私の履歴書 東レ名誉会長 前田勝之助

 

愛知工場へ

 ナイロン66が米デュポン社によって世に出たのは1938年の秋だった。先を越されたことを知った東レは懸命に開発を急ぎ、戦前の段階でナイロン6の生産にこぎ着けていた。そして少量ながら軍用に生産した実績がある。
 戦後、ナイロンの需要は衣料用、産業用とも爆発的に膨らんだ。このため東レは米デュポン社と技術提携して本格的にナイロンの生産に取り組むことになる。
 専用工場として新設したのが愛知工場だった。私が入社した56年当時、売上高に占めるナイロンの割合は、それまでの主力商品レーヨンを抜いていた。愛知工場はいわば社業のエンジン。そこが私の初任地となった。
 6月末、名古屋市西区にある愛知工場ナイロン技術部に出社すると、挨拶もそこそこに部長が言う。「実はね、ナイロン高周波乾燥機がうまくいかないんだよ。みんなで半年ほどいろいろやってみたんだけどねえ。困ってるんだよ。直してくれないか」
 増産に増産を重ねている工場だから技術部門の人手が足りないのはわかる。大学院を出ているから「何でもできる」と思われていたのかもしれない。しかし私の専門は合成化学であって、高周波乾燥機のような電気・機械工学は畑違いだ。といって「わかりません」とも言えない。「やってみます」と答えて乾燥機を見に行った。
 直径3〜4メートルの丸テーブルに米粒大のナイロンペレットを3センチほどの厚さに敷き詰めてあって、側面に複雑な操作盤がある。これがそうか。

特命指令  基幹設備の心臓部開発

 化学繊維の材料を「重合」すると分子が長い鎖となってポリマー(高分子)が生まれる。ポリマーを乾燥させた後、適度に溶融して微細な開口部を持つノズルから噴き出す。この工程を「溶融紡糸」という。出てきた細い糸をさらに「延伸」して製品になる。
 私が修理を命じられた機械は、ナイロン製造の中間工程であるポリマーの乾燥を担う装置で、ここで不具合が生じると後工程全体に影響する。
 それだけにナイロン技術部は懸命に修理を試みたのだろうが、半年たっても原因がわからないという。
 米粒大のナイロンペレットを敷き詰めたテーブルの上下に電極がある。そこから高周波電波を照射すると高分子それぞれにS極とN極ができて、勝手な方向に動き出す。そのとき生じる高分子同士の摩擦熱で乾燥する仕組みだ。3週間ほどをかけて高周波の周波数を小刻みにずらしながら様子をみた。その結果、ある周波数で分子の動きが弱まることがわかった。特定の周波数の場合に相互干渉して通電を妨げていたのだ。問題の周波数を避けて設定し直すと、乾燥機は何事もなかったように正常に動き続けた。
 先輩たちは褒めてくれたが、私は「装置を信用しすぎている。機械である以上、期待した通りに動かないこともある」という立場で向き合っただけだったから、特段の感慨はなかった。
 愛知工場時代は工場に近い大卒用の独身寮に住んだ。1棟に200人ほどが暮らしていたろうか。夕方に寮へ戻って晩ご飯を済ますと専門書を開くか、同僚と碁や将棋、マージャンでときを過ごした。
 たまに隣室の西村健君が「玉突きに行こうか」と誘いに来る。大企業社長の息子で東大卒の彼は、遊び方がスマートだった。私が社長のとき、西村君が副社長になる。
 高周波乾燥機の不具合を直してほどなく、ナイロン建設部兼務の辞令が出た。ナイロン建設部はナイロン専用の愛知工場、名古屋事業場の双方が守備範囲で、生産ラインの構築、工場の増設などを担うセクション。部長は後に社長・会長となる藤吉次英さんだった。
 挨拶に行くと藤吉部長が前置きなしで「独自特許の溶融紡糸装置を造ってくれ」と切り出した。溶融紡糸装置はナイロン製造の心臓部だ。ナイロンで東レは、ライバルの日本レーヨンと激しい競争を繰り広げていた。いわば社運がかかる装置の開発を、25歳の新入社員に委ねるという。
 当時の溶融紡糸装置は筒状の装置の中でネジに似た縦型スクリューが回転しながら、脇から入ってくるナイロンペレットを高圧で下に押す。それを加熱して軟らかくし、ノズルから糸を吐き出す仕組みだ。硬い水あめを熱で溶かしながら液状にして糸を作るのに似ている。
 ただ投入されたペレットがスクリューの歯にうまく絡まず、頻繁に空回りする。またスクリューの回転に伴って混入する空気がノズル部で破裂して糸切れを起こした。このため2日に1回は装置を止めて、スクリューを洗浄しなければならなかった。
 解決すべき問題ははっきりしていた。スクリューの空回り防止と気泡の除去。しかし誰もが長年取り組みながら、有効な手段を見いだせずにきた。私は頼る上司も同僚もなく、その特命指令にたった1人で向き合わなければならなかった。

「TN-2F」 ナイロン紡糸装置 挑戦

 溶融紡糸装置を開発するに当たって調べてみると、周辺特許が30ほどあった。そのどれかにでも抵触すると独自特許にはならない。踏んではならない石ころだらけの道を、最新の注意を払いながら一歩一歩進むようなものだ。設計図と装置をにらむ日々が始まった。
 ペレットを溶融するための加熱の方法は、これまで使ってきた液状の熱媒体でいいのか。スクリューが空回りするかみ込み部を改良するにはどんな方法がいいのか。
 そんなことをいつも考えてはいたが、生活は少しも変わらなかった。折々に西村君の「ビリヤードに行こう」という誘いはあったし、碁将棋もマージャンもやっていた。
 工場にはグラウンドがあって、秋になると運動会が開かれた。社員だけではなく近所の人々が家族総出で参加する。にぎやかで、景品もたくさん出る楽しい催しだった。
 4、5人でお金を出し合い、独身寮にカナダ生まれの日本人に来てもらって英会話の勉強をしたのもこのころだ。週に1回の勉強会は英語を習っているはずなのに、カナダで育った人らしく、先生の話は突然フランス語になったりドイツ語になったりした。勉強会は2年ほど続いた。英会話が身についたとも思えないが、外国の言葉や人に対する抵抗はなくなった。
 そうこうするうちに装置のアイデアが固まってきた。加熱は熱媒体をやめて電熱を採用することにした。ペレットは装置に入ってから出るまで最適な硬さが場所によって異なる。だから一定の温度でしか加熱できない熱媒体では十分にコントロールできない。温度勾配が自由になる電熱でない とだめだという結論に達した。
 ちょうど米国のメーカーが電熱帯ごとに温度を調節できるコントローラーを開発したばかりだった。これを利用すれば、装置の場所別温度管理が可能になる。
 まずペレットとスクリューが出合うかみ込み部の周りを電熱帯で覆った。ペレットの投入口から奥に行くに従って温度を高くして、少しずつやわらかくしながらスクリューに送り込む。これにちょっとした工夫を凝らした補助装置をつけて実験を重ねてみると劇的な効果が出て、空回りがなくなった。
 そこから下の装置の周りも電熱加熱にした。電熱帯ごとに温度を変えており、簡単に言うとノズルに近くなるほど高温にする。ペレットを徐々に溶融しつつノズルに達したところで糸を吐き出すのに最適な状態になるように設定した。
 ノズル部で破裂して糸切れを起こす微細気泡の問題が残っていた。気泡を除去する最も一般的で簡単な方法はベント、つまりガス抜きだ。ノズルの直前にベント穴を設けたら、ジューという音を立てて空気が逃げた。
 この方法はあまりに原始的なため、かえって誰も思いつかなかったものだ。
 藤吉部長に開発を命じられて1年弱で完成した。特許の出願日は1957年6月10日。私が取得した最初のナイロン基本特許だ。金一封と社長賞が出た。
 装置は「TN-2E」と命名した。「有機物質溶融紡出装置」と題した特許公報にはかみ込み部の改良とベント部については書いていない。特許に書くと、アイデアを盗まれるから電熱加熱だけで申請した。
 

炭素繊維 アクリル焼成に着目

 1959年1月、本社に開発部ができたのに伴って部員として着任した。将来を見据えた全社的な開発計画を策定する部署で、取り組むべきテーマは4つあった。@ポリエステル繊維Aアクリル繊維Bナイロン素材のプラスチックCポリエステルフィルムーーがそれだ。
 いずれも激しい国際競争が繰り広げられている分野。繊維メーカーの印象が強いものの、実際は高分子材料を用いた化学素材メーカーである東洋レーヨンは、それぞれの分野で内外のライバルとしのぎを削っていた。
 私が開発を命じられたのは杜内で「F4(ファイバー・フォー)」と呼ばれていたアクリル繊維だった。当時は風合いが男性的で衣類、カーテン、産業用ベルトなどに使われていたポリエステル繊維の「テトロン」がブームで、アクリルはソフトタッチで染色がしやすいという特徴があるものの、まだこれからという素材だ。
 それだけに新しい用途が見込めることから当時の米デユポン、独ヘキスト、英1CIなどの海外勢もアクリルに注目していた。私の直感は「アクリルから炭素繊維を作れないか」ということだった。海外勢はレーヨンから炭素繊維を目指しているけれど、アクリルの分子式における炭素の密度はレーヨンより高い。
 当時、「アクリルを焼いて人造ダイヤ」という言葉があったが、ダイヤを作って何になる。目指すはやがて宇宙開発に必要な素材にもなりうる炭素繊維だ。
 「アクリルで炭素繊維をやりませんか」「面白そうですね。やりますか」。こんな具合に各工場や研究所の社員に声をかけて20人ほどのプロジェクトチームを組んだ。といっても人事異動はせず、これまでのポジションのまま開発を分担する。
 ポリエステルとナイロンには融点があるため高熱を加えると溶融する。しかしアクリルとレーヨンには融点がないから焼成することができる。焼いて炭にすれば炭素繊維ができ、成型した炭素繊維は重さが鉄の4分の1、強度はその10倍になる。私はこの「夢の繊維」に挑むことに決め、滋賀工場の隣に ある中央研究所に開発拠点を置いた。
 アクリルを焼成すると一口に言っても、焼成温度を急に上げると燃えてしまう。どんな温度上昇のカーブが最適なのか、ちょうど磁器を焼くのに似た細心さが求められる。酸素が入っても燃えるから、窒素ガスを封入した。
 気がつくと私は31歳になっていた。「そろそろ結婚してもいいかな」と考えていた頃、熊本の親戚から見合いの話がきた。相手は八代の開業医の娘で平岡京子。6歳下で東京の女子大を出ている。
 見合いは熊本市内。先方と私の両親を交えて静かな時間が流れ、着物姿の京子はしとやかだった。62年4月3日、熊本城の下にある加藤神社で挙式し、披露宴の席は熊本の老舗料亭「新茶屋」だった。
 大津市園山にあった庭付き一戸建ての社宅での新婚生活が1年を過ぎ、炭素繊維の開発は最終段階を迎えて、数十キロの製品が完成した。さあ、次は量産だ。
 そのときを待っていたかのように「炭素繊維の開発中止」が決まった。費用が膨大な割に将来性は不明。それがトップの決断の背景にあったのだろう。夢とはこんなにたやすく絶たれるものなのか。

三島工場へ 生産管理と技術を体得

 炭素繊維の開発は基礎段階を終え、量産技術の開発に取りかかるばかりになっていた。しかし経営の判断は「中止」だという、私は執着を捨てきれないまま1963年8月、三島工場に製造部技術第3技術掛長として着任した。
 三島工場は「テトロン」の最先端工場だった。技術課第1掛が高分子の「合成」、第2掛が「重合」、そして私と30人の部下からなる第3掛が最終工程の製糸を受け持つ。つまりテトロン繊維の生産を任されたわけだ。
 テトロン繊維には長繊維(フィラメント)と短繊維(ステープル)があるが、そのころはどちらも糸切れ、染めムラなど品質や生産性の問題を抱えていた。
 例えば紡糸装置から出てきた長繊維を錘(スピンドル)の定量まで巻き取ることを「満管」といい、70%が満管前に糸切れを起こしていた。もったいない話だが、当時は満管にならなかったものは完成品ではないので廃棄した。つまり収率30%ということで、その改善が急務だった。
 工場では始業前に掛のメンバーが集合する。そろいの帽子、作業服、安全靴。文字通りのひとつのチームだ。
 「昨日、新しい現象が見つかった。別のところで応用できないだろうか」「あの問題はどこまで解決した?」「こういう器具があるが、あそこで使えないだろうか」。毎日が試行錯誤の積み重ね。そこから一歩ずつ改善が進む。錘には糸切れを起こしやすいものと、そうでないものがある。そのひとつひとつを徹底的に調べ、比較することによって、糸切れの原因と防止策が浮かんでくる。工程装置は精密に作られていても、それぞれどこかが均質ではない。それを発見し直していくのは骨の折れる仕事だった。しかし私たちは収率70%を達成する。
 65年2月、技術課長に昇進した。合成、重合、製糸の全工程に責任を持ち、長繊維だけでなく短繊維も見る。短繊維は綿のようにふわふわしており、コットンやウールと混ぜて混紡にする。
 東京オリンピックの翌年だった。東海道新幹線が走り、東京の高速道路には車があふれ、日本は戦後復興から高度成長のただ中にあった。
 テトロンが大ブームだった。私たちもユニホームにしろワイシャツにしろスーツにしろ、テトロン製品を身につけている。そのテトロンを作っているのは私たちだ。
 終戦の翌年、花岡山から廃虚となった熊本市街を見下ろしながら、私は日本を豊かにするため生産の現場に立つことを誓った。誓いの通り、いま私は工場の中で日々を過ごしている。
 我が国の合成繊維産業は黄金時代を迎え、優れた日本の製品は輸出の花形になった。念願の「豊かさ」は手を伸ばせば届くところにある。私は技術者になったことを心から誇りに思った。
 私の胸を温かに満たすものがもうひとつあった。外国メーカーからの技術協力要請だ。東レの技術はいつのまにか世界のトップクラスに躍り出ていた。欧米の名だたるメーカーが東レの商品を分析して、レベルの高さに目を見張っているという。
 「世界に技術を売ってこい」という上司の声で羽田空港から日航機に乗ったのは、オリンピックが終わって迎えた年の瀬だった。1ドル360円の時代、45日間世界一周の旅に出た。

「シルック」   正絹を超える合繊開発

 以前から「天然素材の着物に代わる繊維を作りたい」と思っていた。着物や襦袢の需要は大きいのに、材料の絹は高価だ。ユーザーからも「天然の絹のようで、家で洗濯ができる安い合繊はできないか」という要望が寄せられていた。私は三島工場時代にこのテーマに取り組んだ。
 絹は光沢と織物にしたときの流れるような柔らかさが持ち味だ。まず最初にやったことは絹の断面の解析だった。絹の断面はいびつな楕円形をしているが、いびつさは1本1本異なっている。織ると楕円の糸がそれぞれに光を反射して、優美な光沢を生む。理論的には円形ではない「異形断面」の繊維を作ればいいことになる。
 繊維を吐き出す口金は直径の平均が10センチほどで、数百の微細なノズルが空いている。これらのノズルを円ではない形に加工する技術も要る。
 結論から言うと、断面は「人」の字に似た三角形に決まった。3つの花弁が120度ずつの角度を開いてくっついているようにも見える。これだと光は常に糸のどこかの平面部に当たって反射する。
 とはいえ糸ができてからの織布・染色の後加工が大変だった。織る前に「整経」という工程がある。何千本という経糸をそろえる際に撚りをかけるのだが、円形断面の糸と違って異形断面の糸は撚りムラができ、光沢ムラを生んだ。
 いろいろと試しているうちに、長い糸を一挙に撚るのではなく、いくつかのパーツに分ける「部分整経」という手法を開発することで解決した。書けば簡単なようだが、ここに行き着くまでに1年という歳月を要している。
 だが越える度に新しい技術の壁が現れる。準備段階で光沢ムラを解消したはずの経糸を織機に乗せたら、どうしたわけかムラがはっきりと見えるのだ。詳細に点検しても理由がわからない。
 しかも染色してみると、染めムラがより鮮明になった。これを何とか解決しない限り商品化はできない。
 現場からのリポートの末尾に「いまだ原因がわからず」と書いてあった。私は赤鉛筆で書いたメモを返した。「1つの目的達成のため努力されたい。逃げてはいけない」
 開発チームは逃げなかった。そして1964年になって「シルック」の開発に成功し、6月に発売した。これが元になって10年後には懸案だった衣擦れの音を再現し、暗い場所で強い光を浴びると透けるという問題もクリアした。
 銀座の絹問屋に集まってもらい天然の絹とシルックを見せたが、誰も見分けがつかなかった。こうして「絹を超える合繊」が誕生した。
 この技術は後に、世界の繊維業界で通用する日本発の「Shin-Gosen」、つまり新合繊へと進化していった。従来の合成繊維を超えて天然素材に迫り、ついに上回ったのが東レのシルックだった。
 現場というものは常に生産効率を高め、国際的なコスト競争力を見極めながら装置を開発する必要がある。同時に新素材の開発力も磨かなければならない。
 設備を運転する従業員の安全と防災を確保するため、設備を繰り返しかつ正確に操業できる仕様を開発することも現場技術者の責務だ。
 三島工場で多くの生産管理手法や労務管理の重要性を学んだ私に、本杜生産管理部技術第三課長の辞令が出た。

東レ“シルック”とは

昭和30年に東レが開発した高級シルク調 ポリエステル のファッション素材です。
その魅力は、上品で美しい光沢、限りなく絹に近い独特の感触と取り扱いの手軽さといえます。
ブラウス、ドレスなどの婦人服から、きもの、和装小物、ファンデーションまで幅広いアイテムの素材として取り上げられ、おしゃれに敏感な女性をはじめ、多くの方々に親しまれています。

開発再開 炭素繊維に挑戦を直訴

 かつて開発部時代にアクリル繊維を原料にした炭素繊維の基礎技術を確立しながら、当時の経営判断で中止されていた。だが開発への情熱は消えることがなかった。
 だから、生産本部長でもあった藤吉次英副社長が三島工場に視察に見える度に「炭素繊維に開発を再開すべきです」と訴えた。米航空宇宙局(NASA)を中心に炭素繊維の開発が活発化していたからだ。私は米国勢に決定的な後れを取るのではないかと恐れた。そうなったら追いつくのは容易ではない。
 しかし当初、藤吉さんは言葉を濁した。会社としてはすでに「炭素繊維はやらない」と決めたのだし、決定を覆すのは難しい。ただ藤吉さんは工務畑の出身で現場感覚は鋭い。私の話を聞くうちに、表情が真剣さを増していった。
 漏れ伝わるところによると、炭素繊維の開発に再挑戦するかどうかを巡って、取締役会の意見は真っ二つに割れているという。開発には大規模な費用と設備、人員が必要だ。そこが判断の分かれ目で、特に研究陣の大半は反対だった。
 ところが藤吉さんが「よし、やろう」と言い出したころから風向きが変わった。当時の森慶三郎社長は三井物産出身で経営センスはシャープ。新しいことに挑戦する気概もあった。ついに経営陣は開発再開を決断し、私はアクリル繊維などを主に担当する課長として、本社生産管理部に異動することになった。
 本杜の生産技術を担当する課長となれば、事業戦略に大きな役割を担う第一線経営職だ。そんな立場の私が炭素繊維開発でやるべきことは、生産技術を完成し、量産コストの低減を図ることだった。
 炭素繊維を作るためには、アクリル繊維をセ氏200度に熱して前処理し、後の高温焼成工程で燃えないようにする。それから1000度以上の高温で焼成し、さらに2000度以上で炭化させる。アクリル原糸は衣料用ではだめで、高温処理でも物性が安定している専用の原糸を開発しなければならない。
 3000本から2万4000本もの繊維を幅1センチ前後のテープ状に引きそろえた「糸条」を高温の炉内で走らせ、一本一本の糸が糸切れをおこさないように焼いていく技術は繊細を極める。
 航空・宇宙分野や自動車、建築材料など将来の巨大市場を視野に入れた量産技術の確立には、なお多くの障害が待ち構えていた。東レの炭素繊維「トレカ」の商品化はまず1971年に釣りざおを、次いでゴルフクラブ、・ラケットなどとスポーツ用途で進めていった。
 開発段階からトレカは軍事技術に転用できることがわかっていたから、決して軍需向けには売らなかった。
 76年2月、トレカの主力工場である愛媛工場に技術部長として着任した。愛媛工場は合繊そのものを作るだけでなく、染料の開発や紡績、染色なども手掛けている。それらに関わる生産技術の輸出も盛んで、輸出先は欧米、中米、アフリカや極東、アセアン諸国に及んだ。 
 愛媛工場で技術部長、製造部長から工場長と立場は変わったが、7年近くにわたってトレカの生産技術確立と品質改善に取り組むことになる。生産ラインの火災事故など苦労があったものの、私が率いるチームは次々と独自技術を開発して多くの基本特許も取得する。

「トレカ」で攻勢 世界初の量産技術確立 ボーイングへ納入果たす

 愛媛工場は県都松山に隣接し、美しい瀬戸内の島々を望む伊予郡松前町にあった。
 炭素繊維「トレカ」の技術確立のめどもつき、世界で初めてアクリルベースの本格的な炭素繊維量産設備「C-4」が稼動したのは1982年のことだった。量産体制が整ったことで用途開発にも弾みがついた。
 そうなると、多くの欧米企業と同様、レーヨン素材の炭素繊維を独自開発していた米デュポン社までもがトレカに関心を示した。同社の開発は行き詰まったらしく「東レの技術がほしい」と言う。
 私は東京オリンピックの直後に同社を訪ねた折のことを思い出した。「いつか世界のデュポンがほしがるような技術を開発したい」と誓って二十余年の歳月が流れ、ついにそのときがきた。東レの炭素繊維の技術レベルが欧米メーカーを超えたことに深い感慨を覚えた。
 当時、直接の担当ではなかったから少し離れたところで「デュポンとの提携が何とかうまく進んでほしい」と思っていた。しかし交渉は予想に反して難航した。東レがデュポンと交渉する傍ら、米国のライバルメーカーにも同一条件で提携を打診していたことをデュポンが知り、態度が一気に硬化したのだ。
 翌年、私は社長に就任し同社へ挨拶に出向いたとき、過去の非礼をわびるとともに、炭素繊維事業の合弁を提案した。当時、東レは仏政府の要請で国営会社2社と仏国内に炭素繊維製造会社を設立していたが、そのうちの1社が抜ける分の持ち株をデュポンに引き受けてもらい、共同で事業を進める案だった。
 デュポンはライバルながら、戦後ほどなく東レがナイロン事業を立ち上げるときに力を貸してくれた。そのことに報いたい気持ちがあったのだが、最終的にデュポンは提案を断ってきた。以来、25年を経たいまも同社は炭素繊維分野に参入できていない。
 一方、第1次石油危機を契機とした原油価格の暴騰で、航空機メーカー各社は軽くて燃費の良い航空機の開発に乗り出していた。
 愛媛工場時代を通じて航空機メーカーとの接点を持っていた私は、社長になると一気にトレカを売り込む機会を探った。相手はボーイング社。以前から進めていた共同開発を加速するため、まずシアトルの同社本社工場の隣に航空機用の炭素繊維複合材料を生産する子会社を設立した。
 93年5月、私はボーイング本社にシュロンツ会長とコンディット社長を訪ねた。ひとしきり炭素繊維の話をした後で、会長は「ところで」と話題を転じた。「東レは三井系ですね。だったら同じ系列であるトヨタのカンバン方式には詳しいでしょう?」
 それから2時間ほど、私なりにカンバン方式の説明をした。身じろぎもせず耳を傾ける会長と社長を見ながら、私は「授業料を払ってくれる気でいるな」と感じていた。
 ボーイング737型機の内装材から採用されていた炭素繊維は、ほどなく777型機で垂直尾翼など重要な構造材にも用いられるようになった。今秋から運航する最新鋭の787型では主翼や胴体にトレカが使われて、大幅な軽量化が実現した。
 文明発展の歴史は素材の歴史でもある。木材、石材、青銅、鉄、高分子材料などを経て、人類は炭素繊維を手に入れた。いわゆる材料革命だ。

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流通構造改革 ユニクロ・柳井氏と握手 高機能素材で供給網総動員

 新聞や雑誌で繊維の流通改革に関する私の持論を読んでおられたユニクロの柳井正社長が、全役員を連れて来社されたのは2000年4月のことだった。後に常務になる東レの小野勝利理事を陪席させ、まずトップ同士で45分ほど話し合った。
 そこで柳井さんから「日本の繊維の流通は制度疲労を起こしているので、流通構造の改革をしたいのです」という趣旨の申し入れがあった。 
 全く同感だった。従来の繊維の流通構造は原糸メーカーから小売店まで多段階に分かれており、卸し問屋や商社が金融・企画機能を兼ねてそれぞれの段階で介在するのが常識だった。東レの繊維の営業もそれになれきっていた。
 日本繊維産業連盟会長に就任した1999年ごろから、流通構造改革をひそかに決意していた。連盟会員は各製造業界、商社に加え百貨店・チェーンストア協会も参加している。工商一体による繊維産業の再活性化のために「新繊維ビジョン」を打ち出し、流通改革と海外展開を同時に進める腹づもりだった。そこにユニクロからの提携話。
 東レのような原糸メーカ寸はすべての工程で技術革新が進み、大幅なコストダウンを実現しようとしている。既存の流通ルートだとコストダウン効果が目に見えない。もし製造と小売りが直結したら双方の利益は増え、良質な商品を安く消費者に提供できる。
 「柳井さん、一緒に繊維業界の改革をやりましょう」と握手した。直ちに隣室で待機している東レの繊維関係の役員に「ユニクロとの取り組みを強化することにした。部相当の対応組織を作る。ここがユニクロ向けワンストップ・トータル・サービスの司令塔だ。世界の東レグループの素材・技術を提供するように」と指示した。こうしてGO(グローバル・オペレーション)推進室が立ち上がった。
 東レとユニクロの取引は、前の冬のシーズンで販売数800万枚という空前の大ヒットとなったフリースで始まっていた。これから大きな取り組みをするとなると、東レは原糸から高次加工に至る計画生産が可能になり、小売り段階の情報が迅速に入ってくる。ユニクロは多様な機能素材を安定確保できる。別の言い方をすれば、良質なカジュアル衣料市場を世界で開拓するユニクロと組むことで、東レにとって川上から川中のテキスタイル、縫製までの供給網を総動員する新たなビジネスモデルの構築につながるわけだ。
 03年冬、ユニクロは東レの保温素材を採用した新しい機能性肌着「ヒートテック」を市場に投入し、300万枚を売り切った。その後も両社は共同で抗菌、保温などの機能を進化させた。販売量は09年に5000万枚、昨年は8000万枚、今冬は何と1億枚を見込んでいる。
 最近ではナイロン高密度織物の新しいダウンジャケットも順調で、東レと密接な関係を持つ織布・染色企業などが集積する北陸産地にも好影響が出始めた。供給能力が追いつかず、一部に増設の機運すらある。
 北陸産地は中国の縫製品の輸入攻勢にあって、じわじわと縮小を余儀なくされてきた。しかしユニクロと東レの協力が追い風になって、英国の繊維産業がたどった衰退の軌跡である「ランカシアの歩んだ道」から逃れられる目処がつきつつある。