週刊現代 2002/11/30

この国の大ピンチに緊急直言

堺屋太一「竹中の限界、小泉の無責任、官僚の高笑い」
    再生プログラムはどこが間違っているのか、いま何をすべきなのか

■株価がなぜ下がり続けるのか
■官僚が作り出した「不良債権」
■小泉首相は分かっていない
■銀行は消費者金融に学べ!


 「小泉首相、竹中大臣の金融思想は時代遅れだ。このままではいくら不良債権を処理しても再び公的資金を注ぎこむことになる」――どんどん悪くなる景気。このままでは来年も、再来年も大不況が続く。絶望的な経済オンチの首相、舌が何枚あるか分からない大臣。地獄の季節はいつまで続くのか。堺屋氏に訊く。

株価がなぜ下がり続けるのか

 竹中平蔵氏は、10月30日に「金融再生プログラム」を打ち出しました。竹中案の最大の問題点は、金融の将来についての見取り図がないことです。竹中氏は盛んに作業工程表を作ると言いますが、その工程表で造る品物の見取り図が見えてこない。銀行に対し、「痛みに堪えて手術をするんだ」と言いますが、手術をしたら体質が改善するのか、患部を取るだけなのか、それとも単なる延命措置なのか、そういう問いにまったく答えていないのです。
 日本の金融機関が、いまどのような状況になっているかを示した内閣府資料の「わが国金融システムの位置」を見てください。

 このグラフの縦軸は「安全性の高低」、横軸は「収益性の高低」を示します。金融機関では安全性と収益性の二つが共に重要な尺度なのです。グラフで明らかなように、日本の銀行は安全性もマイナス、収益性もマイナスの左下に集中しています。欧米の銀行と比べると安全性・収益性とも、はるかに低い上、みな狭い範囲に固まっています。
 これに対し、欧州の銀行は安全性が高くて収益性もまずまずという、時計で言えば、1時の方向に拡がっています。アメリカは2時の方向です。安全性はもちろんですが、収益性が高いのが特徴です。
 日本の銀行にいま必要なのは、安全性と収益性を同時に引き上げることです。グラフで言えば、右上の2時の方向に移動させることなのです。ところが竹中氏は公的資金を注入することを焦って、安全性の引き上げばかりに目が向いている。
 公的資金を導入すると、銀行の自己資本比率が増えるので、確かに安全性は高まります。しかし銀行を国有化し、金融庁の介入が強まると、収益性はいま以上に下がる可能性があります。官僚が運用してきた郵便貯金のようになってしまいます。収益性が高まらないと、5年に一回は公的資金の注入ということにもなりかねません。いまは、大企業への投融資も危ない時代なのです。
 不良債権の処理は荒療治です。だから、手術前に麻酔や輸血を行う必要がある。かつて小渕内閣が長銀、日債銀などの破綻処理に手をつけたときには、手術前に、まず20兆円(後に30兆円)かけて中小企業倒産防止策をやりました。5000万円までの無条件借り入れ保証という麻酔薬を打ちました。さらに需要拡大のための緊急経済対策として、9兆円の減税と、事業規模で18兆円の補正予算を組みました。これは輸血です。
 銀行に対しても自由金融市場に乗り出してもらうためにSPC法特定目的会社や不動産証券化、住宅ローン債権の販売など、業務範囲の拡大、金融市場の多数化を図りました。さらに産業再生法、会社関係法規の改革など16の大法案を国会に提出・成立させました。だから長銀、日債銀の破綻処理後に株価が急回復し、2万800円まで上がりました。
 ところが今回は、再生プランを発表しただけで、何もしてないのに株は暴落している。どうしてこんな違いが出てきたのか。小渕内閣と違い、竹中氏は輸血も麻酔もなしで、「とにかく手術をするぞ」と言い出した。しかもその方法が時代錯誤的です。だからこそ、市場も銀行も抵抗するのです。
 銀行の淘汰は、マーケットが行うのが本来の姿です。ところが竹中案は官僚の裁量で決める仕組みにしようとしています。10月22日に発表しようとした中間報告案と言われるものでは、日本の主要銀行は、たいてい自己資本不足になるでしょう。払いすぎた税金が戻ってくると見越して自己資本の中に組み入れている「税効果会計」を1割以内に抑えるとすれば、主要銀行は自己資本不足になる。いわば陸上競技の走り高跳びで、日本記録よりも高いところにバーを上げて、「頑張って飛び越えなさい、飛び越えきれなければ国有化しますよ」というものです。
 なぜこんな案を考えたのか。竹中氏の金融マーケットに対する理解の限界、とりわけ時代認識の歴史観が不足しているのでしょう。
 竹中氏は、私が経済企画庁長官時代に経済戦略会議の委員になっていただき、IT担当大臣の時もIT戦略会議に来ていただいた方です。委員としては最適だったけれども、とりまとめの人ではありません。委員は雑誌の寄稿者と同じで、自分の一番得意な分野で発言すればそれで済む。しかし全体を指揮する大臣となると、それでは済みません。執筆者であると同時に、編集者としての幅広い知見・人脈も要求されるのです。
 その竹中氏に、小泉首相は経済対策を「丸投げ」した。委員向きの竹中氏にはきつい仕事ですよ。
 いま日本に必要なのは、時代の変化、とりわけ経済体質の変化を十分に認識することです。'80年代までの日本は、(1)人口は増える(2)土地は足りない(3)経済は成長する(4)物価は上がる(5)大企業は潰れない、の五つの大前提でやってきました。だから、公共事業は高くついてもよい、銀行は大企業融資か土地担保なら安心だ、と考えていたのです。
 ところが、いまはこの五つの前提は全部なくなっています。日本でもアメリカでもドイツでも、大企業がいくつも破綻しています。そんな中で国際競争に勝ち抜くためには、金融、財政はもちろん、公共事業から地方自治までを総合的に考える必要があります。
 まずやるべきは、公共料金の引き下げ。国際競争のできる状況にして、完全民営化すべきです。その上で赤字を出したら経営管理者は交代し、従業員の給料も下がるという競争社会を徹底させるべきです。当然、「コスト+適正利潤=適正価格」という官僚的価格体系は全廃し、「価格−利潤=コスト」の新たな価格体系に切り替え、この概念を全社会的に徹底させることです。
 次に民間企業が国際競争に耐えられる体質になること。そのための債務軽減と新規投資が必要です。それに耐えられないなら、退場も止むを得ないでしょう。
 そして第三には新規起業を盛んにすることです。金融はそれにふさわしいものにしなければなりません。

小泉首相は分かっていない

 日本を改革するためには、官僚の縦割り行政を打破する必要もあります。私が大臣時代に作ったもののひとつに経済財政諮問会議があります。
 奥田碩さん(トヨタ自動車会長、日本経団連会長)、牛尾治朗さん(ウシオ電機会長)、吉川洋さん(東京大教授)、本間正明さん(大阪大教授)の4人の民間議員と、首相の他5人の閣僚(官房長官、経済財政担当相、財務相、経済産業相、総務相)、プラス日銀総裁からなる最高方針の決定機関です。
 ところが小泉首相は、諮問会議を活用せず、医療改革、道路改革、郵政事業改革、地方行政改革などの個別問題の委員会を作り、事務局には各省の専門家、つまりこれまでの経緯と経験に縛られた人々を置いた。小泉首相は改革案をトップダウンではなく、問題別の縦割りにしたわけです。その瞬間、官僚任せの先送り政治に陥ったのです。
 実際、いまは「官僚たちの高笑いで霞が関に地鳴りがする」とまで言われています。
 例えば田中直毅さん(経済評論家)らの「郵政三事業の在り方について考える懇談会」では、特殊会社化、三事業を維持する完全民営化、郵貯・簡保廃止による完全民営化と3案並記を答申しました。これでは「すべて官僚に任す」と言うのに等しい。外務省機能改革会議では、答申のほとんどを外務官僚が拒否してしまった。官僚が拒否できるような審議会なら作らないほうがよい。それなのに竹中氏は、手続きを優先し経済財政諮問会議を財務官僚に任せている。
 小泉首相は徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜に似てきました。徳川慶喜は改革にものすごく情熱を燃やした人でした。けれども、結局は「武士の文化」という旧来の枠組みから逃れられず、最後の将軍になってしまった。
 小泉首相は経済財政諮問会議に民間議員や日銀総裁を入れた思想をうまく理解できていない。それは各省別の権限と手続きを越えた基本方針、いわば国家政策のコンセプトを創るためでした。だから、諮問会議が発足したころは、牛尾治朗さんや奥田碩さんに盛んに提案していただきましたが、最近はそれも下火になっています。
 さて、金融の話に戻りましょう。銀行の審査にしろ産業再生機構にしろ、現在の案では担当官庁の裁量が大きくなっています。財務省や金融庁は、外から見ると大勢の知的集団のように思われています。しかし実際には、各部門の担当者はわずか数人です。消費税の導入でも、その時の担当者は10人もいなかった。2人か3人の役人の話で行政が動く。これが恐ろしいのです。

官僚が作り出した「不良債権」

 今度の竹中案は、官僚の裁量を大きくしています。極端に言えば、数人の官僚が「この銀行はだめだ。頭取を替えよう」と決定できる仕掛けになっているのです。
 マーケットで淘汰されたところを国有化するのはよいが、官僚の判断で生殺与奪ができる制度はいけません。百歩譲って、官僚による判断によって極端なことは実行しないと言っても、“伝家の宝刀”があるだけで、民間企業は役人に抵抗できなくなってしまいます。
 '80年代には古い銀行家たちが「戦前のほうが自由だった」と嘆いたことがあります。巨額の不良債権は、この指導監督時代に生まれたのです。
 小渕内閣の時代は、市場淘汰に任せました。株が下がってコールが引けなくなった銀行は国有化したのです。ところがそれを官僚の裁量で公的資金を注入、国有化できるというのでは逆戻りです。官僚は常に善意で介入を強めるから困るのです。いまは竹中流の公的資金の導入に消極的な官僚でも、権限を与えられると「善意と責任感」、つまり権限意識に目覚めるものです。
 官僚が優秀だという神話は、いまこそ潰すべきです。私たちも、太平洋戦争の終戦までは日本の将軍、提督は偉いと思っていました。だけど太平洋戦争が終わってみたら、全然偉くないことがわかった。組織が個々人の能力を発揮させない最悪なものになっていたのです。いまの役所もそうなっている。だからこそ、金融マーケットをきちんと改革して、自由経済の根本に戻らなければいけないのです。
 最後に一番大事な「金融思想」についてお話ししておきたい。日本の金融思想は、「規格大量生産社会を作るために、わが国の金融機関は存在する」という思想です。
 規格大量生産社会では、より大きく生産すれば、より効率的で、より利益が上がるはずです。だから大手企業に融資するのは安全で、リスクがない。銀行とは、預金者から集めたカネを大手企業に流す金融仲介業だ――これが日本の金融思想です。
 だから「不良債権の発生はバブル景気という、歴史上、1回だけの異例の事件だ」と考えるわけです。それなら「長い間かけて、銀行の経常利益でこれを処理すれば終わる。あとは5年かかるか、10年かかるかだけの問題だ」ということになります。柳沢伯夫前金融相や金融庁の官僚はそう主張しています。
 私は、「そうではない。規格大量生産時代から、知価社会に変わったんだ」と主張してきました。
 知価社会では、知恵の生み出す価値が重要になります。しかしそれは、技術であれデザインであれ、ブランドであれ、流行や他の技術との競合で価値が上がったり下がったり可変的です。知価社会になれば、金融は常にリスクを伴う。だから不良債権はバブル時の1回だけではなく、今後も発生するだろう、と主張したのです。
 バブルのときの不良債権は、これまでに処理した分で終わっています。いまあるのは新たに増えた分で、土地や株の値下がり、事業の失敗、中国からの安値輸入等々で発生している。
 にもかかわらず、官僚たちは、いまだに規格大量生産時代の金融思想でものを見ている。だから1回公的資金を入れて、バブルのときのものを解消すれば健全になると考える。そのあとは官僚の保護と監視下に置き、先物空売りは制限して「健全な金融」だけを行わせればよい、というわけです。
 これは大間違いです。こうした誤った金融思想の上に政策を積み上げてきている。たとえて言えば、太平洋戦争時に日露戦争の戦法で戦っているのと同じ状況になっているのです。

銀行は消費者金融に学べ!

 これからの銀行は、金融仲介業(ブローカー)にとどまらず、ディーラー(胴元)になって、危険分担をしていく必要がある。その際、「全体としてX%の利益が上がれば良い」と考えるべきです。いまは零細企業でも、ひょっとしたら10倍になるのもいるだろうし、無になるのもいるだろう。それを、全体としてX%の利益を目指す。最善と思うポートフォリオを組み、デリバティブやヘッジによって危険を分散し、全体としては危険の少ない投融資にする。うまく行くかどうかはディーラーの腕次第です。
 いまの銀行は、どこもただのブローカーにすぎません。収益性を上げるために、優良企業への貸出金利を上げ、その金利分で潰れた会社の損失分を埋めている。健全な会社から金利を高く取って、潰れた融資を埋める「タチの悪い鵜」のようなものです。これでは、日本中の活力が無くなってしまう。
 銀行も知価社会に向けて、零細企業や個人に投融資をしていくべきです。だが、銀行の思想が古いままだからうまくいかない。私は銀行員にできないのなら、消費者金融の支店長クラスを取締役に採用すればいいとさえ思う。
 織田信長は豊臣秀吉を大将軍に育て上げました。いまで言うと、秀吉は学歴のない中途入社者です。そんな男をいきなり長浜の殿様にし、中国派遣軍の総司令官に抜擢した。信長は先見の明のある改革者だったのです。
 いっそ、銀行が消費者金融の支店長を新規事業担当取締役にして、その下に東大卒をがっちりつけるくらいのことをやってもおかしくない。いま必要な金融思想改革とは、まさにそういうことなのです。
 明治維新のときも同様でした。維新後、日本を支えたのは、300年続いた旗本たちではなかった。農民出身者で留学帰りの渋沢栄一や、中間(武家の召し使い)出身の山県有朋でした。
 改革をするためには、違う能力を導入しなければいけないんです。銀行も自ら収益性を高めなければ、再び不良債権を抱えることになります。