大前研一「"新しい資本主義"が危険である、これだけの理由」
賃上げするほど格差は拡大する
賃上げするほど格差は拡大する
給料を上げた企業は税金が安くなる「賃上げ促進税制」が2022年4月からスタートする。大企業と中堅企業の場合、前年度比で3%以上給料をアップすれば法人税が15%控除され、4%以上は25%控除される。中小企業の場合は、1.5%以上アップすると15%控除、2.5%以上は30%控除だ。
賃上げ税制は、岸田文雄首相が設置した「新しい資本主義実現会議」が提案した。競争原理を重視した新自由主義では格差が拡大したから、新自由主義にかわる「新しい資本主義」を目指すという。賃上げ税制は、これを実現する具体策の1つというわけだ。
この政策を本気で「資本主義」だと考えているとしたら、岸田政権は危険だと思う。「政府が賃金をコントロールするのは、資本主義ではないのではないか?」と首をかしげたのは、私だけではないだろう。
資本主義の基本は、自由なマーケットだ。マーケットで競争が起こり、強い企業が生き残る。経営者は競争を通して、商品の価格や従業員の人数、給与を決めていく。競争に勝利した企業は、利益を将来の事業に再投資して、さらに強くなる。
介入しないことが資本主義
私が「3C」と提唱したとおり、強い企業は、顧客(Customer)、組織(Company)、競争相手(Competitor)の「3つのC」を考えて、マーケットが好む商品を提供する。現在のボーダーレス社会では、世界で最も安くて良質な材料を仕入れ、人件費が安く良質な労働力がある場所で生産し、高く買ってくれる場所で販売する。“世界最適化”は自由なマーケットを前提に成り立っている。政府はマーケットに自由な選択を与え、介入しないことが資本主義なのだ。
企業に「賃上げしたら税金を安くするよ」というのは、マーケットへの介入だ。資本主義でもなければ自由主義でもない。岸田首相の「新しい資本主義」は、すでに失敗が証明されている全体主義、あるいは計画経済の発想だ。
さらに、腰が抜けるほどびっくりした政策がある。4月以降、賃上げを表明した企業は、公共工事などの政府調達の入札で優遇するというのだ。
政府調達の財源は税金だ。企業努力をせずに賃上げだけをして人件費が増えれば、入札価格は高くなる。入札の原則は「一円でも安く」することなのに、入札価格が高い企業のほうを優遇して税金を多く払うというのは、犯罪的行為だ。
そして、「上に政策あれば下に対策あり」という言葉のとおり、合理的な経営者はきっとこう考えるだろう。
「人件費を高くするくらいなら、賃金が安い海外に、仕事をアウトソーシングしよう。その分、国内の従業員は減らす。社内には特に優秀な人間だけ残して、賃上げする。これで人件費は抑えられ、法人税の負担は減り、公共事業も受注しやすくなる」
このように、賃金と雇用は相反関係だ。賃金を上げて人件費の負担が増えれば、雇用は減る。従って、分配を訴える「新しい資本主義」こそ、実態は国内の雇用減少を促す格差拡大政策なのだ。
やはり岸田首相の「新しい資本主義」は、21世紀の経済原則を理解していない。
1980年に出版された『第三の波』で、アルビン・トフラーが脱工業化社会と情報化社会を予測した。実際にIT革命は起こり、世界中で生産性が高まった。しかし日本では、いまだに生産性が向上せず平均賃金は韓国以下。DXが進まず、仕事を奪われないようにDXに抵抗する人たちもいる。
例は、建築確認申請だ。住宅やビルを建てる際に自治体に提出する建築確認申請はIT化されていない。数十ページの申請書を風呂敷に包んで持っていき、最大35日以内に審査されることになっている。2005年に耐震強度偽装の姉歯事件が起きたあとは、高いビルは第三者機関の審査が必要となり、最大70日まで審査期間は延びた。申請にかかる手間と時間は膨大だ。
しかし、シンガポールではIT化され、CADの設計データなど、デジタルの資料を提出すれば、30分ほどで許可が下りる。生産性の差は歴然だ。
日本でIT化できないのは、第一に役所の抵抗があるからだ。私の知人が、北海道で建築基準法の電算化を試みたことがある。基準がわからない点があるからと道庁で尋ねると、担当者から「そんなことはやめろ。俺たちの仕事がなくなるじゃないか」と言われたそうだ。役所の担当者は裁量権を残したいというのだ。私の友人は役所の役に立つと思って相談したのに「担当者になじられてえらい目に遭った」と話していた。
医療分野でも、日本のDXはずいぶん遅れている。
たとえば米国の医療系IT企業プラクティス・フュージョンは、電子カルテを管理するクラウドサービスを無料で提供している。約16万の開業医と提携し、総合医療の巨大プラットフォームを構築して米国の医療システムを激変させた。患者は自分の診療データや処方箋をスマホで受け取り、薬を買える近所の薬局も表示される。アマゾンに処方箋を転送すれば、早ければその日のうちに配達される。
中国には、平安保険グループのオンライン診療アプリ「平安グッドドクター」がある。病院や薬局、検診センターと連携し、ユーザーは24時間いつでもスマホのチャットで診察してもらえる。対面の診察が必要なら、提携する医療機関を紹介してくれる。
日本でも、メドレーなどの医療系ITベンチャーがオンライン診療に取り組んできたが、いまだに認められていない。新型コロナの影響で、かかりつけ医のオンライン診療がようやく許可された段階だ。カルテも米中とは違って、患者のものになっていない。
建築、医療のほかにも、役所の規制や抵抗によって、DXが進まない分野は数多くある。日本政府がなすべきことは、計画経済的な「賃上げ」ではなく、21世紀の経済に合った規制撤廃・緩和なのだ。
今の小学生たちはAIに負ける
実は、DXなど既存業務の生産性向上は、IT革命の前半戦にすぎない。遅くとも45年に、AI(人工知能)が人類の知能を超えると予測されている、シンギュラリティ(技術的特異点)だ。
「人工知能(AI)」が人類の知能を超える転換点(技術的特異点)、または、それにより人間の生活に大きな変化が起こるという概念のこと。
IT革命の後半戦はそこからはじまり、人員削減どころではない恐ろしい変化が起こる。IT化による生産性向上が“IT経済”だとすれば、次にシンギュラリティによって“サイバー経済”が到来する。
サイバー経済が進むと、まず学校の先生たちは大量に失業する。文部科学省の学習指導要領どおりに教え続けるなら、人間の教師は、予備校ナンバーワン講師のように、教えることの達人が各科目に1人ずついればいい。生徒はスマホで達人の授業を聞き、疑問が生まれたらAIに質問すればいいのだ。
教師だけでなく、「師業」「士業」の多くは同じ道をたどる。医師、弁護士、会計士などの高給なプロフェッショナル職種は、専門的な知識を多く知っていることに価値があったが、サイバー社会では知識や判断はAIに勝てない。
米国やカナダの弁護士は、裁判の戦術がすでにAI化している。「このケースでは、ここを攻めて、ここは守れ」といった指示がAIから出されるのだ。若い弁護士とベテラン弁護士の差はほとんどなくなった。AIの活躍は、医師や会計士でも起き始めている。
見えないものを見る力
シンギュラリティが予測される45年は、いまの小学生たちが30歳前後で働き盛りの頃だ。文科省の指導要領は、シンギュラリティなど想定せず、記憶に偏重したカリキュラムのままだ。スマホで検索すれば数秒でわかることを覚えさせ、試験ではスマホは使用禁止で、自分の記憶が頼りだ。社会に出てから役に立たないことを頭にたたき込んでいる。
サイバー社会で“飯のタネ”になるのは、人間にしかできないことに限られる。コンピュータは記憶(記録)や大量の情報処理は得意だが、「0から1」の発想は苦手だ。従って、見えないものを見る力、構想力が鍵だ。
ただし、AIに勝つのは40人に1人くらいで十分だろう。あとの39人は、AIに勝った天才が納めた税金で生活する。普段の仕事は、介護や看護、ハンディキャップがある人の支援など、エッセンシャルワーカーとして社会的な役割を担う。
シンギュラリティで失業しない仕事はほかにもある。日本人が得意とするスポーツや芸術などの分野は、AIには真似できない。たとえば、海外のオーケストラやバレエ団では、日本人が数多く活躍している。料理人も世界中にいる。世界の上位に日本人がいるのは、観るもの、聴くもの、味わうものなど感性が発揮される分野だろう。
起業や経営にも構想力が求められる。ビジネスの構想力を鍛えるのに最も効果的なのは、起業家の話を聞いて刺激を受けることだ。ヤマハの川上源一さん、YKKの吉田忠雄さんなどの起業家の本を読むのもいい。
サイバー経済の世界は、正解がない。政府は国民の邪魔をしないように、規制を撤廃するのが仕事だ。政府がいう「新しい資本主義」は絶望的に時代錯誤な政策なのだ。