日本経済新聞 2005/2/1-2/28

私の履歴書 ピーター・ドラッカー


基本は文筆家 「マネジメント」を発明 95歳の今なお講義続ける

 昨年11月で95回目の誕生日を迎えた。補聴器は欠かせないし、今では歩くのもやっとだ。
 大好きだった山岳ハイキングもやっていない。ご存じないかもしれないが、20年以上かけて日本の主要な山々を訪ねた。富士山へも行ったし、妻と一緒に北海道で2週間過ごしたこともある。当時の北海道は人も少なく、息をのむほど美しかった。それをもう経験できないのは残念だが、体力の衰えは仕方ない。
 ただ、仕事はいつも通りだ。カリファルニア州南部のクレアモントの自宅にはファクスとタイプライターがあり、これが私の仕事の道具だ。秘書はいないけれども、スケジュール管理はいつだって自分でやってきた。今も手帳は数カ月先まで仕事のスケジュールで埋まっている。
 友人からは「もう仕事を引き受けるのはやめにして引退したら?」と言われることもある。すると、結婚して先月で68年になった妻は「一体どうやって引退するの」と言いながら笑う。私には「引退」という言葉はない。
 クレアモント大学ではゼミ形式の授業は数年前にやめたが、講義は続けている。今学期は昨年10月から今年2月まで計5回。昨年には米誌に長い論文を書いたほか、過去の論文などをまとめた『ザ・デイリー・ドラッカー』も出版した。
 パソコンは使わないが、長年の経験からかなりのスピードで原稿を仕上げる技術を身につけている。
 まず手書きで全体像を描き、それを基に口述で考えをテープに録音する。次にタイプライターで初稿を書く。通常は初稿と第二稿は捨て、第三稿で完成。要は、第三稿まで手書き、口述、タイプの繰り返しだ。これが一番速い。
 仕事以外では、毎年新しいテーマを見つけ、3カ月間かけて集中的に勉強している。昨年は明王朝時代の中国美術に取り組んだ。日本については水墨画のコレクションを持つほど詳しいのに、日本に大きな影響を与えた中国をよく知らなかったから、たくさんの発見があった。
 このほか、3年ごとのプロジェクトも立てている。数年前に終えたのは、シェークスピアの全集をゆっくりと注意深くすべて読み直すこと。シェークスピアの次はバルザックの代表作『人間喜劇』シリーズに取り組んだ。
 私は大学教授とかコンサルタントとか呼ばれ、時に「マネジメント(経営)の発明者」とも言われるが、少なくとも経済学者ではない。基本は文筆家だと思っている。
 1939年にナチスドイツの本質を暴いた処女作『経済人の終わり』を書き、英首粗になる前のウィンストン・チャーチルに書評で評価されたことで文筆家としての道が開けたのだろう。二つの世界大戦があった二十世紀は波乱の時代だったが、私にはこんな幸運がいくつかあった。
 初の日本訪問は1950年代の終わり。実はその時に日本文化との付き合いは20年以上に及んでいた。ナチスに追われてロンドンに住んでいた時、日本画に魅せられ、『源氏物語』も読んだ。
 こんなに関係が深い日本の読者に私が生きた一世紀を語れるのは光栄である。最も古い記憶は第一次世界大戦の勃発だ。何しろ生まれはウィーンで、そこは大戦の引き金を引いたハプスブルク帝国の首都だったのだ。次回はそこからスタートしたい。

帝国首都生まれ 4歳の夏、第一次大戦 父、皇帝に直訴もむなしく

 私が生まれたのは1909年11月19日、第一次世界大戦が始まる5年前のウィーン。今はアルプスの小国オーストリアの首都で、もっぱら「音楽の都」として知られている。とても国際政治の中心にはなれないが、当時は数百年にわたって欧州に君臨したハプスブルク家が支配し、人口は5千万人に達する大国オーストリア・ハンガリー二重帝国の首都だった。
 14歳か15歳になったころ、父アドルフから「お前が5歳にもなっていないころ、夏休みにアドリア海を一家で旅行したことを覚えているか」と聞かれたことがある。
 私はうなずいた。ビーチと砂浜が目の前に広がり、そこで風変わりな水着を着た母キャロラインと一緒に砂の城をつくった記憶がかすかに残っていた。続けて「あの時、早々と夏休みを切り上げたことはどうか」と聞かれたが、覚えていなかった。
 「実は、あの時に第一次大戦が起きたのだよ。お父さんは何年分も休暇をため込んで、お前たち兄弟とたっぷりひと夏を過ごすつもりだった。だが、皇太子暗殺の知らせが飛び込んできた。戦争は何としても回避したかった。だから、急きょウィーンに戻ることになった」
 1914年6月、大戦の引き金となる事件が起きた。帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント皇太子が、サラエボで暗殺されたのだ。外国貿易省の長官として帝国政府内で影響力を持っていた父は、家族を連れてウィーンヘ戻らなければならなくなった。
 父は平和主義者として知られていた。財務省の高官で同じ平和主義者の友人から「軍部がむちゃな戦争を起こさないよう説得工作に協力してほしい」と頼まれ、快諾。ウィーンでは大臣や政治家の説得に乗り出したり、側近を通じてフランツ・ヨーゼフ皇帝に直訴したりした。
 しかし、それは徒労に終わった。息子を失い、80歳を超えていた皇帝にはもはや軍部を抑える気力もなく、帝国は独立国のセルビアに宣戦布告。セルビアを支援するロシアなどが黙っているはずはなかった。ついに大戦の火ぶたが切って落とされた。
 幼かった私は戦争のことなど分からず、父がどんな仕事をしているのか知るよしもなかった。それまで通り近所の子供たちと一緒に遊び、学校へ通った。
 育った我が家はウィーンの郊外にあった。ぶどう畑の中にある陸の孤島のような開発地区に建てられ、大通りから隔離されてとても静かだった。二階の窓から下を見るとウィーンの街全体、上を見るとぶどう畑の先にウィーンの森を一望できた。
 この地区では10世帯しかなく、子供は全員で15人。これが幼い私にとっての全世界である。仲のいい両親を持ち、比較的富裕な家庭環境にあって、何不自由なく過ごしていたと思う。ちなみに、15人のうち今でも生きているのは、18カ月年下の弟ゲルハルトと私だけだ。 大戦勃発時に私には帝国の首都に生まれたという意識はこれっぽっちもなく、ウィーンの外の世界に関心を持つようになったのは大戦後の9歳か10歳になってから。その時には、アドリア海からロシア国境まで広大な領土を持っていたハプスブルク帝国は敗北し、解体され、もうなくなっていた。

政府高官 父、大戦中に東奔西走 シュンペーター見いだす

 第一次世界大戦の勃発で、父アドルフはオーストリア・ハンガリー帝国の戦時経済運営を担う主要な政府高官3人のうちの1人となった。
 前回触れたように父は外国貿易省長官だった。この役所は18世紀に設けられた帝国最古のもので、そこで父は工業生産を指揮。ほかの2人の、うち、1人は財務省高官で金融財政を担当、もう1人は農務省高官で農業を担当し、いずれも父の親友だった。
 少し脱線するが、外国貿易省は唯一経済学者を雇い入れていた点で異色の存在だった。父自身も経済学者ではあったが、実態は若手経済学者を採用し、育成する「ゴッドファーザー」だったと思う。
 父にチャンスを与えられた経済学者の中で特筆すべき人物が一人いる。「創造的破壊」が経済発展の原動力であるなどと説き、20世紀を代表する経済学者となったヨーゼフ・シュンペーターだ。彼は戦前にはエジプトでの投機で大損したり、戦後には不祥事で財務大臣ポストをふいにしたり、常に疫病神に取りつかれていた。そんな時にはいつも父が救いの手を差し伸べ、就職の世話などをした。
 話を戻そう。物心がついてきた私はいやが応でも戦争を意識するようになる。母が唯一の兄弟を亡くし、打ちひしがれているのを目の当たりにし、新聞の死亡者名簿に知り合いがいるかどうか調べる習慣を自然と身につけた。
 9歳の時に私立学校へ転校すると、政府の戦時対策本部で東奔西走する父の姿を間近で見ることにもなる。戦時対策本部も私立学校もウィーン最初の高層オフィスビル内にあったのだ。 高層といってもたったの9階建てだが、子供にとっては大変だ。エレベーターの使用を許されないから、上階にあった教室まで毎日階段を上らなければならない。でもうれしかった。しょっちゅう階段を下りては父と一緒にランチを食べ、宿題をやり、帰宅できたのだから。
 大戦は4年間も続いた。帝国は10以上にもなる民族間の争いにかねて翻弄され、工業化でも出遅れていたことを考えれば、これだけ持ちこたえられたのも驚きだ。その背後に父らの働きがあったと思うと感慨深い。
 戦争によって父の仕事は激変した。帝国は分割され、父は人口5千万人を抱える大国の役人から、人口650万人の小国オーストリアの役人となった。1920年にはザルツブルク音楽祭を共同創設者として立ち上げ、その会長に就任。狙いは芸術の振興ではなく、観光客誘致による外貨獲得にあったと思う。
 1920年代前半に退官し、銀行の再建請負人に転じた。当時、ウィーンには帝国をかつて支えていた大銀行が10行以上もひしめいていた。当然ながらこんなにたくさんの銀行は不要で、次々と倒産する。そのたびに父はかり出され、政府のために銀行清算を手がけた。それから10年後には銀行はわずか2行になっていた。
 大戦勃発から戦後まで父の仕事は辛かったと思うが、父に厳しく当たられたことは全くと言っていいほどない。唯一、私が7歳ごろだったか、父に飛びついて眼鏡を壊してしまった時に「二度とやるんじゃないぞ」と怒られた。世界で最も優しい父だっただけに、忘れられない言葉だ。

顔広い両親 フロイトと同席、握手 政治家や女優も我が家に

 私は両親のおかげで幼いころから多様な人たちと接することができた。学校はほんの一時期を除いて退屈極まりなかったから、これが実質的な教育になったと思う。
 第一次世界大戦の末期、ドラッカー一家でウィーン市内のレストランで昼食中のことだ。私は父に促されて、同じテーブルに偶然着席した別の一家の主と握手した。
 8歳か9歳のころに握手した大人の顔などすぐに忘れてしまうものだ。しかし、この時の記憶ははっきりしている。握手の後、両親と次のような会話をしたからだ。
 「ピーター、今日を覚えておくのだよ。今の人は欧州で一番重要な人だから」
 「(オーストリア・ハンガリー帝国の)皇帝よりも重要な人なの?」
 「そうだ。皇帝よりも重要な人だよ」
 握手の相手は、精神分析の父、ジークムント・フロイトだった。
 両親はフロイトと長年の知り合いだった。特に母キャロラインは、結婚前からフロイトの講義を聴講し、彼の娘と親しいなどの関係にあった。当時の女性としては極めて珍しく医学を専攻し、精神医学にも少なからぬ興味を持っていたためだ。
 今も私の手元には母が愛蔵していたフロイトの『夢判断』の初版がある。生前に母から楽しそうに聞かされたのだが、彼の講義では母は唯一の女性聴講生で、性の問題を話す際にフロイトは困惑した表情を見せていたそうだ。
 両親は長年、週に数回のぺースでホームパーティーを開いた。毎週月曜日は父の主催で「政治の夜」が開かれ、政治家や学者、銀行家が集まった。水曜日は母主催の「医学・精神分析の夜」。金曜日は特に制限なしのパーティーで、ドラッカー宅と友人宅で交互に開かれた。
 我が家の常連客の中には、ヨーゼフ・シュンペーターやフリードリッヒ・フォン・ハイエクら著名経済学者のほか、戦後に初代チェコスロバキア大統領になり、「建国の父」と言われるトマーシュ・マサリクもいた。父は学生時代に速記者として帝国議会で働き、チェコ社会党を率いていたマサリクと仲良くなったようだ。
 子供たちは10歳になって金曜日のパーティー、14歳になって月曜日と水曜日のパーティーへの参加が認められた。弟は無関心だったが、私は必ず顔を出した。ただ、大人の会話に入ることは許されなかった。発言したくてむずむずしているうちに夜10時が近づき、母から「ベッドヘ行きなさい」という合図を受け取ったものだ。
 両親の親友が開くサロンにも入り浸った。16歳ごろ、そこでノーベル賞を受賞する数年前のトーマス・マンに会った。彼は著作の一つを朗読し、冷たい反応しか得られなくて機嫌を損ねたのを覚えている。大作家だからというだけで尊敬を集められるようなサロンではなかった。
 毎年クリスマスと正月になると、ウィーンの大女優マリア・ミューラーが我が家を訪ね、ゲーテやシラーなどの名場面を空で朗読してくれた。私が知る限り最高の美声だった。
 国籍も様々な人たちが訪ねてくる家庭環境で育ち、私は小さい時からドイツ語に加え英語とフランス語も自然に使うようになった。例えばミューラーは我が家では英語しか使わなかった。ただ、私は今ではフランス語はすっかり忘れてしまった。

最高の教師 9歳で学ぶ喜び知る 小学校、1年飛び級で卒業

 1942年から大学教授をやっている。長い間教壇に立ってきたのは、教えることで自ら多くのことを学べたからだ。生涯学び続けたかったし、そのためにも生涯教え続ける必要があったのだ。
 どのように学んできたのか。それを語るうえで欠かせないのは小学校時代だ。そこでの体験がなかったら、大学で教鞭をとることもなかったかもしれない。少し当時の話をしてみよう。
 本を読み始めたのは4歳から。以来、本の虫である。当時は字が読めなければ小学校へ入学できなかったが、私にとっては何の問題にもならなかった。
 最初はウィーンの公立小学校へ入学。校舎はぶどう畑が広がる丘の先にあり、近所の子供たち数人と一緒に朝7時に家を出て、40分かけて歩いて登校した。天気が良い日には教室の外に出て、大きな樫の木の下で昼食を取りながら『ガリバー旅行記』などを朗読したものだ。
 ただ、私は読むのは得意だが字が汚い。そのため、4年生の時、つまり9歳の時に、市の中心にあった私立小学校へ転校させられた。そこで出会ったのが生涯忘れられないミス・エルザとミス・ゾフイーの姉妹だ。
 ミス・エルザは校長で私の担任だ。9月の新学期が始まると、私たち一人ひとりを呼び出して話し合った。
 「ピーター。あなたには得意なものがいくつかあるけれども一つだけ生かさなかったものがある。わかる?」
 私は首を横に振った。
 「作文。得意なのにあまり練習しなかったでしょう。作文の練習をこれからの目標の一つにしましょうね」
 こんな調子で読みや綴り、習字、算数についても目標が定められ、学習帳に書き込まれる。彼女は、潜在能力がありながらそれを生かしていない分野があると執念を燃やして対応したのだ。
 私はコンサルタントとしては「できないことではなくできることに注目せよ」「目標管理(目標によるマネジメント)を実践せよ」と助言してきた。この点では、ミス・エルザは私など到底及ばない先駆者だったといえよう。
 一方、図工を担当していたミス・ゾフィーは、男子生徒にも料理と裁縫を習わせるほど革新的だった。ミス・エルザが計画的に学習技能を伝授する「教育学者」だとすれば、ミス・ゾフィーは語らずとも微笑むだけで生徒に感動を与える「教師」だ。
 唯一の問題は、ミス・エルザは「作文が上手でもだれにも読めなければ意味がないでしょう」と言って私がきれいな字を書けるように一生懸命指導したのに、私が全然期待にこたえられなかったことだった。ある時、彼女は父を呼び出し、本来なら5年間通う小学校を飛び級して、日本の中学・高校に相当するギムナジウムヘ進学するよう勧めた。
 飛び級に父は戸惑ったが、「ピーターの悪筆は直る見込みはありません。もう1年ここにいても時間の無駄です」と指摘された。習字以外は十分な水準に達したということで、私はギムナジウム最年少の1年生になる。
 ミス・エルザは私の字を直せず、ミス・ゾフィーは私を工芸家にはできなかったが、私は抜き去りがたい影響を受けた。学ぶ楽しさと教える喜びに救いがたいほど魅せられてしまったのだ。

ギムナジウム ラテン語にうんざり 赤旗デモ、誘われて先頭に

 飛び級で入学したギムナジウムは、ラテン語を中心に古典教義を教える進学予備校だ。別名ラテン語学校で、そこに8年間通うことになる。 
 学校までの道のりは遠かった。始業時間の朝8時に間に合うように、毎朝6時半にメードがノックする音で目覚め、7時過ぎに家を出る。学校の規則で、吹雪の日以外は路面電車の利用は認められず、40分は歩き続けなければならない。通学だけでも大変だと思われるかもしれないが、当時としては当たり前だったし、学友と一緒に歩くのも楽しかった。
 ただ、ギムナジウムでの授業は楽しいとは程遠かった。8年間もかけてラテン語の動詞の不規則変化などを記憶する場であり、ローマの詩人ホラティウスを読んでみなさいなどと言われることはまずなかった。あったとしても、文法のミス探しのためだ。
 小学校4年生時に出会ったミス・エルザとミス・ゾフィーが素晴らしかったから、その反動で、回復不能なまでにほかの教師がつまらなく感じるようになったと思う。授業中は、机の下に歴史や文学の本を隠して読むなどしてやり過ごした。
 1年間のうち8カ月か9カ月間は授業そっちのけで、自分の興味が赴くままに過ごしたと思う。本を読んだりパーティーに顔を出したりしたほか、放課後のスポーツにも精を出した。体操種目は苦手で大嫌いだったが、サッカー部に所属して右ウイングを務めた。サッカーのことなら何でも知っていたし、うまかったと思う。
 というわけで、教師たちに留年は確実と踏まれることも何度かあった。そんな時はミス・エルザの学習帳を引っ張り出して目標を立て、それに沿って数週間勉強するだけで、学年末にはクラスの上位3分の1には入れた。
 教師には恵まれなかったが、ギムナジウム時代には大きな転機があった。
 正確には、14歳になる直前の1923年11月11日、社会主義青年団の先頭に立ち、赤旗を掲げながら市内をデモ行進したことだ。5年前の11月12日に共和制が宣言されて以来、社会主義者が支配していたウィーンでは、毎年の「共和国の日」は記念すべき日だった。
 社会主義に共鳴してデモに参加したわけではない。14歳未満の高校生は政治活動が禁止されていたから、ちょっとしたスリルを感じた。それに、学校の人気者とはいえなかったのに「青年団の先頭に立ってみないか」と誘われて、舞い上がってしまった。
 当日、早朝4時半に目覚めると真っ先に天気を確認したのを覚えている。私を先頭にデモ隊は徐々に大きくなり、やがて革命歌を歌い始めた。私は「今日は人生で一番幸せな日だ」と思った。ところが、行進途中でふと「場違いだ」と感じ、赤旗をだれかに押し付けて隊列を離れてしまったのである。
 政治について読んだり書いたりするのは好きでも、政治そのものをやる人間でないと悟ったのだ。14歳になると、ギムナジウム卒業と同時にウィーンを離れる決意を固めた。アルプスの小国の都へ成り下がり、帝政が廃止になっても「戦前」という郷愁に取りつかれた古いウィーンにはもはや興味はなかった。

独ハンブルクに 退屈なウィーン脱出 本物の「大学教育」図書館で

 ウィーンのギムナジウムでは退屈な授業に心底うんざりしていた。そんな状況から抜け出す手っ取り早い方法は、ドイツか英国で見習いの仕事を始めることだ。
 教師たちとも、私がもう十分に学校のイスに座ったという点で意見が一致していた。しかも、弟が医学の道に進むことを決め、当分は父に扶養してもらわなければならないこともわかっていた。父の負担を軽減するためにも経済的に自立したいと思った。
 けれども父は大学への進学を強く望んでいた。親族や知人には大学教授が大勢いたし、ウィーンでは教授の社会的地位は非常に高かった。父には「おまえには商人の才覚が欠けている」と指摘されたが、それももっともだった。
 だが、大学教授の道を歩むとなると、ウィーン大学という由緒ある大学がある以上、ウィーンを脱出する理由がなくなってしまう。結局、父の期待を裏切って、1927年にドイツへ移住し、ハンブルクの貿易会社で見習いになる。17歳だった。
 ハンブルクでは、父に喜んでもらえると思い、ハンブルク大学法学部にも入学。夜間部に通えばいいと思った。ところが、同大学に夜間部がないことが判明し、1年余りのハンブルク滞在中に一度も講義に出なかった。幸い、当時はおおらかなもので出欠のチェックはなく、卒業試験さえ受ければ学位はもらえた。
 見習い仕事はつまらなかったが、ハンブルク時代は意外と充実したものになった。学生だから映画館の無料入場券をもらえ、週に3回は無声映画を楽しめた。それに加え、便利なことに通りを挟んで仕事場の向かいに素晴らしい公立図書館があった。
 図書館ではドイツ語や英語、フランス語、スペイン語の本を手当たり次第に読んだ。英語が一番多かっただろうか。ここで本物の「大学教育」を受けたと思う。一番影響を受けたのは、当時は母国デンマーク以外では無名だった19世紀の思想家、セーレン・キルケゴールだ。
 ハンブルク滞在中には文筆家として記念すべきことが一つあった。大学入試のために書いた論文「パナマ運河の世界貿易における役割」がドイツの経済季刊誌に掲載されたのだ。私が書いたものが活字になったのはこれが最初だ。
 それをきっかけに、見習いの仕事を始めたその年のクリスマス休暇は生涯忘れられないものになった。ウィーンに帰ると、愛読していた経済週刊誌オーストリア・エコノミストから、新年特集号の編集会議への招待状が届いていたのだ。末尾に「あなたの論文は非常に優れていると思う」と手書きで記され、編集長のサインがあった。
 英国の有力誌ロンドン・エコノミストをモデルにした同誌は、1930年代にナチスドイツの弾圧に遭うまで欧州有数の雑誌だった。父は創刊時からの支援者で、同誌は父を喜ばせるために私に招待状を送ったのだと思う。
 編集会議には副編集長として、後に大著『大転換』を発表したハンガリー系経済人類学者カール・ポラニーがいた。たちまちポラニーに魅せられた私は、会議後に「もっと話を聞きたい」と申し出ると、彼は即座に了承してクリスマスディナーに誘ってくれた。以来、1937年の米国移住後も含め、彼とは家族ぐるみの付き合いを続けることになった。

大恐慌 銀行倒産で記者の道 厳格な編集長、偉大な教師

 ハンブルクの貿易会社での見習いを終え、1929年1月にまともな仕事を得た。米系投資銀行フランクフルト支店の証券アナリストだ。
 アナリスト業のかたわら、今から思えばお恥ずかしい限りの「学問的」な計量経済学の論文を2本書いた。そのうちの一つは急騰を続けていたニューヨーク株式相場についてで、「さらに上昇する以外にあり得ない」と断じた。
 論文は2本とも権威ある経済季刊誌の29年9月号に掲載された。その数週間後の10月24日、ニューヨーク株式相場は歴史的な下げを記録。いわゆる「暗黒の木曜日」で、これを発端に世界は大恐慌に突入した。以後、相場の予想は一切やらないことにした。当時の論文が現在、人目に触れる心配がないのが何よりの救いである。
 「暗黒の木曜日」で私が就職した米系投資銀行もなくなり、失職。ところが、幸運にも同時に新聞記者になれた。
 きっかけは、失職の直前に米系投資銀行本店から届いた「ニューヨーク株の暴落は近いうちにストップする」とのリポート。それをドイツ語に書き直して、有力夕刊紙フランクフルター・ゲネラル・アンツァイガーに売り込んだ経緯から、同紙の編集者の一人とは面識があった。彼を通じて社主に会うと、その場で雇ってくれた。
 入社後すぐに、20歳にして海外ニュースと経済ニュース担当の編集者になる。社内で「発行部数50万部もある大新聞の重要紙面を経験ゼロの若造に任せるとはどうかしている」といった声が出てくると、社主は「海外面も経済面もだれも読んじゃいない」と平然と語ったものだ。その通りだった。
 新聞社での初日は今も鮮明に覚えている。夕刊紙の性格上、午前6時に出社するように言われ、朝一番の路面電車に乗ってオフィスには6時ちょっと過ぎに着いた。
 オフィスの前では、身長2メートルを超える男が時計を手に持って立っていた。編集長のエーリッヒ・ドンブロウスキーで、プロイセン人らしく時間に厳格だ。
 「6時4分過ぎだ」
 「たったの4分に何の違いがあるのですか」
 「締め切りを理解していないな。言い訳は通用しない。6時までに出社できないなら来なくていい」
 締め切りの厳守は新聞記者として学んだ一番目の教訓だ。
 初仕事は、株価暴落のあおりで大手保険会社が破たんした事件に絡んで開かれた裁判の取材。だれからも記事の書き方を教わらないまま、とにかく裁判所へ行って検察官の話を聞き、記事に仕上げた。
 私の記事を見ると、ドンブロウスキーは再びがなり立てた。
 「検察官の名前は?」
 「知りません」
 「戻って調べて来い」
 裁判所へ戻ると、検察宮はすでに帰宅していた。次に自宅を訪ねると、玄関に出てきた大家は「名前は言えません」の一点張り。仕方なく、寝不足で睡眠中だった検察官をたたき起こす羽目になった。名前をメモすること。これが二番目の教訓だ。
 指折りのリベラル派で鳴らしたドンブロウスキーは厳しかったが、私にとっては小学校4年生時のミス・エルザとミス・ゾフィー以来の偉大な教師となった。

記者兼教授 ヒトラーに直接取材 国際法ゼミで代役務める

 新聞社フランクフルター・ゲネラル・アンツァイガーでは、入社2年後の1931年、3人いる副編集長のうちの1人へ昇格した。22歳になったばかりだった。
 こんな若者がなぜ、と不思議に思われるかもしれない。当時、上の世代は第一次世界大戦の影響で人材不足だったのだ。編集局は、たったの14人の記者と編集者で成り立つほどの少数精鋭だった。
 ニュースはロイターなど通信社電に頼っていたが、特集記事や論説は自前で用意しなければならず、私もフル回転だった。週に3本か4本の論説を書きながら、海外面と経済面の編集も担当した。
 自ら取材にも出かけ、地元の出来事をカバーした。台頭著しいナチスの党首アドルフ・ヒトラーや右腕のヨーゼフ・ゲッベルスの演説を聞き、直接インタビューもした。一度ならず何度もである。
 ナチス政権下で宣伝相になったゲッベルスは一方的に演説するのを好み、インタビューの了解を取るのは難しかった。だが、自分に都合のよい質問項目を事前に配るなどしていたヒトラーとのインタビューは比較的簡単だった。
 ヒトラーかゲッベルスのどちらかは演説で「われわれはパンの値段の引き上げも引き下げも、固定化も求めていない。ナチスによる値段を求めている」と叫び、農民の喝采を浴びた。これはファシズムの本質を的確に示していた。なのに、だれもが「選挙向けスローガン」と受け流した。真剣に受け止めた私は何度も「お人よし」と言われた。
 フランクフルトでは二足の草鞋を履いていた。フランクフルト大学法学部で博士号取得の勉強をしながら助手をしていたのだ。
 ハンブルク大学と同様に、フランクフルト大学でも講義には一度も出ずじまい。退屈だということはわかっていたし、講義に出たら新聞社で働けなくなるのも明らかだった。前に書いたように、当時の大学では試験さえ通れば大丈夫で、21歳で国際法の博士号を取得していた。 それ以前から法学部の教壇に立つことも多くなっていた。国際法担当の老教授が病弱であったため、代役で国際法のゼミを主催したり、教授のクラスを代講したりした。
 フランクフルト大学で得た大きな収穫は、教授の代役を務めた関係で、後に妻となるドリスと出会えたことだ。ドイツのケルン出身の彼女は法学部の学生で、海外滞在が長かったことから、国際法の博士号取得を目指していた。
 余談だが、ドリスの母親は、私が論説を書くゲネラル・アンツァイガーの愛読者だった。私の存在を知ると、「20歳を超えていくばくもない青二才の論評をずっと鵜呑みにさせられてきたというの?詐欺行為だわ」と怒り、即刻購読を中止したそうだ。
 そうこうするうちに大学からは助手より格上の講師にならないかと打診された。だが、大学当局の任命職である講師になると、自動的にドイツの市民権を与えられる規定があった。ドイツ市民になってヒトラーの臣下になるのは真っ平ごめんだ。右翼政党は「成り上がり者のヒトラーを牛耳るのは簡単」と高をくくっていたが、私はファシズムの嵐が吹き荒れると踏んでいた。
 再就職の当てがないのは分かっていても、英国かどこかへ一刻も早く脱出しなければならない。こんな決意を固めたばかりの1933年1月、ナチスが政権を掌握した。

ドイツに別れ ナチス支配を許せず 「ユダヤ人は即解雇」に激怒

 1933年1月にナチスが政権を握った後もフランクフルトにとどまっていた。フリードリッヒ・シュタールについて書いた本がこの世にまだ出ていなかったからだ。
 シュタールは「ドイツ保守主義の父」と言われる19世紀の哲学者だが、人種的にはユダヤ人だ。彼について書くということはナチスヘの攻撃を意味した。どうせドイツを脱出するのなら、ジャーナリストでもあるし、自分の立場を明確にしてひとかどの人間になりたかった。
 原稿は、ドイツでは著名な出版社へ送ってあった。32ページ建てのパンフレットのような代物だが、有名な「法と政府」シリーズの記念すべき第百号として、数カ月後の4月に出版される予定になっていた。それを待たずにドイツを離れれば、出版計画が白紙撤回される恐れもあり、ぐずぐずしていたのだ。
 現実には、違う形でドイツ脱出は決定的になった。
 ナチスが政権掌握してから数週間後、私が助手として籍を置いていたフランクフルト大学に早くもナチスが乗り込んできて、とんでもなく胸くその悪い思いをさせられたからだ。ナチスは、ドイツで最もリベラルな信念を持つフランクフルト大学を牛耳れば、ドイツの学界全体を牛耳れると考えたようだ。
 ナチスからの支配者は大学の教員会議を招集し、開口一番にユダヤ人教員全員を即刻解雇すると宣言した。その後は悪口雑言の長広舌を振るい、「おれの言うことをきくか、収容所へ送られるか、どちらかだ!」で締めくくった。
 ナチスが反ユダヤ主義を唱えていても、実際にはそんなことはできない、とだれもが思っていた。それはとんだ見当違いだったわけだ。ついさっきまで親友同士だったのに、教員の大半がユダヤ人と距離を置いて退出するのを見て、48時間以内に今度こそドイツを出ると決心した。
 家に戻ると、有り難くもシュタール本の校正刷りが届いていた。すぐに新聞社へ出向いて辞表を出し、再び家に戻って刷りのチェックを始めた。
 夜10時にやっとチェックを終え、疲れきった身体を休ませようとすると、アパートのベルが鳴った。ドアを開けるとそこにはナチス突撃隊(SA)の制服を着た男がいた。その瞬間、心臓が止まった思いをした。だが、その男は同じ新聞社で働く冴えない編集者であることに気づいた。
 「うちの新聞社の党代表にぼくが任命されたんだ。ユダヤ人の社主もクビにするし、左翼でユダヤ人を妻にする編集長もクビにする。君みたいな男にはぜひ残ってもらいたいと思ってね」
 しつこく食い下がる彼を追い払い、ドアにカギをかけた。このアパートで生活した3年間でカギをかけたのは、これが最初で最後だった。
 この時、23歳の私は、身の毛もよだつ.未来の光景を見た気がした。後に処女作『経済人の終わり』として結実することになる光景だ。タイプライターに向かって原稿を書き始めたいという強い衝動に駆られたが、どうにかこれを抑えて荷造りに取りかかった。翌日の正午にはウィーン行きの列車に乗っていた。
 ちなみに、シュタール本は予定通り出版された。予期した通り直ちに発禁処分にされ、文字通り焼き捨てられた。

妻ドリス ロンドン、最高の再会 父の「お使い先」が仕事場に

 1933年にフランクフルトでのすべてを投げ捨てて、この年の春にはロンドンの地を踏んだ。土地勘のない大都市で、知り合いは全くいないも同然だった。
 食べていくためにはとりあえず何かしなければいけない。とはいっても大恐慌の最中であり、簡単にはいかない。やっと探し出した大手保険会社の証券アナリストの職も、数カ月で片がつく事実上の見習いにすぎなかった。
 そんなある日、地下鉄のピカデリーサーカス駅にある英国最長のエスカレーターの上りの側に乗っていると、下りの側に見覚えのある若い女性を見つけた。フランクフルト大学時代に知り合い、後に妻となるドリスだ。お互いに狂ったように手を振り合った。私は上りきると下りに乗り換え、彼女は下りきると上りに乗り換える。そんなことを4回も繰り返しただろうか。そこでようやく私が乗り換えをやめて合流できた。私にどって人生最高の瞬間だったと思う。 一足早くロンドンに渡っていたドリスはロンドン大学に籍を置き、国際法で有名な教授の助手をやっていた。お互いに相手のことはとっくの昔に視界から消え去っていたのに、この時はまるで古い親友に再会したかのようにレストランで話し込んだ。
 この年のクリスマスを両親と過ごそうと思い故郷ウィーンヘ戻ると、ドリスと離れてみて自分がどんなに彼女と一緒になりたがっているかを痛感した。
 しかし、ロンドンで就職できる見込みはゼロに思えた。ウィーンでならどうにかなっただろうけれども、14歳の時にウィーンを離れる決意をし、17歳で外国で就職したのである。ずるずるとウィーンにとどまるわけにもいかない。これぞ失意のどん底という状況だった。
 それでも人生そう捨てたものじゃないと思うのは、ひょんなことからチャンスがもたらされるものだからだ。
 クリスマス休みを終え、重い腰を上げてロンドンで職探しを始めようと決心すると、父から「旧友の息子にささやかなプレゼントがあるから届けてくれ」と言われた。「ささやかなプレゼント」とは1.5メートルもあるハト時計だ。
 それをパリでは駅から駅へ引きずったり、英仏海峡の両岸では船に揚げたり降ろしたりしながら、どうにかして送り届けた。受取人は、英金融街シティーの小さなマーチャントバンク、フリードバーグ商会に勤める男だった。
 その男に昼食に誘われ、私の職歴などを説明すると、「証券アナリスト兼エコノミスト、リポート執筆者、パートナー秘書。この三役を一人でこなしてもらえるなら、すぐにでも雇えると思う」と言われた。翌朝から働き始めたのは言うまでもない。
 一方、ロンドンで一緒になれたドリスも就職先を見つけた。小売業として世界最大になろうとしていたマークス・アンド・スペンサーに雇われ、同社初の購買責任者に就いたのだ。以来、彼女は90歳を超えた今に至るまでずっと手に職を持ち続けている。
 失業者があふれていたこの時代に、二人とも20代前半(ドリスは2歳年下)でありながら仕事にありつけて幸運だったと思う。ハト時計はというと、受取人に気に入ってもらえず、フリードバーグ商会に勤めた3年間、私の机の横で15分おきに間抜けな鳴き声を上げ続けた。

シティに3年 銀行家、出会い楽しむ 週末、ケインズの講義出席

 1934年初めにようやく職を得たフリードバーグ商会では、優秀なマーチャントバンカーと認められた。
 だが、銀行界で身を立てる考えはなかった。なのに3年間も同商会に身を置いたのは、同僚であれ顧客であれ、そこで出会う人間が興味津々だったからだ.
 例えば同商会の創業パートナー、アーネスト・フリードバーグ。200年以上も銀行業を営んできた一族の出身で、「バンカー」であることを誇りにしていた。実際には投機的な「ディーラー」だったけれども、鋭い洞察力の持ち主であることは確かだった。
 ある日、私が「この企業の売上高と利益は今後は毎年10%伸びる」と予想し、新株の引き受けを提案したときのことだ。すると、「この予想は経営者から仕入れたんだね? 大不況の時代にこんな高成長を公約する経営者はウソをついているか頭が悪いかのどちらかだ。大抵は両方だがね」と一蹴されてしまった。
 オランダの上得意を相手にした際には、開口一番に「ドラッカーはオランダ人名ではないか」と聞かれた。私の祖先は数百年前にオランダで宗教書の印刷業を営み、同国では「ドラッカー」は極めて一般的な名前なのだ。
 私の家系を調べ上げ、オランダ系だと確かめると私を腹心の友とみなした。理由は「オランダ人は団結しなければならない」だった。祖先は遠い昔にオランダを離れて親せきは一人もいないと指摘すると、「へりくだる必要はない。あなたの祖先は米国へ移住したならず者とは違う」と言い、私のことをいつもオランダ流に「ドリュッカー」と呼んだ。 
 仕事のかたわら、毎週金曜日の夕方にはケンブリッジ大学へも足を運んだ。「ケインズ経済学」の生みの親、ジョージ・メイナード・ケインズの講義を聞くためだ。
 講義にはいつも数百人の聴講者が集まり、大盛況だった。まずケインズが数字を使わずに話し続け、次にユダヤ人の数学者が話さずに黒板に数字を描き続ける。こんなことが繰り返されながら、講義は3時間にも及んだ。講義後にはみんなで劇場へ繰り出し、ケインズの妻である美しいロシア人バレリーナの演技を深夜まで堪能したものだ。
 ケインズはヨーゼフ・シュンペーターと並ぶ20世紀最後の経済学者であり、講義では学ぶことも多かった。それでもケインジアンになろうとは思わなかった.講義を聴きながら、ケインズを筆頭に経済学者は商品の動きにばかり注目しているのに対し、私は人間や社会に関心を持っていることを知ったのである。
 ロンドンでは数年のうちに生活は安定し、友人も増えた。同時にこのままでは埒が明かないことも目に見えていた。高給取りになっても銀行界を仕事場にし続ける気はなかった。とはいっても転職は難しかった。活躍できそうな大学か新聞社では、外国人の採用は認めれていなかった。
 もっと大きな問題は、一緒に住んでいたドリスとの結婚だ。幸せな結婚生活を築くには彼女が働き続ける必要があったのに、当時の英国では女性は結婚と同時に職を失う決まりだ。大恐慌時代、既婚女性が働き続けると男性の職を奪うと信じられていた。
 そんなわけで、二人とも1937年の正月に結婚すると同時に仕事を辞めた。欧州よりも厳しい不況下にあった米国へ移住するために、である。

米国へ "大戦前夜”の新婚旅行 新生活はNYでスタート

 27歳でドリスと結婚してロンドン脱出を宣言すると、フリードバーグ商会は結婚と旅立ちを祝ってすてきなプレゼントをくれた。
 二人で豪華客船の一等船室に乗って、地中海からニューヨークに向かう2週間のハネムーンだ。最初の数日間を過ごしたベニスは、1937年当時は観光客もほとんど見当たらず、世界一ロマンチックな街に思えた。
 そんなハネムーン中にも、迫り来る第二次世界大戦の足音を忘れるわけにはいかなかった。故郷ウィーンヘ立ち寄って両親に会い、スイスなど近隣国のビザを取得するなどすぐに国外脱出できる準備をしておくよう念を押した。特に父はリベラル派として知られただけに、ナチスが乗り込んできたら無事では済まないのは確実だった。
 それから1年後にナチスはオーストリアを併合し、秘密警察をウィーンの我が家へ送り込んだ。両親は危ういところで難を逃れた。小さなアパートヘ引っ越していたのだった。ナチスがそれに気づいた時には、1年前に取得したビザを持ってスイス行きの列車に乗っていた。
 ニューヨークでの新生活は比較的恵まれた形でスタートした。最低限の仕事はあったからだ。フィナンシャル・タイムズなど英国の大手新聞社向けに米国発の記事を送る契約を交わしていたし、ハネムーンをプレゼントしてくれたフリードバーグ商会とも縁が切れていなかった。米国駐在エコーミスト兼ファンドマネジャーとして数年働くことになっていた。
 働く既婚女性に優しい米国では、妻も大手を振って仕事ができた。ロンドンでの勤務先だった小売り大手のニューヨーク代理人になると同時に、市場調査を手掛ける小さな会社を設立。ロンドン時代と比べ随分と収入は下がったものの、大恐慌下の米国では物価は低く、ぜいたくしなければ衣食住に困らなかった。
 「古き良き時代」の米国人の思いやりに救われることもたびたびあった。ニューヨークに到着した直後からしてそうだ。新婚の私たちは小さなホテルに泊まり、4月恒例の熱波でうだるような暑さに見舞われた。冷房機はなく、さらに悪いことに夜間は窓の下では地下鉄工事が進行中。暑いからといって窓を開けるとうるさくて全く眠れなくなる。
 どうしようかと途方に暮れていると、ホテルの外で見覚えのある人物にばったり出くわした。船の中で顔見知りになった年配のニューヨーカーだ。事情を話すと、「おいがニューヨーク郊外のアパートに住んでいて、賃借期間を残したまま近々そこを出るんですよ」と言って、その場で電話を入れてくれた。48時間以内に私たちはそのアパートヘ引っ越した。
 ウィ−ンのドラッカー一家も無事に米国へ集まりつつあった。ウィーン大学で医学博士号を取得した弟は私よりも半年前に移住し、ニューヨークの病院で実習生になっていた。両親は翌年に合流し、父はノースカロライナ大学チャペルヒル校で国際経済を教え始めた。ぼつぼつ第二次大戦の勃発が迫っている中で、ウィーンと同様に、ロンドンは第一次大戦前の「戦前」から抜け出せず、沈鬱だった。未来志向のニューヨークヘやってきて、ようやく「戦前」と決別できた気がした。

新聞に売り込み 形式張らず米国流に ワシントン・ポストと契約

 米国ではだれもが形式張らず、くだけている。来国移住から60年以上経た今も、職場の女性たちを「ガールズ」と呼ぶことに抵抗を感じる。1937年の米国移住直後はなおさらだった。
 しかし、郷に入っては郷に従えだ。欧州を舞台に第二次世界大戦が始まれば英国の新聞社などからの仕事はなくなる。ここは米国人になり切って形式張らずに自分を売り込み、米国で完結する生活基盤を築かなければならない。まずは新聞社に狙いを定めた。
 大戦前の米国では、欧州など海外ニュースの発信で独自の取材陣を抱えていたのはニューヨーク・タイムズなどごく少数の日刊紙に限られていた。今では米国を代表する新聞社ワシントン・ポストも、当時は新社主、ユージン・マイヤーの下で評価を高めていながらも海外ニュースは他社からの配信に頼っていた。
 こんなことを知ったのは、米国移住から1年後の1938年春のこと。ちょうどナチスが故国オーストリアを併合し、欧州情勢は緊迫の度合いを高めていた。欧州関連の記事ならお手の物。「これはチャンスじゃないか」とひらめいた。
 早速ワシントン・ポストに電話を入れて海外面の編集者の名前を聞き出し、彼を抜き打ち訪問した。するとマイヤーのところへ案内され、「原稿を見なければ掲載は約束できないから拒否権は確保しておきたい。前金を払う義務はあろう。二本分の前金でどうだ」と言われた。
 たったのこれだけで話はまとまった。抜き打ち訪問からわずか2時間後に、前金150ドルと契約書を手にしてワシントン・ポストを後にしたのだ。150ドルは当時としては大金で、大西洋を横断する国際線の旅費を除けば欧州での取材費の大部分を賄える。すぐに欧州へ数週間出張し、現地から6本か7本の読み物を送った。
 ワシントン・ポストでうまくいったのなら、雑誌でもうまくいくのではないか。すぐにサタデー・イブニング・ポストが思い浮かんだ。当時は全米最大の週刊誌で、画家ノーマン・ロックウェルのイラストが毎週の表紙を飾ることで有名だった。
 ワシントンからニューヨークヘ列車で移動中でのことだ。ふと編集部を訪ねようと思い、フィラデルフィアで途中下車した。事前の約束なしでまたもや編集者が面会に応じてくれた。「考えは面白い。それで一本目はいつもらえる?」。すぐに原稿を送ると、5日後に「数行カットしたけれども、残りはそのまま掲載するよ」との電話をくれた。この雑誌は原稿料をはずむので助かった。
 この時以来、新聞や雑誌とはずっと仕事をしている。最大の経済紙ウォールストリート・ジャーナルでは、1975年から20年間にわたってコラムニストを務めた。ただ、どの新聞でも雑誌でも、いつも私から「こんな記事を書きたい」と売り込むのであって、「こんな記事を書いてくれ」と仕事を振られることはない。唯一の例外はワシントン・ポストでの初仕事だ。
 フリーランスの書き手として第一歩を踏み出したこのころには、ロンドンで執筆に着手した初の本格的な著作『経済人の終わり』を脱稿していた。ところが問題があった。これを世に出すことに二の足を踏む出版社ばかりだったのだ。

処女作 独ソの結託を見通す チャーチルの評価に驚喜

 1938年に書き終えた処女作『経済人の終わり』の出版の引受先がなかなか見つからなかったのも、無理はない。
 これはファシズムから自由を守るという明確な目的を持つ「政治本」で、結論が尋常でなかったためだ。ナチスはユダヤ人の抹殺に踏み切り、さらにソ連と手を組むと予測したのである。ファシズムと共産主義は水と油で、両者が共同歩調を取るとはだれもがありえないと信じていた。
 そんな時、ロンドンで有力な文筆家に会い、『経済人の終わり』の原稿を読んでもらう機会があった。ファシズムに対抗するためにソ連の共産主義を是認する左翼だったのに、徹夜で原稿を読み終えると、共産主義への甘い幻想を捨てたことを打ち明けた。
 「これは一級品だ。ニューヨークの出版杜には早く出版するよう電報を打っておいた。序文はぼくが書く。これで公然と共産主義と縁を切れるからね」
 『経済人の終わり』は翌年の1939年春に刊行された。間もなく英高級紙タイムズに書評が登場。かねて尊敬していたウィンストン・チャーチルが評者で、英首相に就任する1年前だった。
 「ドラッカー氏は、この人のことなら何でも許してあげようという気にさせる文筆家の一人だ。確固とした信念を持つと同時に、ほかの人たちにも刺激的な発想をさせてしまう才能も併せ持つ」
 こんな書き出しの書評を目にして、驚くと同時にうれしかった。このおかげで『経済人の終わり』は英米でベストセラーとなった。刊行から半年後、ドイツとソ連は独ソ不可侵条約を締結し、世界を驚愕させる。すぐにドイツ軍はポーランドヘ侵攻、第二次世界大戦が勃発した。 
 チャーチルは大戦勃発後に首相に就任。英国軍がダンケルクで撤退を強いられ、パリが陥落すると、軍の士官侯補生に与える支給品に『経済人の終わり』を加えるよう指示した。だれかのユーモアによって『不思議の国のアリス』も一緒に加えられた。
 『経済人の終わり』に注目した大物はチャーチル以外にもう一人いた。一般誌タイム、経済誌フォーチュン、写真誌ライフを創刊した雑誌王、ヘンリー・ルースだ。彼から「感銘を受けた」と記した手紙を受け取った私は、ニューヨーク市内のレストランで意見交換することになった。
 ルースは丹念に私の本を読み込んでおり、鋭い質問をしてきた。一方、一緒にいた著名脚本家の妻は明らかに本を読んでおらず退屈し、議論をやめさせようとした。
 「その『経済人(エコノミックマン)』は『物質人(フィジカルマン)』に取って代わられるのでしょうか?」
 この質問に私が絶旬したことにはお構いなしに、ルースは話題を切り替えた。
 「海外ニュース編集者を入れ替えようと思っていてね。後任は君がいい」。彼が興味を持ったのは実は本ではなく、私自身だったのだ。
 これには心を動かされた。当時のタイムは全国的な世論形成機関と呼べる唯一の存在で、海外ニュース編集者は若手記者にはあこがれのポストだった。大恐慌の時代に給与はけた外れに高く、29歳で収入も非常に少なかった私は試しに同意してみた。

経済誌を編集 雑誌王に学んだ60日 IBM創業者とやり合う

 雑誌王ヘンリー・ルースの誘いを受け入れ、週刊誌タイムの海外ニュース編集者になる話は結局実現しなかった。
 タイムでは私は共産主義者の敵と見なされたからだ。共産主義に共鳴するジャーナリストが多かった時代、『経済人の終わり』でファシズムと共産主義の結託を予測したことが原因だ。職場での派閥抗争は真っ平だから、ルースには「この話はなかったことにしてくれ」と伝えた。
 それでもルースはあきらめず、1年後の1940年に再び連絡してきた。経済誌フォーチュンの創刊十周年記念号の編集作業が大幅に遅れており、助けてほしいという。
 フォーチュンについて少し説明しておこう。同誌は、ルースの創案による斬新なグラフィックスやイラストを駆使する雑誌デザインの革命児であった。それに劣らずに重要だったのが、これもルースが開発した「企業ストーリー」だ。「企業のために」ではなく「企業について」徹底調査し、分析するいわゆる調査報道の元祖といえる。
 期限付きなので今回は依頼を引き受けた。それから2カ月間はルースと一緒に昼夜を問わず働き、締め切りと格闘し続けることになった。
 フォーチュンで編集した記事の中では、入社間のない記者によるIBMの「企業ストーリー」が思い出深い。
 当時のIBMは大恐慌でも社員を解雇せず、社員の訓練に注力する異色の存在だった。これによって倒産せずにいたのである。創業者トーマス・ワトソンは、後年に私が指摘する「労働力はコストではなく資源である」をすでに実行していたわけだ。宣伝スローガン「THINK(考える)」も革新的だった。
 それなのに、記者はこんなIBMには一切触れず、見事に的外れな原稿を書き上げた。「調査報道とはとにかく敵対的になること」と勘違いしていたのだ。ワトソンが社の敷地内で飲酒を禁じていることに憤慨し、彼を「米国版ヒトラー」と呼ぶなど個人攻撃に終始。しかも達筆な文章で書いており、ルースは「余計に後味が悪い」と嘆いた。
 締め切りを考えれば差し替えは不可能。猛烈な抗議は必至だ。私は編集責任者としてまず記者を守り、一歩も引かないつもりだった。ルースにはIBMからの電話は私につなぐよう頼んでおいた。
 当時の習慣に従い、印刷所へ回る直前に記事はIBMへ送られた。数日後、電話が鳴った。「トーマス・ワトソンだ。記者と話したい」。「責任者は私です」と突っぱねる私と押し問答すると、「それなら広報部長に招きたいと彼に伝えてくれ」という。
 ワトソンが記事を気に入っているはずはない。記者を広報部長に抜てきするのと引き換えに記事をボツにさせようという魂胆なのか。だが、「記事が出なければ広報部長の話もなかったことにする」とも言うので、つじつまが合わない。
 ふと気になって「記事はお読みになったのですか?」と聞いてみたら、ついにワトソンは怒ってしまった。「私と私の会社についてはいつだって読んでいる」。彼にとっては記事の内容はどうでもよかった。どんな記事でも誌面化されれば、IBMの宣伝になると考えていたのだ。
 ルースと一緒に働いた期間は短かった。けれども、文筆家として長いキャリアを過す中で、最も面白く、刺激的で、勉強に役立った期間でもあった。

青天の霹靂 「経営の権威」へ第一歩 GM徹底調査引き受ける

 1943年の晩秋、ちょうど34歳の誕生日を迎えるころのことだ。
 「ポール・ギャレットと申します」と電話の主は名乗った。「ゼネラル・モーターズ(GM)の広報部長です。当社副会長のドナルドソン・ブラウンに代わって電話しています」。世界最大企業、GMの経営方針や構造について第三者の目で調査してくれないかという。青天の霹靂とはまさにこのことだ。 
 そのころには米国生活も軌道に乗り始めていた。前年に小規模ながら権威あるベニントン大学での教授職を得て、ニューヨークから北東部ニューイングランド地方のバーモントヘ一家で移住。自分で勉強したい分野を自由に教えられ、楽しかった。一方、子供は次々と生まれ、妻は同大学で長年の夢だった数学と物理を勉強するようになった。
 共産主義者の敵と見なされて週刊誌タイムヘの就職は棒に振ったとはいえ、フリーランスの文筆家としてはようやく一本立ちしていた。雑誌社との打ち合わせのため、ニューヨークやフィラデルフィアヘ通うのはきつかったけれども、それもまた刺激になった。日本の真珠湾攻撃後は、コンサルタントとして陸軍省の仕事も引き受けた。
 唯一うまくいっていなかったのが大企業を内部から調査するプロジェクトだ。このプロジェクトを思い立ったのは、バーモントで二作目『産業人の未来』を書き上げる中で、大企業が組織としてどのように動いているかを知る必要があると痛感したからだ。
 様々な経営者にかけ合ったものの結果は散々。ウェスチングハウス・エレクトリック(WE)のトップはどんなプロジェクトか知ると仰天し、私を追い出した。『産業人の未来』で私は「自治」や「分権」の必要性を説いていたため、今度は「ウィーン版ボルシェビキ(旧ソ連の革命的左翼)」と見なされたようだ。
 意気消沈のさなかのGMからの誘いだった。当時のGMは中興の祖アルフレッド・スローンの下で、世界初の本格的な事業部制や分権制を導入するなどで近代的な企業経営の元祖になっていた。今振り返っても幸運に恵まれていたものだと思う。
 数日後、喜々としてブラウンと顔合わせした。「スローンはすでに定年を過ぎ、大戦後に辞めます。私も一緒に引退します。若い世代へ引き継ぎする前に、古い世代のやり方を見直しておこうと考えています。『産業人の未来』を読んだところ、あなたは政治・社会学者の目で
当社を見ることに興味があるのではと思ったわけです」
 早遠、経営幹部と面会し、全体像をつかもうとした。ところが、だれも口をきいてくれない。
 再びブラウンを訪ね、「本を書くのが目的だと言えば協力が得られるのでは」と提案した。すると「私は仲間にウソをついたことはない。本を書くと言うからにはちゃんと出版してほしい」との答えが返ってきた。しかも「検閲する気は毛頭ない」という。
 そもそも、彼は大企業の組織がどうなっているかに興味を持つ出版社は存在しないと思っていた。経営に関する本が実質的に皆無だった時代背景からすれば当然だ。いずれにせよ、18カ月間かけてGMを徹底調査するプロジェクトが始まった。この経験がなければ、経営の権威としての現在の自分もないと思う。

最高の研究対象 「GMの頭脳」と懇意に 戦時下の工場現場も取材

 ゼネラル・モーターズ(GM)ヘコンサルタントとして招かれた1943年当時、「マネジメント(経営)」をテーマにした書籍や論文は情けないほど少なかった。「マネジメント」と称する資料を見つけても、生産や販売、宣伝など特定の分野を扱うものばかりだった。
 要は自分で一からやるしかなく、GMの調査にはいやがうえにも力が入った。折しも、1922年からトップの座にあるアルフレッド・スローンの下で、同社は「資本家」ではなく「経営のプロ」が運営する近代的な組織へ大転換中だった。マネジメントの研究対象としてこれに勝るものはなかったと思える。
 調査に費やした18カ月の問に、シボレーやキャデラックなどの事業部はすべて、ミシシッピ川以東にある工場の大半も訪ねた。戦時体制下にある工場現場では愛国心に燃える労働者に直接取材。だれもがすぐに会ってくれたし、どんな質問にも答えてくれた。GMと私の架け橋になってくれた副会長のドナルドソン・ブラウンの了解の下で本を書いていると言えば、それで十分だった。
 経営陣はどうかというと、「統制された組織人」という神話とは正反対だ。何十人に上る幹部に面会し、それぞれが強い個性の持ち主だと知った。今でも鮮明に記憶に残る幹部の中の一人がブラウンその人である。
 「GMの頭脳」と言われたブラウンについて説明しておきたい。最初は化学大手デュポンに籍を置き、そこで有名な「デュポン式財務管理」を設計し、投資収益率(ROI)の概念を初めて経営に取り込んだ人物だ。ROIは当時は革新的で、ウォール街では最新の投資分析手法としてセンセーションを巻き起こした。私がROIなどについて学んだのは、1929年にフランクフルトで証券アナリストをやっていた時だ。
 1920年にデュポンが倒産寸前のGMを救済するとブラウンもGMへ移籍、ここでも「デュポン式」を持ち込んだ。ただ、GM内では尊敬されていても、「あの人の話はちんぷんかんぷん」と思われ、だれも近寄ろうとしない。彼の言葉を翻訳するのはいつもスローンだ。だから、大戦終結後には五十代の若さでありながらスローンとともに引退するつもりでいた。
 そんなわけで、話を熱心に聞き、理解する私に感激したようだ。ほぼ6週間ごとに、金曜日の午後になると私を副会長室へ呼び寄せるようになった。大抵は途中で洗面所へ消え、スーツ姿から普段着姿へ変身。「ちょっと一杯やりましょう」と強いマティーニを勧め、自分の家族やGMの初期のことなど素晴らしい物語を語り始めたものだ。
 GMの経営陣はみんな自信家だった。例えば、独立すればそれだけで米国最大企業の一つになったであろうシボレー事業部のトップ、マービン・コイル。GMの最高経営責任者(CEO)であるかのように「分権制の利点」について私に説教するのだった。
 けれども、だれもがスローンの名前を口にすると声が変わった。スターはスローンであり、ほかは脇役に過ぎなかった。一定の準備を終えて私がスローンに会ったのは1944年に入ってからだ。

特異な経営者 補聴器で会議牛耳る 私情の排除、とにかく徹底

 1944年にゼネラル・モーターズ(GM)のスター、アルフレッド・スローンに初めて会った時は正直いってがっかりした。
 やせ形で馬面のうえ、補聴器をぶらさげているから人好きがしない。しわがれ声には強いブルックリンなまりがある。それでいて「あなたの調査は私が率先してやろうとしたものではない。無駄だと思いました。仲間に押し切られただけです」とぶっきらぼうに言う。
 しかし、少し話を聞けば、彼がなぜ巨大組織の中で権威を保ち続けているのかすぐに理解できた。社交辞令を使うような人間ではないのだ。
 「あなたが仕事をしやすいようにしてあげることが私の義務です。経営委員会にもどんどん顔を出すのがいいでしょう。何を調べ、どんな結論を下すか。すべてあなたの自由です。注文は一つだけ。『こんな助言なら気に入ってもらえそう』などと決して妥協しないでもらいたい」
 私はよく「経営者にとって完壁な秘密兵器があるとすれば、それは何ですか」と聞かれる。そんな時には「アルフレッド・スローンの補聴器です」と答えることにしている。各種の経営委員会にオブザーバーとして出席するようになり、実際に彼の補聴器の威力を目撃したからだ。
 以前から耳が遠いスローンは旧式な補聴器を使い、胸には大きな電池をぶら下げ、耳には大きなラッパをつけていた。自分が話をする時にはスイッチを切らなければならず、そのたびにとてつもなく大きな音が響き渡る。すると、部屋の中のだれもが話をやめ、彼は会議を牛耳れた。
 ただ、彼は自分の意見を押しつけたりはしない。補聴器のスイッチを切るのも、ほかのみんなが発言を済ませてからだ。会議が終わると、いつも私をオフィスヘ招き、質問や意見はないかと聞いてきたものだ。
 「でもスローンさん。私に反対意見があったところで聞き入れてもらえるものでもないでしよう」
 「私が裸の王様になっているか見極める必要があるのです。GMの中ではだれも教えてくれませんからね」
 経営者として注目すべきスローンの資質は私情をはさまないことだった。この点では異常なまでに徹底していた。
 本社のエレベーターの中で新顔のボーイを見つけ、名前を聞いた時のことだ。「ジャックといいます」との答えが返ってくると、顔を真っ赤にして「私はあなたの姓を聞いているのです」と言い、しかも最後に「サー」をつけるのを忘れない。
 ボーイでさえこうなのだから、同僚に決してファーストネームを使わなかったし、一緒に大笑いすることもなかった。「職場で友人をつくるのは許されない。特定の人間をひいきしかねないからね」。私もずっと「ミスター・ドラッカー」であり、戦後も含め親友と呼べるような関係にはならなかった。
 そんな調子だから、自分の後継者選びでも私情を排除した。自ら後継者を指名すると「うり二つの人間が選ばれ、そんな人間は必ずダメな経営者になる」。企業統治に対する認識が高まった現在でさえ、取締役会の指名委員会に後継者人事を一任できる経営者はまれだ。それほどスローンは特異な存在だった。

『会社という概念』 GM側から集中砲火 スローンの冷静さ、救いに

 ゼネラル・モーターズ(GM)の調査を終え、それを『会社という概念』(Concept of the Corporation)にまとめて刊行したのは、第二次世界大戦後の1946年。GM経営陣や出版社の予想に反してベストセラーとなった。
 ところが、である。学界では私は「うさんくさい奴」と見なされるようになった。当時は「マネジメント(経営)」という言葉は一般になじみがなく、学問としても確立していなかったためだ。
 ある書評では、評者はミクロ経済学を扱わないビジネス書であることに当惑し、「価格の理論などについての分析が欠けている」と批判した。次のような書評もあった。「この若い学者が持てる才能をもっとまじめな課題に使うことを期待する」。マネジメントは政治学の領域でもなく、私は米国政治学協会の研究メンバーからも外された。
 それよりも痛烈だったのは当のGMからの批判だ。例えばシボレー事業部を率いていたマービン・コイル。私の本を読んで「左翼からの敵対的な攻撃」と見なした。戦時体制から平時体制への復帰に際し、GMの半分を占めるシボレー事業部のスピンオフ(分離・独立)を検討すべきだと私が提言したからだろう。
 「ミスターGM」のアルフレッド・スローンは自分のいる席で私の本を話題にすることさえ許さなかった。同僚の一人がクリスマスプレゼントとして私の本を友人に贈ろうとすると、「私ならそういうことはしない。ドラッカー本を支持したことになるからね」と忠告した。
 私はGM経営陣に対し、人が作ったもので四半世紀以上も有効なものはなく、GMの経営も例外ではないとの考えを示した。しかし、彼らにとってはGMの経営は恒久的に有効な原理によって成り立っており、それを変えられないのは重力の法則を変えられないのと同じであった。
 とはいっても、スローンは感情的になるような人物ではない。私情を挟まない点ではいつでも徹底していたのだ。『会社という概念』への対応について会議が開かれ、私が集中砲火を浴びた時のことだ。彼はすかさず立ち上がり、次のように私を弁護した。「みんなの意見には100%賛成だ。しかし、ドラッカー氏はGMの要請を受けた際にやると言ったことをやったに過ぎない。それに、彼にも間違っていても自分の意見を述べる権利がある」
 実のところ、これをきっかけに個人的にスローンと長いつき合いを始めることになる。彼は1950年代半ばに会長職を辞めるころから、年に数回は私をニューヨークの自宅へ招き、ランチを食べながら話をするようになった。
 話題は多岐にわたった。例えば、自分の名前を冠したビジネススクール、マサチューセッツ工科大学(MIT)スローン校の運営について、私に何度も相談してきた。同校で教えてくれないかと私に打診し、断られるとひどくがっかりしたものだ。
 最も好んで取り上げる話題は、ほかでもない、彼が自ら執筆し、後に『GMとともに』として刊行するGM本についてだった。私と会うたびに原稿の一部を見せ、コメントを求めてきた。私は優れた内容であると思い、すぐに出版するよういつも促した。80代どいう高齢を考えればなおさらだ。だが、彼はかたくなに出版を拒むのだった。それについては次回で説明したい。

「分権制」ブーム フォード・GEが採用 スローンに自著出版促す

 1946年刊行の『会社という概念』(Concept of the Corporation)で「分権制」という言葉が流行し始めた。日本や欧州で言われる「事業部制」と実質的に同じことだ。
 前回書いたように、この本は当のゼネラル・モーターズ(GM)に拒絶された。けれどもほかの大企業には大きな影響を与えた。代表例は、GMとの競争に敗れて危機に見舞われていたフォード・モーターで、同社こそGM式の分権制に基づいて経営組織を再編成した最初の大企業だ。
 当時のフォードでは、老弱した創業者ヘンリー・フォードの跡を継いで、孫のヘンリー・フォード二世が20代半ばで社長に就任したばかり。経験不足を補うためGMの幹部を引き抜いていた。その中の一人は会長として迎えられ、出版されたばかりの『会社という概念』をフォード再建の教科書に指定した。
 同様に経営不振に陥っていたゼネラル・エレクトリック(GE)も、1950年にGM式の分権化に取りかかった。やはり『会社という概念』を教科書にし、私とコンサルタント契約も結んだ。ちなみに、この時に作った社内チームで一緒に働いた若手二人はいずれも後に最高経営責任者(CEO)になった。
 GEの改革はほかの大企業が見習うモデルになり、その後の20年間に及ぶ組織改革ブームを引き起こした。それに伴い、経営コンサルタントが世界的に活躍し始めるようになる。分権制は目玉商品のように扱われ、大企業ばかりか大学や教会なども分権制を採用するようになった。
 その間、『会社という概念』はGMにとってもアルフレッド・スローンにとっても有害であり続けた。一方、スローン自身による『GMとともに』は、私の催促にもかかわらず出版されないままであった。なぜなのかというと、本の中に登場するGM関係者にとって批判と受け取られかねない記述があり、彼らが存命中は出版できないというのだ。本人よりも15歳は若い関係者もいたのに、「経営者とは公の場で部下を批判しないものだ」との意志を貫いていた。
 1960年、スローンはなぜ『GMとともに』の執筆を決意したのかについて次のように本心を語ってくれた。「回想録を書こうと思っていたけれども、偉そうな人間に思われるのは嫌だからやめました。ところが、あなたの本のせいで計画変更を強いられた。自分で本を書き、きちんとした記録を残す義務を背負わされたのです」
 そんなある日、スローンからニューヨークのオフィスヘ呼ばれ、出版を決めたと知らされた。基本部分を書き終えてから10年以上経過し、GM関係者の最後の一人が亡くなったのだ。
 1964年、今なお経営書の決定版である『GMとともに』が世に出た。私はニューヨーク・タイムズに書評を書き、「楽しい読み物」だとたたえた。すると、20年に及ぶつき合いの中で初めて本気で怒りをぶつけられ、「誤解を招く表現を使った」と非難された。彼にとってこの本は楽しく読んでもらうためではなく、「経営のプロ」という職業を確立するために書いたものだった。
 スローンは本の中で『会社という概念』について一行も触れていない。GMの経営について正面から扱った本はこの本以外になかったのに、である。『GMとともに』の出版から3年後に「ミスターGM」は90歳で永眠した。

知識労働者 生涯の重要テーマに 「職場改善」はトヨタが実践

 『会社という概念』(Concept of the Corporation)によって、私はゼネラル・モーターズ(GM)から敵視されたのに、その後も同社のコンサルタントを続けた。私の考えに賛同する幹部がいたからだ。この本が刊行された1946年に、アルフレッド・スローンから最高経営責任者(CEO)のポストを引き継いだチャールズ・ウィルソンだ。
 GMの調査で得た結論で最も自信を持ったのは、「責任ある労働者」が運営する自治的な「工場共同体」をつくることだ。戦時下で管理者が不足する中で、労働者が責任感を持ち、連帯しながら品質改善に取り組む状況に感銘を受けたからだ。平時体制へ復帰してもこれは生かさなければならない、と思った。
 「責任ある労働者」はその後、「知識労働者」へ取って代わられて生涯の重要テーマになる。「経営権の侵害」と見なされかねない危険な考えだったのに、組合出身であったからかウィルソンは極力受け入れてくれた。
 そんなわけで、1947年、彼は米産業史上では初めての大規模な従業員意識調査を実施。「私の仕事と私がそれを気に入っている理由」と題した作文コンテストで、従業員が会社や上司、仕事に何を求めているかなどについて聞くのを目的にした。私も審査員に加えられた。
 大成功だった。従業員の3分の2以上、人数にして30万人の応募があった。まさに情報の宝庫。従業員が会社や製品との一体感を求め、責任を持ちたがっていることは明らかだった。「従業員が欲しているのはカネだけ」という通説は的外れだったのだ。
 コンテスト自体は台無しになった。30万人分の作文を読むのは不可能だからだ。それでも、各審査員はそれぞれ数千人分の作文に目を通し、読めなかった分はGMのスタッフが分類してくれた。
 これを踏まえ、ウィルソンは「職場改善プログラム」を導入しようとした。現代風に言えば「品質管理(QC)サークル」で、成功すればその元祖になるはずだった。
 ところが、このプログラムは頓挫し、コンテストについての報告書もまとめられなかった。全米自動車労組(UAW)が猛反対したからだ。コンテストは今後はやらないという条件で、1948年にUAWはストライキをやらずに賃金回答をのんだほどだ。
 なぜか。私はコンテストについて、米国で最も影響力を持つ組合指導者であるUAW会長のウォルター・ルーサーと交渉した時、「経営陣が管理し、労働者が働く。労働者に対して管理者としての責任まで負わせるということは、労働者に大きな負担をもたらす」と言われた。
 その後もウィルソンはあきらめず、会長のスローンに対し、従業員担当副社長の新ポストを設け、それには私がふさわしいと進言した。数年後にウィルソンが国防長官へ転じると、この話は立ち消えになった。
 ウィルソンはコンテストで得た貴重な資料が倉庫へ葬り去られたことを残念がった。しかし地球の裏側でよみがえった。1950年代前半に、私の助けを借りてコンテストの結果はトヨタ自動車へ持ち込まれ、同社の終身雇用や労使協調政策の面で生かされたのだ。当時のトヨタは労働争議に見舞われ、創業者の豊田喜一郎が社長辞任に追い込まれるなどの苦境にあった。

GEでの思い出 経営コンサルを考案 「事業の目的は顧客」断じる

 1950年代に入ると、ゼネラル・モーターズ(GM)以外からもコンサルタントの仕事が次々と入ってくるようになった。大企業ではゼネラル・エレクトリック(GE)、シアーズ・ローバック、IBMなどだ。
 GM式の分権制が大ブームになったことが背景にある。IBMでは、創業者の跡を継いだトーマス・ワトソン・ジュニアと月2回、朝9時から午後4時半までたっぷりと意見交換した。こんな関係が5年は続いた。
 思い出深いのはGEだ。「経営コンサルタント」の誕生と関係があるからだ。
 当時、GEで分権化などの組織改革プロジェクトを指揮していたのは副社長のハロルド・スミディ。コンサルティング会社ブーズ・アレン・ハミルトン出身で、私をGEへ呼び寄せた張本人である。改革を進めるに当たって大量の報告書をまとめる作業に取りかかり、私にその執筆や編集作業を委任した。
 どんな改革を進めるべきかについて提言し、報告書を作成する部隊を何と呼べばいいのか。スミディが私と一緒になって考案したのが「経営コンサルタント部」だ。コンサルティング業界が揺藍期にあった時代であり、これは目新しい名称であった。
 ここに、近代的な経営コンサルタント業の創始者であるマービン・バウワーとの接点がある。マッキンゼーを世界的なコンサルティング会社へ成長させ、2003年に99歳で亡くなった人物だ。
 バウワーとは親しい関係にあった。5年間か6年間にわたって、毎週土曜日の午前中にマッキンゼーへ出向き、コンサルティング業について教えていたからだ。彼がマッキンゼーのトップに就いた1950年には「うちへ来ないか」と誘われたこともある。そのころには私は一匹おおかみとして働くほうがずっと効率的だと思うようになっていたので、その誘いを断った。
 けれども協力はできた。バウワーから「マッキンゼーを何と呼んだらいいだろう?」と相談された時のことだ。迷わずに「経営コンサルタント」と提案すると、受け入れてもらえた。「経営コンサルタント」という言葉は、スミディと私によって生み出され、マッキンゼーへ持ち込まれて世に広まったわけだ。
 GEではほかにも発見があった。「事業の目的」という本質的問題についてである。
 これについては、かつて講義を聴いたジョン・メイナード・ケインズも含め経済学者はだれも答えてくれない。私はスミディと一緒に働く中で、技術ではなく顧客によって事業を再定義し、それに従って分権化を進めるべきだとの結論に達した。
 私の言葉の中で最も広く知られているものに「事業の目的とは顧客をつくり出すこと」がある。一般的な「事業の目的とは利益を生み出すこと」は見当違いだと断じたわけだ。これを新鮮に思ったスミディは、GEでまとめた報告書などを土台にして本を出版するよう強く勧めたのだった。
 1954年、GEなどのコンサルタントを手がけた経験を基にして『現代の経営』を出版した。30冊以上に上る私の著作の中でも金字塔に位置付けられているものだ。正確ではないが、この本によって「マネジメント(経営)が発明された」とも言われるようになる。

マネジメント科 NY大の初代学部長 ハーバード移籍4回断る

 ゼネラル・モーターズ(GM)の調査をきっかけにコンサルタントとして一本立ちしたといっても、そればかりやっていたわけではない。大学教授もずっと続けていた。
 1949年のことだ。それまで7年間暮らしていた田舎町バーモントを離れ、ニューヨークヘ戻ることになった。妻も子供たち(娘三人と息子一人)もみんなバーモントを気に入っていたけれども、地元の寄宿学校へ入りたがらない長女キャスリーンの教育を考えれば仕方なかった。
 そのためにニューヨークのコロンビア大学で教えることに決め、契約を交わした。後は、当時の学長で、数年後に米国大統領へ就任するドワイト・アイゼンハワーが署名するだけ。授業の下準備をするためにコロンビアを訪れると、なんとアイゼンハワーは財政難を理由に署名を拒否したことを知ったのである。
 突然失業の身になって呆然としながら地下鉄の駅へ向かうと、ニューヨーク大学(NYU)のビジネススクールで教えている顔見知りの男に出くわした。
 「こんなところで何しているのです?」
 「コロンビアでマネジメント(経営)を教えるはずだったのに断られてね」
 「偶然ですが、ちょうどマネジメント科を立ち上げるので、教授陣を探しているところなのです」
 またしても幸運の女神が味方してくれた。その場で私は採用され、1週間後には早くもNYUで働き始めた。そこでマネジメント科を創設し、学部長に就くことになる。
 正式科目としてマネジメントを教える大学としては、NYUはハーバード大学、マサチューセッツ工科大学(MIT)に次いで世界三番目。私はここで、1971年にクレアモント大学へ移籍するまで22年間にわたり教壇に立つことになる。
 その後、ビジネススクールで経営者養成のためのマネジメント科が大ブームになる。いわゆる経営学修士(MBA)が大量生産される時代が幕を開けようとしていた。
 本当はビジネススクールで教えることになるとは想像していなかった。当時はマネジメントといっても必ずしもビジネスとは結びつかず、私は政治学の領域に入ると思っていた。コロンビアでも、新設の米国研究科でマネジメントを教える契約になっていた。
 余談だが、ハーバードからも誘いを受けたことがある。それも1回どころではなく4回もだ。このうち2回はビジネススクール、ほかの2回は政治学や行政学を専門にするケネディ校からの誘いで、すべて断っている。ハーバードからの誘いを4回も断った人物は、ハーバード史上で私が唯一ではないかと思う。
 最大の理由は、月に3日間を超えてコンサルタントの仕事をしてはいけないとの規定だ。「マネジメントを教えるには実務経験が欠かせない」と主張したけれども、ハーバード側は「ケース(事例)を書くことで実務経験を得られる」と言うばかりで、一致点を見いだせなかった。
 NYUでは、マネジメントの教授陣にエドワード・デミングも加えた。品質管理(QC)の大家で、日本では「デミング賞」で知られる学者だ。彼の娘とは最近も会ったばかりで親しい。彼とのかかわりについては次回にしよう。

教室はブール デミングと授業担当 インテル創業者を手助け

 日本へ品質管理(QC)の考えを持ち込んだエドワード・デミング。ニューヨーク大学(NYU)では同じ場所で教えた。市内のプールだ。 
 1949年にNYUでマネジメント(経営)科を新設したのはいいが、教室がない。NYUに近いウォール街周辺で適当な場所を探すしかなかった。当時は市の規制で週に一度はプールの水を抜き、48時間は乾燥させなければならなかった。そのため、月曜日になるとプールは空っぽで、教室として使えた。
 デミングは午後3時から飛び込み台に座り、プールの中の学生に向かって話をする。5時半に彼と入れ替わって私が登場し、タ食を挟んで夜10時まで授業。彼とは基本的に、毎週月曜日にプールで入れ替わる際にあいさつするだけの関係だった。妻を亡くしてから人付き合いを好まなくなったようだ。
 彼と知り合ったのは第二次世界大戦中。陸軍省のコンサルタントとして、軍需品の生産を手がける企業を立て直す仕事をしていた時だ。
 大量生産全盛の当時、生産現場の管理者は有能な軍曹になれる素質を備えていた。そのため、どんどん戦争へ駆り出され、現場での品質管理は悪化の一途。これを食い止めるのに役立つ男はいないかと探し回っていると、政府で働いていたデミングに行き着き、手伝ってもらったのだ。
 NYU時代には、仕事と離れた世界で知り合い、後に有名になった人物もいる。世界最大の半導体メーカー、インテルの共同創業者アンドリュー・グローブだ。1968年の同社誕生前の話である。
 グローブは1956年、旧ソ連の軍事介入を招いたハンガリー動乱に絡んで米国へ逃れている。実は、彼については米国へ来る前から知っていたし、彼が米国へ来た後も就職の世話をしている。
 ハンガリー動乱時、故郷ウィーンはハンガリー難民であわらふれていた。彼らは藁にもすがる思いで国際救助委員会(IRC)の事務所に駆け込んだ。グローブもその中の一人。IRCはナチスドイツの迫害から逃れる人たちを救うため、物理学者アルバート・アインシュタインの提唱で設けられた非営利組織だ。
 IRCを率いていたのは、1991年まで40年間会長を続けたレオ・チャーン。彼は私の友人であり、私自身もナチスの圧迫を逃れて米国へ来た人間だ。難民へのビザの発給や仕事の紹介で協力するのは当然であり、グローブが米国へ脱出する際にも、ハイテク企業へ就職する際にも力を貸した。
 グローブは私から学ぶことが多いと公言している。私が西海岸へ移住すると、インテルを共に創業したゴードン・ムーアらと一緒に私を訪ねてきたことも何度かある。だが、一つ指摘しておきたい。彼にはコンサルタントは必要ないということだ。
 1960年代に入ると、『創造する経営者』や『経営者の条件』などのマネジメント本に加え、『断絶の時代』が思わぬところで評価されてベストセラーになった。この本で使った私の造語「民営化」が英国保守党の基本政策に織り込まれたからだ。これは後に、サッチャー政権で実行に移された。
 この時代にはほかにもうれしいことがあった。多くの水墨画を生み出した国であり、『会社という概念』で示した考えをいち早く受け入れた国。そう、日本と深いかかわりを持つようになったのである。

初来日で“中毒” 「経済大国になる」確信 出会った経営者は友人に

 初めて日本を訪問したのは1959年。箱根で開かれた日本事務能率協会(現日本経営協会)主催のセミナーで、約50人の経営者を対象に講演するのが目的だった。
 4日間のセミナー中、「コンピューターとは情報で、情報によって経営のやり方も社会の機能も変わる」といった話をした。すると、参加者は申し合わせたように「空想科学的な発想」と反応した。
 3人だけ例外がいた。このうち2人はソニーの盛田昭夫さんと立石電機(現オムロン)の立石一真さん。2人とも、当時は日本でもまだ名前があまり知られていない企業の創業者だ。残りの一人は、すでに大企業だった日本電気(NEC)の小林宏治博士だ。3人とも亡くなったが、ずっと友人だった。
 今も忘れられないエピソードがある。箱根滞在中、東京の出版社へ連絡を取るために一日中電話をかけ続ける羽目になった。当時のシステムは完全ではなく、ホテルの交換手が電話をつなぐことができなかったためだ。そのあおりで昼食会に遅刻し、空いている席に座った。隣には小林博士がいた。
 遅れたことをおわびすると、みんなが「直すまでに何年もかかる」と話すのだった。それもそのはず、日本の現状を調べた米国人の専門家グループは「米国式のシステムを導入するには10年は必要」との結論を出していたのだ。
 ところが、小林博士は「米国を模倣してもだめです。私の会社なら数年内にやってみせます」と反論。ほとんど試されたことがない技術を用いると言うので、だれも彼の発言を真剣に受け止めなかった。数年後に私が日本を訪問した時、全土で電話システムがきちんと機能していた。
 実を言うと、日本訪問を喜んで引き受けたのは日本画を見たかったからだ。1930年代半ばのロンドン時代。土曜日に牛前の仕事を終えて帰途につくと、繁華街ピカデリー・サーカスで突然の大雨に見舞われた。近くで雨宿りすると、そこでは英国初の日本絵画展が開かれていた。たちまち魅せられ、以来、ずっと日本画中毒だ。
 初の日本訪問で、日本画だけでなく日本という国にも中毒になってしまった。ビジョンや勇気といった資質を備えた経営者に出会い、日本に大きな潜在力があると確信したのだ。
 間もなくして「日本は経済大国になる」という内容の論文も書いた。けれどもどこからも出版してもらえずじまい。日本は本格的な高度成長時代に入る前であり、「経済大国になる」などとはだれも信じてくれなかった。私はいち早く日本の可能性を見抜いた欧米人だと自負している。
 日本では水墨画を鑑賞できるし、友人にも会える。立石さんからはいつも京都の自宅へ招かれ、経済や技術ではなく文化や芸術について語し込んだものだ。それに加えて、家族で美しい山々をハイキングすることもできる。だから初来日から数十年にわたって、2年に一度は一家そろって日本を訪れ、数週間は滞在するようになった。
 一つ補足しておきたい。日本で知り合った経営者はコンサルタント先ではなく友人だということだ。これまでにコンサルティング料をもらったことは一度もないと思う。

「引退」なし NPOの支援に傾注 日本企業は強さ忘れるな

 一世紀近くを振り返り、恵まれた人生を送ってきたものだと思う。4人の子供たちはみんな元気だ。幸いにもだれもマネジメントに興味を示さなかったし、今もしょっちゅう訪ねて来てくれる。
 1970年代以降は何をやってきたか。以前と同様に大学で教え、2年に1冊は本を出し、コンサルタントをやってきた。
 例えば、ゼネラル・エレクトリック(GE)の最高経営責任者(CEO)を20年間続けたジャック・ウェルチ。最初の5年ほどは「ウェルチ革命」を指南した。関係が終わったのは、彼が「ピーター・ドラッカーはチームの一員」と公言したからだ。コンサルタントが組織の一部になったら有害でしかない。
 日本の友人とは引き続き関係が深い。一昨年には、イト−ヨーカ堂の伊藤雅俊名誉会長がクレアモント大学に2千万ドルを寄付してくれた。同大学の経営大学院の名称には、今は私の名前だけでなく伊藤さんの名前も加わる。そんな友人たちに一つ言っておきたい。日本の強さを忘れないでほしい、ということを。
 欧米人と日本人を交ぜてパーティーを開くとしよう。何をしているかと聞かれれば、欧米人は「会計士」、日本人は「トヨタ自動車」などと答えるだろう。自分の職業ではなく自分の組織を語るということは、組織の構成員が家族意識を持っている証拠だ。ここに日本最大の強さがある。
 実は、コンサルタントとして時間の半分はプロボノ(無報酬の公益サービス)で、大学や病院、教会など非営利組織(NPO)へ振り向けてきた。昔からずっとである。今は企業から新規に仕事を引き受けておらず、過去3年ではNPOの割合は8割になっていると思う。かねて指摘してきたように、マネジメントは企業の専売特許ではない。
 現在力を入れているプロジェクトの一つは、米中西部地域にある多数の小規模大学が共同で記録管理を行えるようにすること。全部で600大学あり、このうち180大学はカトリック系の女子大で特に規模が小さい。学生数が80人のところもある。
 こんな大学が法律で義務づけられる記録管理をきちんとやろうとしたらたちまちパンクする。入学試験で志願者を落とす場合、人種差別などをしていないと証明する記録を残さなければならない。これは大変な作業なのだ。大学の担当者とは毎月数日間は打ち合わせをしており、これだけで結構忙しい。
 1950年の正月、父と一緒に、ハーバード大学の教授職を引退しようとしていたヨーゼフ・シュンペーターを訪ねた。二人は第一次世界大戦前のウィーン時代の話に花を咲かせ、私は退屈し切っていた。だが、ふと思った。偉大な経済学者になったシュンペ−ターはこれから一体何ができるものなのか、と。彼は1週間後に息を引き取った。
 分権化、目標管理、知識労働者、民営化ーー。みんな私の造語で、これからも使われ続けるかもしれない。米国大統領から民間人へ贈られる最高の勲章「自由のメダル」ももらった。しかし、有名になるだけが人生を測る物差しではない。これからもこのことを忘れないでいたい。最初に書いたように私には「引退」という言葉はない。