竹島
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領土問題
日本と韓国、北朝鮮が領有権を主張している。日本は国際法上も適法な固有の領土であるとして、島根県隠岐郡隠岐の島町に属させている。韓国、北朝鮮側では独島(??、トクト/ドクト,Dokdo)と呼称する。なお、韓国側の行政区画としては、慶尚北道鬱陵郡鬱陵邑独島里に編入されており、実質的には海洋警察庁を傘下にもつ大韓民国海洋水産部の管理下にある。
竹島は険しい岩山で面積も狭いので島自体から得られる利益は無いが、周囲の広大な排他的経済水域の漁業権や海底資源が大変重要視されている。
韓国は領有を主張するのみならず、この島に守備隊を常駐させて日本側の接近を警戒し、ヘリポートや船舶の接岸場所、灯台も設置するなどして領有の既成事実化を進めている。さらに韓国は、日本による竹島編入が後の韓国併合の始まりであると位置づけている。そのため、日本政府の再三の抗議に対しても「歴史の歪曲」「妄言」と断じ、交渉する姿勢も見せていない。
1954年9月25日、日本政府は、領有問題を国際司法裁判所に付託することを韓国側に提案したが、これにも韓国政府は応じていない。
日本政府から韓国政府へは毎年口上書を送付しているものの、一方で日本国民の竹島問題に対する関心は概して薄い。ただし、日本人の中にも竹島問題に強い関心を示す人々はおり、日本の政治家たちに竹島奪還を強く要求する者もいる。
現在、この島の排他的経済水域内では石油などの海底資源は特に見つかっておらず、最も問題になるのは漁業権である。日韓漁業交渉では竹島問題については棚上げされ、双方相手国の排他的経済水域内での漁獲が制限付きで認められている。しかしながら、韓国寄り海域では韓国軍が頻繁に監視を続けており、日本漁船が近づきがたくなっているのが現状である。
経緯
1952年1月18日、韓国大統領・李承晩の海洋主権宣言に基づく漁船立入禁止線(いわゆる李承晩ライン、韓国では「平和線」と呼ぶ)によって竹島が韓国の支配下にあると一方的に宣言されたことで引き起こされた問題である。
- 1618年:米子の大谷甚吉、村川市兵衛ら幕府から許可を得て竹島(当時は松島と言った)に渡航
- 1692年:鬱陵島(当時は竹島と言った)に出漁した大谷・村川の一行が朝鮮人と遭遇。翌年にも遭遇し、連行したのを契機に紛争が発生(竹島一件)
- 1696年:鬱陵島への渡航を禁止、朝鮮人・安龍福が漂着し鬱陵島・子山島(=竹島か?)は朝鮮領であると訴える
- 1877年3月29日:「日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト定ム」とする太政官の指令が内務省に伝達
- 1900年10月25日:大韓帝国勅令41号で鬱陵島を江原道の郡に昇格、同時に石島(=独島?)も韓国領とした
- 1905年1月28日:日本政府、閣議で竹島と命名し、島根県隠岐島司の所管とする
- 1914年:鬱陵島を江原道から慶尚北道に移管
- 1945年9月2日:日本政府、ポツダム宣言を受諾
- 1946年1月29日:連合国軍最高司令官総司令部覚書SCAPIN(SCAP
Institutions)667号「若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」
- 1946年6月22日:SCAPIN1033号「日本の漁業及び捕鯨業に認可された区域に関する覚書」(マッカーサー・ライン)
- 1948年8月13日:大韓民国建国。初代大統領に李承晩就任。
- 1952年1月18日:韓国政府は李承晩ラインを一方的に宣言。以後、日本漁船の拿捕や銃撃事件が相次ぎ、日本の漁業従事者に死傷者が多数出る事態となる(詳しくは李承晩ラインを参照)。
- 1952年4月28日午後10時30分(日本時間):日本国との平和条約発効
- 1953年1月12日:韓国政府、「李承晩ライン」内に出漁した日本漁船の徹底拿捕を指示
- 1953年2月4日:第一大邦丸事件。済州島付近で同船の漁労長が韓国側に銃撃を受け死亡。
- 1953年4月20日:独島義勇守備隊、独島に初めて駐屯
- 1953年6月26日:日本側が竹島に「日本島根県隠岐郡五箇村」の標識を立て、守備隊員6人を追い出す。
- 1953年7月12日:竹島に上陸していた韓国の獨島守備隊が日本の海上保安庁巡視船に発砲する。以後、日本政府の抗議にも関らず竹島の武装化を進め、日本の艦船の接近を認めていない。
- 1954年9月25日:日本政府は領有問題を国際司法裁判所に付託することを韓国側に提案。韓国政府はこれに応じず。
- 1954年11月30日:韓国側が竹島に近づいた日本警備艇に砲撃をくわえる。
- 1956年4月:韓国警察鬱陵警察署警官8名が島に常駐
- 1956年12月25日:独島義勇守備隊解散
- 1965年:日韓基本条約調印、李承晩ライン廃止。竹島問題は紛争処理事項とされる。しかしその後韓国は竹島の領有問題は紛争処理事項でないとの立場を取り、交渉のテーブルすら着いていない。
- 1977年2月5日:福田赳夫首相が「竹島は一点疑う余地のない日本固有の領土」と発言。
- 1997年11月:韓国、日本政府の抗議にも関らず500トン級船舶が利用できる接岸施設設置
- 1998年12月:韓国、日本政府の抗議にも関らず有人灯台設置
- 2004年1月:韓国、日本政府の抗議にも関らず竹島を図柄にした切手を発行
- 2004年2月17日:日本郵政公社、竹島の写真付き切手の発行を拒否
- 2004年3月1日:「我が国最東端の領土」と韓国側がテレビ中継を実施
- 2005年3月16日:島根県議会が、竹島の日条例を可決。
争点
竹島を巡る争点は以下のように整理される。
- 誰が最初に発見し、実効支配をしたか
- 1905年の日本による竹島編入の有効性
- 戦後のGHQによる竹島処分の解釈
以下、それぞれについて日韓両国の主張を整理してみる。
誰が最初に発見し、実効支配をしたか
国際法上、実効支配した者のない島や岩礁は、それを最初に発見した者に領有権があるとされる。そのために領土を巡る紛争ではよく議論の対象とされる。
韓国の主張
- 韓国最古の文献である『三国史記』(1145年)に、512年于山国が服属を願い出てきたとある。1454年に編まれた『世宗実録』地理志に「于山、武陵二島は県(蔚珍縣)の真東の海中にある。二島はお互いに隔てること遠くなく、天候が清明であれば望み見ることができる。新羅の時、于山国と称した」と于山島の記述が見られるが、晴れていれば鬱陵島(=武陵)から竹島が望めるので、この于山島を竹島=獨島と考えるのが自然だ。更に1481年(成宗12年)に編纂された『東国輿地勝覧』でも于山島を朝鮮領と記述している。
- 元禄時代に鬱陵島の帰属をめぐって紛争が起こったが、その際に鳥取藩が鬱陵島・竹島を版図の外であると回答している上、両者の遣り取りの中で于山島=竹島と言う認識は日本国内にも認識されるようになっていた。1770年に編纂された『東国文献備考』輿地考でも于山島=竹島との記述がある。
- 1785年(天明5年)に成稿、翌年刊行された日本の林子平による「三国通覧図説」には、竹嶋が書かれており朝鮮領と明記されている。
- 『海左全図』という1822年に制作された地図によれば、鬱陵島の東に島が書かれている。一方、日本が編纂した公式の地図『日本輿地図藁』・『日本国地理測量之図』(この2つは伊能忠敬が中心となって編纂)・『官板実測日本地圖』その他民間で編まれた地図には一切竹島の記入が為されていない。従って、日本が竹島を自国領と認識していたとは考えられない。
日本の主張
- 『太宗実録』の太宗17年(1417年)の項で最初に于山島の記述が出てくるが、「安撫使の金麟雨が于山島から還ったとき、大きな竹や水牛皮、芋などを持ち帰り、3人の住民を連れて来た。そして、その島には15戸の家があり男女併せて86人の住民がいる」と報告している。しかし実際の竹島は0.2km2とニューヨークのセントラルパーク(3.4
km2)の10分の1に満たない岩ばかりの小島である。そのような竹島で86人もの住民が生計を立てていくのは不可能である。したがって『太宗実録』の記述が正しいのであれば、于山島が竹島を指すという主張は不合理である。また、1452年に編まれた『高麗史地理志』には、「朝鮮半島の東の海にある鬱陵島は新羅時代には于山国と呼ばれていた」という記述があり、鬱陵島が于山国であり于山島だった可能性が高い。
- 1530年に韓国で発行された『八道総図』という地図によれば、于山島は鬱陵島の西にあることになっているなど、韓国側が于山島=獨島=竹島と正確に認識していたとは考え難い。発見された年代は不明だが1618年には徳川幕府によって竹島渡海免許が大谷・村川両家に下されるなど、日本人にその存在を知られていたことを確認できる文書が遺されている。漁労や鬱陵島への中継地として利用していた事実がある。それ以前に韓国人が竹島の存在を知っていたことを確実に示す証拠はみつかっていない。従って、日本が先占し、実効支配したのは間違いない。
- 日本の林子平による「三国通覧図説」は日本の本土以外は正確に描かれていない。隠岐と鬱陵島双方が見える島など存在しない。また本土からの距離も記されておらず、島の大きさや形状から言って現在の鬱陵島を意味している可能性が高い。鬱陵島は当時の日本では「竹島」と呼ばれ、現在の「竹島」は当時「松島」と呼ばれていた。
1905年の日本による竹島編入の有効性
1905年1月28日、日本政府によっておこなわれた竹島の島根県への編入が法的に有効なのか否かが問題となっている。韓国側の主張は、「法的に不十分な手続きであり、秘密裏に行われたもので非合法である」としている。それに対して日本側は、「国際法に則った適法な手続きがなされたものであり、また新聞などでも報道されており秘密裏に行われたとの指摘は当たらない」としている。
韓国の主張
- 1877年の太政官指令書によって竹島を日本領土から外すと認め、その前後から朝鮮領土としての認識が日本側にもあった。
- 1900年の大韓帝国勅令で韓国領として内外に宣言されている。
- 日本による竹島編入は強制的に行われたものであり無効である。
- また、一地方政府が秘密裏に行った手続きであって、法的効力は持たない。
日本の主張
- 竹島は1905年に日本が編入するまで日本人以外に実効支配されたことはない。
- 竹島の編入手続きは、国際法に照らしても問題のないものであり、まったく合法である。
- このことは当時新聞でも報道されており、一地方政府が秘密裏におこなった手続きとは言えない。
戦後のGHQによる竹島処分の解釈
GHQから出された「連合国軍最高司令官総司令部覚書」667号
SCAPIN667(Supreme Command for Allied Powers
Instruction Note No.677)「若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」という文書で、日本の領土は北海道・本州・九州・四国およびその隣接する島々とされ、鬱陵島や済州島などを除外するとした。その除外される島のリストにかれらがLiancourt
Rocksと呼んでいた竹島が含まれていた。
また、「連合国軍最高司令官総司令部覚書」1033号SCAPIN1033「日本の漁業及び捕鯨業に認可された区域に関する覚書」によって決められた日本漁船の活動可能領域(これを「マッカーサー・ライン」という)からも竹島は除外されている。
韓国はこれらを根拠に、一方的に日本漁船を排除する線を引き、そこに立ち入った日本漁船を拿捕したり銃撃したりした。この線を李承晩ラインという。
しかしながら、両覚書にはそれらが日本の領土を確定する最終的なものでないとの断り書きがある。
SCAPIN667およびSCAPIN1033によって行われた処置の解釈、すなわちそれが領有権を確定させたものであるか否かが争点となっている。
韓国の主張
- カイロ宣言では、「日本が暴力及び貪欲により略取した他の一切の地域」の日本からの排除を謳っている。明治初年に日本領でないことを公に宣言し、朝鮮への植民地支配を強めていく時期に日本領への編入を行った竹島を日本から切り離すのは連合国側共通の了解事項だった。そして「連合国軍最高司令官総司令部覚書」667号
SCAPIN667(Supreme Command for Allied
Powers Instruction Note No.677)「若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」で、竹島が除外されることが明記されている。
- SCAPIN667の「ポツダム宣言の第八条に述べられている諸諸島の最終的決定に関する連合国の政策を示すものと解釈されてはならない」は、必要あれば修正することが出来る可能性を残したものに過ぎず、SCAPIN667の日本の定義を修正した(=竹島を日本領とした)覚書は発表されていない。そればかりか、「連合国軍最高司令官総司令部覚書」1033号SCAPIN1033「日本の漁業及び捕鯨業に認可された区域に関する覚書」では竹島周囲12海里以内の地域を日本の操業区域から除外している。
- 日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)は「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」と規定しているのみで、竹島がどちらの国に帰属すべきかについてまでは述べられていない。
日本の主張
- SCAPIN667には「この指令中のいかなる規定もポツダム宣言の第八条に述べられている諸諸島の最終的決定に関する連合国の政策を示すものと解釈されてはならない」との、SCAPIN1033には「この認可は、関係地域またはその他どの地域に関しても、日本の管轄権、国際境界線または漁業権についての最終決定に関する連合国側の政策の表明ではない」との文言が盛り込まれている。韓国の主張は、この規定を無視していて不合理である。実際、SCAPIN667およびSCAPIN1033によって除外されていた島々、具体的には小笠原諸島、奄美諸島、琉球諸島の島々は後に日本側へ返還されている。このことからもSCAPIN667およびSCAPIN1033が日本の領土や管轄権や漁業権を最終的に確定したものでないことは明白である。
- アメリカ駐日政治顧問ウイリアム・シーボルト
(William J.Sebald) からバターワース (Butterworth)
国務次官補への1949年11月14日付電報で「リアンクール岩(竹島)の再考を勧告する。これらの島への日本の主張は古く、正当なものと思われる。安全保障の考慮がこの地に気象及びレーダー局を想定するかもしれない」と指摘し、「朝鮮方面で日本がかつて領有していた諸島の処分に関し、リアンクール岩(竹島)が我々の提案にかかる第3条において日本に属するものとして明記されることを提案する。この島に対する日本の領土主張は古く、正当と思われ、かつ、それを朝鮮沖合の島というのは困難である。また、アメリカの利害に関係のある問題として、安全保障の考慮からこの島に気象及びレーダー局を設置することが考えられるかもしれない」との正式な文書による意見書の提出を受け、1949年12月29日付講和条約草案では日本の領土に竹島が含まれることを明記し、以後その方針が堅持されている。
- 日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)は「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」と規定しているのみで、竹島は含まれていない。
- 「韓国による竹島の占拠は、国際法上何ら根拠がないまま行われている不法占拠であり、韓国がこのような不法占拠に基づいて竹島に対して行ういかなる措置も法的な正当性を有するものではない」と日本政府は主張している。
韓国実効支配下の独島
独島守護のため、992名の韓国人が独島に戸籍を置き、実際に1991年からキム・ソンド、キム・シニョン夫婦が独島里山20番地に住んでいる。
このほか、韓国国家警察慶北警察庁独島守備隊の武装警察官40名と海洋水産部職員3名が島に駐屯する。また韓国海軍や海洋警察庁が領海警備に当たる。2005年、島根県の竹島の日に反発した韓国政府は韓国人観光客の入島を解禁し、3月28日には一般観光客が始めて独島に上陸した。独島には接岸施設や有人灯台、守備隊宿舎などが建設されている。
朴正煕大韓民国大統領は「独島問題は、韓国には譲れない一線だし、日本にも譲れない一線のはずだ。それならば、韓日友好の妨げになる無人島など爆破してしまえ」と述べている。
もともと住民がいた済州島は、大和朝廷に入貢せず、新羅に入貢した。意思のない無人島の帰属問題は、ものの取り合いになる。
日本政府は、具体的な対抗措置を講じておらず、島根県議会は2005年に竹島の日条例を可決し、政府に問題解決へ向けた行動を促している。