日本経済新聞 2010/1/27

森六、染料「藍」から車部品へ
 変わり身の早さ強みに

「材料じゃなく部品で納めてみるか」。1958年にホンダ創業者、本田宗一郎氏が発したこの一言で森六ホールディングスの業態は大きく変わることになる。
 創業は1663年。初代・森安兵衛が徳島で藍とその栽培に用いる肥料の干鰯を商ったのが原点の化学商社だ。13代目の現社長、森茂氏によると、茂氏の祖父で9代目の六郎氏がホンダ本社に日参し、樹脂材料を売り込んだ。
 当時、ホンダが開発中の二輪車「スーパーカブ」は燃費対策で軽量化を最優先の課題としていた。候補に挙がったのは、バケツなどの素材だった高密度ポリエチレン。軽量だが自動車で採用実績はない。それでも本田氏は「やれ」とゴー・サインを出した。
 森六は当初、成型不良品を破砕して再生する仕事を要請されたが、9代・六郎氏は「製品開発、生産もやらせてほしい」と懇願。前輪を覆うフロントフェンダーとツールボックス、バッテリーボックスの納入が決まった。
 58年8月発売の初代スーパーカブはリッター90キロメートルという燃費でライバルを圧倒。躍進を支えたのが森六の軽量な樹脂部品だった。納入品目は徐々に増え、現在では「ホンダ向けの4輪用樹脂部品では最も多く採用されている」(森社長)。乗用車などに装着されるフロントグリルは6〜7割が森六製だ。
 染料の藍から化学品に手を広げ、樹脂成型で成功するまでには長い伏線がある。徳島県の吉野川流域で藍の栽培が始まったのは平安時代中期。良質の藍を育てるには干鰯やニシンかすなど高価な肥料を使わなければならない。初代・安兵衛はここに目を付け、藍と肥料の両方を扱った。
 2代・武兵衛は栽培農家に干鰯を貸し付け、年末には代金を現金でなく藍で返済させた。藍を兵庫に船で運び、帰りは干鰯を満載して戻った。この商法が森六の基礎を築いた。
 豊富な資金を元手に、1853年に江戸進出を果たしたのが6代・六兵衛だ。販路は現在の東京、神奈川など南関東から群馬、長野までの広域に及んだ。
 1870年には北海道産ニシンかすの販売に参入。江戸時代中期から回船問屋の高田屋嘉兵衛、その後援者の北風荘右衛門が市場を独占していたが、六兵衛は千石積みの船4隻を購入して牙城を崩しにかかった。15年後に北風家が破産すると、肥料業界の大立者となった。
 明治になると環境が大きく変わる。安価なインド産の藍が流入し、徳島の藍商人は大打撃を受けた。独BASFが開発した合成染料の輸人も始まり、後に独ヘキスト製の合成染料が加わった。商権をめぐって複雑な合従連衡が続いた。9代・六郎氏は幾つも会社を設立して乗り切った。
 「国産藍だけにこだわった会社はほとんどつぶれ、インド藍や合成染料を扱ったところが生き残った」と森社長は話す。時代の荒波を乗り越えられたのは、変わり身の早さゆえ。軸足を移した合成染料事業はその後の化学品につながり、自動車部品の土台となった。
 「青は藍より出でて藍より青し」と中国の儒家、荀子は言った。森六を表すのにこれ以上の言葉はない。347年前に藍で起業し絶え間ない自己革新を重ねてきた。今では高付加価値の自動車樹脂部品が売上高の6割を占める。

1958年当時、高密度ポリエチレンで二輪車のフロントフェンダーのような大型部品を成型する技術は確立していなかった。型から抜いた翌日には極端に変形する現象に悩まされたが、試行錯誤の末にプロセスを作り上げた。ホンダが三重県鈴鹿市に新工場を建設したのを受け、65年には鈴鹿に進出。量産で活躍したのが独エッケルト・チーグラー社から輸入した最新鋭の射出成型機だ。