私の履歴書 吉野彰   2021/10

 

(1)創造と挑戦    電池開発に懸けた夢 先輩の偉業の先にノーベル賞  「プラスチックなのに金属のように光るとは、なんて不思議なんだろう」

きっかけは素朴な驚きと疑問だった。

1981年、旭化成の研究者として母校の京都大学の研究室を訪ね、電気を通すプラスチックである導電性高分子を見せてもらったときのことだ。後にノーベル化学賞を受賞した白川英樹・筑波大学名誉教授が発見した導電性ポリアセチレンである。


(2)北摂生まれ   里山駆け巡りトンボ釣り 父は電気技術者、母は元銀行員

物心ついていちばん初めの記憶は、3つ下の妹が生まれたときの様子だ。当時、病院ではなく自宅で出産するのが普通だった。母が早めに産気づいたらしいのに、頼んでいた助産婦さんはまだ来ていない。お湯は沸かないのか、お手伝いはいつ来るのか、と家じゅうが大騒ぎしていた。

家があったのは北摂と呼ばれる大阪府北部、吹田市の千里山である。

 

(3)化学キッズ   科学雑誌読み何でも実験 感銘受けた「ロウソクの科学」

子どものころから好奇心が旺盛で、何でも自分で確かめないと気がすまない性分だった。ずいぶん危なっかしいこともやった。小学生時代はませた少年で、現代風にいえばさしずめ、やんちゃな化学キッズといったところか。

敗戦から10年ほどたち、日本はまだ貧しいながらも身のまわりの物はどんどん増えていた。関西電力の技術者だった父の考えもあったのか、吉野家は子ども向けの科学雑誌を毎月購読していた。

 

(4)考古学研究   白鳳時代の寺跡を発掘 論理的な思考法、研究の糧に

1963年、大阪府立北野高校に進学した。明治時代に創設され、自由な校風と個性的な教師が多いことで知られる伝統校だ。進学校だったが、仲間たちは皆、受験勉強だけに青春を費やすのはもったいないと思っていた。

小学生時代に化学の面白さを知り、中学、高校を通じて「将来は化学者になりたい」という夢を抱き続けていた。天然繊維が化学繊維に代わり、身のまわりでもブリキのバケツがプラスチック製に代わった。

 

(5)福井先生の授業         問題解けず立ち尽くす 古典理論の重要性を痛感

1968年、京都大学工学部石油化学科の3回生になり、米澤貞次郎教授の研究室に所属することになった。米澤先生は、後にノーベル化学賞を受賞された福井謙一教授の弟子に当たる。当時、最先端の量子化学の研究に取り組んでおられ、そこに憧れて研究室に入った。

助教授の大橋守先生は東京教育大学(現筑波大学)で天然物化学を研究して京大に移ってきたばかり。量子有機化学という新しい分野に挑んでいた。

 

(6)大学紛争        授業中止で仲間と議論 自身は「ノンポリ関心派」

京都大学の工学部石油化学科で米澤貞次郎教授の研究室に入り、福井謙一教授の授業を受けて化学への思いを新たにしたが、すぐに研究に没頭できたわけではない。1968〜69年、京大でも大学闘争の嵐が吹き荒れ、研究や実験がまともにできたのは数カ月だけだった。

セクトを超えた全共闘運動は東京大学や日本大学から全国の大学に広がっていた。

 

(7)入社     野武士の気風 旭化成へ 魅力的に思えた企業研究者

京都大学の修士課程2年になると、そろそろ進路を考えなければならない。子どものころから化学に憧れ、大学で光化学反応を研究していると、研究者として生涯、探求の道を歩みたいという思いがますます強まっていた。

研究は順調だった。修士論文のテーマに選んだのは「電荷移動錯体の光化学反応」。電子を出しやすい化合物と受け取りやすい化合物が結合して「錯体」という分子をつくる。そこに紫外線や可視光を照射したときの反応...

 

(8)連戦連敗   樹脂・建材…相次ぎ挫折 孤独な「探索研究」の難しさ

1972年、旭化成の研究者として新たな人生を踏み出した。配属先は米ダウ・ケミカルとの折半出資会社である旭ダウの研究開発部門。研究開発のシーズ(種)を見つけ、新しい製品に育てていく「探索研究」という仕事を任された。

最初に取り組んだのが「合わせガラス」に使う新しい樹脂の研究だ。

合わせガラスは車のフロントガラスなどに使い、割れても飛散しないよう2枚のガラスを貼り合わせる。

 

(9)迷い道  苦闘の合間にカラオケ 歌と研究の類似点に共感

〽ひとつ曲がり角、ひとつ間違えて、迷い道くねくね〜〜。

シンガーソングライターの渡辺真知子さんが歌う「迷い道」を聴くと、研究開発とはつくづくこの歌詞に似ていると思う。道筋は決してまっすぐではなく、選択を間違えると、とんでもない迷路にはまりこむ。まさに曲がり道くねくね、と。

旭化成に1972年に入社して8年間に3つの研究テーマに取り組んだが、どれも芽が出ず途中で諦めた。

 

(10)ポリアセチレン   「電気を通す樹脂」に驚き 京大に通い製造技術学ぶ

ガラス容器に入ったその物質を見たときの驚きは、いまも忘れない。一見すると灰色の樹脂の塊だが、一部がアルミ箔のようになり、銀色の鈍い光を放っている。その怪しい光沢に一瞬で魅せられた。

1981年、母校・京都大学の研究室で、電気を通すプラスチックであるポリアセチレンに出合ったときのことだ。「プラスチックなのに、なぜ金属のように光るのだろう」と驚いたことは初回にも書いた。

導電性ポリアセチレンは白川英樹・筑波大助教授(後に教授)が発見し、1970年代から多くの論文を発表していた。80年代に入ると一般向けのニュースでも報じられていた。

それが京大の私の恩師、米澤貞次郎教授の研究室にあると聞きつけ、見せてもらおうと単身、川崎市の研究所から京都に出向いたのだった。

旭化成に研究職として入社後、9年が過ぎようとしていた。ガラスにくっつく樹脂などの研究に取り組んだが、なかなか実を結ばない。焦っていたわけではないが、これではだめだと物足りなさを感じていた。

そんなときに出合ったのがポリアセチレンだった。「これはチャンスがめぐってきた」と直感した。振り返ると、この出合いこそがリチウムイオン電池の開発につながり、私の研究人生を決定づけた出合いだった。

アセチレンは炭素原子2つと水素原子2つが結びついた最も単純な部類の炭素化合物だ。そのガスは炎の温度が高く、昭和期には夜店の照明に使われてフォークソングの歌詞になったり、溶接や夜釣りの照明にも使われたりしていた。炭素原子が手を伸ばし隣の炭素に結びつき、さらに隣と結びついていく。これがポリアセチレンである。

最大の特徴はプラスチックなのに電気を通すことだ。これだけでも十分に面白いが、ほかにも面白い性質をもつ。まず金属と絶縁体の中間、つまり半導体の性質をもち、トランジスタになる。光を当てると太陽電池のように電気を生じることも分かっていた。

もうひとつ、電気化学的にイオンと電子を出し入れする働きがあった、これは電池の電極になることを意味し、繰り返し使う2次電池にとりわけ有望だった。「プラスチックが電池になる?」。私にはこの性質が大きな夢を秘めているように思えた。

それから京大通いが始まった。福井謙一教授の研究室の助教授、山邉時雄先生が白川先生と共同研究をしていて、ポリアセチレンの製造装置を自力で作っていた。山邉助教授から製造技術を教えてもらい、川崎の旭ダウの研究所に同じ装置を作ろうと考えた。

山邉助教授もうるさいことをいわずに、製造技術を洗いざらい丁寧に教えてくれた。大学が培った技術やノウハウを提供するのだから、いまなら研究契約を結び、対価が必要になるかもしれない。

旭ダウの私の上司も、試作ラインに必要な数百万円の研究費をポンと付けてくれた。実を結ぶかどうか未知数の探索研究の段階なので、研究費としてそう多い水準ではなかったが、ありがたかった。

京大通いを続けているうちに10月になり、朗報が飛び込んできた。福井先生がその年のノーベル化学賞を受賞すると発表されたのである。授賞理由はフロンティア電子論。白川先生のポリアセチレンは、その理論の影響を受けて見つかった成果だった。

 

(11)始動     電池研究 電極へ応用に的 ライバル多く、市場性を調査

1982年、川崎市の旭ダウ研究部門で電気を通すプラスチックであるポリアセチレンの試作ラインが完成した。のちにノーベル化学賞を受ける白川英樹・筑波大学教授が発見した導電性高分子をつくるラインである。

白川教授と共同研究していた京都大学の山邉時雄教授の研究室に通い詰め、合成技術を教えてもらった。前年にノーベル化学賞を受賞された福井謙一先生が退官され、山邉先生が後任に就いていた。

私は34歳、研究部門の主任になり、部下2人とともに将来の製品の種を見つける探索研究を任されていた。試作ラインといっても数坪程度の小さなもの。旭ダウに出入りしていた理化学機器業者と一緒に京大に出向き、見よう見まねで完成にこぎつけた。

ポリアセチレンは電気を通すだけでなく、トランジスタや太陽電池として電子を出し入れするなど、さまざまな応用の可能性がある。世界中の研究者が競うように性質や機能を調べていた。米ダウ・ケミカルなど大手化学やオランダ・フィリップスなど電機メーカーも関心を示し、ライバルが多いことも想像できた。

欠点もあった。空気に長時間さらされると劣化するのだ。太陽電池は屋外で大気に触れるので応用に向かない。私は電池材料が有望だと直感した。完全密封された電池の電極ならば空気に触れない。電池に照準を絞ればライバルも少ないとの読みもあった。

電池の市場性を調べることにした。プロジェクト研究ならば、マーケティングの専門家が加わって二ーズを徹底的に分析する。だが、まだ基礎部門の探索研究の段階である。部下2人とともに資料をあさり、つきあいのある企業から二ーズを聞いて回った。

「2次電池の電極に有望ではないか」。そう気づくまで時間はかからなかった。2次電池とは充電して繰り返し使える電池である。1979年、ソニーがカセットテープを使う携帯音楽プレーヤー「ウォークマン」を発売、ポータブル化のうねりが始まっていた。そこには小型・軽量で出力の大きい2次電池が欠かせない。

電池をやさしく説明するなら、正極(プラス極)と負極(マイナス極)の間に、電気の担い手であるイオンを含む電解液を満たしてつくる。2次電池として当時主流のニッケル・カドミウム電池やニッケル水素電池は水を電解液に使い、原理的に1.5ボルトまでしか電圧がでない。

3〜5ボルトを取り出せるタイプでは、電解液に水を使わず金属リチウムを負極に使う電池が1970年代に実用化していた。だが使い捨ての1次電池で、2次電池にするには致命的な弱点があった。金属リチウムは充電を繰り返すと発火などのリスクが大きいのだ。

金属リチウムの代わりにポリアセチレンを負極に使えば、いけるのではないか」。市場を調べていくと、有望に思えてきた。

試作ラインが稼働し、ポリアセチレンを分析すると、重要な性質が見つかった。ポリアセチレン負極は水のない状態に置くと極めて安定する物質だったのだ。「これなら安全な電池ができるかもしれない」。
工程を工夫し、電池の電解液の純度を高めると、材料の性能も当初より格段に上がった。期待が膨らんできた。

だが、喜ぶのはまだ早かった。いざ電池の試作となれば正極が必要だ。ところがポリアセチレンの相方に使える電極材料がみつからないのだ。

 

(12)最初の試練  研究の意義 厳しく問われ 吸収合併 研究継続に危機

始動した電池の研究はすぐに試練に直面した。

1982年3月、いつものように川崎市内の研究所に出勤すると、驚きのニュースが待ち受けていた。

当時私が所属していた研究部門は、旭化成と米ダウ・ケミカルが共同出資する旭ダウの一部門。ところが米ダウが合弁を解消し、旭ダウは10月に旭化成に吸収合併されるという。



(13) 正極材料   苦難の日々に論文と遭遇 グッドイナフ博士との出会い

1982年が暮れようとしていた。この年の10月、ソニーが世界初のCDプレーヤーを発売した。音楽といえばアナログレコード全盛だった時代が幕を下ろし、
デジタル時代の到来を告げていた。街中には細川たかしの「北酒場」が流れ、年の瀬に彩りを添えていた。

私はというと悶々とした日々を送っていた。電気を通すプラスチックであるポリアセチレンをマイナス極(負極)に使い、繰り返し使える新型2次電池を開発する目標は定まった。だが電池にはプラス極(正極)も欠かせない。正極に何を使うか。よい材料がなかなか見つから見つからないのだ。

仕事納めの日だった。研究所の業務をすべて終え、お決まりの大掃除も済ませると、珍しいことに午後の時間がまるまる空いた。
そこで、取り寄せたまま目を通す時間がなかった文献や資料を読んでいた。

材料科学の専門誌「マテリアルズ・リサーチ・ブレティン」をめくっていると、1本の論文が目に留まった。「高エネルギー密度電池向けの新しいカソード材料」と題し、主著者はジョン・グッドイナフ博士。米国人だが当時は英オックスフォード大の無機化学研究所長を務めていた。

思いも寄らないことが書かれていた。新型2次電池の正極にコバルト酸リチウムという化合物が使え、電圧は4ボルト以上を生み出せるというのだ。これまで充放電可能な2次電池は1.5ボルトが限界だったので、電池2、3本分が1本になり、小型化が一挙に進む可能性を示していた。

しかし、ごれと組み合わせるべき適切な負極材料がないとの趣旨の記述もあった。当時の新型2次電池は負極に金属リチウムを使うのが常識。正極にコバルト酸リチウムを使えば両方がリチウムイオンをもち、原理的に電池にならない。そこで負極に新しい材料が必要だという。

渡りに船とはこのことか。私が研究しているポリアセチレンを負極にすればよいではないか。
年が明け83年1月、さっそくコバルト酸リチウムを合成してみると、難なくできた。通常、化合物の合成は文字にしにくいコツがあったり、秘訣をあえて隠す研究者がいたりするものだが、コバルト酸リチウムは合成しやすい性質をもっていた。

ポリアセチレンと組み合わせて電池も試作した。充電はスムーズにできた。放電はどうか。うまくできた。
喜びがこみあげてきて、部下と顔を見合わせた。ポリアセチレンを負極、コバルト酸リチウムを正極に使う新型2次電池の原型が、ついに誕生した瞬間である。

当のグッドイナフ博士に初めて会ったのは2000年のことだ。
私は米国電気化学会の賞を受け、米ハワイ州で開かれた大会で授賞式に招かれた。講演を終え演壇を降りると、大柄の男が駆け寄り「コングラチュレーションズ」と声を掛けてきた。思いがけないことにグッドイナフ博士が祝福に来てくれたのだ。「ヨシノの発見のおかげで、正極と負極のよい組み合わせができた」

博士とはその後も、喜びと栄誉を分かち合う間柄になった。2019年、ノーベル化学賞の共同受賞が決まり、ストックホルムでの授賞式で再会したときの喜びは生涯忘れない。ただし、1982年の論文との出合いから晴れ舞台までには、なおも曲折を経ることになる。

(14)悪魔の川   「ほしいのは小型の電池」 厳しい注文 他の材料探しへ

「軽量化という点ではほぼ満点ではないか」。そんな自負があった。部下と喜び合い、会社にもそう報告した。

1983年、最初のリチウムイオン電池の原型ができあがった。繰り返し使える2次電池である。電気を通すプラスチックであるポリアセチレンをマイナス極(負極)に、プラス極(正極)にはコバルト酸リチウムを使う電池だ。充電型としては当時主流のニッケル・カドミウム電池と比べ、重量が3分の1と軽い。

リチウムイオン電池の試作品第1号(レプリカ)

試作品づくりも順調に進んだ。見よう見まねで円筒形の電池をつくると、予想通りに4ボルト以上の高い電圧が出る、充電も問題なくできた。

次のステップはこれを使ってくれそうな機器メーカーの意見を聞き、改良点を探る「ユーザーワーク」だ。旭化成では樹脂部門のマーケティング担当が電子機器メーカーと接点があり、見込みのある企業を紹介してもらった。
最初に持ち込んだのはカメラメーカーの小西六写真工業(現コニカミノルタ)。試作品と実験データを携えて東京・日野市の開発拠点を訪ね、軽量化のメリットをとくとくと訴えた。

だが、感想を聞いて愕然とした。「うちが本当に欲しいのは小型の電池です。軽量化だけでは物足りませんね。サイズも3分の1にできないでしょうか」
なんとも厳しい注文だ。

正直にいえば、半ば予想していた反応だった。ポリアセチレンーコバルト酸リチウム電池は軽いが、大きさはニッケル・カドミウム電池と変わらないのだ。

ユーザーの二ーズは小型化と軽量化の両立であると承知していた。ただ、瓢箪から駒ということもある。軽量化だけでも売り込めないかと考えたが、やはり駄目だった。

内々聞いた他のメーカーの反応も同じだった。苦労の末にやっとできた試作品が評価されず、意気消沈した。

研究開発を成功させ、製品として世に送り出すには3つの関門を乗り越えなければならない。「悪魔の川」「死の谷」「ダーウィンの海」の3つだ。米国の西部開拓時代、、ゴールドラッシュにわく西海岸をめざし、東海岸から夢を求めて旅立った人の辛苦をなぞらえたともいわれる。

最初の関門である悪魔の川はおそらくミシシッピ川を指すのだろう。渡り切らないと、さらに西には進めず、ここで大半の人が脱落する。
リチウムイオン電池の研究も悪魔の川に差し掛かっていた。ポリアセチレンに目をつけ、見通しが立ったと思ったものの、眼前には大きく黒い川が渦を巻いている。ここを渡りきれるのかと、不安の日々が続いた。

改めてデータを眺めていると、ポリアセチレンという材料の限界に気づいた。プラスチックなので比重が小さい。軽量化という点では有利だが、逆にいえば体積がかさばり小型化にはとても不利だ。

比重は物質固有の性質なので、そを変えるのは不可能だ。悩んだあげく、違う材料を探すことにした。ポリアセチレンが電池の負極に適していたのは、分子中の炭素が2本の手を伸ばしてくっつく「共役二重結合」があるためだ。ヒントは同じ結合をもつ材料を探すことだった。

しかし、頭で考えていても埒が明かない。小型化を実現できる材料はないか。手当たり次第に炭素系材料を集め、特性を調べ始めた。

 

(15)シン炭素繊維

難題の負極、新材料が打開 延岡の研究拠点で幸運な発見

「炭素材料を探しているなら、延岡に行ってみたらどうですか」。展望が開けたのは同僚のこんな助言からだった。私たちの研究をマネジメントしている研究開発本部で話をしているときのことだ。

1984年、リチウムイオン電池の研究は壁に突き当たっていた。マイナス極(負極)にポリアセチレン、プラス極(正極)にコバルト酸リチウムを使う電池は試作できた。しかし、小型化が困難で、負極には違う材料を探さねばならなかった。

性質が似た素材をさんざん探し回ったが、よいものがない。時間ばかりが過ぎていく。悶々としていたとき、ふと延岡行きのアイデアが出た。

当時、軽量の素材としてカーボンファイバー(炭素繊維)が注目されていた。50年代に登場し、70年代にはまだ高価ながら釣りざおやゴルフクラブに使われ始めた。軽いのに強くてしなやかなのが特長だ。米国では航空機に使う研究が脚光を浴びていた。

旭化成でも宮崎県延岡市の繊維開発研究所が炭素繊維を研究していた。繊維は旭化成の創業当初から主力事業のひとつ。会社の原点ともいえる延岡に研究拠点があった。

灯台もと暗しとはこのことか。さっそく延岡に出張し、いくつかサンプルを入手した。そのひとつが気相成長法炭素繊維(VGCF)という特殊なカーボンだった。

この繊維は炭化水素を高温下でガスの状態にし、基板上に繊維を直接成長させる。なんとも奇抜な方法である。

川崎の研究所に持ち帰って試しに電気特性を調べてみると、ずぬけてよかった。「これはいける」と考え、この炭素繊維を負極に、正極は従来と同じコバルト酸リチウムを使う電池を試作した。

実験を繰り返した。電圧は出るか。4ボルト近く出る。ポリアセチレンを負極に使った電池とほぼ同じ性能だ。繰り返し充放電しても電圧を維持するか。それも大丈夫だ。

試作を繰り返し、体積も3分の1に減らせるメドが立ってきた。「小型化と軽量化を初めて両立できそうだ」。胸が高鳴った。今のリチウムイオン電池の原型の誕生である。85年半ばのことだった。

この炭素繊維には後日談がある。要である気相成長法を学問的に深く探求していたのは信州大学助教授だった遠藤守信さん(現特別栄誉教授)である。私がサンプルを入手した延岡の研究所も、遠藤さんと共同研究していた。

80年代半ば、遠藤さんが撮影した電子顕微鏡写真を見ると、成長した炭素繊維の芯にあたる部分に筒状のものがうっすらと写っていた。これがのちの91年、飯島澄男さん(現NEC特別主席研究員、名城大終身教授)が発見したカーボンナノチューブだったのである。

ナノチューブは半導体や燃料電池の素材に応用され、ノーベル賞級の成果になった。しかし、85年当時は遠藤さんも私も存在に気づかなかった。芯に宝物を秘めたシン(新)炭素繊維だったわけだ。

幸運をもたらす偶然の発見をセレンディピティーという。このVGCFが難局打開のカギを握り、しかも同じ社内でそれを研究していたとは。まさにセレンディピティーだった。

VGCFを手にしたことで、開発は急加速した。リチウムイオン電池の基本構成にかかわる特許をはじめ、旭化成にとっても重要な成果がこのときに生まれた。だが開発には次の難関が待っていた。

 

(16)爆発試験場   鉄塊や銃で安全性実験 衝撃耐えたリチウムイオン電池
 
宮崎県延岡市の中心部から東へ車で約20分。川を渡ると小高い丘に囲まれた広大な工場がある。敷地は東京ドーム10個は優に収まる約15万坪。人里離れた場所に城跡のような土塁が築かれ、普通の工場とはどこか雰囲気が違う。

旭化成の東海(トウミ)工場(当時)。土木工事の発破に使うダイナマイトなど、いわゆる産業火薬の主力工場である。昭和の初め、旭化成ば硝酸の量産に成功し、それを原料に火薬製造(化薬事業)に乗り出した、繊維から多角化の道を歩んだなか、化薬事業は社の源流のひとつだ。

1986年後半、初めて訪れたときには「冬にはイノシシが出る」と聞いた。ここがリチウムイオン電池の誕生で重要な舞台になるとは、当時は夢にも思わなかった。

充電可能な新型2次電池は試作品までできたが、さまざまな問題を抱えていた。最大の課題が安全性の確認だ。

金属リチウムはほかの物質に触れると非常に反応しやすく、燃えやすい。リチウムイオン2次電池はプラス極」(正極)や電解質にリチウムの化合物を使うので、安全性の確認は避けて通れない。

上司の紹介で大手電池メーカー幹部の話を聞くと「電池の開発では安全性は死命を制する問題。とことん詰めておくように」と念を押された。

しかし、新タイプの電池だけに、安全確認の基準も試験法もない。どんな試験をするか考えるところから始めた。場所も問題だった。

最悪の事態として爆発や炎上も想定しなければならない。コンビナート地帯にある川崎の研究所は論外。「多摩川の土手ならどうか」とも考えたが、すぐに諦めた。必要なのは「何が起きても大丈夫な場所」だった。

化薬事業部に無理を聞いてもらい、東海工場の爆発試験場を使わせてもらうことになった。

部下とふたりで新電池を持ち込み、工場の職員とともに実験した。破片が飛び散っても身を守れるよう私たちは建物に避難。記録カメラも壊れないように、途中に大きな鏡を挟んで間接的に撮影した。

まずは重さ5キログラムの鉄の塊を電池の上に落としてみる。電池は壊れて大きく変形したが、発火や発煙の気配はない。まずはひと安心。念のため1時間ほど様子をみたが変化はなかった。

次はライフルの銃弾を貫通させる実験だ。米軍の電池の規格に銃弾を当てる実験の記述があり、参考にした。被弾した電池は壊れたが、それ以上の大きな変化はなかった。

金属リチウムを使う1次電池で同じ実験をしてみた。負極にに金属リチウム、正極には二酸化マンガンなどを使い、リモコンや時計などの小型機器に使われる電池である。

こちらは鉄塊の落下と同時に煙を出し、火を噴いた。金属リチウムを使う電池はやはり、強い衝撃を受けると発火の危険があった。

新型電池が同じように火を噴いていたら、万事休すである。「何かあったら研究を即刻中止」という覚悟で臨んだ実験だった。だが、金属リチウムを使う電池に比べ、衝撃への安」全性はクリアできそうだとわかり、部下とともにひとまず胸をなでおろした。

とはいえ安全性の問題は後々まで尾を引く。リチウムイオン電池はその後、国内外の多くのメーカーが生産を始めたが、発火・発煙事故が起こり、品質管理や工程管理で各社は頭を悩ませることになる。

 

(17)黒ダイヤ   不足材料 他社から入手 3億円強奪事件で聴取受ける

「どんな目的で使うのか、お話しいただけないとサンプルはお渡しできません」
「まだ開発途上の企業秘密なので、それだけは勘弁してください。1キログラムだけでもいただけませんか」
「取引単位は船1隻です。ますます無理ですね」
「そこを何とか……」

1987年、東京駅八重洲口に近い興亜石油(現ENEOSホールディングス)で、私は興亜の営業担当者に平身低頭で頼み続けていた。リチウムイオン電池の試作品をつくるのに、この会社が提供する「八重洲の黒ダイヤ」がどうしてもほしかった。

新型2次電池の開発は順調に進み、試作品をユーザーに提供する一歩手前まできていた。だが、またもや難題が浮上した。マイナス極(負極)の材料である炭素繊維の一種、気相成長法炭素繊維(VGCF)が足りないのである。

実験に使う程度の量なら入手できる。だが電池の試作品をまとまってつくるほどの量はない。量産となれば、もっと大量に要ることになる。

市場に出回っているカーボンのなかから似たものを探すことにした。偶然、見つけたのがこの「黒ダイヤ」だ。

興亜社屋の一角、製品紹介コーナーに石炭を原料とするコークスが並んでいた。なかに普通のコークスとまるで違うサンプルがあった。光の加減で銀色に輝くのである。

電気を通す炭素材料をずっと研究してきた経験から一目で「これは間違いなくよい性能が出る」と確信した。私の目にはまさにダイヤモンドと映り、勝手に「八重洲の黒ダイヤ」と名づけたのだった。特殊用途向けだったが、かなひの量が生産されていた。

他社のサンプルを入手するには、使い道を伝えるのが礼儀である。しかし、リチウムイオン電池はまだ企業秘密だ。正直に打ち明けるわけにいかない。交渉は平行線をたどり、この日は「お引き取りください」。諦めきれず、毎日のように電話で頼みこんだ。

2週間後、諦めかけていると、川崎の研究所に200リットルのドラム缶が届いた。熱意が通じたのか、十分な量を提供してもらった。

このコークスは予想通りの性能が出た。しかも、電池を量産しても数年間は使える量だった。そして実際、製品化されたリチウムイオン電池の初代の負極材料として使われ、世の中に出て行った。

黒ダイヤのついでに「3億円強奪事件」も書いておく。

同じ年のある日、部下に来客があり、すぐに私も呼び出された。客とは警視庁の刑事で、部下は事情聴取を受けているという。刑事たちはポリ酢酸ビニルという樹脂の名を挙げ「何に使うのか」と聞いてきた。

今度は正直に打ち明けた。電池の電極をつくるのにバインダー(接着剤)という樹脂が要る。そこに使うのだと話すと刑事は帰って行った。

後で分かったのは、刑事たちは86年11月、東京・有楽町駅前で現金輸送車から3億3000万円が強奪された事件を調べていた。外国人グループが「バブルに沸く日本にはカネが余っている」と犯行に及んだ事件だった。使われた催涙スプレーは手製で、特殊なポリ酢酸ビニルを使い、私の部下が入手したのと同一だった。説明が理解されたのか、それ以上の追及はなかった。

電池というゴールに向け様々な材料を集めては調べていると、予期せぬことに遭遇する。それも研究の醍醐味だ。

 

(18)死の谷   正極材料量産へ窯元訪問 おきて破りの外注 仲間が打開


「使い終えた窯をお借りできないでしょうか」

岐阜県土岐市の郊外を歩くと、窯元がいくつもある。美濃焼として知られる茶わんや皿を焼く窯である。私はそのひとつを訪ね、窯元の主とこんな交渉をしていた。1987年のことだ。

土岐を訪ねたのは、新型リチウムイオン電池のプラス極(正極)の材料の量産が壁に突き当たっていたからだ。電池の原型はほぼできあがり、マイナス極(負極)に使うカーボンは必要な量を確保するメドも立った。

問題は正極だった。ここに使うコバルト酸リチウムは粉末状の酸化コバルトと炭酸リチウムを混ぜ、セ氏900度で数時間焼き固めてつくる。これ自体はとくに難しい反応ではなく、数百グラム単位なら実験室で難なく合成できた。

しかし、量産となると大型の焼成炉が要る。ある焼成炉メーカーでテストすると、大問題が起きた。高温下でリチウムの一部が気化し、炉の内側の壁を傷めてボロボロにしてしまうのだ。リチウムは反応性が極めて高く、触れた相手を腐食するためだった。

研究開発には「死の谷」がある。基礎研究の最初の関門である「悪魔の川」を渡りきっても、製品化・事業化をにらんだ開発研究に進むと、次々に課題が浮上する。これを乗り越えられなければ、製品化は諦めざるを得ない。

正極材料の量産はまさに死の谷だった。私たちだけでは手に負えず、社内で製造設備を担当する工務部門から専従のメンバーをつけてくれた。平井靖将さんだった。

高温腐食に耐えられる材料はなかなか見つからない。ある日、平井さんから「何かよい手はないか」と尋ねられ、私は真面目に答えた。「純金なら大丈夫です」。金は腐食に最も強い。実験室の小規模な炉なら、内側を純金で覆えばよい。あくまでも実験を想定した答えだった。

しばらくすると社内が大騒ぎになった。「吉野たちはとんでもないカネ食い虫のプロジェクトを考えているらしい」。どうやら平井さんが「量産用の炉を純金張りにすると、それだけで数百億円の設備投資になる」という「試算」まで出し、尾ひれがついて社内に広がったらしかった。

平井さんとて悪意があったのではないだろう。自前で量産できなければ社外の設備を使えばよい。ただし、試作段階の製品に関する情報は極力外に出さないのが原則で、外注はいわばおきて破り。平井さんは外注の大義名分をつくってくれたのではないか。実際、土岐市の窯元を探してくれたのは平井さんだった。

先方も「古い窯なので壊れても構わない」と快く了解してくれた。実は窯元も悩みを抱えていた。土岐市は陶磁器の生産量で日本一を誇ったが需要が減少。窯の有効活用を探っていた時期で、私たちの提案は渡りに船だったのだ。

別の工程も外注した。リチウムイオン電池の電極は薄い金属箔に厚さ0.15ミリほどの材料を塗る。塗工という工程で、試作段階は手作業だが量産では機械が要る。

こちらは埼玉県岩槻市(現さいたま市岩槻区)にある工場に頼むことにした。ここも平井さんが探してくれた。

陶磁器の窯を使った正極材の製造は、リチウムイオン電池が事業化された後も数年間続いた。リチウムイオン電池はハイテク技術だが、その開発過程では陶磁器という伝統的な技術の貢献があった

 

(19)ユーザーワーク     デジカメやビデオに照準 本格的な事業化へ陣容拡大

「50コマの連続撮影ができる新方式のカメラを考えているんです。それを実現できる小型・軽量の電池があるとよいのですが」

東京・日野市にあるカメラメーカー、小西六写真工業(現コニカミノルタ)の開発拠点で、担当者に打ち明けられたときには正直驚いた。当時、電池にそんなニーズがあるとは思いもよらなかった。

 

(20)新型電池誕生  初の製品化、ソニーが先陣  対抗へ東芝と合弁会社

耳を疑った。
1991年春、驚愕のニュースが飛び込んできた。ソニーの子会社が繰り返し使える新型2次電池の量産を計画し、それを組み込んだ携帯電話を発売するというのである。

リチウムイオン電池の研究者にとって、携帯電話に搭載できるほど小型で軽量の2次電池の実用化には、もう少し先になると睨んでいた。それがこの時点で製品化されること自体、ショックだった。さらにそれがソニーと聞いて信じられない思いだった。

なぜかといえば、ソニーは私たちにとって電池の性能を評価してもらう親密なパートーだったからだ。

ソニーはビデオテープ規格の覇権争い「べータ対VHS戦争」で後手に回り、小型の8ミリビデオカメラで巻き返しを狙っていた。その鍵を握るのが、小型軽量の2次電池だった。私たちはそれまでソニーを電池のユーザーと考えていた。そのユーザーが自身で電池を開発するとは思いも寄らなかった。

中身を調べてみた。プラス極(正極)はコバルト酸リチウム、マイナス極(負極)はカーボンで、私たちが開発中の電池と同じ材料。電解液の組成は違っていた。製品は「リチウムイオン電池」と名付けられていた。

この電池がソニー社内でどういう経緯で開発されたのかは知る由もない。しかし、リチウムイオン電池を世界で最初に事業化したのは、間違いなくソニーだった。

旭化成の関連部門では火がついたような騒ぎになった。当時、社内では同時並行的に、3つの事業戦略を議論していた。電池を単独で事業化するのは難しいので、他社と合弁で進める。電池の絶縁材であるセパレータは旭化成単独で取り組む。関連特許を積極的に他の電池メーカーにも供与するライセンス事業にも取り組む。この3つである。

水面下で合弁パートナーの検討も進んでいた。旭化成は電池の経験がない。絞り込んだ相手は、子会社に電池メーカーをもつ東芝だった。


「ソニーに対抗するため、共同出資会社を早く立ち上げ、製品化を急ごう」

ソニーのニュースは結果的に、私たちを後押しすることにあり、新会社設立に向けた準備が一気に動き出した。

翌92年10月、旭化成は東芝と折半出資会社アイ・ティ―バッテリー社(A&TB)を設立した。ソニーから約1年遅れたが、念願の電池事業に参入したのである。

ライセンス戦略についてはパートナーの東芝は反対すると思っていた。A&TB以外の電池メーカーにも積極的にライセンスするのは、敵に塩を送るようなものだ。

意外にも、東芝はすんなり了解してくれた。説明を聞くとこうだった。「まずは市場パイを大きくするのが得策。そのために他社へ積極的にライセンスするのに賛成だ」

理由を聞くと,「電機業界では素材や部品を複数杜から調達するのは常識。リチウムイオン電池も多くの企業が参入したほうが、ユーザーである電子機器メーカーが安心して採用してくれるだろう」という。

なるほどと思った。化学業界にはない発想で、電機業界の懐の深さを感じた。

私たちはA&TBという新たな船を建造し、新型電池のサンプル出荷を始めた。しかし、大海原に乗り出した早々、嵐に見舞われることになる。

 

(21)ダーウィンの海    「関心あるけど買わないよ」企業訪問重ねても商談進まず

「関心は大いにあるんですが……。でも何に使えるか、よく考えさせてください」

リチウムイオン電池の説明に歩き回っていて、このせりふを何度聞いたことか。そのたびに心が折れた。

「関心がないよ」と言われたのなら、諦めがつく。こちらの戦略が甘いわけで、仕切り直しすべきだ。しかし「関心はあるけど買わないよ」と言われたら、戸惑う。一体なにが足りないのか。苦悩の日々は長く続いた。

1992年10月、リチウムイオン電池の事業化へ旭化成と東芝の折半出資会社エイ・ティーバッテリー社(A&TB)が誕生した。研究着手から10年強を経て、電池事業はやっと日の目を見たが、前途は多難だった。

旭化成社内にはA&TBを後方支援する「イオン二次電池事業推進部」ができ、44歳の私は商品開発グループ長に就いた。部長を含め51人の組織である。私を待っていたのはユーザーを開拓するための企業訪問だった。

「新型電池は1本でニッケル・カドミウム電池3本分の電圧が出ます。寸法は同じで、スタミナも3倍になる」

こう説明すると、どのメーカーも「サンプルがほしい」と前向きな返事をくれる。しかし、その先の商談が進まない。しばらくたってまた訪問しても、注文はとれない。

新規事業を成功させるには、3つの関門がある。試行錯誤を繰り返して研究テーマを絞り込む「悪魔の川」。ここを乗り越え試作品までこぎ着けても、性能やコストなどの壁に突き当たる。「死の谷」だ。そして最後が「ダーウィンの海」である。

よい製品ができても、皆がすぐに買ってくれるわけではない。既存製品との競争にもまれ自然淘汰を生き残るまでに何年もかかる。リチウムイオン電池もダーウィンの海で溺れかかっていた。

93年、風向きが変わり始めた。NTTドコモが携帯電話の新サービス「2G(第2世代)」を始めたのである。

日本では79年に自動車電話が実用化し、91年には1Gの「ムーバ」の提供が始まった。だがアナログ方式で音声通話ができるだけだった。端末は重くてかさばり、通話料金も高く、普及率は数%にも届かなかった。

デジタル方式の2Gは通話にとどまらず、データの送受信ができる。ほかにも大きな変革があった。携帯端末のICが省電力化され、1Gでは5.5ボルトで駆動しでいたのが、2Gは3ボルトで動くようになったのだ。

これは電池にとっても朗報だった。リチウムイオン電池は4ボルトまで電圧が出る。1Gでは電池2本が必要だったが、省電力の2Gだと1本で済み、機器の小型化を導いた。携帯電話はこの段階で単なる電話を超え、持ち運びできる「情報端末」になった。

翌94年8月、私はA&TBに移り技術開発担当部長に就いた。主な役割は、日本IBMや富士通といったパソコンメーカーの訪問である。携帯パソコンといえばラップトップ型(膝上)が主流だった。まだ重くてかさばり、「ラップクラッシャー(膝壊し)だ」と酷評されていた。

パソコンがどこまで小型化し、リチウムイオン電池の出番は本当に来るのか。まだ暗中模索が続いていた。やがて起きるIT(情報技術〉革命が、リチウムイオン電池の未来を変えていくことになるとは、誰も予想できなかった。

 

(22)IT革命   パソコン・携帯に.出番到来 設備投資が重荷、合弁から撤退

不思議な光景に見えた。なぜ、これほどの行列ができるのか、と。

1995年11月、米マイクロソフト社のパソコン基本ソフト(OS)「ウィンドウズ95」の日本語版が発売された。英語版の発売から3ヵ月遅れだったが、家電量販店の店頭には発売日前から大勢の人が並んでいた。

「一部のパソコンマニアの人たちの世界の話かな」。同僚ともそんな話をした。この出来事が、リチウムイオン電池が普及しはじめる号砲になろうとは、正直予想していなかった。

エイ・ティーバッテリー社(A&TB)のリチウムイオン電池事業は産みの苦しみに直面していた。その3年前、旭化成と東芝が共同出資で立ち上げたのがA&TBだが、市場が広がらないのである。

期待していた小型の電子機器向けの需要はなかなか生まれない。リチウムイオン電池を先に発売したソニーも自社の携帯電話には搭載したが、本命と目されていた8ミリビデオカメラにはすぐには搭載しなかった。主力製品だけに慎重に判断したらしい。

ウィンドウズ95の登場はそんな時期だった。通信インフラはまだ貧弱で、家庭で手軽にインターネットにつながる時代ではない。しかし、新OSの登場と軌を一にノート型パソコンの市場が広がっていく。小型・軽量のリチウムイオン電池の出番がいよいよ回ってきたのである。

携帯電話も94年が転機だった。通信自由化で新しい周波数帯が割り当てられ、通信事業者の新規参入が続いた。95年にはPHSも登場し、携帯電話の普及に一役買った。

しかし、A&TB事業は思い描いた通りには進まなかった。収益は単年度べースでは黒字になったが、毎年続いた設備投資が重荷になっていたのである。

リチウムイオン電池の市場には松下電池工業や三洋電機(ともに現パナソニック)が参入し、販売価格は下落が続いた。設備投資を増やさないと競争には勝てない。だが、同時に利益も飛躍的に伸ばさないと、累積赤字を解消する見通しが立たない状況に追い込まれていた。

選択肢は2つしかなかった。ひとつは旭化成として増資や人的資源を投入してA&TBをテコ入れし、賭けともいえる勝負に出ること。もうひとつは旭化成の強みである電池部材の生産・供給とライセンス事業に的を絞り、電池本体からは撤退することだ。
2000年9月、旭化成は

A&TBから手を引き、持ち株すべてを東芝に譲渡すると発表した。経営陣による交渉の詳細は知るよしもないが、事情はだいたい察しがつく。

リチウムイオン電池の市場が伸び、工場増設など重要で迅速な経営判断が必要だった。しかし親会社が2つあることが障害になっており、一本化が事業成長にとって得策と前向きに判断したのだろう。

その後、電子機器の小型化、高性能化が進み、リチウムイオン電池の市場は拡大していった。それとともに旭化成の電池部材、とくにセパレータ(絶縁材)が伸び、旭化成の成長事業に育っていく。

ただ、いまも気になることがある。電池の開発当初から関わり、旭化成からA&TBに出向した部下たちのことである。合弁解消で旭化成に戻るか、東芝に移籍するか選択を迫られ、ひとりひとりが人生最大の決断を迫られたはずだ。それを思うと胸が痛む 。

 

(23)魔法のフィルム   絶縁材と因縁の出合い 特許囲い込まぬ戦略当たる

「他社の電池に使う予定のセパレータ(絶縁材)ですが、ちょっと性能を調べてもらえませんか」

1985年ごろ、違う部署の同僚から頼まれた。この部材は「ハイポア」(商品名)。のちに新型リチウムイオン電池の中核部材に採用され、旭化成の成長事業のひとつに育っていく。このときが最初の出合いだった。

セパレータは電池のプラス極(正極)とマイナス極(負極)を隔て、電気の運び手であるイオンを通す役目を担う。ハイポアはその優れた性質から「魔法のフィルム」の異名をもち、リチウムイオン電池の高性能化に欠かせぬ材料になった。,

この材料、当初はまったく別の目的で開発され、途中で電池向けに転用された。しかも、その大化けは私のすぐ身近の別の研究所で起きていた。絶縁材との不思議な因縁である。

話は70年代に遡る。このころから大規模集積回路(LSI)の技術が急進展し、半導体工場では純度が極めて高い「超純水』が大量に必要になっていた。半導体の洗浄や薬品を溶かすのに使う水に不純物が混じると困るのだ。

純水づくりのため考案されたのが「微多孔膜」である。微細な穴がいくつもあいた膜で、ごく小さな不純物を捕まえる。これを研究していたのが、旭化成の高分子応用研究所だった。

72年、私が最初に配属された旭ダウの研究組織は高分子応用研のすぐ隣にあり、当時は「そんな研究もあるんだな」と思っていた。

ただ純水づくりはうまくいかず、研究陣は鉛蓄電池のセパレータに活路を求めた。この膜はポリオレフィンでつくられ、電池の正極と負極を隔てるのと同時に、微細な穴をイオンが通り抜けて電気を運ぶ。セパレータにうってつけだったのだ。

80年代半ば、三洋電機(現パナソニック)が使い切りの金属リチウムー次電池の小型化に向けた改良をめざしていた。旭化成の研究陣はそのセパレータにハイポアを売り込もうと考え、試作品の評価を私に依頼してきたのだった。

このころ私が取り組んでいたリチウムイオン電池はセパレータに不織布を使っていた。ただ不織布は厚く、小型化に向かない。私にとっても「薄い材料があればいい」と探し始める矢先だった。

性能を調べてみると、ハイポアはリチウムイオン電池にも使えそうなことが分かり、私の電池に採用することにした。当初は他社向けだった技術が、自社の製品に利用できた。瓢箪から駒だった。

2000年、旭化成は電池事業で東芝との合弁を解消し、中核部材の製造と販売に的を絞った。基本的な特許も自社で囲い込まず、他のメーカーに積極的にライセンスする戦略をとった。ライバルを増やすことになるが、リチウムイオン電池の市場拡大につながると考えたからである。

この戦略が当たった。

このころから携帯電話などモバイル機器向けの電池の需要が拡大し、セパレータの世界市場は年率30%の勢いで伸びていった。旭化成はそこで高いシェアを握った。やがて電気自動車(EV)が普及しはじめ、車載電池向けの需要も増えていった。

いま振り返ると残念なこともある。市場がこれほど伸びると予測できたなら、セパレータ以外の部材にも手を広げておけばよかったと。

 

(24)フェロー拝命    研究室開設し若手を育成 「簡単に諦めるな」ときに厳しく

2003年、研究開発担当の役員に呼び出された。「フェローになってくれないか」という。

フェローはもともと大学や研究所などで成果をあげた研究者に与えられる称号だ。近年は研究者に限らず企業でも広がってきたが、当時はあまりなじみがなく、私は名誉職的なポストと考えていた。

私は55歳になったばかりで、リチウムイオン電池事業開発室長として電池の改良に取り組んでいた。手塩にかけた新型電池は携帯電話などモバイル機器向けの需要が広がり旭化成は部材事業で収益を伸ばしていた。組織人の宿命として、管理職にとどまるか、専門職の道を歩むか、岐路にあることは理解していた。

「何をしたらいいのですか」と尋ねると、「社で第1号なので、フェローのモデルになってほしい」という。モデルといわれても困るが、電池の研究を続け、若手の指導役になればよいのかと、自分なりに納得した。

リチウムイオン電池は技術的に実用に耐える水準に到達したが、改良したい点はいくらでもあった。繰り返し充電しても劣化しにくい耐久性や、発火などがないように安全性を高めることである。

科学的なメカニズムもまだ謎が多かった。電池は生き物とよく似ている。内側で起きている現象を、人間は完全に解明したわけではない。

プラス極(正極)とマイナス極(負極)の間にある電解質の中を、リチウムイオンはどれくらいの速さで移動するのか。セパレータ(絶縁材)に開けられた超微細な孔の中でどう動くのか。こうした謎を解くことが電池改良のヒントにつながる。

古巣の川崎の研究所に戻り研究を続けた。少しずつだが電池の改良が進み、製品に反映され市場拡大に貢献した。

人材育成の場としては「吉野研究室」と名づけた研究室を設けてもらった。個人名を冠した研究室は旭化成として初めてという。静岡県富士市にあり、いまは基盤技術研究所という名の建物にスペースをもらい、リチウムイオン電池に関連ある部署から交代で若手を派遣してもらった。

若手に伝えたかったのは困難を乗り越えるタフな精神力である。私自身、入社から8年間、3つの研究テーマに取り組んだが、どれも芽がでなかった。リチウムイオン電池という金脈を探し当てた後も「悪魔の川」「死の谷」「ダーウィンの海」という3つの困難が次々に襲いかかった。

若手にそんな経験を語りながら、ときに厳しいことも言う。「簡単には諦めるな」と口癖のように教えた。

企業にとっての人材育成の意味も考えるようになった。企業として新規事業に果敢に挑むことが、旭化成の社風である野武士精神を継承し、次世代の人材を育てる実地教育の場になるのだと感じた。

このころからリチウムイオン電池の研究業績が認められ、受賞も増えていった。1999年の日本化学会、米国電気化学会の賞を皮切りに、産業技術が対象の市村賞などの受賞が続いた。特許が成立して係争の心配がなくなったことが大きかった。

正極を考案したジョン・グッドイナフ博士も2001年、日本国際賞を受けた。日本の産官が「ノーベル賞に匹敵する賞を」と創設した賞で、私もその17年後に受賞する。振り返れば、私のノーベル賞受賞の伏線がこのころから敷かれ始めたようだった。

 

(25)ノーベル賞   欧州が関心 可能性を直感 「脱化石燃料社会へ道」と評価

「君の業績はノーベル賞に値するものだよ。研究業績の資料を送ってくれないか」2000年、米国の電気化学会に出席のため、ハワイ州に出張したときのことだった。学会を終えてホノルルの空港で搭乗を待っていると、日本人のある有力な研究者からこう耳打ちされた。

この人がノ一ベル賞の推薦人だったのか定かでないし、名も明かせない。賞の選考過程は50年間は非公表で、関係者に守秘義務がある。名を出すと迷惑が及ぶからだ。しかも聞いた当時は冗談だと思い、しばらく忘れていた。

それが冗談でなかったのかも、と思ったのは13年のことだ。

この年、スウェーデンのストックホルムで日本化学会と同国の学術関係者が共催したシンポジウムに私も招かれた。そこでリチウムイオン電池について講演し、欧州の学術関係者らと懇談した。

その席で、参加者から尋ねられた。「日本でリチウムイオン電池の産業が育ったのは素晴らしい。欧州でも電池産業が生まれるだろうか?」

私が「電池産業はそれを使う製品の生産拠点にしか生まれない。電気自動車への応用が進めば、欧州でも間違いなく電池産業が育つでしょう」と答えた。その答えはともかく、欧州の人たちがリチウムイオン電池の重要性を認識していることは明白だった。

「ついにノーベル賞のまな板に載ったかもしれない」と、このとき直感した。

リチウムイオン電池はモバイル機器に使われ生活を便利にした。それにとどまらず、電気自動車を通じて環境保全に貢献し、社会の価値観を変える。そう考えてくれるのなら、ノーベル賞が近づいたかもしれないと感じたのだ。

この頃からメディアにも注目されるようになった。

ノーベル賞は毎年10月初旬、まず自然科学分野の生理学・医学賞、物理学賞、化学賞の順で発表される。リチウムイオン電池は物理と化学のどちらかで受賞の可能性がある。発表日には大勢の報道陣が集まり、会社が記者会見場をセットするまでになった。

最初はこれが嫌だった。「外れ」が続き、関係者に合わせる顔がない。研究、広報、総務など多くの部署が総出で準備してくれる。その瞬間の喜びを分かち合いたいと、若手社員も集まる。受賞できないと、やはり申し訳ない。

だがそのうちに年一回の恒例行事として、楽しみになってきた。「今年も残念でした」となると、数十人集まって街に繰り出し飲んで歌う。これが実に楽しいのである。社員の中には「ずっと取らずにいたらいいね」と、冗談半分に言う人もいた。

そして19年の10月9日。化学賞の発表予定時刻のちょうど30分前、オフィスの電話が鳴った。秘書が受け「国際電話です」と言われた瞬間も半信半疑だった。受話器を取ると「コングラチュレーションズ」と聞き取れた。

もちろん嬉しかった。だがそれから先はあまり覚えていない。「発表後、電話インタビユーを受けてほしい」と頼まれ、パニックになってしまったからだ。受賞者1人に電話インタビューがあることは承知していたが、私ではないと思い準備はゼロだった。

発表時刻になり、私の名前が告げられた。何よりもの喜びは、リチウムイオン電池が脱化石燃料社会に道を開いたことが授賞理由に示されていたことだった。
 

 

(26)授賞式   電池が環境革命牽引する」 記念講演での訴えに手応え

2019年12月5日、スウェーデンの首都ストックホルムに到着した。ノーベル賞授賞式に出席するためである。この時期の北欧はさぞかし寒いかと心配だった
が、案外暖かい。受賞者の定宿グランドホテルに着くと、玄関前にはすでに大勢の報道陣が待ち受けていた。

心境を尋ねられ「最高です」と答えたが、正直なところ上の空だった。これから始まるノーベルウイークは諸行事がびっしり続く。なかでも8日に予定される記念講演「ノーベルレクチャー」のことで頭がいっぱいだった。

翌6日はさっそくノーベル博物館を訪問した。受賞者は自身の研究にゆかりのある品を寄贈する。私は別便で日本からホテルに送ってあったリチウムイオン電池の試作品を一晩かけて組み立て、博物館に贈った。

館内にはカフェがあり、受賞者は椅子にサインするのが慣例だ。字が下手な私は緊張してペイントマーカーを強く握りすぎ、液が垂れてしまった。ふき取ってもらい再挑戦。「2度サインしたのはドクター・ヨシノが初めてかもしれません」と職員に笑われた。女性職員からマリー・キュリーの実験道具を見せてもらい、賞の伝統を実感した。

そして8日、ノーベルレクチャーの日がやってきた。10月の授賞発表からおよそ2カ月。その間、受賞者が最も心を砕くのは、この講演で何を話すかだ。

歴代の記念講演には自然界の普遍の真理や人間がそれを探求する尊さを説いた格調高いスピーチも多い。講演録を見ると身が引き締まり、ときにひるんだ。

準備をはじめた早い段階で覚悟を決め、自分に言い聞かせた.「私は産業界で研究に携わってきた人間だ。アカデミックな講演にする必要はない。電池が環境革命を牽引し、未来の社会に影響を与えることを伝えればよい」

講演の終盤で8分ほどの動画を見てもろうことにした。30年になると人工知能(AI)を組み込んだ電気自動車(EV)が普及し、社会が一変すると説いた動画だ。

マイカーは消えて皆がクルマをシェアし、行きたい場所を告げればAIが配車して自動運転で運んでくれる。何百万台ものEVが電力網につながり、電池に蓄えた電気を必要に応じてオフィスや家庭に供給する。車の保有コストは劇的に下がり、温暖化防止に貢献すると訴えた。

英語での講演に不安はあったが、手応えはあった。講演中、会場を見渡すと何人もうなずいてくれていた。講演後、若い学生たちから「ふだん温暖化の怖さばかり聞かされるが、解決策があると知り安心した」と感想も聞いた。

10日はアルフレッド・ノーベルの命日に合わせ授賞式と晩さん会。明け方の雪がやんで青空が広がり、銀色に薄化粧した古都の街並みが美しい。レクチャーの緊張から解放され、あとの行事は心から、楽しむことができた。

グスタフ国王からメダルを受け取ると、ずっしりと重く、喜びがこみ上げてきた。続く晩さん会で意外だったのは、料理の品数が少なく、皆が会話を楽しんでいたことだ。

その後の舞踏会も驚いた。正装した紳士淑女による社交ダンスを想像していたが、皆が勝手気ままに踊っている。曲もケセラセラ(なるようになる)。格調の中にも気さくさを忘れない、欧州の気風を感じた。

 

(27)家族  11人そろって受賞旅行へ 分かち合った喜び 感謝の証しに

スウェーデン・ストックホルムで開かれるノーベル賞の授賞式や晩さん会は、欧米流に夫婦同伴で出席する。私の受賞旅行には妻のほか長男、長女と次女のそれぞれの夫婦、長女の義父母、孫2人に加わってもらい、総勢11人の大所帯になった。皆が北欧での滞在を楽しんでくれた。

 

(28)教壇に立つ  企業内研究 醍醐味伝える 産学の橋渡し役に使命感
 

企業の研究者にとって何よりもの喜びは、研究成果を製品として世に送り出せることだ。リチウムイオン電池も曲折をへながら製品化できた。一方で、この研究の源流にあるのは京都大学の恩師、福井謙一先生や筑波大学の白川英樹先生らの成果である。アカデミアと産業界が手を携えて実現した成果ともいえる。

 

(29)新三種の神器  「2次電池は心臓」励みに 技術より価値観が社会を変える

「繰り返し充電できる2次電池は電子部品の『新三種の神器』のひとつだから、近い将来、世界を大きく変えることになるよ」

話は遡るが、1980年代後半、私がリチウムイオン電池を研究していると聞き、こう励ましてくれた人がいる。新型2次電池が実用化する見通しがまだ立っていないころのことだ。

その人によれば、新三種の神器は2次電池のほか大規模集積回路(LSI)、ディスプレー(表示装置)とのことだった。

 

(30)環境革命  新技術で予測超える未来 25年ごろから成果身近に

国連が持続可能な開発目標(SDGs)を掲げ、国際社会は地球環境の保全や格差のない社会の実現へと歩みを強めている。目標達成ヘカギを握るのは「環境革
命」を起こせるかどうかだ。私は今まさにその準備期問にあり、2025年ころから環境革命の成果が現れ始めるとみている。

IT(情報技術)革命の始まりは1995年だった。パソコンの基本ソフト「ウィンドウズ95」が発売され、リチウムイオン電池が携帯端末向けに普及し始めた。私が新型2次電池の研究を始めたのは81年。およそ15年の準備期間をへてIT革命が花開いた。

環境革命はいつから準備期間に入ったのか。2010年だったとみる。ひとつの根拠は「サステイナブル」という言葉だ。国際標準化機構(ISO)がこの年、「現在の世代だけでなく将来世代も一人ひとりが豊かな暮らしを築けること」と定義し、多くの人が口にするようになった。

日本の自動車メーカー2杜が量産車としては世界初の電気自動車(EV)を市販したのも10年だった。EVは急速に普及しつつあり、25年ごろには車の主役になるだろう。

環境革命によって社会はどのように変わるのか。

イノベーションの特徴は予測不可能なことが非連続に起きることだ。リチウムイオン電池がモバイル社会を導くとは当初想像できなかったように、未来は現在の延長線上では予測できない。温暖化対策や食糧問題などでは常識を覆す新技術が登場するだろう。

国立研究開発法人の産業技術総合研究所(産総研)に「ゼロエミッション国際共同研究センター」が20年に創設され、私はセンター長に就いた。温暖化ガスの排出ゼロに向け次世代の太陽電池や人工光合成、合成燃料などの研究に取り組んでいる。

ここで進めている興味深い研究をひとつ紹介しよう。二酸化炭素(C02)を吸着する鉱物の話だ。

産総研の歴史は1882年創設の農商務省地質調査所に始まる。その伝統を受け継ぐ地質グループから、C02を効率よく吸収する鉱物が日本国内に無尽蔵に存在し、温暖化対策に活用できると提案があった。これぞ産総研の伝統の底力か、と驚いた。

今年のノーベル物理学賞は大気中のC02濃度が気候に与える影響を数値で解明した真鍋淑郎・米プリンストン大学上席研究員らに贈られる。日本生まれの研究者の受賞は喜ばしい。脱炭素の技術でも成果が続くことを期待したい。

電池の未来はどうか。私は10年から大阪府池田市に本部がある技術研究組合リチウムイオン電池材料評価研究センター(LIBTEC)の理事長も務めている。ここには電池や電池材料、自動車メーカーが参加し、電池の材料の性能評価に使う「標準電池」モデルや手順書・基準書が10種以上もできた。研究開発を効率化でき、ここから多くの新型電池が誕生しつつある。

環境革命の成果が現れ始める25年はちょうど大阪万博の年だ。1970年、故郷で開かれた大阪万博は、研究者の道を歩み始めたばかりの私に夢と希望を与えてくれた。それから半世紀以上がすぎ、次の万博はどのようなメッセージを発信するのか。新型コロナウイルス感染症の教訓も受け止めて、そこから環境の世紀を担っていく若者たちが育ってほしい。


2008/12/04 産業技術総合研究所 

二酸化炭素吸着性能に優れ、生産性に優れた無機多孔質材

−大気圧以上でも吸脱着ができ、効率的な二酸化炭素回収材として最適−

ポイント

 

概要

独立行政法人 産業技術総合研究所地圏資源環境研究部門地下環境機能研究グループ鈴木 正哉 主任研究員と同部門 月村 勝宏 主任研究員、サステナブルマテリアル研究部門メソポーラスセラミックス研究グループ前田 雅喜 主任研究員と犬飼 恵一 主任研究員は、大気圧以上の圧力領域で大容量の二酸化炭素の吸脱着が可能な高性能無機系吸着材を開発した。

圧力スイング吸着法による二酸化炭素の回収・分離材としては、これまでゼオライト13Xが用いられている。しかし、ゼオライト系吸着材による二酸化炭素の吸脱着では、真空から大気圧までの圧力領域における吸着量が多く、脱着(放出)させるには再度真空近くまでの減圧が必要であるため、かなりのエネルギーを消費している。そのため、大気圧以上で多量の二酸化炭素の吸着と脱着の両方が可能な吸着材が求められていた。

今回、安価な工業用原料から穏和な条件で合成できる方法を見いだし、大量生産が可能で、部分的にイモゴライト構造をもつ非晶質アルミニウムケイ酸からなる無機系二酸化炭素吸着材を開発した。この吸着材は、大気圧以上の圧力で10 wt% (重量%)以上の可逆的な二酸化炭素の吸脱着が、繰り返し可能である。300℃程度の耐熱性をもち、大気圧に戻すだけで吸着した二酸化炭素を脱着し、再生が可能である。そのため、二酸化炭素回収・分離に用いることで、二酸化炭素回収の省エネルギー効果が期待される。