ワイ・エス・ケー(旧 由良染料) 由良浅次郎

 

 

2013/6/17 日本経済新聞

200年企業 成長と持続の条件
 名伯楽、化学工業の礎 ワイ・エス・ケー、原料国産化

 1914年、第1次世界大戦勃発でドイツからの合成染料輸入が途絶えた日本の染色業界は恐慌を来した。和歌山市で染色会社を経営していた由良浅次郎氏は、周囲の反対を押し切って染料のもとになるアニリンの合成実験に着手。わずか1カ月余で成功した。
 実験材料のベンゼンは大阪・道修町の薬問屋街で手当てできたが、次は月産2トン規模の製造装置が目標。石炭を乾留してガス成分を抽出した副産物として粗製ベンゼンが東京ガスにあると聞くや、乗り込んで260トンを購入した。
 東ガスの技師は「純度が低くて化学原料に使えない」と言ったが、「精製する」とだけ告げて引き取った。「ドイツ以外では製作できないと言われた精留塔を自分で設計して和歌山の鋳物業者や製缶業者に発注し、57日目で純粋なベンゼンを得た」と産業用爆薬製造を手がけるワイ・エス・ケーの由良秀明社長は話す。浅次郎氏のひ孫にあたる。
 同年、浅次郎氏は由良精工(現本州化学工業)を設立した。アニリンやフェノールの工業生産も実現した。ベンゼン精留塔は本州化学和歌山工場に現存する。


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 1917年には染料製造子会社の由良染料(ワイ・エス・ケーの前身)を設立、24年に岡山県玉野市で「下瀬火薬」の製造を開始した。火薬の成分はピクリン酸。染料の基礎原料、フェノールからつくり出せた。下瀬火薬は爆発力が強く、日露戦争ではロシアの黒色火薬を圧倒して戦争を勝利に導いた。その後の増産で一翼を担い、第2次大戦終結まで供給を続けた。
 由良家は1735年創業の紀州藩御用商人「日高屋」が起源で、歴代が藍染めを営んだ。紀州徳川家は綿花栽培を奨励した。木綿を起毛した「紀州フランネル」という生地が1871年に開発されると、浅次郎氏の父、由良儀兵衛氏はネル事業に参入する。
 跡を継いだ浅次郎氏は自家発電やボイラーを持つ近代工場を建設し、海軍の軍服用に採用された。この縁が後の下瀬火薬精算の伏線となった。染色も手がけた。
 戦争中に火薬を精算したことから賠償工場に指定され操業停止を余儀なくされたが、サンフランシスコ平和条約締結を受けて1952年に建設工事や鉱山で使う産業用爆薬の製造を開始。続いて有機化学製品の生産も始めた。現在はプラスチックレンズや毛染め剤の原料などもつくる。
 いま、由良社長は「次の仕込みを進めている」と明かす、候補の一つが携帯電話や薄型テレビの表示を担う有機ELだ。
 「(1950年の)ジェーン台風の影響や業績不振で由良精工は曽祖父の手元を離れ、本州化学になった」と由良社長は語る。和歌山に有機化学の会社が多いのは浅次郎氏の存在と無縁ではない。スガイ化学工業を起こした菅井赳夫氏、日本触媒の創業者の八谷泰造氏は由良精工から巣立った。
 八谷氏は1964年に亡くなった浅次郎氏の追悼文で、「入社した9月1日かろ1日も休まず毎日、朝6時から夕方6時まで働き、11月3日に初めて休暇をもらった」と書き、「おかげで二十数年来の社長8時出勤が苦痛でない」と結んだ。
 菅井氏は浅次郎氏が1961年に藍綬褒章を受章した際に、「世間ではイバラの垣に登るか由良で辛抱するか、と言われるほど鍛えられたが、その下で進取の気性を培った」とあいさつした。浅次郎氏は名伯楽だった。



 ワイ・エス・ケー本社には山本五十六海軍大将が揮毫した「義勇奉公」の扁額がかかっている。「為由良君」と書き添えた為書だ。「最近は荒れたままになっているが、和歌山にある由良山荘という建物では真珠湾攻撃の密議がなされたという話を聞いたことがある」と由良秀明社長は明かす。海軍との縁の深さがうかがえる。

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江戸中期(1735年頃)

日高屋嘉兵衛は、徳川紀州55万石の城下町和歌山で、表紺屋「日高屋」を創業。
出入り御用商人となり、名字帯刀御免の町役を拝命し町奉行に貢献する。

明治6年(1873) 由良儀兵衛、「日高屋」の息子として生まれる。

明治28年(1895)

由良儀兵衛は、由良兄弟色染合名会社を設立。和歌山の地において初めて自家発電、ボイラー設備等の近代設備を持って、紀州フランネルの近代製造に成功。大阪、熊本両鎮台をはじめ海軍省の御用を拝した。

大正3年(1914)

由良儀兵衛翁の三男、当社創立者由良浅次郎前会長が由良精工合資会社(現本州化学)を設立。

大正6年(1917)

2月18日、由良染料株式会社を設立。由良精工合資会社の事業を継承。
11月12日化学工業博覧会コールタール染料の部で金賞牌、また中間物の部で銀賞牌を受賞。

大正13年(1924)

5月に旧日本海軍の命令により、岡山県玉野市深井町に和歌山工場を移設。
当時、日本海軍の主力爆薬としてのピクリン酸(下瀬火薬)の製造を終戦まで供給。
と同時に艦上戦闘機として世界一の性能を誇る九六式艦上戦闘機報国297号を始めに海軍へ21機を献納。

和歌山市小雑賀に於いて第一次欧州戦争のため輸入の絶えたドイツ染料に代わって、日本で初めてフェノール、アニリン、ベンゼン等合成染料の基礎原料及び、合成染料の製造を開始。その後、その中間物を市場に送り、本邦染料業界、医療品業界及び、その他、有機化学工業に尽力する。

昭和27年(1952)

4月、終戦と共に戦後直接賠償工場に指定される。その解除をまって産業用爆薬の解撤製造を始める事業を再開。

昭和28年(1953)

2月より一般土木向けYURAアンモン爆薬の製造を開始。

昭和37年(1962)

11月、農業用・工業用・火薬用としてピクリン酸の製造を再開。

昭和38年(1963)

他社に先駆けて硝安油剤爆薬(ANFO爆薬)の製造を開始。当初はピース物のみを目指すがユーザーの要望により重袋物も製造を始める。

昭和39年(1964)

3月14日、由良浅次郎没する。

昭和43年(1968)

昭和40年代にはいり有機合成技術をベースに有機中間体の開発に力を入れる。
本州化学の委託によりスチレン化フェノールの生産を始める。

昭和45年(1970)

染料から新機能性材料としての幅広い用途をもったピクリン酸誘導体の製造を始める。

昭和60年(1985)

昭和60年以降当社の要素技術をもとにニトロ化、還元、エステル化、チオール化、塩素化等他各種のユニットプロセスを網羅。
各種多目的製造プラントを主体として各種有機中間体を製造。

平成元年(1989)

社章及び社名を「由良染料株式会社」から「ワイ・エス・ケー株式会社」へ。

平成2年(1990)

自社使用TNTおよび染料中間体を開始
火薬類運搬のため有限会社エッチ・デイ・エス設立

平成3年(1991)

含イオウ化合物の製造を開始

平成4年(1992)

変成ポリサルファイド系樹脂製造開始

平成14年(2002)

中国遼寧省において鞍山由良智邦化学有限公司を設立
老化防止剤の製造を開始

平成19年(2007)

ピクリン酸の製造を海外協力企業へ移管完了

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本州化学(旧 由良精工)

1914/11

和歌山市において由良精工合資会社設立
日本最初のベンゼン精留装置を建設、アニリンの製造を開始

1955/10

商号を本州化学工業株式会社に変更