日経ビジネス11月7日号
「TPP亡国論のウソ」
「農業の守り方を間違った」元農水次官の告白
高木勇樹・元農林水産事務次官(現・日本プロ農業総合支援機構副理事長
TPPが農業に壊滅的な被害をもたらすというTPP亡国論の最大の論拠は、農業生産額が半減し、コメの生産が9割減るとした農林水産省の試算だ。日本の農政を司る農水省は、関税障壁によってコメなどの重要品目を保護する一方、減反政策で米価を維持しようとする政策をとってきた。
これに対し高木氏は、これまでの農業保護のあり方は間違っていたと自らの過去も含めて批判する。反対派の議論とは全く逆に、日本の農業再生のために、なぜTPP交渉に参加する必要があると説くのか。
高木 勇樹(たかぎ・ゆうき)氏 1966年東京大学法学部卒、農林省(現・農林水産省)入省。畜産局長、官房長、食糧庁長官などを経て、1998年事務次官。2001年退官後は農林中金総合研究所理事長、農林漁業金融公庫総裁を歴任。2007年からNPO(特定非営利活動法人)日本プロ農業総合支援機構副理事長。
TPP(環太平洋経済連携協定)に反対する人たちは、何から何まで総動員してTPPを非難しているが、私にはあまり説得力があるとは思えない。
彼らは「TPPに入ると国の形が変わってしまう」というが、今は何が起きているのか。今はなし崩しに国の形が変わっているのだ。 農村は疲弊し、いまや外国人労働者、いわゆる研修生の力を借りずには農業を維持できなくなっている現実をみれば、国の形はなし崩しに変わりつつある。農業はこのまま行けば右肩下がりだ。農林水産省の試算ではTPPに参加すると農業生産額が4兆1000億円消えるというが、この20年で農業総生産は4兆円減り、農業所得は半減した。
地縁、血縁があるので、なかなか大きな声では言えないことだろうが、私が農村集落に行って話す限り、このまま行っても日本の農業は先の見通しが何もない。何もないどころか、人がいなくなっているという危機感は強い。
これだけ高い関税で守ってきたのに、なぜそういうことになってしまったのか。それは農業の守り方が間違っていたからだ。
間違っていた守り方を直すには、まず日本の農業の現状、強みと弱みををきちんと分析、検証することだ。そうすればTPP24分野の交渉の戦術はできる。どこに手を打たないといけないか、どれだけの期間をかけなければならないか。それを考えた上で交渉に臨めばいい。そして戦術の前に、この国の形をどうしていくか、という大きな戦略を作らなければならない。
そうした戦略に基づいて、それでもなおコメを守る必要があるというのであれば、関税撤廃の例外品目にする、ないしは関税の削減幅を暫定的に限定する、といった要求をするなど、いろいろ方法はあると思う。そうした交渉もせずにTPPに入ったらまるでいきなり関税がゼロになるかのように、何の根拠にも基づかないで恐怖感を煽るのは冷静な議論を妨げるだけではなく、国の形を誤らせる。
「原則関税撤廃」は大きな誤解
何しろ「原則関税撤廃」というのが大きな誤解だ。撤廃する品目もあるが、そこは正に交渉して決まる話だ。米国は米豪FTA(自由貿易協定)で砂糖などを関税撤廃の例外にしている。TPPでも米豪FTAの内容は変えないというのが米国の基本姿勢だ。若干は変えるところがあるとしても、基本は絶対に守るだろう。
日本がどうしてもコメを守りたいならば、早く交渉に入って、我々はコメ問題をこう考えると主張するべきだ。米韓FTAでコメを例外にした韓国が、もしTPPに入ってくれば、当然コメを例外にするよう主張する。日本が先に入り、WTO(世界貿易機関)のドーハラウンド(多角的通商交渉)でそうしたのと同じように、韓国と一緒にコメを守ればいい。
一方、国内でもコメをどう守るのかも変えるべきだ。いま水田が260万〜270万ヘクタール使えるのに、実際には160万ヘクタールしか稲を植えていないという状況を大きく変えていくということだ。極端に言えば、全部稲を植えて、輸出し、飼料用や加工用にも回していく。そういう大胆な発想をすれば、農村の活性化はあっという間にできる。
今の民主党の状況は、かつての自民党政権の時よりも悪い面が出すぎている。自民党も末期には短命政権が続き、政権交代につながった。私も、政権交代が実現すれば、しがらみのない中でいろいろな改革ができると期待したが、民主党政権の農政を見ている限り、マニフェスト(政権公約)の通りには何もやっていない。
今にして見ると、彼らはマニフェストを党の共通認識にする努力をしていなかったのではないか。だから小沢一郎さんがこう言った、あの人がこう言った、それでマニフェストがあっという間に変わる。マニフェストはよく分からない、ふわふわとしたものだととらえられていった。一方で国民は、あのマニフェストで選挙を勝ったのだから、きちんととやるだろうと期待したが、財源の問題もあって、期待外れの部分ばかりが大きく出てしまった。
農業で言えば、小沢さんがかつて言ったように、戸別所得補償を導入すれば日米FTAも乗り切れるはずだった。2009年のマニフェストにもそう書いてある。農村の振興と国際化は両立させる、というのはそういう意味だ。そういう政策目的をもっていたはずなのに、マニフェストと全く関係ないことをやってしまっているのは、政策目的なき、究極のバラマキと言わざるを得ない。政策目的がないのは政策と言わないのかもしれないが。
農地制度についても、マニフェストにはこう書いてある。入口は自由にする、出口は規制すると。ところがそんな議論を戸別所得補償と合わせてやっているかと言えば、やっていない。要するに農政の全体像を何にも示していない。いいとこどりで、聞こえのいい話だけをしている。意欲的な農家の方々も初めは期待したかもしれないが、いまや直感的に、これは将来を見ていない、将来について何の考えもない、ということを肌身で感じ始めたのではないか。
TPPに反対している方々はいらっしゃって構わないが、こういうことも考えて反対しているのか。
主業農家(農業所得が主=農家所得の50%以上が農業所得=で、1年間に60日以上農業に従事している65歳未満の者がいる農家)でコメでやっているのは4割弱。その人たちを支えるためにセーフティネット(安全網)が必要なのはわかる。ただし、その支え方が今の方法とは違うとは思うが。
しかしそれ以外は、県や市町村、農協、あるいは地方の工場に勤めているような安定兼業農家が多い。戸別所得補償をボーナスのようにもらっている安定兼業農家に何のためにお金を払うのか、ということだ。
今の戸別所得補償を続けたところで、都会で働いていた息子さんや娘さんが、実家に帰って農業をやろうか、ということには絶対にならない。お父さんが70 代で、もう一度機械を買い替えようかという時に、息子さんや娘さんが「もうやめなさいよ」ということになるのだろう。そこで農地がバラバラに出されても、集約しきれない。
私が提唱してきたのは「総合穀物構想」だ。
日本の穀物政策はほとんどコメだけだった。麦には多少はあるが、飼料穀物、大豆、コーンスターチ用のトウモロコシとか、そういうものは一切関心がなく、関税ゼロでやってきた。
飼料用、加工用のコメを作るには効率よく多収量品種を投入してコストを下げなければならないが、有事には、飼料用、加工用のコメを主食用に転用すればいい。それも一種の食糧安全保障であり、備蓄は水田でするということだ。
そういう発想の転換が必要だ。それには生産性やコストを下げるために水田を集約するといった対策を行わないと、絵に描いた餅になってしまう。民主党政権が飼料用、加工用のコメを自給率向上対策と称して生産調整とは切り離したのはいい方向だが、コストを下げる仕組みを入れなければあまりにも財政負担が多すぎて長続きしない。そういう政策が今は一切出てきていない。
日本の農家の強みは、ほかの産業で開発された技術を使いこなす高い能力を持っているということだ。
例えば宮崎県に新福青果という会社がある。周辺の農家から借りた畑を集めたところ、ある程度の面積にはなるものの、とにかくバラバラで効率が上がらない。そこで、バーチャルに1枚の畑にしてしまおう、ということで、携帯電話やパソコンからサーバーに情報が入れられるようなシステムを大日本印刷と共同開発した。Aという畑には何を植え、いつどんな肥料をやったか、農薬は何回かけたか、を入力する。1枚ごとの畑は分散しているが、これで理論的には畑が何百枚あろうが一元的に、まるで1枚の畑のように管理できる。それが最近では当たり前になってきたトレーサビリティ(生産履歴の管理)にもなって、そういう商品がほしいという生協からの引き合いにつながり、香港、上海でも売れるという話まで持ち込まれているという。
新福青果のようなIT活用のほか、搾乳ロボットはかなり前からある。まだ実用化はされていないようだが、GPS(全地球測位システム)を使った無人田植え機の開発も進んでいる。これまでカベになっていた部分を乗り越えては来ているが、それに加えて農地制度が使いやすくなれば日本の農業は飛躍的に効率化できる。
何よりも農業は地域の雇用の場になる。収穫した作物を選り分けるのはお年寄りの方がきめ細かい対応ができる。若い人は若い人の能力を使い、圃場を見て回り、きちんと管理をする。そういう分担ができる。大企業が工場で何百人も雇用する、というほどではないかもしれないが、その地域で何十人、パートを入れれば百人単位の雇用ができる。農地を貸しながら働く場所があれば、そこに定住できるということ。農村地域の活性化にもつながる。そういうことができるのに、なぜやらないのか。農地制度を守るということは、農地を使うということ。今は使わないで守ろうとしている。これは資源の無駄遣いだ。
私の原点となる主張は、農業経営は総合産業ということだ。経営資源は農地、人、技術であり、作物を加工し、付加価値をつけて販売、マーケティングする。そういう意味では製造業と何ら変わらない。今は「6次産業化」という言葉を使っているが、先進的な農業者は前からみんなそうしている。
私はそういう経営体を「持続的農業経営体」と呼んでいる。すでに存在している経営体を点から面へと広げていく。既存の制度の壁を取り払うため、持続的農業経営体の総合支援法を作り、そこで農地の問題、新規参入も含めた人の問題、技術の問題を取り扱い、企画力や販売力を高めていく支援体制をどう作るか考える。基本的にはリスクは個々の農家がとるとしても、加工場、倉庫、冷蔵施設など組織化が向く部分はみんなで出し合えばいい。株式会社になる時に、農協が与えられている税制などのメリットをイコール・フッティングで与えるべきだ。
持続的農業経営体もいろいろ苦労をしているが、一番の苦労は農地にある。借りてくれと、言ってくる農家は多く、農地は集まってくるが、分散している。新福青果では、もし3カ所にでもまとまればもっと効率が上げられるという。農地の問題が農家のアキレス腱だ。一昨年、農地法を大改正したとは言うが、一向に農地が動いていない。言ってみれば、国会答弁用の改正をしただけではないか。形だけのことをいくらやっても、制度の壁をどう乗り越えるかを考えている農業経営者がそれで生きていけるわけはない。
今の農地制度を廃止するぐらいまでやればいい。それは経過措置を取ればいいし、持続的農業経営体支援法のなかに使いやすい簡単な農地制度として入れてもいい。今の農地法の特例法をその中に書くやり方もある。要するにやる気になればいろんなことができるはずだ。
これからはおそらく減反廃止の方向に向かっていくのだろうが、それを実現するには担い手である水田農業経営者が大事だ。今のように農地が分散したままだと、効率が上がらない。そういう政策を合わせて実施すれば、減反廃止という政策は現実味を帯びてくるだろう。
山形県のコメ集約・販売会社「庄内こめ工房」の斎藤一志代表取締役もTPPに賛成しているが、こうした持続的農業経営体はおそらくTPPを歓迎する立場なのではないか。
TPPという大きなルールの中できちんと位置づけられれば、日本の農業を変えるきっかけができる。新たなルールに合うように仕組みを変えていくわけだから。これは直感だと思う。理屈もあるかもしれないが、肌で感じる直感、TPPが彼らの感性を刺激しているんだと思う。
そういう経営をしている人たちは、受けて立つ、というよりもそれを利用してやろう、という立場ではないか。やはり先進的な農事組合法人である、千葉県の和郷園の木内博一代表取締役は「自分が黒船になればいい」とまで仰っていた。
農協も刺激を与えられて自分のビジネスモデルを見直す機会になる。いずれ農協はビジネスモデルを根本から改めないと、経営そのものが成り立たなくなる。今でももう販売部門の経済事業はほとんど赤字で、それを共済と信用の金融事業で穴埋めしているのが実態だ。意欲的な農協がこの支援法の枠組みに入ってもいい。農協を排除するつもりは全くないし、農協はできた時の原点に戻ればいい。規模の小さい専業農家は一戸一戸が弱いから農協を作り、それはそれでビジネスモデルも進化させていけばいい。
日本の野菜にはほとんど関税がない。いつも例にとるのは花卉。コメとは対極にあり、ほとんど関税はかけていない。しかし、逆に東南アジアに花卉を輸出しようとすると関税が結構高く、不利な状況だという。
要するに、これまでの日本の農政はほとんどコメばかりだった。もちろん酪農も重要な産品があるが、それ以外の産品については政府は意外と戦ってこなかった。戦っているのは農業経営者であって、輸出を考えてみたら、意外と相手先に高い関税が残っていた、ということがある。個人では関税交渉はできないのだから、国の役割というのはそういうところにある。
ただ、農業の関税だけとらえて大騒ぎするのはナンセンスだと思う。
関税以外に重要なのは検疫だ。お互いに交渉が難しい分野だが、あまりにもおかしな検疫制度は直させる必要がある。TPPは24分野の中に衛生植物検疫(SPS)に関する共通ルールを作ろうとしている分野があるのだから、大いに乗るべきだと思う。個別に折衝するよりも、共通ルールを作る方がいい。
本来、全世界の共通ルールを作るのはWTOの役割だが、ドーハ・ラウンドは進展の見通しが立たないので、TPPでそういうルールを作っておけば、仮にドーハ・ラウンドが動き出した時にはTPPが大きなルールメーカーになる。
知的財産権の問題も大きい。中国では「コシヒカリ」という名称が既に商標登録されていて日本のブランドを自由に使えないというゆゆしき問題がある。こういうことをTPPのなかできちんとルール化しなければならない。
中国がTPP交渉に入ろうとしていないから、日本も入らなくていいという議論もあるが、中国が入れないのは当たり前だ。入った途端に、知的財産権や検疫制度を含めて24分野を全部変えなければならないので、今は入りようがない。むしろ中国を将来入れることを見越して米国がルールを作ろうとしているのなら、日本も一緒にやるべきだ。それが実は、知的財産権の問題なども含めて、日本の農業を守ることにもなる。
これを中国と一対一でやろうとしても、彼らは乗ってこない。中国と日本のFTAでは絶対に解決できない問題だ。しかしTPPに知的財産権のルールができ、それが広がっていけば、いずれ彼らはそれを呑まざるを得なくなる。
TPP交渉に合意しても、国会で批准しなければ発効しない。また韓国の国会で米韓FTAを批准すべきかどうか揉めているようだが、協定の形になった上で、国会で大いに議論して、それが日本には受け入れられないならば批准しない、ということになる。しかし、今はその前の前の前の段階だ。
「TPPに関する情報がほとんどないから判断できない」という反論も多いが、今は交渉に入っていないのだから当たり前だ。情報収集に回っても本当のところはわからない、わからないから情報がない、情報がないのは判断できない、というのはほとんど論理矛盾で、どういうつもりかわからない。
情報がないのが問題なら、まず交渉に参加しろということだ。交渉に参加して情報を取り、日本の強み、弱みを踏まえて交渉する。協定の中に自分たちの考えを反映させるよう、一番国益に沿うものを勝ち取る。そして協定の形ができあがったら、批准するかしないかはまさに国会の役割だ。
やはり人間は生身だから、保身もあるし、出世欲もあるし、いろんな思いがごちゃごちゃにある。そういう中で、政治というものがどっちを向くのか気になる人たちもいる。改革を始める時は、ほとんどがその改革を理解していないか、改革に反対か、改革に消極的だ。改革をする時、組織の中に信念を持った人間が 1%いればいい、と私は言ってきた。その人たちがまずきちんと周りを固め、政治も、農業団体も、関係者ともネゴしながら方向をだんだん固めていく。1%が 1割になり、1割から2割になればしめたもの。様子見だった7〜8割が動き出す。
ところが、その1%というのが、なかなかいないんですよ、これが。
農業関係者は、とかく排除の論理に陥りやすい。農政のことは、俺たちだけしかわからない、俺たちが一番わかっているんだ、となると、内輪でしか通用しない用語ができてくる。そうした用語を理解しない人たちは全部わかってない連中ということになる。そうすると、改革を志す人たちが排除されていく。今の民主党にもそういうきらいが出てきている。
役所もそうなりがちだ。私もとにかく反省しなければいけない。