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Interview 2006年7月

野球というゲームを通じてお客様に感動を与える。
その基本は決して忘れてはいけないと思っています。

(株)横浜ベイスターズ 代表取締役社長 佐々木 邦昭

Profile

1947年生まれ。1969年6月東京大学法学部卒業、1969年7月日産自動車株式会社入社、1991年1月同社広報部長、1997年7月同社研究設計総務部長、1999年5月同社関係会社室主管、1999年6月同社常務(執行役員)、2003年4月日産プリンス神奈川販売株式会社常務取締役、2003年10月東京日産モーター株式会社代表取締役社長、1993年〜1999年まで日産自動車硬式野球部部長、1996年〜1997年まで神奈川社会人野球協会理事長

──横浜ベイスターズの社長に就任されましたが、前職の日産自動車では野球部の部長でいらっしゃいましたね。

1993年から足かけ7年間、やっておりました。ご承知のように下降線をたどっていた時期ですから、いろんな社会人チームが休部、廃部していく。野球部も2回休部の危機があって、1回目は、社会人野球のメインイベントである都市対抗野球で全国制覇をしまして、もうちょっとやるか、となって。もう一つはルノーと資本提携してゴーン氏が来て、ゴーン氏はコストカッターと言われてましたからね。彼自身の目で東京ドームでの都市対抗の試合を見てもらいたい、その上で廃部するというなら仕方ない。でも、ゴーン氏は1回戦の日は来れないと言うんで、トーナメントですから、負ければ試合を見せる機会はなくなるわけ。

生涯忘れることのできない(試合で)、9回ツーアウトまで8対7で負けて「ああ、これで終わりかあ……」と思ったとき、フォアボールでランナーが出て、次のバッターが2塁打を打つ。チームで一番脚が速い(選手を)代走出して、アウトかなあって時に、キャッチャーのミットからボールがポロリと、落ちた瞬間、本当に鳥肌が立ったですねえ。

2回戦、ゴーン氏は東京ドームに足を踏み入れる。社員たちが心を一つにして「ゴーゴー日産!」とこぶしを振り上げている様はものすごい感動を与えた。ゴーンさんは試合後にみんなの前で挨拶をするわけです。

ルノーもプロスポーツを後援しているかもしれない。だけど自分の会社のチームというのはない。それに対して、従業員、家族が心を一つにして応援している。日産リバイバルプランを成功させようというメッセージを出したとき、最後に「東京ドームの時のように立ち上がってゴーゴー日産と叫ぼうではないか」と書いてある。

──野球部部長をされたいきさつは?

なんで私かというと、野球部長でもないのに試合を見に行ったりしてた。(野球は)高校までやってました。人事としては、野球の好きな部長クラスの人にやってもらおうという感じだったと思います。日産には当時、重点サークルというのが4つあって、サッカー、陸上部、卓球部、野球部。その部長は、会社の中でも選手たちがピシッ「部長!」みたいな(笑)。そのすがすがしさ。地方行ってホテルでもロビーにいた選手たちが、私が行くとパッと立ち上がって。どこのやくざが来たんだ(笑)。役員は(運動部部長を)やらないという不文律みたいのができた。私も野球部長を辞めたのは役員になったので。

思い出はいろいろ多いし、鳥肌が立つ試合というのをベイスターズでも味わってみたいですねえ。日産の野球部は今年の公式戦は今のところ17勝2敗(6月8日現在)。だから「野球って勝つんじゃないかなあ」と思って見てた(笑)。プロ野球はトーナメントとは違うなあと。試合が終わると抗議の電話が来るわけです。昨日のあれはおかしいとか、社長出せとか。

──球団の新社長になられて意気込みは?

私自身、横浜市民でもありますので、さらに地域に密着して愛されるベイスターズをなんとか作っていきたい。それをどう具現化していくかが、私に求められていると思います。

球場内で、いろんなエンターテインメント、来てよかったと思う非日常的な空間の演出は、今までも努力してきたと思います。普通の球場では、ビジターのチームが勝ったら、オーロラビジョンで写しませんし、ヒーローインタビューも球場内では音声は流れません。だけど、ジャイアンツを応援に来られたお客様もおられるわけで、私どもはやってます。勝ったという喜びの声を平等に流して、横浜の地で野球を見ていただこうという考え方です。

──先代の峰岸社長の「野球はエンターテインメント」というのを継続されるそうでうれしく思ってます。

ただ、それにプラスして、原点である野球を本当に楽しんでいただくためには何をしたらいいか。WBCも、選手のひたむきな姿に勝敗も影響して、あれだけ盛り上がるわけですから。野球というゲームを通じてお客様に感動を与える。その基本は決して忘れてはいけないと思ってます。

──黒字にしないといけない使命がおありで、大変ですね。

これは一朝一夕には行きませんよ(笑)。会社自体が、選手もフロントも活性化していませんと。元気のない者がお客様に元気を与えられる、ということはあり得ない。我々自身が変わっていかなければいけない。チームの力を上げるためには良い選手を取らなければいけないとか、活躍する選手に対して補償を高めていかなければいけないとかがあるのですけど、球団は更に赤字になっていくことも考えられる。でも、両立させていかなければ。じゃあ、今年度から黒字になるんですかと言われると(笑)。12球団で黒字なのは少数しかないと聞いております。赤字を減らしていったら、会社もチームも元気になっていくし、お客様にもそれを感じていただけるのではないかと思います。

3連戦のホームゲームの最後の試合に勝った場合には、お礼を言って帽子をスタンドに投げ入れるというのを今年はやってます。やってますけど、あまり勝ってない(笑)。夜11時過ぎてまで応援していただいたお客様に対して、ありがとうございましたと、ちゃんとお礼を言う。楽しいいろんな仕掛けをすることも大事だけど、原点を、「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」これを忘れてはいけない。私、球場へ入るときは歩いて外野席から入って行くんです。各ゲートの所で大きな「いらっしゃいませ」の言葉が聞かれたいですね。そういう原点、現場を大事にしたいところです。

社長用のブースがあるけれど、私は試合をベンチ裏で見ているんです。試合に賭ける気持ちは、フロントも何も(区別は)ないよ、と(応援する気持ちで)。逆に、社長にそんな所にいられて迷惑だ、気が散ると(笑)。10番の佐伯に声を掛けられまして、「社長、ベンチから見ると野球は違いますか」「今まで野球はベンチの中から見てたからさ」「あ、そうでしたねえ」「ところで、オレ、ここにいるの邪魔?」「いえ、いえ」って(笑)。

──日産自動車ではどういう部門におられたのですか。

管理部門が多かったです。19年間は人事。それから10年間は広報。ゴーン氏が来た1999年から関係会社を担当する役員。片方で会社を売りながら、片方で収益をいかに確保するか。非常に難しい使命でしたけど、4年間やりました。それから日産自動車を退職して販売やりたいということで販売会社に行ったわけです。就職するときも車が好きだったんです。(他業種の)試験も受けましたけど、やっぱり車がやりたいなあって。「学生時代は野球部」と書かれましたけど、大学時代は自動車部にいました。

──横浜にはいつごろから?

日産に入って、結婚した翌年の昭和49年から港北区大倉山に、59年から青葉区に住んでます。中区の皆さんからすれば「横浜」とは言わない(笑)。

──周辺から中心部に来るのに「横浜に来る」って言いますものね。

ええ、だから〈横浜都民〉だったかもしれないですね。田園都市線で、球場も神宮球場の方が近い。ベイスターズが1998年に優勝したときは、我々横浜都民も横浜なんだと。あの年は正月から箱根駅伝で神奈川大学が優勝し、ラグビーで関東学院、都市対抗では日産、もう横浜づくし。あのときは燃えた。〈ハマの大魔神〉の神社みたいのあったでしょ、私も行きました。ああいう形の盛り上がりっていうのがね。

市長が言ってましたけど「(横浜では)1期やりましたから2期も続けるということは通用しない」。常に新しいことを心がけて努力をしていかなければ、今までこれだからいいだろうというのは通用しない所ですから。鍛えられます。

──当分お忙しそうで、ご趣味をされる時間はないですか。

ないですねえ。趣味は月並みにゴルフですけど、クラブ全然握ってないです。(前社長の)峰岸さんは料理なさるとか。私も作るんですよ。料理の話が出なかったんで(笑)、今はやってませんけど。(日産の)最後の4年間関係会社を担当して横浜Fマリノスがありましたので、地方での試合は、すぐ、アウェイと言っちゃって。野球ではビジターと言うんですよね。そのアウェイの試合で、相手チームの社長さんに御挨拶することと、選手がどういう環境で戦っているのか見ようと思ってます。札幌から福岡まで交流戦がありますので一巡するまでは、読書の時間もなくなりました。だけど、やるしかないですねえ。来年の今頃、佐々木社長任期途中で解任とか書かれても……(笑)。

──今の夢は?

とにかくベイスターズを優勝させることです。がんばりたいですね。

(株)横浜ベイスターズ球団事務所社長室にて(4月17日取材)
インタビュアー/廣岡