永野健二 「日本迷走の原点 バブル 1980-1989」

   日経 証券部
   永野健・三菱マテリアル会長、日経連会長の息子

 

資本主義=バブル→デフレの循環の歴史

 

第1章 胎動

 三光汽船のジャパンライン買収事件

  1964 海運集約  興銀 中山素平による6グループへの集約

  三光汽船 (河本敏夫
   時価発行、高株価経営
   船舶大量発注、時価発行と第三者割当で資金調達
   便宜置籍船で外人船員雇用

   1971 ジャパンラインの19.7%取得で提携を迫る。 その後41%に。

  運輸省と興銀にとり、体制破壊

  興銀、アングラ社会の児玉誉士夫、水島廣雄(興銀出身、そごう社長)に依頼、ジャパンラインが株式買い取り 
  三光汽船は150億円の利益
  ジャパンラインに重荷 1989年山下新日本汽船に吸収合併され、ナビックスライン。
  興銀凋落の始まり 

  逆に日本郵船はタンカー撤退を決定

 笹川良一によるヂーゼル機器の買収

  誠美グループ(加藤ロ)による岡本理研ゴム買収(踏み上げによる高値)で笹川良一の政治力による「解け合い」
  
  笹川良一、誠美グループ、平和相互銀行によるヂーゼル機器の買収 

  1978年 市場を通さない直取引防止のため「特別報告銘柄制度」 東証 谷村裕理事長の決断
  ヂーゼル機器をこれに指定(唯一)

  1980年 ヂーゼル株式のいすず、日産自動車などによる肩代わり(野村證券)
  誠美グループ孤立化が狙い

  是川銀蔵による誠美グループとの仕手戦による勝利

 大蔵省がつぶした「野村モルガン信託構想」

  1983年 基本合意  

    当時、信託業務は専業の7信託銀行と大和銀行のみ
      大和は戦前からの野村信託を引き継ぐ
      大蔵省の信託分離政策に反逆(行政指導に過ぎず、法律に拠らない)

      野村證券は東洋信託をつくろうとするが、大蔵省の圧力で、三和銀行、神戸銀行、野村証券のJV

  野村証券の悲願、レーガン政権による金融自由化圧力も

  米財務省が圧力かけるが、1984年 非承認で決定 「野村はやりすぎた」
    条件として@大口預金金利の自由化、A外貨の円転規制撤廃、B外国銀行の信託業務への単独進出を認める。

 頓挫した「たった一人」の金融改革

  佐藤徹証券局長

   当時は銀行は銀行局、証券会社は証券局 → 市場行政として、国際化の流れを意識してすすめるべき。
   
   「三局合意問題の解決」 日本の銀行が支店を持つ国で現地法人を認めない→住銀のゴッタルド銀行買収で尻抜け
   「社債の無担保化」 興銀中心の8行会が有担保による社債受託(発行の許諾権)=土地本位制 →格付けによる無担保化

   佐藤のターゲット 興銀をInvestment bank に。 証券会社になることが近道。

   興銀の「銀行」こだわりと、1985年の佐藤の病死で頓挫。

     その後のバブルで土地本位制  

 M&Aの歴史をつくった男

   ミネベア 高橋高見 「黒い眼をした外国人」

   1971〜80 海外3社、国内9社のTOB 現地生産(労働コスト)

   1983蛇の目ミシン(埼玉銀行)をTOB 
     実質、野村証券だが表面はメリルリンチ

    埼玉銀行に力を持つ小佐野賢治が竹下蔵相を動かし、つぶす。
    その後、蛇の目は仕手グループ光進の小谷光浩に買占められる。

   1985 三協精機と合併交渉 内外が参戦 ミネベア株も狙われる。 ミネベア株買戻し、三協株売却で壮大な徒労
   1989年 病死

    

第2章 膨張

 プラザ合意 超金融緩和政策

  1985年9月 プラザ合意  ドル高是正のための協調介入 @強いドルの放棄 AG7体制 B為替調整優先、それ以外は各国→さまざまな矛盾
  1985年3月 ゴルバチョフ政権 ペレストロイカ→1989年のベルリンの壁崩壊→ソ連解体

  ドル 242円→1年で150円台
  日銀 公定歩合  1986/1  5.0%→4.5%、1986/3 →4.0%、1986/4 →3.5%、86/11→3.0%、87/2→2.5%

 

  1986年 前川レポート @市場原理基調の政策、Aグローバル視点、B中長期的努力の継続、
                 内需拡大と産業構造転換と市場アクセス改善
                 第二次産業から第三次産業への転換、農業にもメス

  議論をせぬままバブル経済へ

  資産バブルを加速した「含み益」のカラクリ

   土地価格の曖昧さと企業会計での時価主義不徹底  含み益を経営者の自由裁量にゆだねる→土地を通じてのバブル

   三菱地所  土地建物の時価 7.75兆円

   Water front 相場 IHIほか

 三菱重工CB事件

   1986/8 1000億円の転換社債発行  証券会社が親引けを顧客に配分

     山一証券の内紛で、副社長が配分先(総会屋中心)のリストを表に出す。

     1981年商法改正で総会屋への利益供与禁止
     田中森一特捜検事の調べで、政治家や官僚にも。

     法務省刑事局は立件可能、最高検河上和雄検事は否定(企業は私的な存在、捜査機関が正常化を図るのは健全でない)
     10数年のロッキード事件公判後でゆとりなし。

  その後、山一は営業特金(永田ファンド)にのめりこむ。 利益保証で資金を集め、会社ぐるみで運用。株価暴落で粉飾。

  1997年11月 自主廃業

 NTT株上場フィーバー

  1987年上場

  野村総合研究所の株価試算は50万円弱
  野村証券 商売上の判断 80〜90万円

  入札による決定 119万7000円  3か月後に318万円、バブル崩壊後の1992年に50万円に迫る。

  民営化 中曽根首相と真藤恒(電電公社最後の総裁、NTT初代社長)  真藤はリクルート事件で逮捕(みなし公務員として)

 特金・ファントラを拡大した大蔵省の失政

  1987年 Black Monday

  88年1月 「特金・ファントラの決算計上の弾力化と生保の運用枠の拡大を軸とした対策」 
    3月期決算で、損失を表面化しなくともよい、積極的に財テクを続けろというもの
    銀行は低価法採用を維持、決算内容の悪い金融機関は個別指導、益出しによる株式の売り圧力を抑える
    生保は、総資産利回りは評価損を除外、総資産に対する特金・ファントラの枠を3%から5%に拡大
    事業会社は低価法・原価法の選択制:含み損の計上不要

   3月期決算の平穏と引き換えに、相互無責任の財テク温存、矛盾の先送り   バックファインス付き財テクを推奨、拡大

  1989年末 営業適正化通達  証券会社の営業特金は1年以内に投資顧問会社に切り替え、90年3月までに「飛ばし」「営業特金」の整理

  しかし、1990年年明けに株価急落。 too late !

 企業の行動原理を変えた「財テク」

  日経 1983年 「ザイテク時代」連載

  三菱商事 太田信一郎財務部長 低利調達資金で金融商品を運用  財務部門を収益セクターに
    その後、特金、ファントラに注力、暴落で損失

  阪和興業  北 茂 社長  にぎり特金、にぎりファンドトラスト
    CPを含めた総資産 10兆円

    1990年1月 大暴落
    その後、本業復帰で再生 3300億円の特損償却の体力(財テクの遺産) 但し同社株価は4400円から81円に大暴落(株主の犠牲で再生)

  三井物産 福間年勝・資金部長 握りの約束を信ぜず。経営会議での圧力に抵抗、八尋会長が支持(「現場の部長がやらないと言っている、しようがないぞ」)
    

第3章 狂乱

 リクルート事件

  1988〜89 藤波孝生、真藤恒、加藤孝、−−竹下内閣総辞職

  未公開株譲渡 違法性なし 
 
    NTT  真藤NTT社長 
    文部省「就職協定」  労働次官、文部次官

    田原総一朗 「国策捜査」

  1934年帝人事件  鈴木商店の担保として台湾銀行にあった帝人株式を割り当て

  石田和外主任判事(のちの最高裁長官)の無罪判決 株価の将来の値上がりが予測できるというのは 「掬月影於水中」

  三菱重工CB事件  賄賂性を問わず。

  殖産住宅事件最高裁判決

株式の新規上場に先がけて上場に際しての便益のため上場会社・幹事証券会社と大蔵省・東証取引所などの間でなされた贈収賄事件。
最高裁 1985/7/18 贈収賄罪の成立を認めた。

 EIE 高橋治則 
   1985年から4年で1兆5000億円まで借り入れを膨らませ、国内外で不動産、ホテル、ゴルフ場を買いまくり、90年に銀行管理会社、95年に背任で逮捕

   岳父 岩沢靖 北海道の実業家 西華産業をのっとるが、整備グループ破たんで、資金を失い、札幌トヨペットは会社更生法

   実家のEIE経営から、不動産投資、ゴルフ場投資、株式投資に。東京協和信用組合の理事長に就任。
   長銀から巨額融資を受け、海外に展開。
   1990年資金繰り難が表面化、長銀主導でEIEのリストラ計画。
   1993年長銀が支援ストップ、それぞれが破綻の道へ。
   1995年 東京協和信組に公的資金、高橋は業務上横領で逮捕。 友人の土屋陽一の三洋証券も97年に倒産。
 

 買占め屋

  AIDS:麻布土地グループの渡辺喜太郎、EIEの高橋治則、第一不動産グループの佐藤行雄、秀和の小林茂

  Trick star  小林茂 秀和レジデンス、芝の軍艦ビル

  バブル崩壊で他が破綻したが、生き残る。
  2005年 モルガンスタンレー証券に1400億円で買収される。

  1988〜90 流通関連株を大量取得 伊勢丹、松阪屋、忠実屋、いなげ屋、長崎屋、ライフ・・・
  忠実屋といなげ屋に他との再編を提案

  両社は対抗策として互いに時価の1/3価格で第三者増資(ネット支出は減る)
  アレンジしたのは、野村企業情報、森綜合法律事務所、Price Water House.

    秀和は仮処分申請(河合弘之弁護士)
  東京地裁判決 「市場価格は株価判断の原点」

  野村証券、意味を理解。安い価格を認めれば、市場がバブルであることを自ら認めることとなる。「一切関与しておらず、機会あれば仲介したい」

  最終的に忠実屋はダイエー傘下に、いなげ屋はイオングループ。

  証券市場改革をリードするとされたエリートたちの傲慢さ、システム改革が進まないのはエスタブリッシュメント側に問題あることを示す例。

 トヨタ vs ピケンズ

  1989/3 ピケンズが小糸製作所の20.2%を取得。

  実際の黒幕は麻布土地グループの渡辺喜太郎。光進の小谷光浩から騙され、小糸の株1800万株を高値で押し付けられた。
  安倍晋太郎通産大臣と棚橋裕治産業政策局長に相談し、トヨタ幹部に肩代わりを要請。
  これを豊田英二会長が拒否。「阿部さんはあんなのに深入りしちゃいかん」

    数年前に日本土地グループに豊田自動織機を買い占められ、肩代わりした反省。

  渡辺へピケンズを引き出す。 ピケンズは資金負担なく、系列取引、日本市場閉鎖性を批判、
  リスクは全て渡辺。2年間で半値に値下がり、1000億円の損失、倒産の引き金。

  トヨタは小糸の安定株主比率62%強を守り抜く。

  その後、ピケンズの主張は実現。

 住銀の大罪はイトマン事件か小谷問題か

   光進 小谷光浩  
         国際航業 東京地裁が権利行使の制限の判決
         蛇の目 影のオーナーの小佐野賢治(国際興行)が売り浴びせたが、受けきる。小佐野の死期を早めた。
         「心のふるさとは住友銀行」  住銀西・副頭取「住銀本体で114億円融資」  多くの企業のメインバンクである住銀が乗っ取り屋に多額の融資

     1990年7月 小谷逮捕、10月住銀青葉台支店長 逮捕(小谷に対する出資法違反:斡旋融資)

   イトマン事件  磯田会長、イトマン河村社長、伊藤寿永光常務、許英中
     1990年10月 磯田会長辞任、西副頭取辞任 西川善文常務が主導、頭取に

   背景にマッキンゼー大前研一提案の「総本部制」 営業推進と審査機能を一体化
     不動産取引 (信託銀行にのみ斡旋が認められるが、協力預金で低利率の預金をさせ、手数料見合いの金利の鞘抜き)

 「株を凍らせた男」が予見した戦後日本の総決算

   野村証券 田淵節也会長
     1990/2 株価下落 「海の色が変わった」  vs 1953年 立花証券創設者 石井久(ペンネーム 独眼流) スターリン暴落を予想   「桐一葉、落ちて天下の秋を知る」
       戦後の日本経済において金融システムが果たしてきた役割、銀行と証券会社の役割と限界を認識。
       土地神話、護送船団行政   銀行による土地本位制が土地と株のバブルを生みだす。証券会社は株式持ち合いでメインバンク制を補完し、バブル増殖を加速した責任。
     

   田淵会長 「株を凍らせた男」 売却で株価下落を避けるため、株式持ち合いで変則的な株式の需給調整 (自社株取得制度なしの時代)
        結果として、銀行のメインバンク制を補完、土地本位制を延命

 

第四章 清算

 興銀の末路  

   1991年 尾上縫 料亭「恵川」「大黒や」
   1991/8 東洋信託金庫(三和系) 3420億円の架空預金証書発行を発表

   興銀  ワリコーを2500億円販売 行内で成功モデル
        不動産取引を推奨、手伝い
        株価下落での損失補てんのため架空預金証書で借入

   破産管財人 滝井繁男 のち最高裁判事
     
         3175億円の損失のうち274億円を返済
         興銀やグループ企業の責任を追及、3件の民事訴訟のうち2件で勝訴、2001/12 170億円を回収
         判決「その背信性には極めて重大で著しいものがある」

        「融資担保にワリコーを買わせれば逆ザヤで融資先が損をするのは自明」
         逆ザヤ分の損害賠償請求は敗訴する。日本の司法に金融機関の融資の不法行為追及は難しい。

  滝井最高裁判事
    2006年 グレーゾーン金利規制
    その後  過払い金返還訴訟で「サラ金を殺した男」

利息制限法
貸金業法  利息制限法に定める上限金利を越えていても、任意に支払ったこと等の条件を備える場合「有効な利息の債務の弁済とみなす」。

      判決 債務者が、事実上にせよ強制を受けて利息の制限額を超える額の金銭の支払をした場合には、
          制限超過部分を自己の自由な意思によって支払ったものということはできず、法43条1項の規定の適用要件を欠く

       2004年 興銀の住専に対する不良債権放棄の損金算入を認めないのは違法の判決

一審が興銀勝訴、控訴審が課税庁勝訴、最高裁においては興銀勝訴という劇的な展開をした事件であり、貸倒金額も約3760億円という巨額なもの。

税務署長は、本件債権は全額回収不能には至っていないとして、その貸倒損失の損金算入を否認する更正処分

法人の各事業年度の所得の金額の計算において、金銭債権の貸倒損失を法人税法2233号にいう「当該事業年度の損失の額」として当該事業年度の損金の額に算入するためには、当該金銭債権の全額が回収不能であることを要すると解される。そして、その全額が回収不能であることは客観的に明らかでなければならないが、そのことは、債務者の資産状況、支払能力等の債務者側の事情のみならず、債権回収に必要な労力、債権額と取立費用との比較衡量、債権回収を強行することによって生ずる他の債権者とのあつれきなどによる経営的損失等といった債権者側の事情、経済的環境等も踏まえ、社会通念に従って総合的に判断されるべきものである。」「本件債権の全額が回収不能であることは客観的に明らかとなっていたというべきである。」

基本通達に規定されている債務者側の事実認定のみならず、その他の事情も総合的に勘案して社会通念に従って弾力的に行われるべきであるとされたところに大きな意味

 損失補填問題が示した大蔵省のダブルスタンダード
   1989年末 営業適正化通達  証券会社の営業特金は1年以内に投資顧問会社に切り替え、90年3月までに「飛ばし」「営業特金」の整理  too late

      1991年7月 日経スクープ 4大証券損失補填 1200億円強
     損失は10兆円   実際は大口手数料割引  他に、政治家圧力等での補填あり

     信託銀行ではファンドトラスト、土田銀行局長「ファントラに損失補填なし」発言で終わり。

     大蔵省の政策の誤り、 証券会社にのみ責任を負わせ、信託銀行については一切なしで。

 

 幻の公的資金投入

   宮沢喜一首相 株式市場の危機ではなく、日本の金融市場全体の危機=土地神話の危機、銀行不倒神話の危機
   三重野日銀総裁 同様だが、対応を誤りバブルを生んだ反省あり

   1992年8月 宮沢ー三重野 必要なら日銀特融
    8/30 自民党軽井沢セミナー講演  「必要なら公的資金の投入にやぶさかでない。」
     中島秘書官(大蔵省)がつぶす。

   永野健日経連会長 「公的資金で助けてもらうなら、賃金など経営情報を公開しないと世間は納得しない。」
     春闘で賃金を明らかにしない銀行への批判、銀行支配への批判が、公的資金投入への批判ととられる。総反対。