化学経済2004年2月号
日本の化学産業の新たな展開
永尾経夫
はじめに
日本の化学産業は、将来を悲観的に語られることが多かった。『欧米の化学産業に比べ規模が小さい。』、『欧米の化学会社がM&Aなどで大胆な事業再編成を行っているのに、日本は進んでいない』、『石油化学やスペシャリティーなどを多角化したまま選択と集中がない。』、『石油化学の国際競争力はない、2004年の関税低下で打撃を受ける、中国の石化の増強はさらに打撃を与える。』といった論調が見られる。悲観的に語ることで改善が促進されるというプラス面もあるが、実態を見誤まってせっかくのチャンスを逃すべきではない。筆者の考えでは日本の化学産業は欧米とは違ったやりかたで意外にしたたかに変化し進歩を遂げている。脅威はあるが、チャンスが訪れてきている。事態を見すえて自信をもち、必ずしも欧米を範としない成長戦略を進めるべきでないか。わが国化学産業の現状を分析し、あわせて課題について考察したい。
日本の化学産業の現状
まず日本の化学産業の長所や優位性についてふれ、それを踏まえて課題につき検討したい。
@化学品市場規模。アメリカに次ぎ世界2位の市場規模に恵まれている。
A事業構成の多様化、高度化。
かつて主要製品であった化学肥料、無機薬品、染料の構成比は激減した。石油化学系の有機薬品やプラスチックなどの石化系製品は70年以降急速に増加してきたが、近年は低下傾向(70年;19%、80年;32%、2000年;25%)を示している。一方、医薬品・農薬は80年;17%、2000年;27%と大幅に増加した。現状は実質的には「石化系製品」と「医薬品・農薬」「その他化学品」に3分されている。日本の化学産業が社会の変化に応じて、ニーズ・シーズを掘り起こしながら、柔軟に多様化・高度化してきたことを示す。
B先端産業の化学品需要が活発
日本では自動車や情報電子など先端産業のニーズやシーズが活発である。また韓国、台湾のエレクトロニクスメーカーが急速に伸びている。日本の化学会社は情報電子部門を設置して、この分野の事業拡大に取組んでいる。また自動車向けの合成樹脂に求められる性能は次第に高度化している。ポリプロピレンは汎用樹脂と言われているが、自動車会社はエンジニアリング・プラスチック並の高性能を持ったグレードの開発を要求する。日本の化学会社は地の利も得て、先端的な化学品ビジネス開拓で世界を牽引している。欧米では化学産業は成熟産業と見られているが、日本ではフロンティアが広がっている。日本の化学会社はこの分野で収益の多くを得る。
C品質・性能要求が厳しい需要家向けのビジネス
日本の化学会社は需要家の厳しい品質・性能要求に鍛えられて育ってきた。高機能化学品が多く育ったのはその結果である。これらの製品は日本の化学会社がグローバルに事業展開をする上で武器になっている。他方、需要家からの厳し過ぎるほどの要望は日本の化学産業のコスト高の原因となっている。例えば合成樹脂の物流では小口・多頻度納入が多いこと(1件あたり4トン未満のオーダーが総オーダーの過半を占めるとともに、同一ユーザー向けに月に4回以上出荷している商売が全出荷の約半分を占める。)に加え、納入時間の指定や納入車種指定といった条件がつくことが常態となっており、物流コストはそのために高くなっている。アメリカでは通常80トンのレールカー単位、東南アジアでは16トンのコンテナー単位の大口の商売であり日本とは格段の違いがある。欧米ではカスタマー・サティスファクションをもっと向上させようと言われるが、日本の化学会社は顧客向けの各種サービスを既にやりすぎているほどである。過剰なサービスによる高コストの一部は化学製品の売価に織り込まれているが、高コスト分をフルに回収しきれていないことから今後いかに合理的にしていくかという課題がある。
D生産技術の競争力
日本の化学会社は生産技術の開発・改良に努力を傾けてきた。例えば住友化学は最近スチレンモノマーを副生しないプロピレンオキサイドの単産法および硫安を副生しないカプロラクタムの製法というの2つの新製法の商業化に成功した。副生に関連して技術革新を遡ると、日本の化学会社はMMAモノマーにつき、伝統的な製法であるACH(アセトン・シアン・ヒドリン)法に代わって石油化学的な酸化反応による新製法を開発した。新製法は、副生の廃酸が出ないので後処理工程が不要であることが特長である。ACH法では高CODを含む廃酸が大量に副生するので環境コストが嵩み高コストになった。新製法は、環境対策を含めると投資額と製造コストで優位にたつ。日本の化学会社はこの新製法で国内の工場をS&B(スクラップ・アンド・ビルド)するとともに海外展開を積極的に進めている。海外のMMAメーカーもACH法の問題点を認識して代替製法の開発をテーマとしてはとり上げているが、進捗しておらず従来法のままである。
日本の化学会社(住友化学)が主体となって運営するシンガポールの石油化学会社(PCS,TPC)は欧米の多数の化学会社が参加するベンチマーク・エクササイズに参加して生産面などの競争力を対比検討しているが、変動費や固定費などの効率性や計画外の休転が少ない等の点においてトップクラスの好成績を占めている。また欧米の大手化学会社は、日本の化学会社との合弁工場は欧米の工場と比較して生産面のパフォーマンスが優れていると高い評価をしている。問題はこのように環境や安全面を含めて日本の化学会社の生産技術の高さにもかかわらず日本の化学品のコストが割高であることが多いことである。製造コストではプラント規模が小さいことによるデメリットがある。需要が伸長している製品では新鋭の大型プラントを国内でも建設しているが、成熟した製品では国内設備の更新の機会が少ないことが問題である。加えて、営業や研究開発などの間接コストが割高なことが問題である。台湾の奇美実業は大量のABSをわずか数名の営業人員で販売している。日本では顧客のニーズに対してソリューション型の商売をすることが基本なので、奇美スタイルの商売は出来ない。日本の高コストは営業や研究の仕方が手厚いこと、その割に規模が小さいことに起因している。前記の物流問題と並んで、日本の商慣行がコストを高くしているので合理的なあるべき姿の追求が必要である。
E製造業の平均以上の高い成長
化学工業の付加価値額は、製造業平均を大きく上回る成長を示している。経済産業省工業統計表によれば、1985年を100とした場合、2000年の付加価値額は製造業平均が122に対し、化学工業(含む医薬品)は145であり、医薬品を除いた化学工業でも131である。化学工業の成長は、自動車を含む輸送用機械器具(121)を上回り、エレクトロ二クス関連の電気機械器具(136)との比較でも勝るとも劣らない成長力を示している。(みずほ産業調査「石油化学産業の現状と課題」参照)
F化学品貿易収支は黒字
日本の化学品の貿易黒字は90年台になって拡大を続け、02年の純輸出額(輸出額マイナス輸入額)は過去最高の1兆9300億円に達した。貿易収支面からみた日本の化学産業の競争力は国際的な水準に達していると考えられる。輸出競争力は、純輸出額を貿易額(輸出額プラス輸入額)で割った「貿易特化係数」で計られることがある。この比率において、プラスの数値が大きいほど競争力が強く、マイナスは競争力がないことを示す。日本の化学産業の「貿易特化係数」は90年に入ってから徐々に上昇して2000年に入ってから20%台を維持している。EU諸国の化学工業の「貿易特化係数」は25%前後を維持してわが国を上回る。しかし第1次大戦以来化学品貿易黒字を誇りにしてきたアメリカは90年初頭から黒字額が低下しはじめ02年ついに赤字に転落したため、化学品の国際競争力の低下が問題となっている。日本の化学品では医薬品の貿易赤字額が大きいが2000年に入って「特化係数」は大幅に改善されてきており、競争力をつけてきている。一方貿易黒字の業種は有機化学品、合成樹脂など石油化学に属するものが多い。主要製品の2002年における輸出比率(当該製品の輸出÷生産)は、ポリエチレン、ポリプロピレン、ポリスチレンが10%台、塩化ビニル樹脂やスチレンモノマーが30%台である。韓国の石化産業が生産量の半分以上を輸出に依存する構造と比較すると日本はマイルドであり、この程度の輸出であれば、限界利益を稼ぐ補助的な役割と位置付けることが出来る。さらに日本の輸出品は高機能品のウエイトが高いため、中国の輸入国別平均単価では日本品が最も高価格である(中国の輸入価格を日本品と韓国品とで比較すると、ポリエチレン、ポリプロピレンが100ドル強、ABSが300ドル強、PSが50ドルとそれぞれ日本品が高価格)。韓国の三星と現代の両石化会社は新鋭の大型プラントを稼動させ石化事業に乗り出したが、輸出主体しかも中国向け輸出を中心とした事業であったため、経営が困難な状況に陥った。日本と韓国を比較すると原料(ナフサ)の条件は同一である。韓国の両社石化センターとしては集積度が低い(多くの東南アジアの石化センターも同様)。それに対し日本のコンビナートは多種多様な化学工場群により構成され集積度が高い。そのためユーティリティや溜分、半製品の活用などの総合的な効率が高い。しかも稼働開始後の年数が経ってもメンテナンスがよいので生産効率は劣らない。日本の製品価格はローエンド品は輸入品同等の価格でしか売れないが、高性能の差別化品は相対的に高い価格で売れる。高付加価値品のウエートが増えてきていることなどが相まって、日本の化学産業は競争力を備える。技術競争力を示す技術貿易収支は96年以降黒字が定着しており、国際レベルの技術競争力をつけてきていることを示している。
G事業の売買は盛んでない。
欧米化学産業の過去約10年における主要テーマは、M&Aであり、会社解体であった。多くの事業が売買され、また歴史のある会社の名前が消えた激動の10年であった。日本でも三菱系や三井系の化学会社の統合や、合成樹脂の事業統合などが進展したが、欧米におけるような華々しい事業売買やM&Aはなかった。しかし日本の化学会社が変わらなかったのかというとそうではなく、事業構造の変化は着実に進行した。日本の過去10年のテーマは、選択と集中によるコア事業の強化と非コア事業のJV化などの再編、ならびに、情報電子材料など新規事業の育成であった。欧米の化学会社が外部の売上・利益を取り込む形での成長を図ったのに対し、日本の化学会社は内部の資源を使っての成長を基本とした。両者の取り組みは対照的であった。この結果どうなったか。過去10年間の格付けの推移でみると、盛んに再編成を行った欧米主要化学会社では格付けの引き下げが相次いで起こっている。他方、日本の主要化学会社の格付けは維持ないし格上げが起こっている。とくに再編成のモデルとされたICIは一貫して格付けの引き下げが続き、この10年間に5段階も下がる(Aa3→A2→Baa1→Baa2)という極端な落ち込みようであった。バイエルは3段階(Aa2→2001年A2)、ダウは2段階(A1→2002年 A3)の大幅な格下げであった。欧米化学会社は今後なお格下げリスクが高いとされる。(「化学産業において高まる格付け対策の重要性」牧山磨佐人;化学経済03年2月号参照)
欧米の化学会社が行った買収の少なくとも7割は目的を達成せずに失敗に終わっている、とピーター・スピッツは近著‘The Chemical Industry at theMillennium‘で述べている。欧米の再編成が必ずしもうまく行っていないことが格付けの評価にも反映していると考えられる。日本の化学会社の格付けは欧米の主要化学会社となお差があるが、この10年間のいわば「敵失」の結果、差が縮小した。
H中小・中堅化学会社の健闘
中小規模の化学会社(資本金が1千万円以上10億円未満で、大企業の子会社でなく、医薬品を主体としない条件の3つを満たす100社。平均売上高は70億円強)を調べた調査によれば、これらの会社は、化学工業全体よりも売上高の増加率が高くまた従業員の減少率が低く健闘しているとの結果が出た。また中堅化学会社の中には国内外で特徴のある事業を積極的に展開している会社が多い。これらの中小・中堅化学会社は他社と違う特徴ある製品・技術を持ち、開発志向、顧客志向の会社である。規模が小さいデメリットがあるはずだが、逆に企業としての意思決定や行動の機敏性を生かしてビジネスチャンスを掴んで健闘し成長している。(「研究開発型中小・中堅企業の開発」中島邦雄他;化学経済03年5月号参照)化学産業は売上規模だけで活力や競争力を評価できないことを示している。
I海外事業の進展
内需に依って発展してきた日本の化学会社は一貫して海外売上高を増加させている。特に近年各社はそれぞれが得意とする機能性化学品に力を入れ輸出や海外生産を拡大している。これらの製品は日本の化学会社がグローバル・マーケットにおいて強い分野である。化学品事業はボーダレス化しており日本の化学会社の海外売上高は今後さらに拡大するであろう。
J日本の化学会社のイメージはネガティブではない
日本の化学会社は排水(水俣病など)や大気汚染(四日市の喘息など)などの公害問題を引起したことを厳しく反省し、一審判決によって化学会社の責任が認定されると直ちに控訴しないことを決め損害賠償責任を負った。そして1970年台初めから積極的に膨大な規模の環境投資を投じてきた。70年台は石油ショックが起こるなど厳しい経営状態が続いたが環境対策は緊急を要する最優先課題として、他の設備案件は後回しにして取り組んだ。あわせて有害物を出さない低環境負荷の製造プロセスの開発に積極的に取り組んだ。前記の廃酸を副生しないMMAモノマーの新製法は日本発の技術で、日本の化学会社の公害問題に対する問題意識の高さを示している。欧米の化学会社は廃酸を海洋や深く掘った地中に投棄した時期があったが、日本では中和して硫安として回収するか、熱分解して硫酸として回収し、なお残るCOD成分は高次の生物処理や燃焼するなどの環境対策を行っていた。しかし有害物を一旦副生させたあとの環境対策には限界があるので日本の化学会社は有害物を副生しない新製法を実用化した。日本の化学会社は、地域社会との共存、さらにひろく社会との共生を重視し、社会から信頼を得ることがひいては企業の競争力を高めることになるとの信念を持っている。こうした日本の化学会社の姿勢は化学業界に対する国民の意識調査にもプラスサイドに現れている。2002年6月の日化協の行った調査によれば、化学産業は、環境問題に対する取り組みが積極的であると見るひとが調査全5産業(他に自動車、電器、医療・製薬、コンピューター・IT)のなかで、自動車産業のトップ(30%)に次ぐ第2位(23%)である(3位は電器産業の15%)。また化学業界が取り組んでいる安全性・環境問題に対する活動については、半数以上の人が努力していると評価した。他方、欧米の化学産業は社会の評価・イメージが低いことに悪戦苦闘している。ピーター・スピッツは前掲書の中で、『アメリカの化学産業は環境汚染を引き起こす主要な産業であり、環境や社会的な責任よりも自社の利益を中心に考える頑強な抵抗者であると見られている。好ましいイメージを作るには程遠い状況にあり悪い評判はしばらく続くだろう。』と指摘している。さらに、『アメリカの環境問題が日本などの他国と違うところは、国土が広く、環境が混雑化してきたり汚染してきたりしたら別の場所に移動できるフロンティアがあること、また、個人や企業の財産権の不可侵が文化や法律のうえで強調されていること、法規があっても法廷で争いうることである。』とアメリカ特有の背景を説明している。
欧州の化学産業についてはCEFIC(欧州化学工業連盟)によれば、『2002年のイメージ調査では化学産業は調査した8業種のうち、好ましさの評価において7位に落ちた。環境汚染対策の努力を強めていると評価するひとは増えているが、もっと規制を強化すべきだとの意見が8割を占める。』と社会の評価の厳しさを述べている。これらと比較すると、日本の化学産業は欧米ほどネガティブなイメージは持たれていない。日本の化学産業の環境や安全面の取り組みの積み重ねが差を生んでいると考えられる。環境問題がネックになって化学会社の新増設ができない事態が世界では起っているが、日本ではこのような事態は考えにくい。社会の信頼を得ることが競争力に結びつくことを示している。日本が開発した低環境負荷プロセス、安全技術は今後の国際競争において有力な武器になろう。
K化学産業に対する株式市場の評価は高い。
株式市場の時価総額ウエートを見ると、化学産業(医薬品の会社を除く)以外の素材産業が軒並み比重を低下させる中で化学産業はこれまでの20年間おおむね安定的に推移している。化学産業の成長性に対する期待を反映している(みずほ産業調査「石油化学の現状と課題」参照)。
以上の特質に対し、短所として会社規模や事業規模が小さいこと、高コストであり利益レベルが高くないことがあげられる。日本の化学産業は長所を生かしかつ短所を克服して今後の成長と収益基盤の強化を図っていくことが課題となる。
ところで日本の株式市場では1990年代に入り外国人の持ち株比率が急上昇し、すでに日本の化学会社で外国人持ち株比率が約20%になるところがでてきている。これに機関投資家をあわせると、相当程度の欧米的な投資家層が形成されてきているとも考えられる。日本はこれまで欧米と違って投資家の圧力に曝されてこなかったため、長期的な視点で内的な成長を追求できた。しかし、日本でも欧米的な投資家の存在感の高まりとともに、企業価値や株主価値をより意識した経営を行うことになろう。欧米は日本の先行指標のようなところがあるので、欧米で行われた事業再編と我々へのインパクトを次にみたい。
欧米化学会社の事業再編と日本の化学産業へのインパクト
欧米化学会社の再編の口火を切ったICIの変遷は興味深い。ICIは、医薬品・農業化学品・スペシャリティー製品・塗料・工業化学品などを行う総合化学会社であり、高付加価値事業の拡充を基本戦略としてきた。ところが93年に戦略を大転換し、利益の中心を占めていた医薬品・農業化学品・スペシャリティー製品を手放し(全くの別会社であるゼネカ社として分離)、コモディティ化学品を中心とする会社になった。しかし96年に業績が悪化すると、「景気変動を受けにくい製品ポートフォリオに変える必要がある」として97年にオランダのユニリバー社からスペシャリティー事業を買収しスペシャリティー会社に変身する戦略の再転換を行った。これまでの事業は塗料などの一部を除いて売却してしまい、ICIの中身をすっかり入れ替えてしまった。経営トップもユニリバー社から招いた。90年には約5万4千人いた英国の従業員は、英国の事業活動のほとんどを切離したため2000年にはわずか約8千人になってしまった。ICIという社名は同じだが、かつての伝統あるICIとは違う会社になった。ユニリバー社から買収したスペシャリティー事業は即戦力になったが巨額な買収資金を要した。ICIはその後、負債の削減が思うように進まないことや、業績と株価の低迷が続いたことなどで03年3月には最高経営者が交代した。ICIの格付けは前記のようにこの間下がり続け、5段階も降下した。
ここでの問題は、ICIはなぜこのように戦略の大転換を次々と行い、結局自らの地位の低下をきたしていったか、である。93年の場合は、ICIは敵対的な買収の危険があり、機関投資家に持ち株の売却を思い留まらせるため株価の維持や株主の利益を重視する必要があった、そこで当時のICIの経営トップは投資銀行のアドバイスを求め、ポートフォリオの分散を止めて経営資源を集中させ財務体質を改善するとの方針で医薬等の分離を決めたとされる。また、97年の再転換の場合は株価の低迷や収益の先細り傾向があったので、金融アドバイザーの助言のもとにユニリバー社からの買収を決めたと言われる(平成15年5月産業研究所「欧米化学産業の企業再編等に関する調査研究」参照)。この2つの戦略転換に共通することは、機関投資家や投資銀行が株主の利益重視の立場からダイレクトに経営方針の決定に影響を与えていることである。嘗ては欧米でも株主が企業経営に直接介入する例は少なかった。しかし企業収益が低下し株主の期待に応えられなくなると状況は変わってきた。ICIに限らず90年代になってからは欧米では機関投資家や投資銀行が直接企業経営に圧力をかける傾向が増えてきた。ピーター・スピッツは、欧米化学会社の劇的な再編の多くはコンサルタントと投資銀行によって引起こされたか、またはそそのかされたものである、と述べている。彼らは、時間がかかり開発リスクのある内部成長より、事業の売買といった直ちに株価に効果をもたらしてくれるような短期優先の対応を求める。また彼らは多角的な事業を行なっている会社は理解しにくいことから、ポートフォリオを単純化することを求める。さらに欧米の事業再編は次の問題も生じさせる。ICIはメタアクリル(MMA)事業の大メーカーであったが、99年にINEOSという新興の化学会社を中心とする会社に事業を売却した。INEOSは欧米の化学会社の再編のなかで、大手化学会社が分離した事業を買収して急成長した新興の化学会社のひとつである。これらの新興化学会社は高金利(ジャンク債やLBO)の借入金で事業を買収したあと、コストを徹底的に削り、ボトムラインの見映えが良くなった段階で上場して利益を得るか、他社に転売して利益を得る事を目的とした金融資本的な考えをもつ会社で、いわば一時保有で利益を得ることを狙う会社である。ちなみに、化学産業史家フレッド・アフタリオンは‘History of the International Chemical Industry‘の中で、これらの会社のことを『純然たる企業売買遊びに専念する会社』と呼んでいる。このような会社は研究開発費を抑えるため技術開発は進まない。MMAモノマーの代替製法の開発が進まない一方、MMAポリマーは光学用途にフロンティアが広がっているがこのような会社は進出できない。欧米にはINEOS的な新興化学会社は他にもあり、欧米の化学会社は開発に関しては2極分化(新技術や新製品を出せる会社と出せない会社の両極化)してきている。ICIの事業再編とINEOS的な行き方は同根であり化学会社の社会的役割とは何かという本質的問題を投げかける。なお、これらの新興化学会社の中には狙い通りの事業売却や上場の機会がないため苦しい経営状態のところが出てきているといわれている。ともあれ日本の化学会社が研究開発に注力する限り、新技術や新製品に関してリードできるチャンスが訪れてきているという面がある。
しかし、欧米の化学会社のすべてがICIやINEOS的な事業再編を進めたのではない。アフタリオン が化学業界の「Contrarians:時流対抗派」と呼ぶ会社である。「過去10年来アナリストらの評価をあげるため多くの化学会社がその製品構成を変えたり、社名を変えた。しかし一方では伝統的な事業への信頼を捨てず、多角化した事業の相乗効果を利用した内部的発展こそが事業の基本であるとする大手化学会社が存在した。」とBASFやBayer、Akzo Nobel,DSM,Solvayなどの名前を挙げ、合併や買収よりも内部からの成長を重視する会社を「Contrarians」と呼んだ。「合併や買収による短期的な成長が長期的な成長を産むとは限らない。組織メンバーがうまくやっていけなかったり、優秀な人材が会社を離れるなど、従業員のモラールに悪影響を与える。会社の規模が大きいことは創造性につながるとは限らない。」と合併や買収に伴う問題を述べる。アフタリオン は、欧米の化学会社はこの10年間、短期的な考慮を優先し、合併、買収、売却合弁といった資産の移転に狂奔した、と批判する。そして欧米の多くの化学会社が株主を喜ばせるため、研究開発費を削り、短期的な利益確保に走っていること、このため企業の本質的成長が犠牲にされ革新的製品の上市が減る一方、直ちに売上拡大をもたらす買収による成長が優先されてきたことに批判的である。そのため、Contrarians派が今後とも成功することを期待している。Contrarians派の特徴のひとつは多角化(総合化学)であるが、Bayerがついに化学品部門などの分離独立を決めたように欧米ではContrarians派はますます少数派になってきている。日本の化学会社は欧米的なM&Aや、売却などを手段とせず、内部からの成長を重視するとともに、多角化した事業の相乗効果を利用して成長してきた。その意味で日本の化学会社は時流対抗派(Contrarians派)であろう。欧米の化学会社が一斉に短期指向になり研究開発費を削減する方向に向かうとすれば、日本の化学会社に開発面のチャンスが来ている。
日本はこれまで持株の価値の極大化に汲々とする投資家の圧力に曝されてこなかった。従って欧米の化学会社とは違った発展を追求できた。しかし今後は欧米的な企業価値や株主価値といった角度からの説明責任が求められてくるであろう。日本の化学会社は欧米のような機関投資家などの過度の介入を避けるためには国際的な競争環境のなかでリーザナブルな利益をあげ得る企業体質にしておくことがなにより重要となる。日本の化学会社は多くが総合化学(多角化)である。リーゾナブルな利益をあげるためどうしていくか。
日本における多角化の取り組み
化学産業は本質的に社会のニーズ・シーズの変化とともに多角化する産業であり、化学会社は程度の差はあれ多角化している。日本の化学会社がいま情報電子関連を新たな柱にしょうとしていることは化学産業の動きとして当然である。他方、欧米の化学会社は特定の事業分野へ思い切った絞込みをしているなかで日本の化学会社は多角化したままでいいかという問題がある。とくに石油化学とスペシアリティー、特に農薬や医薬とを一緒にやれるのかという問題がある。これは『範囲の経済(不経済)』として議論されている問題である。多角化事業間で技術や販売のシナジー効果があれば『範囲の経済』があり、逆に足を引っ張る効果があれば『範囲の不経済』があると考えられる。『範囲の経済』という観点でみると、化学会社の場合、部門間に技術や販売の共通性がいろいろな場面で存在している。高度化する社会のニーズは業際でしばしば起っているが、多角化会社(総合化学)は業際分野のシーズの結集が容易であり、新しい分野への進出がしやすい。情報電子材料は石油化学やファイン部門などとシナジーがあって育ってきている面がある。逆に事業分野を絞り込み過ぎると化学会社としての発展のチャンスを見逃し、社会のニーズに応えられない。また多角化会社(総合化学会社)はハイリスク・ハイリターンの事業とローリスク・ミドルリターンの事業の組み合わせが可能で会社の安定性を増すことが出来る。また社内の多角化部門間の利益競争(社内コンペ)で競わせることで社内の各部門の頑張りを引き出すことが出来、全体の利益レベルを引き上げることが出来る。また社内コンペに敗退した事業は撤収の納得が得られ易く事業の更新や高度化が進むなどの多角化会社のメリットがある。なお多角化分野のなかでは医薬が他の事業とシナジーが乏しいといえようが、お互いに足を引っ張りあう関係ではない。医薬事業にふさわしい運営方式を導入しかつ経営トップが戦略の目配りができれば、医薬事業を含めて多角化の体制をとることは可能である。むしろ医薬は高度化する現代社会において化学が最も貢献できるチャレンジングな分野のひとつであり、それを担えることは多角化(総合)化学会社の誇りである。出来る限り多角化を維持するなかで大切な柱として育てたいという考えがある。問題は、多角化部門のそれぞれが儲かるかどうか、また会社全体として必要な収益力を持っているかが重要である。もはや特定の部門・事業が会社全体を支え、その他の事業は利益を稼がなくてもかまわないという持たれ合いは許されない。多角化会社内の他の部門との利益競争(社内コンペ)に勝たないといけない。武田薬品が医薬以外の多角化事業を止めたのは社内競争の結果がはっきりしてきたからであろう。結局社内コンペに勝たないと多角化会社では事業は生き抜いていけないので、当然社外の同業との競争において優位にたっていないといけない。相当数の事業が社外や社内の競争に負けた結果、撤退や他社との合弁という形で実質的な切り離しが行われてきた。今後の多角化会社(総合化学)の中身は同業との競争に加え社内の競争に勝つ製品構成へと一段と研ぎ澄まされていくであろう。しかし多角化会社は上記の『範囲の不経済』と隣合わせという問題があることから、多角化事業間で足を引っ張り合う関係に陥らないように絶えず気を付けていかねばならない。どの事業も中途半端になり、それぞれが他社に負ける惧れがある。とくに専業会社が競争者としている場合、専業会社はその事業に最適の戦略・戦術に特化してスピーディに攻勢をかけて来る。しかも専業会社の規模は大きくなってきている。多角化会社の一部門としてこれらの競争者と競争することは相当にきびしいことがあり得る。多角化部門それぞれについてその事業特有の組織構造や運営方式を導入して他社と闘える基盤をつくることは不可欠である。その上、他部門の助けも借りながら戦うことになるが、それでも多角化会社の一部門としている限り同業との競争には勝てないということが起り得る。またいくつかの部門で同じ程度に優良なビジネスチャンスがあるのに資金面の制約からどれかに絞らざるを得ない場面も起り得る。かくて多角化会社(総合化学)では選択と集中の問題が絶えず起る。会社の特徴をどう出していくかという基本戦略に関わることとして、経営トップのイニシャティブで解決されるであろう。
石油化学の取り組み
石化はこれまでの社内コンペの実績が各社とも相対的に良くないので、今後各社の石化部門は業績改善を求められていく。幸い石化は今後しばらく世界的に新増設が少ないので世界の需給バランスはタイトになる見込みである。さらに従来安価な天然ガスを用いたアメリカの石化品がアジアに流入していたが、天然ガス価格が割高になり優位性が逆転したことからアメリカからの流入は減少すると考えられる。2005年には中国で欧米系の3つの石化プロジェクトが完成する予定である。これらのプロジェクトは人件費が安いので建設費が少ないはずなのに総投資額は安くはない。インフラ整備等にお金がかかっていると考えられる。最近になって検討中であったエクソン・モービルの中国計画からエクソン・モービルが撤退するという報道があった。FSの結果が良くなかった可能性がある。中国は原油の輸入国であり、外資の石化センターが入手する石化原料が格安とは考えにくい。中国の石化プロジェクトは採算面では厳しい可能性がある。WTO加盟により輸入品に高い関税をかけて中国内の石化会社を防衛することは出来なくなった。中国は多くの石化製品についてアンチダンピングの動きをする一方、国有化学企業が負担していた学校や病院などを公共の負担に変更する動きがあるが、これらは中国内の石化産業の競争力が苦しいことが背景にあると考えられる。輸入品と直接競合する中国の石化産業は品質とコストの両面で競争力の向上に努めていくことになろう。今後数年間石化製品の国際需給がタイト化するのは明るい材料だが、石化製品がこれだけ大型製品となって世界中に普及するようになるとかつてのような極端な価格の上昇、下降はなく、一定の価格帯のなかでのモデレートな上昇、下降となるであろう。したがって国際需給の多少の改善があっても石化産業はコストと品質の両面で優位に立たない限り、リーゾナブルな利益を上げることは出来ないという構造は変わらない。また中東品のプレゼンスは今後さらに高まる。中東品と競合しないような製品構成にしていくことが重要になるしそれは可能である。日本の石化産業は輸出する一方、国内市場で輸入品と競合している。日本の高品質・高機能の差別化グレードは品質の国際競争力があるので一定程度の価格競争力を持っている。日本の化学会社は、高付加価値の差別化品を拡充しながら一定程度の輸出向けも織り込んで数量を確保してきたが高コストがネックとなって利益が上がらない。今後販売間接費や物流関係費など日本的商慣行によって高コストになっている費用を削減するほか、規模を大きくする努力をしていくことになろう。規模を大きくするとは合弁事業の促進などのメーカーの集約化であり、またS&Bやデボトルなどによるプラントの1系列規模の拡大である。石化産業は上流から下流まで範囲の広がりがある事業である。各社はすでに自社の得意の事業に絞込み、競争力のない事業からは撤退するか、合弁事業として実質的に切り離してきた。その結果石化事業の中身は各社各様に違ってきた。今後収益重視が強まる中でプレーヤーの集約化、他社との差異化はさらに徹底されるであろう。石化部門は日本的商慣行の見直しを含む合理化をしながら、高付加価値の差別化品を拡充し、汎用品についても輸入品に対抗できる水際競争力をつけ、一定規模の輸出を稼働率アップのバッファとして活用すれば、ローリスク・ミドルリターンの事業として多角化会社のポートフォリオの一翼を担う部門として貢献できよう。
最後に
欧米の化学産業との対比で日本の化学産業をなにかと悲観的にみるのは一面的と思われる。欧米の化学会社は事業の選択と集中が進み、お手本のように言われることが多いが現実にはいろいろと問題をかかえている。多くの欧米の大手化学会社は、これまでの再編にもかかわらず期待通りの成果を上げていないとして引き続き投資家から強いプレッシャーを受けているようである。また、大手多角化(総合化学)会社から分離して多くの化学会社が出来たが、その後の業績の低迷と多くの負債を抱えて経営が苦境にある会社が既に出てきている。欧米の化学会社がこの10年間再編劇に明け暮れたのは、化学産業は成熟したという認識が欧米では支配的であったことが背景のひとつにある。日本の化学産業は先端産業との接点を中心に成長発展のチャンスを確信し取り組んできた。ここに彼我の違いのひとつがあった。もうひとつの違いは、日本の化学会社はこれまで投資家や金融機関の圧力に比較的晒されなかったので中長期的視点で内部からの成長と事業構造の高度化を粛々と行うことができたことである。しかし今後は日本でも欧米的な圧力・要請が高まることを考えておかねばならないであろう。そのためには日本の化学会社はリーゾナブルな利益をあげ健全な財務体質でなければならない。そして日本の化学会社の多角化体制は世界的にみると少数派になりつつある中で戦略についての説明責任(アカウンタビリティ)とともに多角化の強みを実際に発揮していかなければならないという緊張がある。実際日本の化学会社は先端的な化学品ビジネスで世界をリードする場面が増えてきているが、今後さらに技術開発と事業開拓で世界での存在感を増すであろう。また、日本の多角化会社はそれぞれの専業会社に対抗しなければならないという厳しい課題がある。日本の化学会社は事業のクリティカル・マス(必要最小限の規模)を一層意識しなければならず、そのため特化・選別は一層進展するであろうし、多角化事業のそれぞれにふさわしい運営のやりかたを一層工夫していくことになる。また欧米の化学会社はリストラ、リストラでコストを下げてきている。日本の化学会社は一層のコスト合理化を図るため様々な日本的な商慣行に挑戦していかねばならない。
欧米の化学会社には医農薬や、合成樹脂などの分野で規模の拡大に伴い開発力を拡大した会社が出てきた。日本の化学会社は世界的には中堅会社として特色を発揮していくとともに、従業員のモラールを高め、少数のパワーで能力以上の成果をあげるようにするため、一層の工夫と努力をしていくことになろう。化学産業は規模の大きさだけで技術力や開発力が決まることはない。メガスケールの会社の創造性はむしろ落ちるという見方がある。また欧米の化学会社はかってのおおらかさがなく、短期指向になって研究開発費を削る会社が増えてきている。言うまでもなく化学産業の本質は有用な物質を創造し供給することであり、人々の生活を向上させ産業社会の発展に貢献していく社会的な役割を担っている。研究開発が化学産業の成長を生み出す基本である。日本の化学会社は研究開発を経営の中心に置くためにもっと工夫をしていくことになろう。
日本の化学会社には課題も多いがチャンスがある。
歴史には学ぶことが多い。日本の化学会社は欧米の化学会社に学びながら、必ずしもそれを範としない成長を追求すべきであると考える。