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中山様 三井化学との件、先日お話したことを横山栄一郎さんに少し書き送りましたので 送付いたします。 私は別に経営者批判をしようというつもりはありませんので、 メールするのは憚れましたが先日お話しした内容ですし、 転送禁止ということをお約束いただき送付します。 見たら廃棄してください。まさに「群盲象を評す」ですから。 こういうことの真相というのは見方とか情報により沢山あるわけですし、 破談の原因は一つではないことはもちろんです。 私だけでもすぐに10以上思いつきます。 事実(と私が思うこと)と伝聞は読めばわかるように書きました。 @この話は三井からの申し入れ A特に、三井の竹林さんは、東圧と一緒になる前にも住友化学に秋波を送ったと トップが言っていた。 B三井の竹林さんは三井グループから東圧を救ってやってくれとか (新聞記者の話によれば)言われて 東圧と先に合併し、次に住友化学と考えて実行した。 C三井の大合併という話もあったがこれは 東レの前田さんに断られたと言われている。 Dしかし、三井石油化学は住友化学に対して ひどい仕打ち(約束破り)を何度もした。 特に大きな約束破りは、シンガポール石化の 時もあったし、三石と一緒に30万トンをやろうと 内諾していたのに、三石は日石化学とくんだとか、 土方さんによれば、大きな裏切りは3度あったとのこと。 鳥居、淡輪、(中野)社長時代の頃。 手帳につけていたが、忘れてしまいました。 もう一度調べてみようと思っています。 E中野社長の次の淡輪社長は石化協の会長だったので 57年10月、例のランブイエ会議はまとめ役にならなければいけないのに 病気(?)だったかたと逃げて、土方さんにその役を負わせた。 (淡輪社長は12月に会長に退く) 土方さんは、まとめるために、住友化学は自らに損な削減案を課した。 (ランブイエ会議の構想は小林昭生さんが考え化学経済の座談会で発言し、 通産省の内藤さんがそれを取り上げたということが真相と聞いている。 その頃からの深い信頼感から、小林さんは内藤さんの 推薦があり、デュポン(日本)の社長になった) F竹林さんは自分の目の黒いうちに なんとか三井を世界の化学業界で トップグループの会社にしたい、 即ち、住友化学と一緒になりたいと思った。 石油化学だけでは5年10年は大丈夫だろうが その後は厳しいとみたのではないか。 また、日本に世界的な化学会社をという大きな考え(構想)を 持っていたと本人は語っていた。 Gところが、住友化学と一緒になるには 過去の裏切りをよく知る竹林さんは 土方さんが反対に回ると思っていた。 H竹林さんはランブイエの時は専務取締役で あったし、淡輪社長の次の社長の中野さんの次であったが 土方さんに同行した。社長しかだめだったが、 病気ということで許されたのだろう。 竹林さんは総務畑の人であり、土方さんのやり方をみて 感銘されたのかもしれない。 その以降、中野社長が急逝され運良く社長になってからも 土方さんへは忠誠を尽くしたようだ。 例えば、土方さんのよくいくバーに竹林さんがしょっちゅう行き、 経営的に助けるとか・・・・。 Iということで竹林さんは、土方さんに話をつける時に ある意味では格下ということもあり、 土方さんと大変仲がいい東圧の笠間さんに間に入って もらい、3人で会った。 Jもう一人仲介者(元新聞記者の方)はいたのだが、 その時に竹林さんは何度か土方さんと4人で会い、 竹林さんはその心情(日本のため、立派な日本の 化学会社を創ろう、大同団結しよう・・・)を語り、 土方さんも賛成した。 Kそれを受けて、三井(幸田会長、中西社長)から 申し入れがあり、A、B専務の4人で会い、 合併を検討しようということになったのが1999年の たしか秋だったと思う。 LA(小林)さんは積極的な賛成派ではなく(私は消極的反対派と思った) B(米倉)さんに任せたと思う。 一方、幸田さんも反対だったと記者は言っていた(し、いろいろな記者情報から 私もそう思っている)。 M4者から2000年の春には事務局が動き出し、 総会明けの7月からはかなりハードに詰めが開始された。 N2000年10月26日だったか日経がスクープした。 2000年11月17日に新聞発表したが、 これは計画的に発表したもの 新聞にばれたから発表したのではない。 広報の責任者でしたから間違いありません。 どこからか漏れるだろうからある時点で発表しようということだった。 ある時点とは、両社の合併のための契約が両社長間で 結ばれていたが、取締役会でそれを承認するということ。 Oその契約には「対等合併」ということ等が契約に盛り込まれた。 この「対等」についての解釈が住友化学と三井化学では意見を異にした。 この時点では、社長をどうするのか、統合比率の考えはおおまかに 決めたが、がっちり決めないでおいた。これが後で問題になる。 日経などにも批判されたが結果的に大事なことを後決めした という面(いろいろと言い訳はあるが)での失敗はあった。 P遅くとも、2001年の半ば(本当は春ごろか)には、 結果的にみて、また、私たちの対面の総務の人たちの 動きから、中西社長は合併したくないと感じた。何故なら 三井は住友化学に乗っ取られてしまうという思いを強く持ったからだろう。 言い換えれば、こいつとは机を並べられないと思ったのだろう。 Q時期は不明だが、三井からやめたいという話が出たことが あったが、それなら契約違反だから訴えるとD(諸石)さんは三井に言った。 きちんとした理由がないと株主訴訟になるということを言ったわけだ。 (社長の補佐が悪かったという意見も強い。しかし、それを選んだ 人も責任がある) R2001年の11月、12月にはもうだめになると私は思った。 三井住友ポリオレフィンがこの10月にできるはずだったのが 公取委の認可が出ず(カルテル問題の意趣返しか? 結局、半年遅れたが)、この先行する会社も作らなくてよい と三井が言い出していたから。 S2001年のなかばぐらいからか、B(米倉)さんは「中西社長は嘘つきだ」などと 外部の人(住商など)との内輪の席で話しをしたり、 三井OBでBさんと仲のよい人(内藤さんなど)にも 愚痴をもらしたりして、それらが三井に筒抜けになっていた。 Bさんの怒りもわからない訳ではないが。 21)この頃いろいろと社内の規則などを決めていたが、 10戦全勝を目指して完膚なきまでに 三井をやっつけた。 それというのも、壊れるはずのない合併だと陣頭指揮に あたっていたD(諸石)さんは思っていたのは間違いない。 ある役員さんなどとこの頃話したが、これでうまくいくのか と心配していた。 22)住友化学のトップは三井化学の真の意思決定者が 2003年まで、竹林さんにあると思っていたのだろうか。 23)少なくとも2002年の春に社長・会長人事、役員同数などで 最悪の事態を乗り越えたが、中西さんの住友化学に対する不信感は 募る一方だったようだ。 24)Bさんはこの頃、三井のひどさ(悪口)を新聞記者にも言っていた。 私には中西さんの悪口だけでなく、三井から学ぶことはなにもないとか、 三井の若手は大したことないとか、三井に評価すべきことはない 石油化学だって大したことないとか言っておられた。 また、一緒になってよくなるのではなく、我々がよくしていくのだ。 一緒になるだけでは、いい会社はできないとよく言っておられた。 確かに、中西さんは住友化学に対して不誠実だったと思う。 逆に、合併を断りたい中西さんとしては、何とか引き延ばせないか、 断る理由(がないと訴えられる)を見つけられないかということで、 三井化学のためには誠実だということだったのだろう。 何とかうまくいくようにということで2003年の新年号には 私の提案で両社長に相手の若手社員社員がインタビューし相手の 社内報に掲載しあうこともやった。 二人とも誠実がモットーということで私は内心笑ってあきれてしまった (主に中西さんに対してだが、当方にも多少問題があったと思った。というのも 一度、私は将来の部下(三井の一般の社員)が聞いて 不愉快になるような発言は慎まないといけませんねと言いました。 2002年秋でした)。 25)ある問題で2002年11月、三井には断る理由ができたと思った。 それからは、三井は一気呵成。総務での合併作業に遅れが出てきた。 みな、三井のせいで。それが12月。 26)さきほども書いたように、Bさんは三井がいやがっている と感じていた。Dさんも。Dさんはしかし、今さら相手から断ってこないと確信し がんがんやっていた(そうDさんが考えていた根拠は契約なのか、 影の黒幕がいるからなのかよくわからない。多分前者が80%ぐらいか) 27)あといろいろとありますが、 この4月にX(土方)さんはある人に 「ある時、B君が三井から不信感をもたれているから 大丈夫かと聞いた。それは笠間・竹林から言ってきたからだ。 B君はそれは誤解でまったく問題ないと言うから、それ以上 つっこまなかった。それが間違いだったかもしれない」 「隙をつくらず相手をやり込めるのではなく、一緒になれば 勝ちだったのになぁー。彼ならうまく丸め込めることができると思ったが」 「二人とも気が強いからなぁー。それで駄目になった」という 趣旨のことを言っておられた。 (続き) 傲慢というご意見で思い出しましたが 三井が声をかけたのは、「相対的な株価が 今よりも三井に有利な株価だったから、即ち時価総額でも対等に近い じきであった」ということも書こうと思って時間がなく書きませんでした。 この辺も両社の思惑違いを助長したという説(某役員など)を 唱える人もいます。私もそういう側面が確かにあったと思います。 合併交渉に入った時は 丁度世界的な石油化学増設ラッシュの時で (サウジなど中近東、シンガポール、インド、台湾など) 三井にとってはタイミングが悪かった。 交渉しはじめたら、両者の時価総額は 竹林さんが声をかけた時には住友化学:三井化学=1:08強 だったのが、住友化学:三井化学=1:0.6とか1:0.5強 までになった。 住友化学の株数は三井の株数の丁度2倍くらいでしたから、 株価でほぼ並んだのです。 住友化学の経営者はそれでも住友化学の株は安いと嘆いていたから 株のことが分かっているのかいなと多少感じた。 (もちろん私も十分に分かっていませんが、一人よがりということではないかと 感じた) Bさんは自分にも住友化学にも絶大な自信をもっていた。 社長になられた時かその前か、600円とか700円ぐらいに株価がなった時が ありましたが、銀座でもっと高くなるから買えばよいと、 女性に勧めていました。私は子どもの入学金のため 売りたいと思っていたときでした。(広報のため、許可がでませんでしたので そのときは売れませんでしたが) 以上
ある問題
アストラゼネカ(アストラゼネカ80%、住友化学20%)
毎日新聞2002年12月5日
肺がん薬「イレッサ錠」の副作用死、81人に 発売後4カ月半で
肺がん治療薬「ゲフィチニブ」(製品名イレッサ錠250)の副作用による死者が、11月25日現在で計81人に上ったことが4日、厚生労働省の調べで分かった。発売から約4カ月半での副作用死者としては異例の数という。肺障害などの副作用は死者を含めて計291人になった。イレッサは7月に世界で初めてスピード承認された。副作用の拡大により、医薬品の早期承認などを目的に政府が今国会中の成立を目指す「医薬品医療機器総合機構法案」の審議にも影響を与えそうだ。
イレッサはがんの増殖、転移に関係する分子を狙い撃つ「分子標的治療薬」で、正常細胞をも傷つける抗がん剤より副作用が軽いとされ、多数の末期がん患者が服用。11月25日までの推定使用者数は約1万7000人に上っているという。
厚労省によると、イレッサの緊急安全性情報を出した10月15日以前の副作用報告は138人(うち死者57人)、同16日以降は95人(同14人)、副作用が出た日付が不明が58人(同10人)。副作用を起こした患者の死亡率は緊急安全性情報の前後で41%から15%へ減少した。同省安全対策課は「緊急安全性情報で危険性は認識された」と評価している。
輸入・販売元のアストラゼネカ社は、欧州の臨床試験での副作用出現率は0.2〜0.4%と説明。しかし、今回の報告数の副作用出現率は1.7%で、同課は今月中にも薬事・食品衛生審議会の安全対策部会を招集し、専門家の意見を聞く。黒川達夫課長は「末期がん患者が使用していることを考えると、単純に死者数が多いとは言えないが、必要であればあらゆる手段を取りたい」と話している。
三井:賠償金1兆円にも、と。