毎日新聞 2004/10/9

今年のノーベル賞 自然科学分野

 今年の自然科学分野のノーベル質受賞者が決まった。「いい香りと嫌なにおいは、どうやって識別しているのか」「極小な素粒子はどう結びつき、物質を形作っているのか」「体内で不要になったたんぱく質は、何をきっかけに分解されるのか」。これらの疑問を解き明かした研究者が選ばれた。日本人受賞者はいなかったものの、いずれも私たちの存在や生命活動の本質に迫る研究だ。

 

におい識別、このように 医学生理学賞

 私たちの周りには、さまざまなにおいがある。においのもとになる「におい分子」は10万種に上り、その組み合わせや濃度で無限のにおいが作られる。私たちが多様なにおいを識別する仕組みの解明へ向けて扉を開いたのが、医学生理学賞に決まった米コロンビア大のリチャード・アクセル教授と米フレッド・ハッチンソンがん研究センターのリンダ・バック博士だ。
 2人は、におい分子をとらえるにおい受容体が約1000種類あり、それぞれ個別の遺伝子から作られることを突き止めた。1000種類の受容体だけで、多様なにおいをかぎ分ける仕組みは、さまざまなにおい分子に応じた受容体が脳に信号を伝えるために起きる。この受容体の信号の組み合わせで多様なにおいが認識できるというのだ。
 図を参照にしながら、バラの香りの識別を説明してみよう。鼻腔上部の「嗅上皮」には、嗅覚神経細胞が約1OOO万個ある。複数から成るバラのにおい分子が鼻腔内に入ると、嗅覚神経細胞の受容体とにおい分子が結びついて、においに応じて受容体が信号を発信する。
 信号は嗅覚神経細胞から「軸索」というコードが伸びることで伝わる。そのコードは、受容体の種類ごとに束ねられ、定められたソケット(糸球体)に差し込まれる。糸球体は.「嗅球」という脳下部の組織に、におい受容体の種類だけ、つまり約1000個並び、におい情報を軸索から獲得し、脳へ送る。情報の強弱も、においの識別と関連する。
 たとえれば、ソケットに情報が届くと豆電球が点灯、においの強さに応じて明るさも変わり、1000個の電球が電光掲示板のようにバラの「画像」を映し出す。脳は「画像」から、「ユリではなくてバラ」と判断するというのだ。
 坂野仁東京大教授(分子生物学)は「生物にとって嗅覚は餌を識別したり、危険を避けたり、性を識別したりするのに不可欠な感覚だ」と話す。
 昨年12月、坂野教授らの研究チームは一つの嗅覚神経細胞には一つの受容体しか発現しない「1神経1受容体」のルールを証明、米科学誌「サイエンス」に発表した。アクセル教授らの研究チームに先駆けた成果だった。現在は、軸索が束ねられる仕粗み、ソケットが受容体の数だけあるという。「1糸球体1受容体」ルールの証明に向けて世界の研究者がしのぎを削る。
 坂野教授は「においをかぐとなぜ記憶が想起されるのか、いいにおいで気持ちが休まるのはなぜかなど、嗅覚研究は中枢神経系全体の機構解明につながる。外界からの多様な情報を処理するという意昧では免疫学とも共通する。これを契機に研究者層がさらに厚くなることを期待したい」と話す。


機械でにおいを測定 「識別装置」島津製作所が開発

 島津製作所は、医学生理学賞に決まったアクセル教授らのにおい受容体に関する論文をきっかけに99年、最初の「におい識別装置」を商品化した。あるにおいと別のにおいの違いを相対的にを示す装置は以前からあったが、化学物質の組み合わせでにおいを感じる人間の嗅覚に近い装置は世界的にも珍しいという。
 装置は、博士らが発見した約1000個のにおい受容体に相当する10個のセンサーを持つ。測定する物質のにおいの「質」と「強さ」で表示する仕組みだ。
 においの判定は、国家資格の臭気判定士が6人ににおいをかがせて測る。一つのにおいの判定には30分〜1時間が必要だったが、この装置を使うと約10分で測定可能だ。
 現在、加工食品や芳香剤の商品開発、工場周辺の臭気管理などに使われているという。同社分析計測事業部マネジャー、喜多純一さんは「ノーベル賞が決まった2人の研究が商品化のきっかけになった。今後は生活のあらゆる場面で人間が感じるにおいを測定していきたい」と話す。


素粒子の結びつき説明 物理学賞

 この世のすべての生物も物質も、素粒子と呼ばれる微少な粒子で出来ている。
 素粒子は大きく分けると「クオーク」と「レプトン」という2つのグループになる。このうちクオーク同士を結びつけるカが、今回の物理学賞の対象となった「強い力」だ。
 例えば、陽子や中性子は、3つのクオークが強いカで結びついている。陽子や中性子がなければ、原子核もできない。強いカがなければ、この世の物質は存在しないというわけだ。
 19世紀末、最初の素粒子が見つかって以来、物理学者は「自然は複雑に見えても、実は非常に単純な法則のもとにある」と考えるようになった。この考え方が、現代物理学の基礎となり、あらゆる物理現象を説明する「標準理論」が生まれた。
 約150億年前、宇宙が生まれた時、素粒子はバラバラの状態だった。宇宙の誕生直後に生まれた素粒子間に働く4種類のカの1つが、強いカだった。磁カや引力は、近づくほど強くなるが、強い力は近づくほど弱く、離れるほど強くなるのが特徴だった。物理学賞に決まった米カリフォルニア工科大サンタバーバラ校のデビッド・グロス教授らは、73年にこの不思議な現象を説明する理論を確立した。
 この理論によって、陽子や中性子からクオークを取り出すのが難しい理由が明らかになったほか、クオーク間に働く力を説明する「量子色力学」が生まれ、標準理論の一つの柱となった。

日本人研究者の先駆的な活躍も
 標準理論の確立に関しては、日本人研究者の活躍も見逃せない。「量子色カ学」のアイデアを世界で初めて提唱したのは、南部陽一郎・米シカゴ大名誉教授だった。ノーベル財団が公開した今回の物理学賞に関する解説資料でも、南部さんの成果を「正しかったが、(登場が)早すぎた」と高く評価した。
 また、標準理論の基礎となるクオークの数を、世界で初めて6種類と予言したのが、益川敏英京都産業大教授と、小林誠・高エネルギー加速器研究機構・素粒子原子核研究所長の2人だ。
 グロス教授ら
同じ73年、3種類しか知られていなかったクオークを 「少なくとも6種類」と予言する「小林・益川理論」を発表。その後、予言通りに残り3種類のクオークが発見され、同機構の加速器実験で理論の正しさが証明された。
 今回、素粒子の理論分野で受賞者が出たことを受け小林さんは「次に素粒子に(受賞の対象が)来るのは少し先かな」と話した。岩崎洋一筑波大学長(素粒子物理学)は「グロス教授らの理論は、標準理論の一角となる重要なものだ。ただし、今回の受資はクオークの種類の予言に関係するものではないので、小林、益川両氏の研究とは重なっていない。今後、2人の受賞の可能性はある」と話す。

不要たんぱく質、どう分解  化学賞

 生体は細胞が新しい細胞に置き換わる新陳代謝を繰り返す。細胞を構成するたんぱく質も、生まれては死んでいく。体内で、必要なたんぱく質と不要なたんぽく質を区別する「目印」となっているのが「ユビキチン」という物質だ。ユビキチンが働かなければ、不要なたんぱく質が体内に蓄積し、パーキンソン病やがんを引き起こす。今年のノーベル化学賞は、ユビキチンの役割を発見した3研究者に贈られる。
 ユビキチンそのものは、75年に別の研究で胸腺ホルモンの一種として発表された(後に誤りと判明)。受賞が決まったイスラエル工科大のアブラム・ヘルシュコ教授らは80年代初め、ユビキチンが生命活動のエネルギー源である「ATP」(アデノシン3リン酸)によって活性化して、不要なたんぱく質と結合し、たんぱく質の分解が始まることを明らかにした。
 53年に故フランシス・クリック博士、ジェームズ・ワトソン博士がDNAの二重らせん構造を発見して以来、研究者たちはたんぱく質の生成や働き方の分野の研究に没頭した。ユビキチン研究は、そんな研究者たちに「たんぱく質の死」という新たな概念を提示した。
 「たんぱく質の死」は、ヘルシュコ教授らだけの研究で解明されたわけではなかった。今回の受賞者からは漏れたが、米国のアレクサンダー・バーシャフスキー博士が、ユビキチンが実際に「不要」というシグナルを発信していることを発見。東京都臨床医学総含研究所の田中啓二副所長は、ユビキチンを目印に、酵素のプロテアソームが、不要なたんぱく質を分解することを明らかにした。
 最近の研究では、ユビキチンの役割は、不要なたんぱく質の分解にとどまらない。細胞は1個から2個に増殖し、2個が自然に融合することはなく不可逆的だ。1個に戻そうとする物質をユビキチンが分解しているためとみられる。
 また、米国で承認された抗がん剤は、細胞増殖のブレーキ役を壊す物質にユビキチンで目印を付けて分解することで、がん細胞増殖を止めるメカニズムだ。
 ユビキチンはあらゆる細胞に存在し、代謝や免疫、たんぱく質の品質筥理、細胞内の物質運搬にもかかわっている。田中副所長は「ユビキチンが、働かないことで起きる病気が次々と明らかになっている。病気の予防や治療に新たな戦略を提示できるようになった意義は非常に大きい」と話している。