日本経済新聞 2006/4/17−−

川崎病に生涯をかけて  小児科医 川崎富作さん


■「教科書に載っていない病気」と闘い45年
 日本小児科学会賞の第1回受賞者に
 原因究明の必要性に幅広い理解を

 日本でも有数の伝統を誇る日本小児科学会が今春初めて「学会賞」を設けた。第1回受賞者は川崎富作さん(81)。授賞理由は「川崎病の発見」だ。軍医を短期で養成する医学専門部(医専)出身で、市井の一小児科医が「教科書に載っていない病気」に出合って45年。たどってきた道のりは長く、険しくもあった。

 川崎病が「新しい痛気」と認知されるまで、国内で9年、海外では17年かかりました。これまでも賞をいただいていますが、今回の受賞が一番、うれしい。医専を出て、医局に1年弱いた後は、日赤(中央病院、現・医療センター)の小児科一筋に40年間を過ごしました。僕にとって小児科学会はいわぱ道場。育てられ、鍛えられて、今の僕があります。医専出身で、学閥や権威主義に苦しんだ時期が長い分だけ、喜びも大きいのです。

 受賞の背景には川崎病の現状に対する理解と認識の高まりがある。

 川崎病は、主に4歳未満の乳幼児がかかる病気ですが、いまだに原因がつかめていない。狸紅熱(しょうこうねつ)に似ていますが、主な症状は6つあり、小児科医ならば診断は難しくないが、一番の問題は、患者の約5%に心臓障害の後遺症が出ることです。子どもの後天性心臓障害の原因のトップは川崎病です。1970年代に報道されたように、冠動脈が詰まって突然死するケースはまれになってきましたが、後遺症の問題は未解決のままです。
 しかも、川崎病の患者は確実に増え続けている。過去に3回「大流行」がありましたが、今は年間1万人と、2番目に多い流行期に近づく勢いです。少子化で子どもの出生数が減る一方で、患者は増えており、200人に1人は小学校に入る前に川崎病にかかる計算になる。由々しき事態です。

 70年に発足した厚生省(現・厚生労働省)の「川崎病研究班」は2年ごとに全国調査を実施。35年間で20万人を超える患者の記録を集めた。

 世界的にも、これほど長期にわたる疫学調査は例がありません。謎の多い川崎病の原因究明に、この疫学調査のデータベースは絶対欠かせない。しかし、どういうわけか、研究班が申請した次回調査の補助金を厚労省は認めなかった。国の十分な理解と調査続行の英断を願うばかりです。

 65歳で日赤小児科部長を定年退職して以来、寄付金をもとに特定非営利活動法人(NPO法人)日本川崎病研究センターを設立、無報酬で無料電話相談や原因究明の研究費助成などを続けてきた。

 知人、友人の浄財で何とか、十数年間、活動を続けてきましたが、バブルの崩壊で、当初の財団設立も夢と消え、NPOの活動資金も今年度を含め2年分しか残っていません。米国では8つの小児病院を研究拠点に、政府から億単位の資金を得て、原因究明や後遺症発生のメカニズムなどの研究を進めています。川崎病は日本人が発見し、有力な治療法も日本の臨床医が開発したのです。その原因解明は何としてでも、日本でやり遂げねばなりません。




■東京・浅草生まれ、7人姉弟の末っ子
 内藤先生の下で6年間、臨床の基本学ぶ
 後任の神前先生と対立、針のむしろ

 生まれは東京・浅草で、七人姉弟の末っ子。小学校は級長だったが、旧制中学では、太平洋戦争ぼっ発で厭世的な気分も重なり、受験に失敗。一浪後の1943年、千葉医科大学臨時附属医学専門部(医尊〉に入学した。

 生物が好きで、園芸に進みたかったのですが、苦労人の母から、「ぜひ医者に」とせがまれ、親孝行のつもりで、医専を選びました。母は大喜びでしたが、戦争の敗色は濃く、いずれ軍医で戦地に赴き、生きては帰れないと思っていました。

ところが、終戦。GHQ(連合国軍総司令部)の改革で、医専の年限は5年に延長、49年、千葉大医学部小児科の医局に入った。

 貧しく、助教授に「どこか病院に勤めながら、小児科を学びたい」と頼みましたが、「苦しくとも、一年は大学に残れ」と諭されました。でも、医局ではすべてが新鮮で、患者と接するのが一番の楽しみだった。生きがいも感じ、医師としての自覚も生まれたのです。

 
その年の暮れ、日赤中央病院への派遣が決まる。待っていたのは、内藤壽七郎・小児科部長。「ラジオドクター」としても有名な指導医の下で6年間、みっちり、臨床の基本を体得した。

 先生は前年の夏、愛育病院から引き抜かれたのですが、彼を慕う母親たちがどっと日赤に押し寄せ、人手不足になった。それで若手をと、僕に声がかかったのです。月給は5700円。医師としては最低のランクでしたが、給料がもらえるだけで幸せでした。
 今までに、内藤先生のように丁寧な診察をする医師を見たことがありません。親の話にじっくり耳を傾けます。それから診察を始めるので、一人の患者に時間がかかります。先生が外来担当の日は、皆夜の9時まで帰れなかったのです。
 症例報告と、亡くなった患者の解剖重視も、内藤先生の基本方針です。小児科学会の地方会で、できるだけ症例報告をするようにいわれて、医局で予行演習に励みました。不幸にも、子どもが亡くなると、心を鬼にして、解剖させてほしいと親御さんに頼みます。「解剖して初めて、本当のことがいえる」が口癖でした。
 その影響でしょうか、母が胆のうがんで亡くなった時、僕は自宅から母の遺体を運び、病理解剖をお願いしました。一医師として、感情を交えることなく、解剖に立ち会ったのです。

 
日赤のスターだった内藤部長も、東大時代の恩師の指示には逆らえず、56年春、古巣の愛育病院再建のため、院長として転出。後任には、同じ東大小児科で一年後輩の神前章雄(こうさき・ふみお)博士が選ばれた。

 小柄で、地味な内藤先生とは対照的に、神前先生はスマートでダンディー。着任のあいさつで、「今後は東大アカデミズムで指導していく」と宣言します。僕が内藤先生から与えられていた「牛乳アレルギー」の研究テーマでも、神前先生は、「牛乳アレルギーで牛乳嫌いになる」とする僕の見解を否定しました。医局で部長と、一医局員が対立する構図です。毎日が針のむしろの思いでした。
 先生はダンスの名人で、何か行事があると、医局員たちを連れて酒場に繰り出します。もんもんとしていた僕は、そういう席上で、「先生、何でおればかり、いじめるんだ」と絡むようになりました。でも、神前先生の偉いところは、そういう僕に怒りもしない。
 しかし、先生の後輩にあたる東大教授の論文に、いつものようにいちゃもんをつけていると、こういいました。「そんなことばかりいっていないで、君、ひとつ、ちゃんとした仕事をやってみたらどうだい」
 これはショックでした。
 「いいかげんな仕事をやったら、またやっつけられてしまう」と、身構えるようになったのです。

 

■「未知の病」を発見、研究し論文発表
 神前先生の言葉・指導から多大な影響
 学会ではオープンな議論封じられる

 
日赤入りして11年目。1961年1月5日の夜だった。4歳の男児が担ぎ込まれる。山添俊一君。暮れからの高熱で衰弱が目立った。敗血症とみていた俊一君の症状は予想を超えた。

 39.7度の熱。首のリンパ節がはれて、目は真っ赤。いちご舌で、唇も赤く切れ、体中に赤いまだら状の発疹(ほっしん)が広がっていました。解熱後、指先から皮がむけてきたのが印象的でした。猩紅熱によく似ていましたが、3つの点で矛盾していました。猩紅熱の発疹は粟粒大で、びっしりとサンドペーパー状に出るが、それとは違う。猩紅熱の原因とされるA群溶連菌も見つからない。さらには特効薬のペニシリンが全く効かなかったのです。

 
俊一君は平熱に戻り、1力月後に無事退院したが、カルテの記載は「診断不明」。医局の検討会では、スティーブンス・ジョンソン(SJ)症候群との意見も出たが、川崎さんが2例経験していたSJ特有の症状が見つからないと否定して、結論は出ないで終わった。

 あれは何だろう、と思いながら1年が過ぎ、翌年2月のある夜です。近くの病院から転送された2歳の男児の顔を見て、「あっ」と叫びました。俊一君そっくりの症状だったのです。
 2例目を診たことで、教科書にも載っていない病気がこの世に存在すると確信しました。9月までに同様の患者をさらに5例診ましたが、神前先生は副院長兼任で忙しく、僕の報告にもうなずくだけでした。しかも国際学会出席のため、8月から10月まで海外出張に出かけていきました。
 「鬼の居ぬ間に洗濯」とばかり、7人の症例報告を、10月の小児科学会千葉地方会で発表しました。意気込んで「既存のどのカテゴリーにも属さないと思われる」と訴えましたが、フロアからの反応は皆無で、拍子抜けしました。

 
同じ症状の患者は増え続け、神前部長も3年目にようやく「未知の病」を認知。川崎さんは50症例を集めて、日本アレルギー学会誌『アレルギー』67年3月号に、44ページの大論文を載せた。

 神前先生に原稿を渡して1カ月たったころでした。先生は「いい論文だ」とほめた後、鉛筆で2人の筆者名から、自分の名前だけを削りました。「君がやった仕事だから、僕の名前は必要ない」という。先生がどうしても譲らないので、所属する小児科の部長名の形で名前を記しました。普通なら、著者のボスとして、手柄をとって当たり前のような医学界の中で、自分の名前をあえて削った先生の態度には驚きました。
 この論文の題名、後に「MCLS」の略称で呼ばれる「小児の急性熱性皮膚粘膜リンパ腺症候群」は実は、神前先生の命名です。先生の「ひとつ、きちんとした仕事をやってみたらどうだい」といういさめの言葉と、その後の指導がなければ今の僕はなかったといっても過言ではありません。

 
川崎さんの論文が出た年、「MCLS」の症状に注目するいくつかの研究グループが小児科学会で、論争を展開。議論に決着がつくかに見えたが、学会理事長の一言で、オープン議論は封じられる。

 あるグループはSJ症候群と主張し、別のチームは若年性リウマチ様関節炎と言い張る。聖路加国際病院のチームだけが同様に新しい病気と考えていたことは後になってわかりました。
 その年6月の小児科学会東京地方会です。白熱した議論が続き、神前先生が理事長で後輩にあたる東大教授に「シンポジウム形式で検討したいので、よろしくお願いします」と頭を下げました。ところが、教授はひと言「私どもではSJ症候群と診断している」。先生の提案は以後5年間、日の目をみませんでした。

 

■1968年、「川崎病」が論文に初登場
 各地から報告、心臓に後遺症を発見
 米国と格差歴然、調査費の予算化望む

 
医学論文の病名に「川崎」の名前が登場するのは1968年3月。川崎さんにわずかな差で先をこされた聖路加国際病院のチームが長い病名の末尾に「(川崎)」と記した。70年春には、日赤小児科の神前章雄部長を班長に専門家8人からなる厚生省(当時)の川崎病研究班が発足する。

 前年の春でした。神前先生が「研究費の申請書類をもらってきたので、厚生省に出しなさい」というのです。苦労して書類をまとめました。自信作でしたが、夏に届いたはがきは「不採用」。二度と出すものか、と思ったが、先生は翌春も出せという。いわく「都営住宅だって、何度も挑戦して初めて当たるもんだ」。
 考え直し、厚生省の加倉井駿一参事官に直談判して、研究の必要性を訴えました。加倉井さんはすぐに公衆衛生院の疫学部長、重松逸造さんを紹介してくれて、200万円と最高額の補助金を認めてくれました。

 
疫学の第一人者の指導で「診断の手引き」をつくり、70年10月に全国調査を実施。各地から報告された約1300人の患者のうち、10人が突然死していた。

 「予後良好」のはずが一転、「突然死」ですから、一大事です。すぐに担当医を集めて、検討した結果、心臓の冠動脈に瘤(こぶ)ができて、詰まっていた。すぐに2回目の調査をして、翌年5月、計21人の死亡が確認されました。

 思い当たる節もありました。日赤でも、2人の乳児が亡くなっていました。一人は典型的な川崎病の症状でしたが、もう一人は診断があいまいでした。いずれも冠動脈が詰まって、病理解剖で難解な診断がつきました。病理部長は「死んだのは川崎病の患者だ」と主張しましたが、僕は、別の原因で亡くなったと考え、結果的には心臓障害を見落としていました。

 
小児心臓病の専門医たちからは、患者に一定の割合で心臓に後遺症が出るという発表が相次ぐ。川崎さんは74年秋、米国小児科学会誌上と国際学会で、川崎病の特徴と日本での患者の状況を報告。78年には世界保健機関(WHO)が「川崎病」を公認、翌年、世界の小児科医のバイブルといわれるネルソンの教科書にも「カワサキ・ディジーズ」が載った。

 米国でもハワイ大学の小児科医が独自に患者を見つけていて、72年までは、自分たちが発見者だと考えていました。公認以降の米国の対応は素早かった。8つの小児病院を束ねて、政府から100万ドルを超える研究費を獲得しています。患者数は推定2、3千人ですが、子どもの後天性心臓病の原因の第一位が川崎病という事情がありました。
 80年代前半からは、日米の専門医が国際会議を開き、原因究明や治療法などを研究していますが、日本側の態勢はかなり見劣りします。有力な治療法のガンマグロブリンの大量投与法はそもそも元京大教授の古庄巻史さんが20年ほど前に考案して、死者激減につながりました。でも、米国が後追いで開発した投与法の方が今では、国際的に認知されている。格差は歴然です。

 日本は米国を上回る患者データを持っている。にもかかわらず、研究陣は調査費用の捻出に頭を痛めている。

 米国では、CDC(国立疾病対策予防センター)が発生状況を把握しています。ただ、小児科医からの診断報告を受けて把握する仕組みなので、実態を正確に反映しているとはいえません。一方、日本は専門のチームが35年間、主要病院から詳しい報告を集めてきました。こうした調査のための費用はぜひ予算化してほしいものです。

 

■日赤小児科部長として最前線で指揮
 退職後、「研究センター」で原因究明に力
 「医療は温かく 医学は厳しく」を胸に

 日赤医療センターを65歳で定年退職するまで17年間、小児科部長として、最戦前で指揮をとった。診療や育児相談のほか、研修医の指導や会議などの雑務に追われ、日曜出勤が続く。

 48歳で、ようやく宿直から開放されましたが、川崎病の論文を英語で書き、国際学会でも講演するなど、休む暇もない。45床のベッドはいつも満杯。要注意の患者は日曜日も回診していました。
 58歳で一度、脳梗塞で倒れました。妻がいうには、1週間の「面会謝絶」中、朝から晩まで眠り続けていたそうです。90年春に日赤を辞め、1年ほどして病院に行くと、看護婦さんたちから「元気になりましたね」と驚かれました。

 退職から5ヵ月後、日本心臓財団の要請で「川崎病研究情報センター」の所長に就くが、研究設備も職員もいない施設に失望、「研究財団」の設立を目指す。がんで亡くなった幼なじみの女性の遺産、1億2千万円など個人の浄財は集まったが、企業からの寄付金は皆無。次善策でNPO法人・日本川崎病研究センターとして活動を続けている。

 情報センター時代に始めた電話の無料相談は累計1200人を超えており、専門医も紹介しています。大半は親と医師のコミュニケーションがうまくいっていないケースで、原因は医師の説明不足。後遺症や、どんな経過をたどっていくか、きちんと話していない。必要もないのに、負担の大きい検査をしたがる医師もいます。
 82年に発足した「親の会」は会員約1500人。センターの強力な味方ですが、やはり自分たちの子どもが成人後どうなるのか、後遺症のリスクについて心配している。確認できた20万人以上の患者の半数はすでに成人ですから、大規模な追跡調査が必要です。

 東大小児科が、川崎さんの依頼で、過去のカルテを検索した結果、最も古い川崎病患者は、56年前にいたという。では、なぜ川崎病にかかるのか。大勢の研究者がこの謎に挑んだが、答えは出ていない。1万5千人と過去最高の患者が出た82年には、心臓財団がその道の権威を集め、「原因究明委員会」を組織したが、3次、延べ11年に及ぶ取り組みでも、解明はできなかった。

 合成洗剤やダニ抗原に始まり、「レトロウイルス」「溶連菌」「リケツチャ」などの病原体が疑われましたが、どれも決め手を欠きました。今も米国で重症急性呼吸器症候群(SARS=サーズ)の原因とされるコロナウイルスの関与説が出て、センターの助成で専門家に追試をお願いしています。
 疫学調査でみると大流行の動きは明らかに感染症のパターンですが、人同士の感染は確認できていません。患者の事情で病原体への感受性が高まり、発症する可能性も考えられるのです。

 「医療は温かく 医学は厳しく」がモットー。人生は「運鈍根感厳」の5文字、ともいう。

 日赤時代、内藤壽七郎先生からは患者をよく診て、正しい病名をつけて治すという臨床の基本を学んだ。暖かな医療です。神前先生からは、アカデミズム、つまり、病気を前にして、なぜこうなるのかを追究せよという、サイエンスの厳しさを教わりました。お二人の薫陶があってこそ、僕は川崎病と出合えたのです。
 二人の恩師を得た「運」。お金や点数稼ぎにこだわらない「鈍」の姿勢。コツコツやり続ける「根」。本質的な違いをかぎ取る「感」。そしてサイエンスの厳密さの「厳」です。
 「日暮れて、なお道遠し」が実感です。でも、川崎病の原因究明は僕の生涯をかけた夢なのです。歩き続けていくしかありません。