元昭和電工社長 鈴木治雄氏死去
元昭和電工社長で同社最高顧問の鈴木治雄(すずき・はるお)氏が3日午後零時30分、腎不全のため長野県軽井沢町の別荘で死去した。91歳だった。遵絡先は同社秘書グループ。社葬は12日午後1時30分から東京都千代田区麹町6−5−1のカトリック麹町聖イグナチオ教会。喪主は妻、糸さん。
1922年(大正2年)、神奈川県生まれ。39年、昭和肥料と日本電気工業の合併で発足した昭和電工の第1号社員として入社。戦後の公職追放でいったん退社したが51年に復帰。71年社長に就任、昭和油化との合併など総合化学メーカーとしての土台を築いた。
81年から87年まで会長。経済同友会副代表幹事時代は、経済界きっての論客でもあった。父は味の素を創業、後に昭和電工社長も務めた鈴木忠治氏。国際交流でも活躍、仏芸術文化勲章を受章した。
経済界の論客、横並び排す
3日、逝去した鈴木治雄氏は経営の第一線を退いてからは、専ら文化人として通っていた。経営者の同人誌『ほほづゑ』を創刊し、この春まで発行人だった。社長時代に下した難しい決断は、その多才な面と関係がなかったとは思えない。
社長に就任早々、新潟県阿賀野川での有機水銀中毒事件の早期解決を決意し、判決前に上訴権を放棄すると発表した。当時「新潟水俣病」と言われ同社の工場が原因として患者、遺族から損害賠償を請求されていた。結果は同社が敗訴、翌日賠償金を全額支払った。
社会の厳しい批判を受ける中、裁判の長期化は患者らをさらに苦しめることにもなると総合的に考えて、異例の決断をしたわけである。
石油危機後のアルミ精錬事業からの撤退も容易ではなかった。同社は戦前からアルミ精錬を手がけており先駆者として自負していた。「社長は弱気すぎる」との社内の批判を浴びながらも撤退方針を貫徹した。
攻めでは、大分でのエチレンプラントの増強を業界などの反対を押し切る形で実行した。
鈴木氏がすべてお見通しで決めたわけではない。「最善だったかどうかは歴史が証明する」とよく語っていた。長期的に見て、これしかないと判断したのだろう。
いわゆる経済界の論客として知られていたが、決して主流派ではなかった。横並び志向を軽べつし、経団連に批判的な発言もしていた。産業界が芸術文化活動を支援する目的で設立した企業メセナ協議会の初代会長を、90年から94年まで務めた。
味の素の創業家である鈴木一族の一員で、戦後33歳で経済同友会の創立に参加。人脈も華麗だった。幅の広さを背景に、合理的に思考し自分流で経営し生きたところに鈴木氏の真骨頂があった。