横浜国立大学 中西準子教授の原点

 

雑感246-2004.2.10「一枚の図 -最終講義副資料-」
http://homepage3.nifty.com/junko-nakanishi/zak246_250.html#zakkan246

2月23日の最終講義のために副資料を作った。その主たる内容は、これまでに発表した小論目録であるが、そこにこれまでの代表的な研究結果を表す15枚の図表をつけた。ここには、その序文と15枚の内から1枚の図と一枚の表を紹介する。副資料の表題は、「一枚の図」とした。

<一枚の図>

1983年に朝日新聞社からだした拙著「下水道 水再生の哲学」の冒頭で、私は以下のように書いている。

 “「思想派」と「事実派」とに仮に人を分けるとすれば、さしずめ私は「事実派」の末席をけがす人間だろう。思想を語る資格もないし、語る必要もないような気がする。時と場所を得た人が、知り得た事実を明らかにすれば、事実の意味するところはおのずから示されるからである。”

ファクトへのこだわり、これが私の35年に及ぶ大学での研究生活を支えた背骨である。そして、そのfactをできるだけ“言葉を添えずに”伝えようと努力した。そのため、結果をできるだけ図や表で表現した。現在のように、presentationの重要性が言われる前から、私は何でも図にした。“グラフ馬鹿”とまで言われていた。
それは、ある種の関係性を人に伝えたいという強い欲求がありながら、言葉への不信感、言葉の無力さ、思想というものへの強い不信感を持っていたからである。

私は小学生の頃(昭和20年代中頃)に日本共産党の分裂の過程を見て育った。その渦中にいた父親(中西 功)達のすさまじい理論闘争の現場を、怖いなと思いつつ、じっと見ていた。そして、思想論争では、どちらが正しいという決着をつけられないものだということを、肌で感じ取った。

父の主張が正しいのだろうが、相手の言うことにも理はあるなというような感じ方であった。しかし、歴史的には何らかの決着がつく。何故かな? 論争で決着がつかないのに、何故、現実の場で決着がつくのだろう? そういうことばかり考えていた私は、小学生の頃はほとんど笑うことのない子供だったらしい。

中学、高校と進み、大学進学が問題になった時、周りの人は皆驚いてしまったのだが、私は理系を選んだ。私は小学校5年からマルクスの著作(最初に読んだのは「賃労働と資本」)を読みはじめ、広くマルクス主義の本を読み、中学時代には、東大経済学部の大学院生が地域で開いていた経済学ゼミに参加し、高校時代は社会科学研究会に所属していた。法律学や経済学を専攻するものと誰もが思っていた。

私が理系を選んだのは、それが好きだったからではない。当時、技術革新という名で台頭してきた化学工業が明らかに人々の生活を良くする様子を見て、今まで勉強してきたマルクス主義の内容に何か違和感を持ち、思想ではなく、モノが人々を幸せにするのだろうか、もしそうなら、その原因とか背景とか、モノを作る技術について、知りたいと考えたからである。

そして、化学に特に興味があったわけではないのに、化学工業科というのがあった横浜国大に行ったのである。そのときは、あくまでも化学工業の概略的な内容、技術が経済や人々の生活に与える影響などについて知りたいというだけだったし、いつでも経済学に戻るつもりであった。

当然のことながら、横浜国大での講義からは、私が期待していたものは何も得られなかった。石油化学の蒸留塔の口径や、蒸留段を計算することは、大凡私の求めていたものとちがった。私は適当に講義を聴き、単位をとっていた。

しかし、卒業研究(田丸謙二教授)をはじめて、私は自然科学の良い点に気がついた。つまり、仮説をたて実験すれば、仮説の証明ができるということである。そして、そこで得られた結果は「事実」として認定され、誰も否定できないということであった。つまり、論争に決着がつく。私は驚いてしまった。

ずっと子供の時から考えてきたこと、物事の真偽が評価できるのである。私は、この方法をもっと身につけたいと思った。そして大学院に進んだ(米田幸夫教授)。大学院卒業後、化学関係の就職先がなく、たまたま空いていた工学部都市工学科の下水処理講座の助手になった。土木工学を一から勉強するかたちになったが、特に苦にならなかった。

公害問題がクローズアップされる前夜とも言える時期であったが、そこではじめた下水道や水質汚濁問題は、社会的な背景があり私にはとてもやりがいのある分野と映った。技術的な問題の陰に、大きな思想的な問題や経済問題が隠れていた。

最初の仕事から、教授や下水道のアカデミア、その外にある旧建設省やゼネコンとぶつかる問題であった。大きな軋轢、闘争が予感された。ただ、それから逃げるのはいやだったし、世の中を良くしたいと言う気持ちは強かったので、それに向かって行った。

そのたたかいに勝つために、少しでも多くの賛同者を集めたかった。しかし、どこかの組織に入って、そのことを主張するのはいやだった。それは、組織に分かれて、思想闘争をすることであったから。それが、対立を解くことができないのは、子供の頃に思い知らされていた。だから、私が訴える対象は、組織ではなく、一人一人の個人だった、組織の中の人も含めて個人を対象にした。

私は自分の出す資料から、あらゆる思想的な言葉を削ぎ取った。思想の闘争にしては、いつまでも対立は解けない。出すべきは事実、思想の違いを超えて、認めることができる事実、これこそが今の思想的な勢力関係を崩す力をもっている。これが自然科学の強みである、自分はいま、それを持っている。

こうして、私はfactをだすことにこだわった。factと言っても、ある人の目を通して見たfactであり、それはその人の見方や思想を反映したものである。しかし、多くの人にとっても、factと思えるものがあるはずで、それを出したい、対立を解きたい、少しでも従来の何々派とか、何々党とかに固定された意見の壁を崩したい。

そのためには、自分だけでなく、多くの人にとって事実と思えることを、冷静に抜き出し、発表しなけばならない。私はこう考えて仕事をした。detailにもこだわり、現場にはかならず足を運んだ。

言葉は思想だから、できるだけ言葉を使わずに、図とか表で訴えようとした。図表も思想を表現するものだが、言葉よりは客観的に見えた。こうして、多分他の人とは比べられないほど多大な労力を使って、人々の心にしみとおる、しみとおってほしい事実を図や表にした。以下に示す15枚の図表は、その中から抜き出したものである。

factにこだわり続けた私が、予測をベースにするリスク評価という仕事にとびこんだ。1985年頃である。リスク評価は予測だから、証明ができない。つまり、そこにfactはない。にも拘わらず、何故、リスク評価という世界にとびこんだか、最終講義の中で述べたい。


中西功

上海反戦グループ検挙[社]1942.6.29
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/khronika/1941-44/1942_05.html

 太平洋戦争下の反戦運動への弾圧事件。満鉄調査部の中西功は1938年1月より上海で中国共産党に入党した西里龍夫と連絡をとり反戦グループを組織し,中国共産党の対日本兵工作などを援助した。また,中西は満鉄の支那抗戦力調査委員会の中心メンバーとして,中国は日本の軍事攻撃に屈することはないという結論を下した。こうした言動のため警視庁からマークされ,’42年6月中西・西里らが検挙され,外患罪と治安維持法違反で起訴された。西里は’45年8月,中西は同年9月ともに無期懲役の判決を受けたが,10月政治犯釈放命令により出獄した。

〔参〕中西功《死の壁の中から》1971.


中西功訊問調書  版元 亜紀書房
http://www.hanmoto.com/bd/ISBN4-7505-9609-4.html

満鉄調査部に所属し、中支派遣軍特務部(情報)に出入りして、最高の情報と情勢分析を中共指導部(毛沢東ら)に提供し、1942年6月、ゾルゲ事件関連で「中共謀報団」として拘引された中西の33回に及ぶ訊問調書全文を収録。日本・中国現代史研究の第一級必見資料。