日産自動車野球部(伊藤祐樹)
【日産自動車硬式野球部復活】 本日、日産自動車より正式に発表となりました。
皆さん、大変長らくお待たせいたしました。日産野球部が復活します。青い鳥が戻って来ます。25年度からとなりますが、応援よろしくお願いします。
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社会人野球
この日オンラインで記者会見した日産の浜口貞行常務執行役員は「1年でも早く、昔のように強いチームに戻していきたい」と話し、都市対抗野球や日本選手権大会での勝利を当面の目標に掲げた。
日産野球部は1959年創部。都市対抗に29回出場し、55回(84年)、69回(98年)と2回の優勝経験がある社会人野球の名門。85年発足の日産九州野球部も都市対抗に6回、日本選手権に9回出場した強豪だ。
日産は、08年のリーマン・ショックの影響を受けて業績が悪化。リストラ策の一環で野球部の活動を休止したが、近年は業績が回復し、経営危機を乗り越えた。一方、電気自動車(EV)や自動運転技術といった業界を取り巻く環境が変化する中、従業員の士気高揚などにつながる役割を期待して復活を決めた。
浜口氏は「企業スポーツは選手のみならず、従業員やその家族、OB・OG、取引先など多くの人の士気を高め、一体感を醸成する力を持っている」と述べ、野球部復活の狙いを強調した。また、「(野球部は)歴史が古く、競技人口の多い人気スポーツであり、最も大きな影響が期待できる」とも述べた。野球部と同時期に休部になった陸上部、卓球部については現時点で復活の予定はないという。
日産自動車は12日、経営合理化の一環として09年限りで休部していた2つの硬式野球部の活動再開を決めたと発表した。神奈川県横須賀市を拠点にしていた日産自動車野球部は25年から、福岡県苅田(かんだ)町が拠点の日産自動車九州野球部は24年に再開予定。それぞれ日本野球連盟に申請し、承認を経てから活動を再開する。
都市対抗2度、日本選手権1度の優勝を誇る名門が復活する。オンライン会見に臨んだ常務執行役員の浜口貞行氏は「持続的な成長のためには従業員の意識改革が必要。企業スポーツは、従業員や家族らの士気を高め一体感を醸成する力がある」と復帰に込めた意図を説明した。09年の活動休止後も、拠点だった横須賀市を中心に日産野球部復活への声は上がり続けていた。新型コロナウイルスの影響で自動車業界全体が冷え込んだ時期もあったが、同社創立90周年の今年、満を持して復活を宣言。今後は追浜工場内に新たなグラウンドを整備し、監督や選手を集めて2年後の活動再開を目指す。
「大願成就。テンションが上がったし、心が躍る感じというか、言葉では表しきれない感情です」
そう話すのは、伊藤祐樹さん(51)。走攻守三拍子そろった内野手として現役時代、ファンから「ミスター日産」の愛称で親しまれた。休部後も移籍することなく会社に残り、復活を願い続けてきた。
1995年に入社。選手生活の晩年はコーチも兼任しながら15年間、日産野球部一筋でプレーしてきた。都市対抗野球大会は補強選手も含めて13回出場。社会人ベストナインを3度受賞し、日本代表の主将も経験した。
休部を言い渡された時のことは今でも鮮明に覚えている。2009年2月のひどく冷え込んだ日だった。
「さすがにショックでした。世の中の状況もあるし、会社の状況もあるし、経営判断なら受け入れるしかないというか……」。悔しい気持ちはあったが、最後の1年間、築き上げてきた「日産野球部らしい野球」を最後までやると気持ちを切り替え、都市対抗も日本選手権もベスト4の結果を残した。
休部後、多くの仲間は移籍や引退の選択をした。当時37歳。現役を続けるのは難しいが、野球に携わり続けたい気持ちはあった。でも、それを周囲に伝えることはできなかった。
「日産で育ててもらった恩があります。野球を続けたい気持ちはあっても、移籍することは最初から選択肢になかった。新人は入ってこないし、みんなが外へ出て行くと、野球部が見放されてしまう危機感もありました」。わずかな心残りは胸の中にしまい、会社に残る決断をした。
社業に専念し、各工場への発注計画を立てる管理や、販売会社の営業などを担当。その一方で、復活のためには野球部の灯を消さないことが大事だと考え、OBや野球部にゆかりのある人に協力を仰ぎ、毎年のように野球教室を開催してきた。復活した時に自分がチームの力になれるようにと、OBである明治大の田中武宏監督を訪ね、学生の指導もした。
野球部に関する発信も惜しまなかった。19年、社会人野球の「平成のベストナイン」に選ばれた際の表彰式では、こう話した。
「日産のメンバーとして受賞できたこと、社会人野球の中に日産の名前を残せたことはうれしい。この先どうなるかは分からないが、日産野球部は、また社会人野球界に戻ってきます」
昨年、環境に変化があった。日産自動車から提携する三菱自動車に出向する形で、三菱自動車岡崎の野球部ヘッドコーチに就任した。
現在、三菱自動車岡崎は、日本選手権出場をかけた東海地区予選に臨んでいる。古巣復活のうれしさを持ちながらも、「今のチームで日本一を取る」と目の前の選手たちと向き合う。
社会人野球に長く携わって、分かったことがある。会社に愛してもらえるチームであることこそ、一番大事だということだ。
「このタイミングで野球部を戻す決断は、活躍しろということではないと思います。社員を含めた会社の一体感や、意識向上という部分の役割が大きいはず。そういうところが足りなかったから休部という判断になったと思うので、そこは大切にしていきたい」
振り返れば、「いつか来る日」を信じ、復活に向けて動いてきた14年だった。今後、日産野球部にどういう形で関わっていきたいか聞くと、こう即答した。
「中心です。ど真ん中で」。どんな立場でも古巣に身をささげる覚悟だ。
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企業スポーツの価値が改めて問われた日産自動車野球部の休部から14年。活動再開の知らせは、希望の光として社会人野球界を駆け巡った。
日産野球部は、1959年に創部された。都市対抗野球に初めて出場したのは第36回大会(65年)で、休部までに計29回の出場を果たした。川越英隆(オリックスなど)、押本健彦(ヤクルトなど)、梵英心(広島)、高崎健太郎(横浜)らプロ選手を輩出した。
都市対抗は第44回大会(73年)で準優勝。10回目の出場だった第55回大会(84年)で初優勝を果たし、第69回大会(98年)で2度目の優勝を飾った。
87〜99年に監督を務めた村上忠則さん(74)は「うれしい、悲しいという感情を前面に出すような泥臭いチームを目指していた」と振り返る。主力として長く活躍した現三菱自動車岡崎ヘッドコーチの伊藤祐樹さん(51)が「日産は隙(すき)がなく、簡単には負けない強さがあった」と語るように、粘り強い戦いぶりに定評があった。
93年秋にはバブル崩壊とともに日産野球部にも危機が迫った。会社からの補助金は減り、バットなど備品の購入や新人の獲得を控えた。経営陣からは「野球部は二つもいらない。九州のチームと統合しよう」という声も上がったという。当時の野球部長らは連日のように役員の説得に回った。
村上さんは、選手による手作りの壁新聞「プレーボール」の発行を提案。「何もしないでいるより、自分たちの魅力を従業員にどうやって伝えようか考えた」。一人一人の似顔絵を描いて選手を紹介するなど工夫を凝らし、職場に張ってもらった。社員から応援されるチームを目指し、98年には2度目の頂点に立った。試合直後の取材で村上さんは「厳しい状況の中でこんなに多くの人が応援してくれて感謝している」と喜びを語った。
99年3月、日産本体は仏ルノーと資本提携し、トップには「コストカッター」の異名を取るカルロス・ゴーン氏が就任。野球部関係者の間では、再び部の存続に悲観的な見方が広がった。村上さんたちは「何としても休部にはさせない」と奔走し、ゴーン氏に都市対抗の観戦に来てもらうことに成功。ゴーン氏は「都市対抗は日本の企業文化の象徴」と野球部の存続を明言した。
しかし、2009年2月、日産は世界的な金融危機によるリストラの一環として社内の野球部、陸上競技部、卓球部の休部を発表した。8月、日産は激戦の神奈川から第3代表で都市対抗出場を果たし、本大会で4強入り。11月の日本選手権でも4強入りし、準決勝で最後の公式戦を終えた。
野球部の休部に伴い他チームに移籍した選手の多くは、その後も都市対抗や日本選手権で活躍した。一方で、会社に残った伊藤さんを中心に、OBは野球教室を開催してきた。地域貢献の一環であると同時に、日産野球部の灯を消さないとの思いもあった。
「いつか来る日」を信じ、会社関係者は「休部金」を支払い続けてきた。日本野球連盟や各地区の連盟に所属するチームは登録料を払っているが、廃部となり連盟から脱退すれば支払いは生じない。日産はあくまでも「休部」であるとして、年額数万円の休部金を神奈川県野球協会や日本野球連盟などに納めてきた。
これまでも浮かんでは消えてきた野球部の「復活」。ついに訪れたその日に、関係者の感慨は深い。休部前、東京ドームに何度も響き渡ったのが日産の応援歌「世界の恋人」だ。村上さんは「また東京ドームで聞いて、口ずさんだら感動するだろうな」と話した。【円谷美晶】
日産自動車野球部の復活より一足早く、2021年から活動を始めたのが茨城日産だ。チームを率いる渡辺等監督(59)は日産野球部OB。休部以降、野球から離れていた渡辺監督が「日産」の名を冠するチームに注いだ情熱も、復活の機運の高まりにつながっていた。
赤を基調に、胸には「NISSAN」の文字が躍る。かつて東京ドームで躍動した日産自動車の「まねをさせてもらった」というユニホームを身につけた渡辺監督は、「我々OBが待ちに待ったニュースだし、ファンの方も待ち焦がれていたと聞いていた。率直にうれしい」と復活を喜ぶ。
渡辺監督は愛媛・今治西高から日産自動車に入社。1994年には三塁手で社会人ベストナインに輝いた経歴も持つ。32歳で現役を退いた後はコーチに就任し、09年の休部時はヘッドコーチを務めていた。
休部後は社業に専念し、営業で北関東や北海道、東北、甲信越などを駆け回る日々を過ごした。「野球は年数回の(日産OBによる)野球教室ぐらい。東京ドームも、都市対抗の予選も一度も見に行っていなかった」。そんな折に持ち上がったのが、茨城日産の野球部監督への就任だった。
茨城日産は日産自動車とは別資本だが、日産野球部関係者が発足に関わった。
茨城日産を傘下に持つ「茨日ホールディング」で当時役員を務めていた日産野球部OBの鈴木雅道さんが「野球部を作ることで営業マンの雇用も拡大でき、社内に元気をもたらせる」と社長に進言。創業75年の周年行事の一環として、野球部が創部されることになった。仕事で茨城日産に出入りがあったことに加え、鈴木さんの推薦もあり、渡辺監督に白羽の矢が立った。
「現場に戻れる喜びはあったが、ゼロからのスタート。心配だった」。単身での新たな挑戦に際し、日産OBで元日産自動車九州監督の中込健司ヘッドコーチ(58)をスタッフに誘った。同学年の2人は強豪を支えた盟友でもあり、「もう一回野球をやることがあれば、必ず声をかけると約束していた」。中込コーチは日産の関連会社の部長まで務めていたというが、誘いを受けて単身で茨城へ。2人の戦いが始まった。
日産自動車とは環境面も選手のレベルも異なる。練習も日産時代はほぼ毎日だったが、茨城日産では全体練習は週2回と仕事が中心だ。かつての日産のような緻密でハイレベルな野球を求めるのは難しかった。
それでも2人は「日産イズム」をチームに注ぎ込んだ。渡辺監督は言う。
「日産時代によく言われたのは『合宿所のスリッパが常に次の人のためにきれいに並んでいる』。常に相手のことを考えて行動するのが大事で、営業も野球も私生活も一緒。私生活でやるべきことをきっちりと果たせない人は、グラウンドでも仕事ができない」
チームは1年目から北関東の企業チームと渡り合った。今年の日本選手権関東地区予選では強豪のJR東日本を破って代表決定戦に駒を進めるなど、成長を続けている。渡辺監督と中込コーチは就任時から合言葉のようにこう語り合った。
「いち販売会社がここまでできるんだから、メーカーももう一回頑張ってよという声が出てくるように頑張りたい。我々の活動が認められ、刺激になり、日産の復活につながれば」
その思いは現実となった。休部時の副部長で、野球部の復活に尽力した日産自動車の田川博之・人事本部副本部長(56)は「地域、会社を盛り上げる良い例。復活の後押しになった」と賛辞を惜しまない。渡辺監督は「自分たちのことに必死で(復活の機運の高まりなど)手応えとかを感じる余裕はなかった」と話すが、「最終的にそうした声がポツポツと出てくるだけでも良いかなと思っていた。そうであればうれしい」と顔をほころばせる。自身の監督就任時には日産OBから多くの喜びの声や支援を受けた。プロに進んだOBからは道具も提供してもらい、OBの野球に対する熱い思い、野球が生んだつながりの深さが身にしみた。
だからこそ、復活の意義はひしひしと感じている。「日産と名のつくチームで一緒に盛り上げていきたい。自分たちももっと頑張らないと」。再び立ち上がる日産の灯を、情熱でともし続ける。【玉井滉大】
日産自動車は1975年に福岡県苅田(かんだ)町で工場の操業を開始。10年の歳月が流れた85年12月に、本社からの移籍組を加えるなどして、日産自動車九州野球部はスタートした。
プロ野球・ダイエー(現ソフトバンク)で中継ぎ投手として活躍し、2000年に31歳の若さで亡くなった藤井将雄(本名・政夫)さんを擁して94年の都市対抗野球大会に初出場。最高成績となるベスト8入りを果たした。日本選手権にも94年から3年連続出場を果たし、96年にベスト8入りした。藤井さんの他にもオリックスなどで投手としてプレーした金田政彦さんらを輩出している。
09年に休部となった後は、日産九州の元選手たちが主体となって、翌年にクラブチーム「苅田ビクトリーズ」を結成。チームの灯を消さないように活動していた。
藤井さんとは87年の同期入社で、クラブチーム発足当初からチームに関わってきた植山文彦監督(54)は「藤井が在籍したチームがないのは寂しかったので復活させたいと思っていた」と喜ぶ。
現在の選手は日産九州やその協力企業に勤務しながらプレーし、工場の敷地内にあるグラウンドや雨天練習場を使用している。東哲寛主将(25)は「企業チームとしてやりたい思いがあったのでモチベーションは上がっている。責任も出てくるので勝ちにこだわっていきたい」と意気込んだ。【藤田健志】
野球王国・神奈川に社会人野球の名門が復活する。日産自動車野球部の拠点は以前と同じ横須賀市で、強豪ひしめく西関東地区から都市対抗野球大会出場を目指す。ライバルからは、歓迎の声が上がった。
「いいニュースだと思う。野球部は社員の帰属意識を高め、シンボルになれる存在。その良さを感じる人がいてくれればうれしい」とENEOSの大久保秀昭監督。「選手集めなど準備は大変だと思うが、新しい仲間が加わり、刺激になる」と歓迎する。
三菱重工Eastの佐伯功監督は選手として廃部や移籍を経験しており、「一度休部になると、復活するのは難しい。長い年月を経て復活するということは、いろいろな方たちの思いが詰まった出来事。これからどんな日産ができあがっていくのか楽しみにしつつ、負けないように頑張りたい」と意気込む。
選手時代にチームの解散を経験している東芝の平馬淳監督も「また神奈川のレベルが上がると期待している。協力できることがあるなら惜しまず、一緒に盛り上げていきたい」と話した。
12日に記者会見した日産自動車の浜口貞行・常務執行役員は「神奈川県は強いチームがある。そういった中でもう一回、切磋琢磨(せっさたくま)しながら成長する姿を見せられればいい」と語った。