「遺言」
2004/11/25 宮崎正弘氏の講演会で配布
本文は、1991年末から翌年年初にかけて華南地方を視察し、その結果、外資に対する開放政策に自信を得て経済開放政策を加速させる指示(所謂「南巡講話」)を出したケ小平〈1904−1997〉の南方視察にまつわる言動と、その後胡錦涛を後継者とする腹を固め、1992年6月、曾慶紅に命じて胡錦涛を自宅に呼び中国統治の要諦を伝えたとされる逸話を纏め、昨年8月香港明鏡出版社から出版された原題「遺嘱」(「遺言」の意味、全32章)の最終章を邦訳したものです。著者はペンネームを用いており正体は不明ですが、使用している字句と文体から中南海(中国共産党及び中国政府の中枢部)勤務経験者と言われております。
「第三十二章 遺言」
6月、青空に白雲たなびく午前10時、北京は景山北麓のケ小平自宅。
王瑞林(1)は門前に立って、呼びかけに応じて訪問する曾慶紅と胡錦涛を待っていた。このような出迎えはケ小平弁公室では最高の待遇である。
曾慶紅と胡錦涛は客間に入るなり、彼らに向って目を細めて微笑んでいる老人を見つけた。曾慶紅は即座に歩み寄り「ケおじさん、こんにちは!」と言いながらしっかりとケ小平の手を握った。
「母さんは元気かね」、「とても元気ですよ」
曾慶紅の母親ケ六斤も有名な革命老人の一人であり、年齢はケ小平とほとんど変わらない。「母は、われわれの家門のケ小平は本当に優秀だ、といつもあなたのことを口にしてますよ。そして90歳にもなるのにあんなに元気で、本当にあやかりたいものだ、とね」
「やあ、全くだね。われわれはみなケ姓だからね。500年前は一家だったんだよ」ケ小平は実に上機嫌だった。
「こちらはチベット自治区党委員会書記の胡錦涛同志です。この半年北京で病気療養中です。どうもチベットの気候が合わないようで、現在は玉泉山で第十四大会の準備グループで仕事をしてます」と曾慶紅はケ小平に胡錦涛を紹介した。秘書出身の彼はケ小平が胡錦涛と二人だけで話をしたいのだろうと思って口実を探して「お二人でお話してください。私は樸方(2)のところに行ってますから」と言うと、ケ小平は微笑んで言った。「いや君もここにいなさい。ここに座りなさい。私はきょうは君たちと瑞林の三人に腹を割って話したいんだよ」
1 訳者注:ケ小平弁公室主任。解放後文革まで17年間ケ小平の唯一の秘書として仕える。
後に人民解放軍総政治部副主任。
2 訳者注:ケ小平の長男(1943年生れ)。ケ小平には妻卓琳との間に2男、3女あり。
三人は本当にびっくりした。ケ小平は胡錦涛と初対面だというのに腹を割って話をすると言うのだ。これは何を意味するのか。
曾慶紅が内密に胡錦涛に電話をかけてきてしかも自分で迎えに来て事が始まったが、どう考えても理解できない。しかし胡錦涛は非常に興奮した。『天は彼の人に大命を与える』という古のことわざが突然頭に漂かんだ。曾慶紅は江沢民総書記から総書記がケ小平と会ったときの会話の内容を聞いて江沢民のために心底嬉しかった。やっと江沢民は安心して仕事に専念できるようになったのだ。江沢民から胡錦涛を連れてケ小平と会えと言われたときは、単に道案内するだけだと思っていたので、まさか自分も一緒に話をすることになろうとは思ってもいなかった。
王瑞林はこの老人をよく知っていたが、きのう老人の指示で曾慶紅に電話し、きょう午前、二人を門前で出迎えるようにと言われ、ケ老人の顔に気力が漲っているのを見て尋常ならざるものを感じていた。
「今日は私が話をするので君たちは何も話さな<て良い」と言った途端、三人は輿奮して何が何だか訳が分からなかったが、直ちにペンとノートを取り出すのを禁じえなかった。
「人は年をとると頭脳が明晰でいられる時間がどんどん短くなる。私は自分の頭がはっきりしているうちに君たちにいくつかのことを話しておきたいのだ。私は自分の直感というものを信じている。君たち三人のうち、瑞林は私の傍にいてもう40年にもなる。二十いくつかのころから一緒にいて既にもう60過ぎた老人だ。だけど慶紅と錦涛、君たち二人を交えて話をするのはきょうが初めてだ。
初めての面談で腹の底を打ち明けるなんて軽率だと思わんかね。全く軽率だよ。でも、振り返ってみると自分の人生は軽率なことだらけだったよ。二十歳にもならないうちにフランス語もロシア語も話せずしかも一銭の金も持たずにフランスとロシアに行くという無謀なことをしたよ。帰国後も馮玉詳(3)の軍隊に行って仕事をするという軽率なこともしたし、その後にも広西で革命的な武装蜂起もした。ソヴィエト区(4)では反党分子にやられるという失敗もした。解放戦争では大別山にひたすら突進するということもしでかした。第8回党大会の後、毛主席が私を総書記に指名してくれたけれど長年にわたって毛主席には報告しなかったし、文革中や文革後も更に失敗したよ。
そのうちのいくつかは君たちも知ってるだろうからここでくどくは話さんよ。私が君たちに来てもらったのは、私は自分の直感を信じ君たちに言い残しておかなければならないと思っていることを話したいからだ。
3 訳者註:国民党左派の将軍。上海事変後共産党と協カして抗日同盟軍を組織した。
4 訳者注:第1次国共合作時の共産党支配地域。
君たち知っての通り、私は年初に南方に行ってその後で鄭必堅に命じて南巡講話の要点を書かせたが、多くの人はこれをケじいさんの臨終間際の遺言だとか最後の政治発言だとか言っている。だがそれが全てではない。私は今後こんなに多くのことは二度とは話さない。しかも真に核心に迫った政治的遺言は皆に知れ渡ってはならないことだ。きょう私は特定の分野に絞って私の本当の政治的遺言或いは本当の政治的な引継ぎをしたいと思う。
ケ小平のこの発言に三人は息もつけないくらいの衝撃を受けた。老人はきょうは一体どうしたというのだ?! 水を飲みながら老人はゆっくりと話し始めた。
「先ず第一に、私はわれわれの国家の政治体制の現状に非常に不満を持っている。私はこの政治体制を創設してこの十数年間これを守ってきたものの一人であり責任者でもあるが、同時にこの政治体制の被害者の一人でもある。われわれはこの政治体制の名を中華人民共和国と呼んでいるが、樸方の惨めな身体(5)を見るたびに共和国の最も本質的で核心的なものは何かと思わずにはいられないのだよ。それは民主と法制であるべきじゃないかね。だけどわれわれのこの政治体制で最も欠けているものはまさしくこの民主と法制だ!
私の責任でここ数年来この方面の仕事をしてきたが、しかしこの問題はまだ解決していないし、十年後君たちの政権になってもまだ解決できないだろう。しかし、その答えはあるのだよ。
それはすなわちアメりカの憲政を学習することだ。アメリカをして超一流の大国にならしめたもの、それが答えだ。中国も一流国家になるにはこれに拠らなければならない。アメリカを勉強すると、筋が通っているので話に勢いがあるのが分かる。他人と比較して己の劣っているところは認めなければならない。当然、表には現れないところに多くの技巧が含まれているのであせる必要はない。但し、君たちは努カし続け、学習し続け、実践し続けなければならないという責任がある。これは歴史的な責任でもある。幾世代かの人々の努カを通じて、中華人民共和国の真の権力の源を人民と法制におき公平な憲政国家にするのだ。これは孫文が切望したものでもあったのだ。中国はその日が来て初めて長期的に平和な治世となるのだ。
5 訳者注:ケ小平の長男樸方は、文化大革命中に走資派く資本主義に走る一派〉として失脚した
ケ小平の家族ということで迫害を受け、それがもとで下半身不随となり車椅子での生活
を余儀なくされている。こうした経緯から樸方は中国身体障審者関遵団体のリーダーを
務めることになった。
「二番目は台湾問題だ。香港問題解決後、中国最大の統一問題は台湾問題だった。本来、私の在任中に突破口を開きたかったができなかった。台湾問題では現在の政治体制上非常に大きなへだたりがある。自分が見るところ、この問題の解決は見えてこない。君たちの時代になってもまだ解決できないだろうが、この件では君たちがしっかりと把握しておかねばならない三つの問題がある。
第一は、本当にどうしようもないという事態になるまでは武力を行使してはならないということだ。中国人と中国人が殺しあってはならない。
二つ目は大陸の経済を奮い立たせてまっしぐらに突き進むことだ。貧しくなってゆくのでは永遠に希望はない。
三つ目は政治体制上の問題として一国二制度ではまだ十分ではないので、一つの可能性として連邦制による憲政の路を探ることだ。中国経済を強大にし民主と法制の共和体にすれば、台湾問題は竹を割るように一気に解決して行くだろう。
「三番目は発展の問題だ。いま言った二つの問題の基礎は経済建設と社会発展だが、この問題の核心は立ち上げを一般民衆にやらせることにある。政府だけにやらせてはならない。あらゆる方策を用いて全人民の英知をかき集め総書記や総理の頭脳と置き換えることだ。われわれは聡明だが人民の聡明さには及ばない。われわれの政府は干渉が多過ぎる。出来るだけ管理を少なくしなければならない。経済の問題は一般民衆と市場のほうがわれわれの計画より聡明だ。開放改革路線を堅持すれば、また経済建設を中心に据える方針を堅持し、大胆に一般民衆にやらせれば経済の民主化は途絶えることなく発展し、毎年の成長速度は7%を超える可能性が高いと思う。堅持しつづけ根気強くやり遂げれば君たちが政権を譲り受けるころには、もしかしたら中国は多少はゆとりのある国家(6)になっているかも知れない。
6 訳者注:原文では「小康国家」
「四番目は中米関係だ。中国の対外関係で最も重要なのは中米関係だ。いつも思うことだが、この百年来、中国に対する侮蔑の度合いが最も小さかった大国はアメリカだった。「庚子賠償」(7)返還後、中国人のアメリカ留学を引き受けたことは言うまでもなく、八年抗戦(8)においてアメリカの援助はソ連よりもはるかに多かったし、反米援朝でアメりカと闘ったのは金日成とスターリンがわれわれに仕向けたことによるものだった。アメリカは世界一の強国であり、中国の発展と統一はアメリカ抜きにして考えられず、世界の平和と発展もアメリカと切り離して考えることは出来ない。目下のところ、安定と発展の為にはわれわれは能力を隠して表に出してはならない。アメリカに対抗する勢力のリーダーになってはならない。仕方がないのだ。われわれの実力はまだ不十分であり手段にも限界がある。しかし君たちの時代になったら方法はもう少し多くなるだろう。もしわれわれがアメリカの憲法を学んだならばアメリカ人が快く思わないことはないだろう?
国を富ませ民を強くする為にわれわれの党は人民に主役を譲り、富強の理想は変えずに党名を人民党か社会党のようなものに変えることも考慮して良いのではないか。党名を変えれば中米関係はたちまち改善するだろう。とにかく、君たちの時代になれば手段は多くなり方法もふえるのだ。君たちはもう少し進歩的で物事を理解するように努め、もっと活発に成すべき事を成せ。われわれの世代のように堅い頭で活気がないざまにはなるな。ただ国家利益と人民の利益の為に実事求是(9)の精神で行動すれば歴史の検証に耐えられるに違いない。
7 訳者注:1900年、八カ国連合軍を中心とする11ヶ国が「義和団の変」く日本では“北清
事変”と称す〉に対する賠償金として4.5億両の支払いを取り決めたできごと。
8 訳者注:杭日戦争のこと。
9 訳者注:「事実に基づいて真理を求める」の意。毛沢東によって正しい作業方法として
評価され、今でも共産党の代表的なスローガンの一つとして使用されている言葉。
「第五は六四(10)問題だ。六四は中国の改革開放の過程においては必然的な現象であり、非常に高価な代償を支払った。この問題は今後誰かが清算するだろう。君(11)は軍隊を動かし、そして人を死に至らしめた。もちろん誰も発砲せよとは命令しなかったが責任は逃れられない。しかしもっと大きな歴史上の責任は、国家を前進させるか後退させるかであり、国家を混乱させてバラバラにするかそれとも安定的に発展させるかという問題ではないかね?
正に歴史に対して責任を負う人はこのような責任を怖がってはいけない。人の上に立つものは更に大きな責任を引き受けなければならないのだ。君たちの時代になったらどのような事が起きるか分からない。或いは六四かもしれないし、或いはまた七四かもしれない。しかし君たちは必ずや歴史と国家に対する責任感を持たねばならない。事実に基づき全ては実際からスタートするのだ。中国の進歩と発展に有利ならば、また総合的な国力と人民の生活水準を高めるために有利ならばやろうではないか。
六四のような問題に答える為の根本的な方法は、論争することではなく実際に国家を上手に運営し人民の生活を日々向上させることなのだ。ある人が私にこう言ったよ。党内の人材は一世代ごとに見劣りがしてくると。私の見るところでは何をもって判断基準とするかだよ。文才においては私は毛沢東にかなわないが、意志の強さにおいては私は君たちより勝っていると思う。だが科学的、理性的であるという面や奮闘努カしたり民主開明という点においては、恐らく君たちのほうが勝っているだろう。要するに事を恐れることはないのだ。禍を恐れるな。勇気を持って責任を全うするように進みなさい。ものごとは大胆にやって、やったことに対してはきちんと責任を取らなければならない。言うまでもなく、いったん政権を握ったらいざこざを引き起こしてはならない。事に臨んでは揉め事を起こさず、具体的なことを着実に行い、きちんと責任を取れ。このような態度で臨めば、歴史は六四に対して理性的な見解を出すだろう。
10 訳者注:1989年6月4日発生の天安門享件のこと
11 訳者注:人民解放軍総政治部副主任を務めた王瑞林を指したと思われる。
「六番目は制度の構築だ。最も重要な政治体制改革は憲法制度のもとでただカを注ぐだけではなく、党内、政府内部においても長い間努力して政治制度を構築しなければならない。例えば、いまわれわれは一握りのグループから江沢民を選び、君たちを選ぶことしかできない。これは歴史であって仕方がない。しかしこのような方法は絶対に長続きしない。最終的には指導者は人民によっで選ばれなければならず、一握りのグル一プや銃口(12)に頼ってはならない。
最も好ましいのは最前線の現場の声に基づいた制度を建設することだ。今後われわれは二度と銃口で政権を取ってはならないし、銃口によって政権を維持するようなことをしてもならない。いにしえの人も民心を得るものは天下を得ると言っているではないか。
自分は実事求是に基づくのが本筋であり、民心と民意に基づくことが政権を維持し完全なものにする方法だと思う。君たちはこういう意識を持っことが必要だ。これからは一般民衆の税金が政権を養うことになる。一般民衆が君たちを養い、君たちは民意を代表し民意にサービスしなければならない。これはリスクは大きいが上から下まで必ずやらなければならない実験だ。やらないリスクはもっと大きい。合理的なやり方は下から上に向って徐々にやることだ。末端から先に取り組み農村が都市を包囲するようにすればリスクは小さい。これは正に我々の80年代の農村改革と同じで、先に農材の底辺部分をしっかりと囲い込み然るのち郷鎮企業を、そして最後に都市改革と国有企業改革を行うのだ。制度改革は、足場となる石を一つ一つ探しながら川を渡るように慎重に行うこと(13)だ。決して急ぐな、しかし進取開拓の精神でやらなければならない。
12 訳者注:「革命は銃口から生まれる」という毛沢東の革命恩想を意識した発言。
13 訳者注:原文は「*著石頭過河」。「白猫黒猫論」(白猫でも黒猫でもねずみを取る猫は良い猫
だという現実的な考え方)と並ぶケ小平の代表的な語録で、「川を渡る際、川底で一つ
一つ足場となる石を探り出しながら慎重に行動するように、物事を処する場合は現実
的に慎重旦つ果敢に行え」という意味。(*は「漢」の手偏)
「最後の問題は君たちと我が家族に関することだ。先ず我が家について話そう。今のところ我が家は心配ない。樸方は身障者関連の仕事に就いているし、三人の娘はそれぞれ自分のやりたいことをやっている。心配なのは質方だ。彼は一介の書生で人と付き合うのが苦手な男だ。彼に政治とか理論研究をやらせてはいけない。彼には商売をやらせておけば良い。私に代わって彼をよく監督して余り大きな事はさせないようにしてくれ。普通の人でいるのが一番いいのだ。
瑞林は我が家の一員と言ってもいい。君は軍の中で発展していってくれ。江沢民同志の良い部下となるよう頑張ってくれ。それから君たち二人だ。二人とも未だ50歳前後だが君たちがここまでこれたのは能カがあるからだと思っている。ソ連東欧問題が爆発した後、私は政治局に対して次のように言ってきた。「落ち着いて対処せよ、慌てずによくまとまって対処せよ、冷静に観察せよ、才能を隠して表に出すな(控えめにせよ)、表に出るな」
これは君たちにもあてはまる。これらの言葉は特に江沢民たちが政権を担っているときのものだが、君たちもこれら20文字(14)に従って江沢民たちをサポートしてやってくれ。これからは君たちが政治を行う時代だが、大事に当たってはこれら20文字をしっかり心に留めて取り組め。ただ君たちには20文字に加えさらに4文字を贈る。「有所作為(価値あることをして、成果をあげ)」という言葉だ。
14 沈着対応、穏住陣脚、冷静観察、韜光養晦、絶不冒頭。
一気にこれらのことを言い終えると、老人は非常に疲れを覚えた。
三人は力をこめて真剣に書き留めた。彼らは三人に国家を託するという老人の言葉に戦慄し、そして心の底から感動していた。これは恐らく彼等の人生において非常に重要で歴史的な意義のある一日だった。彼らの心に一種の荘厳な歴史的使命感が湧き上がって来るのが感じられた。
この日から、それまで余り目立つことのなかったこれら三人は中国の歴史の舞台に踊り出ることになった。
老人の眼光はaozoraから一直線に彼等に注がれている。
(完)