありながら、
それを活かせなかった経営者の責任が大きいと思います。
そんなことを繰り返さないために、人材育成が急務だと思います。