April 2004 GS Number 23

 

THE MAN SPECIAL 伊藤祐樹  「そこに野球があるから」 

   取材・文=横尾弘一
      写真=藤岡雅樹

 間違いなく“いい選手”である。ただ、ショートストップという華のあるポジションでありながら、路地裏にある老舗の蕎麦屋のような玄人好みのする存在だ。
 豊かな体格の選手が金属バットを振り回す中で、コツコツとヒットを打ってきた。
 ダイナミックなプレーてプロヘ巣立っていく選手を見ながら、地味でも堅実なプレーを心がけた。そんな姿にスポットライトが当たる機会は少なかった。
 だが、多くの才能が花開くことなく消えていく世界で、しっかりと地に根を張って生きてきた。
 気がつけば齢は三十を過ぎ、生存競争の激しい社会人野球において誰よりも高い場所に立っていた。
 それでも探し続ける。もつと上手いヤツはいないか、もっと高い場所はないか、と。
 強烈なプライドを穏やかな表情で包み、匠の道を歩き続ける男は、「どうして野球を続けているのか」という問いに、迷わずこう答えた。
「そこに野球があるから」

 もう20年以上も前のこともだが、一度だけ兵庫県の淡路島を訪ねたことがある。高校時代に在籍していた野球部が春休みの遠征を行なった際、「淡路島に凄い投手がいる」と聞いた監督が練習試合を申し込んだのだ。その投手は洲本高の川畑泰博といったが、のちに中日からドラフト2位指名を受け、オリックスヘ移るなど12年間プロ野球で活躍した。そして、この試合のあと、せっかく遠征してきたのだからということで、同じ淡路島にある津名高とも対戦した。その時のメンバー表を引っ張り出してみると、七番サードに『伊藤ヒ』、九番セカンドに『伊藤マ』という選手名が書かれていた。
 「七番のヒが秀樹で次男、九番のマが雅樹で長男。二人の年子のあと、6年経って生まれたのが僕です」
 伊藤祐樹は懐かしそうな表情で、そう教えてくれた。

 好投手がいるという理由だけで、遠く見も知らぬ土地を訪れる。そこで行なわれた練習試合のメンバー表を、なぜかスクラップしてある。その中に書かれた選手名と、自分が知り合った選手の苗字が同じだったことから、「淡路島に伊藤姓は多いの?」と尋ねる。「もしかしたら、僕の兄かもしれませんよ」という答を聞き、しかもそれが現実であったことを知った時、伊藤に対して奇跡に近い縁を感じた。そして、知らず知らずのうちに情が湧き、いつも気になる存在になっていた。

 二人の兄が甲子園を目指している頃、伊藤の野球人生はスタートした。実家がある津名郡一宮町江井の少年野球チーム『江井フレンズ』から一宮中軟式野球部を経て津名高野球部まで、伊藤は二人の兄の背中を追いかけた。江井フレンズの監督は、兄の時にはコーチをしていた父親の優さんだった。大きな目標を抱き、だからと言って決してスパルタになることなく、伊藤の野球はゆっくりのびのびと育まれていった。学生時代に輝かしい球歴を誇る選手がひしめく日産自動車にあって、伊藤がどこか異彩を放って見えるのも、そうした歩みと無関係ではあるまい。少年時代を振り返った時、伊藤の口からは「野球をすることが楽しかった」という言葉しか出てこない。

 中学までは抜群の身体能カを生かしてエースに君臨した。しかし、高校で硬式球を握るようになると、小柄な伊藤家の血統をしっかりと受け継いだ三男も、兄たちと同じように内野手に専念する。
 「二人の兄は右打ちでしたが、やっぱり体格に恵まれていませんからね……日本の野球にありがちのディフェンシブな内野手になっていきますよね。それで、せめて左打ちなら足を生かしたバッティングとか、自分の可能性を広げていくことができると考えていたんでしょう。僕が本格的に野球に取り組むことになったあたりから、しきりに左打ちを勧められましたね。そういう考え方は僕も理解できたので、兄たちのアドバイスを受け入れました」
 こうして、左打ちのショートストップになった伊藤は甲子園を目指したが、残念ながら3年間でその夢を果たすことはできなかった。

 次のステップは大学野球と決めていた。だが、地方の高校球児が憧れる東京や関西の大学ではなく、福井工大を進学先に決めた。

 「福井工大は下の兄が通っていましたから情報もあったし、その兄がレギュラーを張っていたことで『あの伊藤の弟なら』という入りやすい感じもあったと思います。でも、駒澤や立命館のセレクションには参加したんですよ。ただ、練習会であるはずなのに、甲子園で活躍したような選手は、すでに先輩となる部員と気軽に話していましたし、何か「もう結果は決まっているんじゃないの」という雰囲気を感じたんですよ。やはり僕らのような高校には、そういう野球界の細かな情報はなかなか届きませんからね。最終的には、居心地のよさを求めて福井に行ったような部分もありますね」

 神戸学院大に進んだ長兄の雅樹は、大学卒業と同時に野球と決別した。次兄の秀樹は、福井工大から川崎製鉄水島へ入社し、レギュラーを目指してプレーを続けていた。その後を追いかける伊藤は、主将を務めた4年時に全日本大学選手権でベスト4に進出するなど、次兄を上回る実績を積み上げた。当然のように社会人からも声をかけられ、神宮で旋風を起こしていた頃には、あるチームから内定をもらう。ところが、ここに高校の大先輩が登場する。昨年のワールドカップで監督を務めた村上忠則である。この時点で、村上と伊藤に面識はない。伊藤は「確か僕が高校1年の時、村上さんが津名町の町民栄誉賞を受賞されて、津名高で講演をされたんです。その講演を聴き、『津名にも立派な先輩がおるんやなあ』と思って名前を覚えていた。それくらいなんですよ」と振り返る。一方の村上も、伊藤のプレーはまったく見たことがなかった。「伊藤を知ったのは、交流のあった社会人チームの監督さんから『村上さんの高校の後輩で、いいショートがいますよ』という情報をもらってから。それで調べたら、すでに他社から内定をもらっているという。ならば、社会人の空気を味わってみるだけでいいから、日産の練習に参加してみたらどうだ、と声をかけたのがきっかけです」

 都市対抗本大会前の日産の練習に参加した伊藤は、「いい緊張感があって、こんなチームでプレーできたらいいなって素直に感じました」と好印象を持ち、伊藤のプレーを見た村上も、「本人が日産でやってみたいという気持ちを持ってくるのなら、ぜひとも迎えたい選手だった」と関心を深める。そして、村上がアクションを起こした。
 「私の高校の後輩に、砂原均持という川鉄水島で監督も務めた男がいるんです。伊藤のお兄さんが在籍していたのも知っていましたから、砂原に連絡して、『君とお兄さんからも私の気持ちを伝えてほしい』とお願いしたんです」

 村上の気持ちを伝え聞いた伊藤は、「いくら高校の後輩とはいえ、関東の強豪チームの監督が、僕を評価してくれたことが嬉しかった。内定をいただいていた会社には礼を失してしまうことになりますが、それでも自分の意志を押し通したかった」と、日産へ入社する決意を固め、村上も「内定している会社と福井工大に対して、私が精一杯の謝意を示して」横ヤリを入れた。こんな経緯があって、伊藤は日産の一員となる。多くの人間を動かし、一部の人間を傷つけてまで選んだ自分の道である。少年時代が「野球は楽しい」という伊藤の野球観を形成した時期なら、大学卒業時の進路選択は「自分からユニフォームを脱ぐことはあり得ない」という考え方の土台になったと言えるだろう。

 1995年3月9日、川崎球場。第50回の節目を迎えた東京スポニチ大会に出場した日産は、ヤオハンジャパンとの一回戦に臨む。伊藤も九番ショートで社会人デビューを果たし、ヒットを1本放った。二回戦で松下電器にサヨナラ負けを喫するが、伊藤は「自分にカがあるという意味ではなく、社会人でもどうにかなるだろう、やっていけるだろうという実感はありました。自分の努力次第だという感じ」と、まずは順調なスタートを切った。しかし、次第に社会人のレベルの高さ、その中で存在感を示していくことの厳しさもたっぷりと味わわされた。都市対抗予選が始まる頃になると、5歳上の天瀬和男がショートの定位置を任されるようになり、本大会への出場権を確保すると、補強選手がスターティング・ラインアップに並ぶようになる。伊藤の都市対抗は、グラウンドに立つことなく終わった。

 この年は、都市対抗を日本石油(現・新日本石油)が制し、予選で敗れた三菱自動車川崎(現・三菱ふそう川崎)が巻き返して日本選手権で頂点を極めた。日産も、前年まで2年続けて日本選手権で準優勝していたが、今日の王者が明日は地べたを這わされるという神奈川の厳しさは、伊藤の向上心を大いに刺激した。
 「神奈川で勝てば全国で勝てるという雰囲気がありましたからね。ならば、普段からそういう厳しい戦いのできる環境でプレーした方が、自分のためになると感じました。何しろ、各チームに全日本の候補選手がいる。試合前の練習などを見ていると、「はっぱり凄いな」と思うことはありましたよ。でも、そういう選手に憧れたり、反対に『自分はあんな選手にはなれないだろう』と卑屈になることはなかったんですよ。実際に戦う中で、いい選手がミスしたり、不調で苦しむ姿を見てきましたし、思わぬ選手の活躍で番狂わせが起きるシーンにも出くわした。自分は自分にできることを精一杯やって、チームとしていい思いができればと思っていました」

 ひたむきな努力を重ねる伊藤が自信をつかんだのは、入社3年目となった97年である。3月の東京スポニチ大会一回戦で松下にコールド負けするという不安の中でスタートしたシーズンは、夏に向かってチームが一体感を強め、都市対抗ではベスト4に進出。日本選手権にも3年ぶりの出場を果たす中で、伊藤はショートのレギュラーとして攻守に安定感を高めた。そして翌98年、日産は14年ぶりに黒獅子旗を獲得する。伊藤はニ回戦まで7打数無安打と乗り遅れたが、東芝との準々決勝に3安打すると、川崎製鉄千葉との決勝では東京ドーム初本塁打も放つなど、優勝メンバーとして文句なしの成績を残した。日本選手権は一回戦で敗れたものの、東京スポニチ大会で4強入りしていたことも評価され、シーズンが終わると社会人ベストナインの栄誉も手にした。

 伊藤とゆっくり話をするようになったのは、この頃からだ。「ベストナインは一生の思い出になりました」という軽い言葉を口にしながらも、野球の話を始めると止まらない。野球に対する思いの深さは、小一時間も言葉を交わせばわかるタイプだ。「プロは?」と聞けば、「年齢的には厳しいですが、やってみたいですね」と言い、「日本代表は?」と問えば、「チャンスがあったら入ってみたいですね」と答える。試合の前日に「明日は勝ってよ」と声をかければ、「精一杯頑張ります」と唇を結ぶ。そんな伊藤の言葉から感じるのは、謙虚さよりも真っ直ぐな気持ちである。謙虚に見える態度というのは、相手に対する皮肉や哀れみを伴うことがある。だが、真っ直ぐな気持ちというのは、どこまで行っても真っ直ぐだ。試合後の伊藤は、取材に訪れた記者から声をかけられる場面が多い。伊藤祐樹という選手が、それだけ注目されるようになったことはもちろんだが、同時に誰もが話をしたくなる男なのだということに気づかされた。

 その後も選手生命を左右するような大きな故障やケガもな<、日々の戦いでの勝ち負けを繰り返しながら、伊藤は自分の野球人生を思い通りに描いていた。99年に知り合った真樹夫人は、翌2000年の東京スポニチ大会で伊藤のユニフォーム姿を初めて見た。
 「母と二人で球場へ足を運びましたが、そこで主人はホームランを打ったんです。カッコイイというよりも、本当に野球が好きなんだということが伝わってくる人だと思い、それからは時間のある限り球場で応援していましたね。野球のストレスも野球で発散してしまうような人で、誰といても常に自然体。お互いに結婚を意識したのも、自然な流れだったと思います」

 公私ともに充実した伊藤は、01年に2度目の社会人ベストナインに輝く。実はこの年は、遊撃手に絶対的な候補がいなかった。何人かの選手が最終選考に残る中で、最もネームバリューのあった伊藤に落ち着いたという印象があった。「今年はラッキーだったね」と茶化すと、「イトウユウキという選手が社会人で頑張っているよ、ということはわかってもらえたかな」と、屈託のない笑顔を見せた。そして二年後の昨年、31歳のシーズンに見せた伊藤の活躍ぶりは、あらためて詳述する必要がないほどのインパクトがあった。


 都市対抗では7年ぶりに予選敗退の屈辱を味わったが、三菱川崎に補強されると不動の一番打者として優勝に貢献。初めて選出された日本代表では、恩師である村上監督の下でキャプテンも務め、9年ぶりのワールドカップ3位という偉業を成し遂げた。キューバで戦っている間にチームメイトが代表権を勝ち取ってくれた日本選手権では、爆発的というよりも、確実性の高さを見せつける働きで初優勝の原動力となり、見事に最高殊勲選手賞に選ばれた。「いいこと続きで怖いくらい。本当に野球を続けてきてよかったと思います。でもね、振り返れば都市対抗予選では負けている。一度失ったものを取り返すのは、とても大変な作業なんですよね。そういう意味で、今年は厳しいシーズンになると思います」

 昨シーズンが始まる頃、「今度ベストナインに選ばれたら、ショートでは史上最多の3度目になる。何とか手にして、表彰式では『3度目は嫁さんのおかげで獲れました』とかキザなことを言ってよ」と向けた。伊藤の返事は「精一杯頑張ります」だけだったが、そんな勝手な要求にもしっかりと応えてくれた。

 社会人9年目、最高の一年を終えた伊藤に聞いてみた。「これから先は何を目指すのか」と。
 「将来のビジョンは大切だと思いますが、僕は先のことを考えると何事も上手くできないタイプだと思うんです。どんな大会の前でも、絶対に優勝しようと思って臨むのではなく、今日の試合を精一杯戦おうと構えていた方がいい。あえて目標を言葉にするとしたら、『自分の守備範囲に飛んできた打球を、いつでも確実にアウトにしたい』ということかな」

 思えば、「どうして野球を続けているのか」と問いかけた時も、「そこに野球があるから、という感じですかね。はっきりした理由はないんですよ」と笑っていた。いつでも伊藤の答は真っ直ぐだ。

 数々の活躍で社会人球史に名を残したが、伊藤にとって本当に大切な時間は、これから始まるといっていい。栄光の歴史に名削を刻んだ者には、それを塗り替える者が現れるまで、頂上の輝きを聖域として守り通す使命があるからだ。

 しかし、伊藤にとってそれは、さほど難しいことではないだろう。苦しい時はじっと耐え、悔し涙を決して忘れず、大きな喜びはかけがえのない仲間ーー志半ばでグラウンドを去った仲間も加えて分かち合う。そうやって、これまでのように、ただひたすら白球と向かい合っていけばいいのだから。朝、目覚めた時、「今日も昨日のように、精一杯グラウンドを駆けよう。そして、今日は昨日よりも絶対に上手くなってやろう」と、心に誓って。

いとうゆうき●
1972年7月7日生まれ、兵庫県出身。
169.5cm・67kg、右投左打。
津名高から福井工大へ進み、4年時には大学選手権でベスト4へ進出。95年に日産自動車へ入社すると、堅実な守りと粘り強い打撃でショートの定位置を獲得した。98年の都市対抗で優勝に貢献し、初めて社会人ベストナインを受賞。その後も攻守に実績を残し、2001年には2度目の受賞を果たした。
昨年は三菱ふそう川崎の補強で都市対抗に優勝し、日本選手権でも頂点に輝いてMVPに。さらに、第35回IBAFワールドカップ日本代表の主将も務めた働きが評価され、史上初めて遊撃手として3度目の受賞となった。既婚。写真左が真樹夫人。