栂野棟彦 「昭和を彩った日本の石油化学工業」 石油化学新聞
石油化学新聞に「昭和を彩った日本の石油化学工業」という連載があった。(1989年4月6日〜1993年3月8日)
同社の主幹の栂野棟彦氏の執筆で、日本の石化事業の歴史を当事者のインタビューを基にまとめたもの。残念なことに同氏の石油化学新聞社退社で連載は324回で中断した。
たまたま全文コピーを入手したので、要約を記載する。栂野氏は現在も「化研フォーカス」で健筆をふるっておられる。是非とも続編の執筆をお願いしたい。 → 2009年1月 引退された。
二転三転の後、1955年石橋湛山通産相による閣議了解
四日市(旧海軍) 昭和石油
将来三菱グループとシェルグループ(昭和石油含む)の石油化学の企業化で
連携
徳山(旧海軍) 出光興産
岩国(旧陸軍)
東側 三井石油化学 (石油化学事業)
西側 日本鉱業 (河山鉱山の磁硫鉄鉱の処理)
(1)新潟県二本木工場
石油化学事業計画(1950) (栂野 18〜)
日本で最初の石油化学計画
原料 灯油 or 軽油 2,000 kl/月
熱分解技術 米国バジャー
能力(月産) 既生産
(ニ本木)エチレン
371t
アルコール脱水
100tプロピレン
203t
+
ブタジェン
25t
+
ベンゼン
130t
+
トルエン
60t
+
キシレン
20t
+
酸化エチレン
200t
80t
EG
50t
40t
PEG
50t
+
ニ塩化エタン
40t
30t
クロルヒドリン
350t
350t
メチルクロライド
35t
+
メチレンクロライド 50t
+ イソプロパノール 150t
+ クロロホルム 15t
+ 四塩化炭素
100t
+ ソープレスソープ
150t
+ ジオクチルフタレート :
30t
+ 熱分解と芳香族分留以外は自社技術(上記実績あり)
事業総資金 11億4千万円
うち 政府の「見返り資金」 3億円決定
日本興業銀行が経営姿勢が悪いとして融資に応じず、頓挫
(2)第二次計画 1953/3 (栂野 83)
原料:都市ガス副生エチレン
(東京ガス千住工場、コパース重油熱分解技術)
2.5トン/日を採集、精製しボンベでニ本木工場へ輸送
能力
(月産)EO
80t
EG
40t
エチレンクロルヒドリン
17t
ニ塩化エタン
30t
(競合)旭電化計画
能力
(月産)EO
80t
EG
71t
DEG
10.6t
非イオン界面活性剤
45t
ニ塩化エタン
10
(3)日石化学エチレン生産開始で、タンク貨車(ボンベ84本積載)で二本木に輸送 (栂野
124)
酸化エチレン生産
1964年 丸善コンビナート参加まで継続
MITIの構想
熱可塑性樹脂の将来性
ソーダ/塩素バランスで塩素余剰
電力快復でカーバイドアセチレンのコスト低下
→ビニル工業・ビニロン事業 (カーバイドアセチレンからの酢酸ビニル原料)
倉敷レイヨンによる事業化
*東レのナイロンと合わせ「合成繊維工業育成方針」の柱
塩化ビニル
MITIがカーバイド系有機合成化学メーカーに進出を促すが、どこも乗らず
(サンプルも見ていない状況)
新日本窒素水俣のみ、熱意(戦時中から技術開発)
三洋貿易が米国の塩ビシート裁断屑の輸入 (MITIがGHQに外貨要請)
MITI技官が生産性本部「アメリカ産業調査団」に参加、
帰国後、米国プラスチック工業視察報告
1949〜1950 塩ビ樹脂の国産化(乳化重合、P・Bレポートを基に)
正当派:新日本窒素
合成ゴム応用組:三井化学、三菱化成、日本カーバイド、鐘淵化学
独習コース組:呉羽化学、昭和電工、日本軽金属、石井鉄工、日本曹達、
鉄興社、大日本セルロイド加工機械の輸入
古河電工(ナショナル・ラバー・マシナリー:電線用ビニル押出機)
北海樹脂(R.H.ウインザー:一般用押出機)
三菱化成(カレンダーロール、印刷エンボスロール)
鐘淵化学(バンバリーミキサー)可塑剤の開発
大八化学、協和発酵、大日本セルロイド等 ジ・ブチル・フタレート開発するも電線用は不合格
花王石鹸等がヤシ油からオクチルアルコールを開発するが高コスト
協和発酵 発酵法ブタノール脱水→ブチルアルデヒド→2エチルヘキサノール
鉄興社 カーバイドアセチレンからオクタノール古河グループ、日本ゼオン設立
横浜護謨所長がグッドリッチ技術採用を進言(1948)
日本軽金属 アルミ電解炉改造し、カーバイド炉建設(アルミ操業停止を受け)
1950にはPVC 73.2tの生産するも早晩行き詰まりは必至古河電工・横浜護謨・日本軽金属3社でグッドリッチとの資本提携交渉
・戦前に横浜護謨(当時の横浜電線)がグッドリッチと資本提携
・戦時中も技術料その他積み立て1950/4 塩ビ業界による反対運動
プラスチック協会塩化ビニル部会の全社(古河関係を除く)が参加
・塩ビは国産技術で出来る
・研究意欲減退、企業化熱意冷却
・国内生産者圧迫
・外貨の無駄使い
・政府方針不明確で業界混乱
・電解ソーダ業界にも迷惑を及ぼすその後足並みの乱れ
日本合成化学、昭和電工、日本曹達、東洋化学、北海電化等が塩ビ市場から撤退1950/末 日本ゼオンへのグッドリッチ出資と技術導入契約 承認
1952/5 日本軽金属蒲原工場内の日本ゼオン工場完成 3千トン/年
懸濁重合、攪拌機にノウハウその後 三菱化成もモンサント・ケミカルと合弁で塩ビ企業化
1)ビニロン
1939 京大 桜田一郎が開発
原料ポリビニルアルコール1943 倉敷レイヨン大原総一郎 試験工場完成 桜田がビニロンと命名
1949/4 商工省 「合成繊維工業の急速確立に関する件」省議決定
ポリビニールアルコール系繊維:倉レ担当
ポリアミド系繊維:東レ担当倉レ 商業プラント建設計画
フィラメント 5t/d、ステープル 5t/d一万田日銀総裁、協調融資団編成に協力
1950/10 昭電冨山工場の一角でカーバイド・アセチレン→PVA生産設備完成
自社岡山工場で重合・紡糸設備完成
1951 東レ田代会長
デュポンから特許権のみ購入
ノウハウは自社開発(技術裏付けあり)特許料 1,080百万円の巨費(当時の資本金750百万円)
デュポンがナイロン66、東レはナイロン6 と異なることを承知の上で購入
*物質特許の重要性、製品輸出時の特許係争を予想
東レ
1939 ナイロン特許公告(1938/9)の1年後に文献トレースでナイロン66の合成と紡糸に成功
1941 ドイツIGのE-カプロラクタム重合体に関するイタリア特許でナイロン6開発決定
→カプロラクタムの合成・重合技術開発、6ナイロンのマルチフィラメント紡糸に成功
1943 滋賀工場に試験プラント(6&66)
原料面、設備材料面で66試作中止
ナイロン6の商標を「アミラン」
海軍から電気絶縁材料として要請され1944/11工場完成 (終戦までに8トン納入)戦後 研究再開 透明テグスで魚網市場開拓、衣料用にも市場期待
1951 デュポン特許購入し工場建設
名古屋工場 カプロラクタム合成設備
愛知工場 フィラメント重合・紡糸設備
3)もう一つの合繊 (栂野 73)
旭化成
ベンベルグ絹糸とレーヨンに次ぐ合成繊維
ポリアミド繊維か塩化ビニリデン繊維か
塩化ビニリデン原料(塩素、アセチレン)を持つが、ポリアミド原料なし。企画担当常務の宮崎輝が塩化ビニリデンに決定
塩化ビニリデン繊維 1933 ダウがドライクリーニング用塩素系溶剤開発中に副生物に見いだす。
1940 サランと命名ダウに合弁提案(呉羽も提案)
ダウから資本提携に関心なしの返事→研究部長の日本訪問で日本市場に関心
旭化成をパートナーに選択1962/7 旭ダウ設立 資本金4億円(ノウハウ2億円) 出資比率50/50
延岡に塩化ビニリデン チップ製造工場(5t/d)
鈴鹿に紡糸工場1953/4 生産開始
「繊維として欠陥だらけ」
在庫増大
ダウ:JV解消も
旭化成:赤字引受ける。
累損(3年半で1億円)、在庫叩き売り損 8億円1960 食品包装用ラップの技術を導入
その後の旭ダウ
1957 川崎でPS(輸入SM)
2年半後 スチレンモノマー
5年後 高圧法ポリエチレン
1954/9 政府が石油化学育成要綱 審議会設置
1954/11 石油化学技術懇談会
エチレン製造
@石油精製の排ガス---数量的に問題、立地的にも難しい
A都市ガス用オイルガスから分離---量が限られ、経済的に成り立たないB軽質油の分解---輸送問題解決なら、適当な立地で適量の生産が可能
→ナフサ分解の理論的裏づけに
分解の際に発生する副生ガスから種々の化学製品誘導が必要
→総合化への方向付け
1)三池合成
岩国旧陸軍燃料厰財産売払申請書 1953/11
(栂野 84〜)
能力
(月産)PE
650t
SM
500t
キュメン法フェノール
620t
同 アセトン
370t
EO
200t
芳香族製品
1,857t
窒素製品
5,800t
所要資金 51億円
競合 興亜石油
改質油から 芳香族
排ガスから 尿素
軽油熱分解 EO、アセトン、メタノールなど
2)1954/6 両社トップ会談
興亜石油:石化断念。石油精製事業の近代化、合理化
三池合成:興亜の排ガスを独占的に購入
3)MITI 三井グループ結集論(三池合成の資金力が問題)
三井化学
石田健社長(三井鉱山副社長)が難色
4)三池合成 修正案
第一期 分解原料油と熱分解ガスの気相分解→プロピレン、ベンゼン
キュメン 907t フェノール 620t アセトン 370t エチレン 244t 溶剤(トルエン、キシレン) 2,057t 所要資金 12億円
第二期
スチレンモノマー 790t
所要資金 6億円
第三期
EO(直接酸化法) 265t EG 200t テレフタル酸ジメチルエステル 520t 所要資金 9億円
第四期
アンモニア 2,880t 尿素 3,250t 硫安 3,270t 所要資金 14億円
総所要資金 75億円(含 岩国払下げ代金)
5)三井化学石田社長訪欧 1954/11
石炭化学技術を求めて(三井鉱山のため)
Dr. Ziegler訪問、低圧ポリエチレンの存在を知り、特許独占実施権購入 1955/1
特許料
120万ドル(欧米各社は非独占で60万ドル)
ロイヤリティ
4%から2%まで逓減方式
「ポリオレフィン」への字句修正をZiegler拒否
6)岩国旧陸軍燃料厰 払下げ申請 1955/3
三井鉱山、三井化学、三井金属、東洋高圧、興亜石油、三井銀行が副申請
三井石油化学設立 1955/7/1
三井化学石田社長が社長兼務
事業計画
エチレン(S&W)20,000t
ポリエチレン 12,000t、EO、EG、キュメン法フェノール・アセトン、
ジメチル・テレフタレート(DMT)
1958年 岩国工場スタート
当初ハイゼックス販売不振→フラフープで在庫一掃
7)デュポンとの提携
住友化学 (栂野 101〜) 詳細
1)第一期
1951 高圧ポリエチレンの技術開発(元京大教授 児玉信次郎)
1954 ICI技術調査団来日
本格的な試験設備建設は住友化学のみ1955/7 ICIと技術導入契約締結
石油化学計画 1958年スタート
ナフサ:出光興産徳山製油所
*MITI原則の石油精製・石油化学同一地域の変形
ナフサ分解 (S&W:三井と共同で交渉)
→エチレン12,000t →LDPE 11,000t (のみ)
→オフガス→アンモニア改質ガス
*アンモニア原料のガス源転換(硫安合理化計画)
コークスを原料とする水性ガス・半水性ガスからの転換
1958/8 SBA法エチレン・アセチレン併産技術導入の申請
ナフサ
→エチレン→LDPE(増設用)
→アセチレン→アクリロニトリル*、塩ビ (カーバイドアセチレンからの転換)
→副生ドライガス→アンモニア原料1960/2認可 (工業化の実績がないこと、エチレン増設に対する業界内の軋轢で時間)
1961/8 完成
1966/1 プラント閉鎖* 住友化学のアクリロニトリル
当初 ACC法 アセチレン+青酸→アクリロニトリル
1964年 ソハイオ法プラント建設 プロピレン+アンモニア→アクリロニトリル
1)当初計画
三菱シェル石油化学 (三菱化成50%/シェル石油
50%)
立地 四日市
原料 イソプロピルアルコール(シェルから輸入)
製品 アセトン、メチルイソブチルケトン、メチルイソブチルカービノールなど
(いずれも
2、3千トン前後)
MITI 吉田・石油化学班長 「三菱の名に恥じない計画を」
2)三菱油化
1955 三菱油化創立準備
社長に池田亀三郎
1956/1 シェルとの提携
昭和四日市石油(シェル/昭和石油)に三菱油化が25%出資
三菱油化にシェルが15%、昭和石油が
10%出資
1956/4 三菱油化発足
三菱化成策定の当初計画
エチレン 第一期 5,600t (第二期に倍増)
SM 10,500t
EO 2,300t
BASFの高圧法PE技術導入 10,000t
ICI特許ベースだが、日本のICI特許は再審査請求なく有効期限切れでライセンス可能
(ICIと住化の関係でBASFが日本に技術輸出しないとの認識があった)
1)日本石油の提携先 カルテックス、日石の石化進出は賛成するが、出資はせず。
2)石化起業化計画 1954/10METIと相談
当初案(年) 最終計画 アセトン 5000トン 3500トン IPA 2000トン 2000トン MIBK 1500トン − ジ・アセトン・アルコール 300トン − 液化プロパン 4000トン − 総投資額 12億円 8.9億円
1955/8 日本石油化学設立
1957/1 アセトン、IPA 完成
3)外販メーカーに
MITI 行政指導 昭電向けエチレン、アンモニア合成用ガスの供給
1956/11 昭電より日石に協力要請
1957/5 技術導入認可
旭ダウ、日触、古河化学、昭電の需要折込み
エチレン 25,000トン(精製は35,000トン)
ブタジェン 6,000トン
1959/5 完成
◎オレフィン外販メーカーとして (栂野
124)
・日本曹達酸化エチレン用にタンク貨車(ボンベ84本積載)で二本木に輸送
・丸善石油化学向けに丸善専用タンカーで23,000トン輸送(1965/7〜1966/3 269航海)
◎コンピュータ・コントロール・システムの導入 1964年
4)総合石油化学へ
レクソール/エルパソ技術の高圧法PE技術導入(1963/6 認可申請)
単独 30,000t
古河化学に参加(下記)
その後、古河グループ、古河化学の全株を手放したいとの要請
→減資、増資
→1971/3 日石化学が過半数
社名を「日石樹脂化学」と改称
LPPE、HDPE両方を所有
その後、HDPEはチーグラー系触媒に
古河グループ (栂野
120)
三水会(古河鉱業、古河電工、横浜護謨、日本軽金属、富士電気、富士通信機、
旭電化、日本ゼオン、第一銀行、朝日生命)
1)1955/10 日石に原料ブタジェンの供給申し入れ
日本ゼオン スチレンブタジェン系ゴム 15,000トン ブタジェンイソプレン系ゴム 1,000トン ハイカー(耐油用ゴム) 600トン 古河電工 ポリエチレン 旭電化 エチレンオキサイド エチレンは東京瓦斯のオイル・ガス化に期待
ブタジェンを日本石油精製・横浜製油所のFCCに期待
2)HDPE技術導入 フィリップスとの交渉 (栂野 130〜)
1955/10 予備交渉
条件:非独占・15年以上
一時金 契約成立時に25万ドル
ロイヤリティ 5年間7%、10年間
6%
契約と同時に建設開始
1956/1 正式交渉で条件交渉
フィリップス案 非独占18年間 一括165万ドル(調印時25万ドル)
古河要請 独占契約と技術料値下げ
フィリップス案 独占 一括330万ドル(調印時50万ドル)
日本の他社(昭電)が交渉要請しているので急げと
古河 非独占契約で決心、4/9 ドラフト受領、日本に持ち帰り
4/17 サインした旨 連絡
4/18 フィリップスより他社と契約したとの連絡
3) Standard Oil Company of Indianaの中圧PE技術導入 (栂野 148〜)
工業化実績なし
1956/7 仮契約
特許料+指導料 283万ドル
4)1956/10 古河化学設立
古河電工 36%、横浜護謨 16%、旭電化
10%、
古河鉱業、富士電機、富士通信機、日本ゼオン
各7% その他
計画:
旭電化 酸化エチレン、エチレングリコール、非イオン系界面活性剤
古河電工/横浜護謨 中圧法PE 9,000t、SM
ゼオン/横浜護謨
ブタジェン・スチレン系合成ゴム
日軽金/ゼオン ジ・ニトリル系合成繊維
東京瓦斯のオイル・ガス化ギブアップ
5)PEの品質問題 (栂野 151)
商品名 「スタフレン」
触媒から発生する物性上の欠陥
Standardの責任追及
その結果、古河化学の資本金(12億円)を倍増
その70%をStandard子会社 Amoco
Chemicalsが引き受け、残りは古河電工
6)累積債務増大
対策として三菱化成への再建依頼構想
日石化学、古河化学への参加決意
(三菱の再建では水島に移される懸念)
1966/1 古河化学と日本石油化学の提携に関する合意書
古河化学資本金 36億円→50億円(14億円を日石化学が引受け)
日石化学 28%、古河電工 26.8%、Standard
Oil 25.2%
7)日石化学に
古河化学、全株を手放したいとの要請
→減資、増資
→1971/3 日石化学が過半数
社名を「日石樹脂化学」と改称
その後、HDPEはチーグラー系触媒に。
PS計画 1957/4 生産開始
1958/7 原料SMの建設開始
1)構想
原油(東亜石油川崎製油所)
→アンモニア合成ガス
→エチレン 7,500トン →中圧法PE(フィリップス)
MITI難色
・小規模センター乱立は好ましくない
・化学肥料業界の石化進出は好ましくない(肥料で巨額の政府資金投入)
住友化学との違い
・出光興産との提携で原料面に問題なし
(東燃には精油能力少なく外貨割当確保できず)
・原油の熱分解技術なし
2)HDPE技術導入 フィリップスとの交渉 (栂野138〜)
1956/4 非独占で交渉
(フィリップスは当時、古河グループと交渉中)
調印直前にフィリップスから突如独占案
特許料・ノウハウ 330万ドル イニシャル50万ドル
4/18 昭電受諾、調印 10,000t
3)昭和油化設立 1957/6 (栂野 150)
1957/6 川崎工場稼動 商品名「ショウレックス」
稼動後、高圧法PEのようなフィルムが出来ないことが分かり、フィリップスに抗議
「サンプルをみて契約した。フィルムも出来ないことはないと言ったが、高圧法と
同じものができるとは一言も言っていない」との返事。
販売不振
松本・取締役営業部長が自殺
対策
・原料エチレン値下げ交渉 (日本触媒が共同歩調)
・ロイヤリティ引き下げ交渉 (フィリップ拒否、金利負担軽減に成功)
・新市場開発
「ショーレックスはハイゼックスに非ず」(TV等で)
ビールコンテナ、パイプ、チューブ、食品・洗剤容器、テクスヤーン、フィルム等
4)多角化(1960〜)
PO、PG
ANM
塩素化ポリエチレン
クロロプレンゴム(デュポンと折半出資)
5)昭和油化、鋼管化学(日本鋼管の化学事業部門)と対等合併 1962
日本オレフィン化学と改称
鋼管化学のスチレン事業を加える。
6)その後
徳山進出 アセトアルデヒド等 (出光興産の石油化学事業進出に対応)
大分・鶴崎地区石油化学事業の展開へ(1965)
酸化エチレン 自社技術開発
METI(吉田石油化学班長) エチレンソースとして日石化学を推奨
1959/6 6千トンプラント竣工
1) 3つの合成ゴム事業計画(1955)
@山陽化学
戦前 帝国燃料興行(石炭から石油を造る目的) 宇部に工場
戦後 第二工場として山陽化学設立
当初 アンモニア合成用ガス生産(宇部興産硫安肥料用)
宇部興産自製で操業中止
1954 協和発酵が買収、化学肥料生産 (後
1958 協和発酵が吸収)
合成ゴム事業計画
原料 炭化水素油(灯軽油、A重油) 79,800t
ケロッグ分解装置
→ エチレン 13,500t
プロピレン 8,500t
ブタジエン 11,250t
ベンゼン 4,700t 、トルエン・キシレンなど
3,000t
→ スチレンモノマー 3,750t
→ SBR 15,000t
A三菱化成
FCC排ガス(昭和石油) 75,000t
→ブタン・ブチレン→ブタジエン
ドライガス
→エチレン
+タール系ベンゼン →SM
ブタジエン+SM→合成ゴム 15,000t
B日本ゼオン(当初
古河化学の計画)
オイルガス(東京瓦斯千住工場)
→エチレン
+ベンゼン(日本石油精製横浜工場)
→SM
+ブタジエン(日本石油化学)→汎用合成ゴム
15,000t
イソブチレン(日石化学)→ブチルゴム 1,500t
イソプレン(日石化学)→ポリイソプレン 5,000t
天然ガス(日本軽金属新潟工場)
→メタン、青酸
→アクリロニトリル→ニトリル系耐油ゴム 600t
2)特殊会社構想(MITI) 1956
米国:政府直営工場としてスタート
カナダ、イタリア:国営企業
英国:ゴム業界と化学業界の共同出資企業
ドイツ:旧IG 4社の共同事業
1工場当たり 年間5万トン前後の能力
三菱油化/協和発酵/ブリヂストンの合意→国策会社へ
古河グループはあくまで自製を主張
(ナショナルプロジェクトに支障)
1956/11 日本ゴム工業会理事会
・一部政府出資に基づく合成ゴムの特殊会社設立案に賛成
・他社の合成ゴム製造計画を妨げるものでない。
3)熊谷試案
・国策会社で汎用ゴム
・日本ゼオンでは当面、特殊ゴムでスタート
合成ゴム事業法成立後、汎用ゴム製造技術援助契約を認可
4)合成ゴム製造臨時措置法 1957
能力 45千トン
所要資金 139億円
ブタジェン設備36億円、合成ゴム設備
44億円、付帯設備29億円
その他経費 30億円、技術料
17億円、建設中経費4.5億円、金利8.5億円
資本金 25億円(政府10億円、民間15億円)
借入金 114億円(開銀/民間 57億円ずつ)
*政府出資 予算計上後のため、開銀出資に(1年後政府出資に切り替え)
1957/6/1 施行
1958/4/1 「日本合成ゴム株式会社に関する臨時措置に関する法律」と改称(付託条件による)
5)日本合成ゴム 発足
(栂野181)
1957/12 創立総会
初代社長 石橋正太郎(ブリヂストンタイヤ社長)
1958/10 四日市工場起工式 45千トン/年
1960/1 竣工
量産化で在庫急増
石橋社長 ブリヂストンの工場で合成ゴムを徹底的に使用
→ 自動車タイヤ市場でのシェア急拡大
その後 市況好転
3年後 ポリブタジェンゴム
7年後 ポリイロプレンゴム
総合合成ゴム企業へ
6)1968/7 政府が持株を全量放出、完全民間事業として再出発
1)上記経緯
2)日本ゼオン計画承認 1957/7 (栂野
165)
特殊SBR 3,000t
同ラテックス 2,800t
ニトリルゴム 1,500t
ハイスチレンゴム 1,100t
SMの量的確保が困難なため当初案を修正
日本石油化学エチレン 25,000t→ブタジェン
5,000t
3)建設 (栂野183)
採算不安。グッドリッチからはSBR生産中止、他製品生産計画見直し要求
特殊SBR 3,000t→1,800t
同ラテックス 2,800t→2,400t
ニトリルゴム 1,500t
ハイスチレンゴム 1,100t→3,000t
「日石化学関連会社連絡協議会」でコンビナートのスタート時期を調整
日石化学 1959/4
旭ダウ(SM) 1959/10
昭和油化(PE)、古河化学(PE)、ゼオン(合成ゴム)等 1959/5
1958/7 地鎮祭 突貫工事
◎エチレンセンター間の価格体系
プロピレンはエチレンの8掛け
ブタジェンはエチレンの倍
エチレン@90→ブタジェン@180
C4留分に含まれる高級アセチレンを効率よく除去する溶剤がなかったため収率悪い。 多品種少量生産(1工場8,400tを7つの重合缶で生産) vs グッドリッチ4工場で100千トン
4)増設
日石化学 エチレン 1961年 25千トン→40千トン
ブタジェン 6千トン→8千トン
ゼオン 700t/m→840t/m→1,000t/m
5)BR計画
1956 フィリップス石油がポリブタジェンゴム(BR)開発(チーグラー・ナッタ触媒)
ゼオン
グッドリッチとBR技術導入仮契約
木更津の土地を千葉県企業部から購入する交渉
1961/10 MITIに相談に行くと、再度「待った」
BRは汎用ゴムで「特別措置法」とのカラミ
BR企業化計画
日本合成ゴム、日本ゼオン、宇部興産、旭化成、日本瓦斯化学
1962/4 MITI 「最近の合成ゴム企業化計画について」
需要は18千トン程度、企業化最小規模は20千トン→1社のみ
1962/3 出光興産徳山工場のUOP技術エチレン73千トン(100千トン含み)認可
誘導品:徳山曹達、東洋曹達、日本瓦斯化学
出光、ゼオン誘致(ブタジェン供給で採算向上)
1964/9 出光石油化学設立
日本ゼオン
塩ビ事業で原料の塩素、アセチレン両方を外部依存
アセチレン自給構想
1960/4 GPA研究グループ(Geon Process of Acetylene)
1961/6 高岡にパイロットプラント
ナフサ熱分解でエチレン/アセチレン
エチレン+塩素→EDC+塩酸
EDC+エチレン→VCM
塩酸+アセチレン→VCM
◎アセチレンの中に高級アセチレンがあり、VCM合成にとり問題。
(ブタジェンのコストが高いのと同じ)
→ 1962/末 高級アセチレン除去の溶剤 DMFを発見→1963/3 GPB(Geon Process of Butadien)開発スタート
成功すればブタジェンのコストを大幅削減可能
合成ゴムのいろいろな国際会議で「SBRは伸びは鈍化、BRが市場で優位を占める」との結論
ゼオン:グッドリッチ技術導入承認申請 1966需要予想 37千トン
旭化成:ファイヤストン技術導入申請 同上 60千トン
宇部興産:グッドリッチ・ガルフ技術導入申請 同上 36千トン
JSR:半国産技術(ブリヂストン触媒特許+フィリップス・ノウハウ)企業化申請 同上 19千トンポリブタジェン需要予測委員会(1962/11)
予測 1965 35,421t
1967 60,916t1963/5 MITI 3社を承認
JSR 20千トン
日本ゼオン 15千トン
旭化成 10千トン 全国需要家200社からBR使用約束の文書提出(新規需要分野も)(1966 宇部に認可)
1964/3 徳山用地(旧海軍燃料厰)払下げ(昭和石油から一旦、国に返還)
建設開始 SBR 30千トン
BR 15千トン出光とC4留分購入交渉 (他に 住化新居浜、三菱化成水島、三井石化岩国から)
出光はブタジェン供給でシェルのアセとニトリル法抽出技術導入済み
GPBは晴天の霹靂
交渉の結果、GPBの稼動を見届け、自社生産を中止1965/8 GPBプラント(30千トン)完成
トラブルで難航(10t/mのパイロットプラントのデータで建設)
大改造で 1966/1 スタート
6)グッドリッチとの資本提携解消
グッドリッチ、ゼオンの配当性向の低さに不満
1965/7 技術援助契約改定交渉
グッドリッチ:総括的援助契約への切り替え主張
ゼオン:独自路線を決断
1970/8 関係に終止符
途中、グッドリッチが持株を旭化成に売却しようと。