中国と台湾



中華民国では中華民國憲法の規定(第十一条)に従って、中央政府(行政院)の下に「省(she(ng)」と「直轄市(zhi' xi'a shi`)」(一級行政区画)が置かれており、更に「省」内には「県(縣、xi`an)」と「省轄市、(she(ng xi'a shi`)」(二級行政区画)が置かれている。各行政区分にはそれぞれ地方政府(省政府、直轄市政府、縣政府、省轄市政府)が設置されており、地方政府による地方自治が認められている。

この行政区分は、
中華民国政府が「全中国(一つの中国)を代表する」ということを前提として成り立っている。そのために、国共内戦で大陸の省をすべて失い(福建省の一部を除く)、中央政府の統治区域と台湾省の行政区域がほぼ重複するようになってからは、省政府の「省自治」が上手く機能しなくなった。そのために、台湾省は憲法修正によって1998年12月20日をもって省としての機能を「凍結」され、現在では実質的に機能していない。(詳細は台湾省を参照)

なお、中華民国が領有する東沙諸島と南沙諸島の島々は高雄直轄市に属している。また、中華民国が領有権を主張している尖閣諸島(中国語名:釣魚台列嶼)は、「中華民國領海及鄰接區法」という法律によって、台湾省・宜蘭縣の所属とされている。

 

中華民国の主張する国土の総面積は11,418,174km2であり、このなかには現在の中華人民共和国の統治区域だけでなく、外蒙古(モンゴル国、トゥヴァ共和国)、清朝がロシア帝国に割譲させられた領土(江東六十四屯、パミール高原)、それにミャンマー北部の地域(ミッチーナ以北の地域、中華民国での名称は不詳)の地域も含まれている。これは、中華民国が清朝の全ての国土を継承したという認識によるものであり、中華民国はモンゴル国の独立を承認していない。

なお、建国当初の中華民国は中国大陸を領有する国家であり、
台湾を国土としていなかった。その後、日本が第二次世界大戦に敗れたために中華民国は台湾を自国領に組み入れたが、国共内戦の敗北により逆に中国大陸の領土を全て失ってしまった。その為に、1955年以降の中華民国は台湾省と福建省の一部沿岸諸島しか統治していないが、中華民国は大陸部の統治権を放棄していないため、中華民国政府が発行する官製地図「中華民國全圖」には統治権を主張する公式的な国土が全て掲載されている。ただし、2004年1月に中華民国行政院内政部は、中国大陸も領土範囲に含めた「中華民國全圖」を今後発行しない方針を決定した。そのために、今後は公式的な国土にも変化が生じる可能性がある。

中華民国は日本の尖閣諸島も自国の領土であると主張している他、沖縄復帰が行われた直後に日本と断交したことから、沖縄県を日本の領土とは承認しておらず、「琉球」と呼称し続けている。また、東沙諸島と南沙諸島については、中華人民共和国、フィリピン、ベトナム、マレーシア、ブルネイと領有権を争っている。

台湾

台湾島の領有を確認できる史上初めての勢力は、17世紀初頭に成立したオランダの東インド会社である。東インド会社はまず明朝領有下の澎湖諸島を占領した後、1624年に台湾島の大員(現在の台南市周辺)を中心とした地域を制圧して要塞を築いた。なお、同時期の1626年には、スペイン勢力が台湾島北部の基隆付近に進出し、要塞を築いて島の開発を始めていたが、東インド会社は1642年にスペイン勢力を台湾から追放する事に成功している。

制圧期間中、東インド会社は福建省、広東省沿岸部から大量の漢人移住民を労働力として募集し、彼らに土地開発を進めさせることでプランテーションの経営に乗り出そうとした。その際に台湾原住民がオランダ人を「Tayouan」(現地語で「来訪者」の意)と呼んだことから「台湾(Taiwan)」という名称が誕生したという説もある。だが、台湾の東インド会社は1661年から「抗清復明」の旗印を掲げた
鄭成功の攻撃を受け、翌1662年には最後の本拠地要塞であるゼーランディア城も陥落した為に、進出開始から37年で台湾から全て駆逐されていった。

建国以来反清勢力の撲滅を目指して来た清朝は、「反清復明」を掲げる台湾の鄭氏政権に対しても攻撃を行い、1683年に台湾を制圧して鄭氏政権を滅ぼすことに成功した。だが、清朝は鄭氏政権を滅ぼす為に台湾島を攻撃・制圧したのであり、当初は台湾島を領有する事に消極的であった。しかしながら、朝廷内での協議によって、最終的には軍事上の観点から領有することを決定し、台湾に1府(台湾)3県(台南、高雄、嘉義)を設置した上で福建省の統治下に編入した。ただし清朝は、台湾を「化外の地」としてさほど重要視していなかった為に統治には永らく消極的であり続け、特に台湾原住民については「化外の民」として放置し続けてきた。その結果、台湾本島における清朝の統治範囲は島内全域におよぶことはなかった。なお、現在、中華民国政府と中華人民共和国は、清朝が台湾のみでなく釣魚島(尖閣諸島)にも主権が及んでいたと主張している。

清朝編入後、台湾へは対岸に位置する中国大陸の福建省、広東省から相次いで多くの漢民族が移住し、開発地を拡大していった。その為に、現在の台湾に居住する本省系漢民族の言語文化は、これらの地方のそれと大変似通ったものとなっている。漢民族の大量移住に伴い、台南付近から始まった台湾島の開発のフロンティア前線は約2世紀をかけて徐々に北上し、19世紀に入ると台北付近が本格的に開発されるまでになった。この間、台湾は主に農業と中国大陸との貿易によって発展していったが、清朝の統治力が弱い台湾への移民には気性の荒い海賊や食いはぐれた貧窮民が多く、更にはマラリア、デング熱などの熱帯病や原住民との葛藤、台風などの水害が激しかった為、台湾では内乱が相次いだ。なお、
清朝は台湾に自国民が定住することを抑制するために女性の渡航を禁止したために、台湾には漢民族の女性が少なかった。そのために漢民族と平地に住む原住民との混血が急速に進み、現在の「台湾人」と呼ばれる漢民族のサブグループが形成された。また、原住民の側にも平埔族(へいほぞく)と呼ばれる漢民族に文化的に同化する民族群が生じるようになった。

19世紀半ばにヨーロッパ列強諸国の勢力が中国にまで進出してくると、台湾にもその影響が及ぶようになった。即ち、1858年にアロー戦争に敗れた清が天津条約を締結したことにより、台湾でも台南・安平(アンピン)港や基隆港が欧州列強に開港されることとなった。また、
1874年には日本による台湾出兵(牡丹社事件)が行なわれ、1884〜85年の清仏戦争の際にはフランスの艦隊が台湾北部への攻略を謀った。これに伴い、清朝は日本や欧州列強の進出に対する国防上の観点から台湾の重要性を認識するようになり、台湾の防衛強化の為に知事に当たる巡撫(じゅんぶ)職を派遣した上で、1885年に台湾を福建省から分離して台湾省を新設した。台湾省設置後の清朝は、それまでの消極的な台湾統治を改めて本格的な統治を実施するようになり、例えば1887年に基隆―台北間に鉄道を敷設するなど近代化政策を各地で採り始めた。だが、1894年に清朝が日本と戦った日清戦争に敗北した為、翌1895年に締結された下関条約(馬關條約)に基づいて台湾は清朝から日本に割譲され、それに伴い台湾省は設置から約10年という短期間で廃止された。これ以降、台湾は日本の領土として台湾総督府の統治下に置かれる事となる。

その後、枢軸国として日本も参戦した第二次世界大戦で連合国が有利な立場となると、1943年に米国、英国、中華民国、ソ連の首脳が集まってカイロ会談が開かれ、台湾の主権を中華民国に返還することが首脳間で取り決められた。その為、1945年の日本敗戦後に連合軍の委託を受けて台湾に軍を進駐させた中華民国政府は、この取り決めを根拠として台湾を自国領に編入し、1947年 には 二・二八事件 を契機に台湾省を設置することで台湾の統治体制をより強固なものとしていった。
1951年に日本が連合国側諸国と締結した平和条約(サンフランシスコ平和条約)では
日本の「台湾・澎湖諸島における権利、権利名義と要求の放棄」(第2条第2項)しか取り決められておらず、更には日華平和条約においても「台湾における日本の領土権の放棄」(第2条)しか明記されていない。その為、現在に至るまで国際法的には台湾の主権移転対象(帰属先)については不明確な状態。

中華民国政府は台湾の領有・統治を強化する一方で、中国大陸においては厳しい立場に追い込まれていた。1946年から激化し始めた国共内戦は、当初は中華民国政府が優勢であったものの、年を経るごとに中国人民解放軍が優位な立場を占めるようになり、中華民国政府は少しずつ、しかし確実に支配地域を中国共産党に奪われていく状況にあった。このような状況は1949年になると急速に進展し、中華民国政府は4月に首都の南京を人民軍に制圧され、10月には中国大陸の大部分を制圧した中国共産党が中華人民共和国の建国を宣言するまでになった。その為、人民解放軍に対してまともに対抗できないほど弱体化した中華民国政府は台湾への撤退を決定し、国家の存亡をかけて残存する中華民国軍の兵力や国家・個人の財産などをぞくぞくと台湾に運び出し、最終的には12月に中央政府機構も台湾に移転して台北市を臨時首都とした。


* 1871年(明治4年):牡丹社事件発生。台湾南部に漂着した宮古島の住民66人のうち54名が「牡丹社」というパイワン族原住民に殺害された。
* 1873年(明治6年):牡丹社事件の事後処理のため北京の清朝政府を訪れた日本の外務卿・副島種臣に対し、清朝政府は「天子の教化の及ばない地の民のしたことだから」と責任を負わぬと言明し、
台湾に対する行政権のないことを主張。