Yahoo news 2022/5/19
社会人野球の都市対抗二次予選は5月20日、東海地区で全国12地区のトップを切って始まる。
現場の関係者は、口をそろえて言う。 「本大会よりも予選のほうが、はるかにプレッシャーがかかるんです」
野球部員は会社の顔としての自覚を持ち、職場からの期待を背負い、グラウンドに立つ。厳しい二次予選を勝ち抜き本大会の舞台・東京ドームへ駒を進め、勝利を送り届ける。スタンドや会社から応援する社員は、野球部の全力プレーから勇気と元気をもらう。それが、一体感の醸成。会社が野球部を持つ意味であり、社員の士気高揚につながるのである。
数々の重圧を乗り越えるためには、何が必要なのか。昨年11月から三菱自動車岡崎硬式野球部を指揮する梶山義彦監督は言う。
「自分たちのできる当たり前のことをきちんとやる。常に意識していればできる全力疾走、バックアップ、ベースカバーです」
今年4月、ヘッドコーチに就任した伊藤祐樹ヘッドコーチは、指揮官の方針を補足する。 「われわれが目指すのは都市対抗優勝ですが、優勝したいと思って、できるものではありません。日本一なれる要素、その資格を得るためにも、当たり前のことを当たり前にする。レベルの高いチームほど、徹底されている」
三菱自動車岡崎・梶山義彦監督[左]と伊藤祐樹ヘッドコーチ[右]は
都市対抗初制覇を目指し、5月20日からの東海地区二次予選に挑む[写真提供=三菱自動車岡崎硬式野球部]
もちろん、気持ちだけでは勝てない。アマチュアトップレベルの社会人野球であり、潜在的な技術はある。実力は紙一重。ここ一番で実力を発揮するため、備えるべきこととは。
「準備。それに尽きます。どれだけ自信を持った準備を経て、根拠ある1プレーへの『思い』を出せるか。当たり前の基準を上げる。練習をやり切り、選手をグラウンドへ送り出したいと思っています」(伊藤ヘッドコーチ)
三菱自動車岡崎が出場する東海地区二次予選は、代表枠6に対して14チームがエントリー。敗者復活方式のトーナメント戦は、最大18日間に及ぶ長丁場だ。1敗しても次の戦いがあるが、徐々に追い込まれていくスリリングな状況は、味わった者にしか分からない。
社会人野球の醍醐味は、負ければ終わりの「一発勝負」。梶山監督と伊藤ヘッドコーチは国内外で修羅場を経験してきた。2人の共通点は「都市対抗制覇」と「日本代表主将」にある。
梶山監督は三菱ふそう川崎で左の強打者として活躍し、都市対抗3度、社会人日本選手権1度の優勝。1999年のシドニー五輪アジア予選では、プロアマ合同で編成された日本代表を主将として束ね、出場権奪取に尽力した。2000年の五輪本大会も、日の丸を背負った。
伊藤ヘッドコーチは日産自動車の名遊撃手として都市対抗1度、社会人日本選手権1度の優勝。03、05年W杯では日本代表主将の大役を担った。19年には日本野球連盟が制定した「平成ベストナイン」の遊撃手部門に選出されている。
伊藤ヘッドコーチは日産自動車時代、初優勝を遂げた2003年の社会人日本選手権でMVPを受賞している
三菱ふそう川崎と日産自動車は、神奈川の社会人でライバルとして切磋琢磨してきた。梶山監督は自チームが都市対抗を逃した際は、日産自動車の補強選手としてプレー。一方、伊藤ヘッドコーチは03年に三菱ふそう川崎が3年ぶり2度目の都市対抗優勝を遂げた際に、補強選手として黒獅子旗奪取に貢献した。お互いを知り尽くし、伊藤ヘッドコーチは「野球観が合う。同じ目線で会話ができる」と、2歳上の梶山監督をかねてから信頼していた。
社会人球界のレジェンド2人のもう一つの共通点は「休部」である。梶山監督は06年限りで現役を引退し、07年から2年間、コーチを務めたが、08年限りで三菱ふそう川崎は休部。日産自動車も翌09年限りで休部した。伊藤ヘッドコーチは他チームへ移籍する選択肢もあったが、同年限りでユニフォームを脱ぎ、日産自動車に残った。「野球部復活」を信じ、力になりたいと、社業に専念していたのだ。
その後、梶山監督は社会人クラブチームのコーチなどを経て、17年に三菱自動車岡崎のコーチ就任。昨年11月の監督就任にあたり、チーム強化の一つの「目玉」として、ヘッドコーチを伊藤氏にオファーを出したのだった。
ルノー、日産自動車、三菱自動車はアライアンス・パートナーであり、野球における「人材交流」を実現させたのである。
伊藤ヘッドコーチは、力を込める。 「岡崎の地で、これまでの経験をすべて伝えていく。野球を通じて各社を盛り上げて、アライアンスに花を添えられればと思います」
社会人球界においてトーナメントを勝ち上がる難しさ、国際試合の厳しさを知り尽くす2人は、社会人野球界の伝道師である。元日本代表主将コンビが率いる三菱自動車岡崎は、2年ぶり13回目の都市対抗を目指す。
文=岡本朋祐
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元記事 週刊ベースボールOnLine 2022/5/19
2人は現役時代、神奈川の社会人で切磋琢磨してきたライバルだ。梶山氏は自チームが都市対抗を逃した際、日産自動車の補強選手として東京ドームでプレー。一方、03年に三菱ふそう川崎が3年ぶり2度目の都市対抗優勝を遂げた際は、伊藤氏が補強選手として黒獅子旗奪取に貢献した。梶山氏は19年前の夏を回顧する。
「最後のミーティングで、伊藤が涙を流していたんです。一言で表現すればファイター。以前から性格は知っていましたが、あらためて、熱い思いを持っている人間なんだな、と」
補強選手とは、他社からの助っ人。伊藤氏には日本代表のキャプテンを任された人望の厚さがあり、三菱ふそう川崎にも溶け込んでいた。梶山氏はチャンスがあれば再び、伊藤氏とユニフォームを着たいと考えていた。梶山氏は06年限りで現役を引退し、07年から2年間、コーチを務めたが、08年限りで三菱ふそう川崎は休部。日産自動車も翌09年限りで休部した。
「チームがなくなった後も一緒になったことはありました。同じ境遇を歩み、相通じる部分がある」(伊藤)