2012/7/12 日本経済新聞夕刊

クラレ会長 和久井康明

 私の祖母、和久井(旧姓金矢)のぶ子は岩手県渋民村(現盛岡市)の生まれ。旧渋民尋常小学校で石川啄木の同級生だった。この小学校から盛岡の高等小学校に進学したのは村長の娘だった祖母と寺の住職の長男だった啄木の2人だけだったらしい。祖母は啄木について「頭が良くていつも肩を張って歩いていたから少々生意気だと思われていた」と話していたという。

 その後、祖母は私立盛岡女学校(現盛岡白百合学園)に入学し、そこで後に啄木の妻となる堀合節子と親友になる。当時金矢家は一族の子供たちを上級学校に通わせるため盛岡に家を構えていて、祖母もそこから女学校に通っていた。同じ渋民の出で盛岡尋常中学校(現盛岡一高)に通っていた啄木もこの家によく出入りし、祖母を訪ねてきた節子とここで知り合った。

 啄木との縁はこれだけではない。16歳で盛岡の中学校を退学した啄木は文学で身を立てる決意をして上京するが、志はかなわず、結核を患ったこともあり、半年足らずで失意のうちに帰郷した。2年後、19歳で節子と結婚し、その翌年、渋民尋常高等小学校で代用教員の職を得る。

 この学校で啄木は校長と対立。生徒を巻き込んだストライキ事件を起こして教師をクビになるのだが、一方「ケンカ両成敗」で相手の校長も職を解かれ、後任にまだ20代半ばの若い校長が着任する。これが私の祖父、和久井敬二郎である。

 さらに啄木の解任で教員が足らなくなり、補充のため教員採用されたのが祖母。ここで祖父と祖母は出会い、猛烈な恋愛の末、結婚に至る。図らずも啄木が起こしたストライキ事件が祖父母を結びつけた。

 故郷の渋民村で啄木は借金を重ねていたこともあって評判が芳しくなかったが、祖父はよそ者で偏見がなかった。祖母を通じて啄木の理解者となり、歌を高く評価していた。1922年、啄木の死後10年が経過し、北上川のほとりにできた最初の歌碑の建立に祖父は尽力した。刻まれたのは「一握の砂」にある3行詩。

 やはらかに柳あをめる
 北上の岸邊目に見ゆ
 泣けとごとくに