日本経済新聞 2008/4/25
「インドの潜在力と世界経済」シンポ インド高成長 IT牽引
日本経済研究センターと日本経済新聞社は18日、東京・千駄ヶ谷の津田ホールで国際シンポジウム「インドの潜在力と世界経済」を開いた。日米印の識者を講師に招き、印経済の現状と展望、日印経済関係の強化策などを議論した。
基調講演
米ジヨンズ・ホプキンズ大学教授 アン・クルーガー氏
製造業の輸出増やせ
インドは1991年から市場重視型の経済改革を進めた。それまでは国内市場を印企業が独占して輸入品がほとんど入らず、輸出はほとんど伸びていなかった。改革で経済の方向性が変わり、世界とのかかわり方も大きく変わった。一層の変革に取り組めば、さらに経済は良くなるだろう。
市場の非効率性を減らすことで、貿易体制も整ってきた。貿易障壁となる輸入関税率を下げるなどの措置を通じて高い経済成長率を実現しており、10−15年前と比べて状況は大きく改善した。経済成長率は9%近くになり、一人当たり所得も伸びている。印経済の魅力が増すことで国外からの投資も引き寄せている。外貨準備高も増えて輸出、サービス貿易は好調だ。
インドではIT産業が著しく成長した。IT企業は(道路や港湾など)インフラヘの依存度が低く、身軽に新しい事業展開を進めやすい。(IT企業の姿は)政府の規制や制約が少ないほど飛躍的に成長できるという証しだ。今後は製造業などの輸出を増やす必要があるだろう。
成長率9%を引き続き維持するには、さらなる改革が重要になる。人口の大きさを生かして生産性を高められないか。財政の健全化や、欠席率が高いとされる教育現場の改善なども大切だ。印経済が今、少し減速気味なのは世界経済が停滞しているからだ。改革の手を休めなければ、今後も持続的な成長が見込めよう。
58年米ウィスコンシン大で博士号取得、講師に。66年米ミネソタ大教授、82年世界銀行主任エコノミスト。国際通貨基金(IMF)筆頭副専務理事を経て現職。「日本財政破綻回避への戦略」(07年)など経済、金融に関する著作多数。74歳。
早稲田大学インド経済研究所所長 榊原英資氏
成長率 中国を逆転も
イン中はかつて世界の交易の中心地で、中国とともに世界の大国だった。現在の著しい経済成長は19世紀前に戻ったとの考え方もある。1991年に経済改革を断行し、2000年代に第二の飛躍時期を迎えた。高齢化に向かう中国と異なり、インドは今後、若い就労人口が増える。10年ほどで中国の成長率を逆転するだろう。
日本企業は80年代後半から90年代にかけてインドに進出したが、スズキを除いて多くが撤退した。それが現在のトラウマになっている。日本企業は対印直接投資に興味を持っているが、具体的なモデルが描けていない。中国や東南アジアでは政府開発援助(ODA)を活用してインフラを整備し、生産拠点を開設したが、これと同じモデルでインド進出を考えるのは難しい。
だが、印企業との連携は日本にとって大きなカギだ。日本企業が大幅なコストダウンのためインドの優れたITを利用しない手はない。印企業との連携でホワイトカラーの生産性向上が見込める。インドはバイオや薬品関連の技術力も高い。後発医薬品企業などとの連携を重要だろう。
今後、印企業による外国企業のM&Aは加速する可能性がある。タタ自動車が夏にも東京証券取引所に上場するが、日本側は規制緩和などによって、印企業の対日直接投資や株式上場を通じた資金調達がしやすくなるよう環境整備する必要がある。
インド国際経済関係研究所会長 イーシャリー・アルワリア氏
減速でも7.5%成長
1980年までインドの経済成長率は3.5%だったが、市場開放などで外資受け入れが進み、急激に上昇した。最近は世界経済の減速で少し成長力が弱まっている。ただ、もし成長率が8%に下がっても、過去10年の平均成長率は約7.5%にもなる。一人当たりの所得も増加傾向だ。
インドの貧困者層の比率は28%に下がったが、まだ多くの人が貧困に苦しんでいる。インド政府は教育レベルや健康指数などから貧困者層の現状を把握したうえで、包括的な成長へ挑戦していくべきだ。そのためにも雇用機会の拡大や、教育水準の底上げに力を入れる必要がある。
インドは今まで、民間投資が主導する形で成長してきた。だが、就労人口の半分を占める農業従事者が、右肩上がりの経済成長の恩恵を受けていない。政策による介入などで農業を支援しなければ、経済全体で付加価値を拡大していくのは難しい。
経済改革で全品目の輸入関税率は約11%に下がったが、まだ改善の余地はある。経済の自由化で海外からの直接投資が増える一方、印企業の対外投資も拡大している。ITが経済成長をけん引してきたイメージが強いが、ホテルや運輸などサービス部門の伸びも著しい。
印経済は依然、高成長を続けており、潜在力は高い。ただ今後、就労適齢人口が増え続ければ人口構成も変わる。これが経済にどう影響するか、注視する必要がある。
67年デリー大経済高等学院修、米マサチューセッツ工科大で経済学博士号取得。印国立応用経済研究所理事などを経て現職。印政府の国家製造業競争力審議会のメンバーも兼務する。専門はインドの経済発展と改革。62歳。
パネル討論
クルーガー氏 機会の平等確保を
榊原氏 人材の活用活発に
アルワリア氏 アジアと交流カギ
小島明・日本経済研究センター会長(モデレーター)
インド経済の現状をどう分析するか。
イーシャー・アルワリア氏
インドはかつての小さな藩国が集まった連邦共和国。経済的にも多様化が進んでおり、貧困率も下がり始めた。在外インド人のコミュニティー(NRI:Non
Residential Indian)がインドと米国などの経済を結びつける役割を果たした。1T(情報技術)産業は政府の監視下に置かれなかったおかげで、飛躍的に成長できた。インドは今や潜在能力を多分に発揮し、世界から注目を集めている。日本とはITを共通言語として一層交流が進むだろう。
榊原英資氏
2000年前後に米国がIT産業を中心に印企業との連携を進め、世界もインドへの関心を高めていった。だが、当時の日本はほとんどインド経済に注目していなかった。言語の違いも壁となり、米国などと比べ、インドの潜在力に注目するのが4−5年は遅れたのではないか。スズキのインド進出は成功したが、多くの日本企業は失敗体験を抱えた。ただ、そろそろトラウマも消えつつあるのではないか。
小島氏
カースト制度などがインド経済にもたらす影響は。
アン・クルーガー氏
インドでは公務員の一定枠を下層カースト出身者に優先的に割り当てている。その比率をさらに引き上げる案も出でいるが、間違いだ。公務員を増やしても接客の対応などは期待できず(経済活動の面では)不十分なケースもある。大事なのは機会の平等をどう確保するかであり、教育の質の向上が必要だ。採用枠の拡大ではなく、教育を充実してチャンスを誰にでも広げ、競争原理を働かせることが理想だ。
榊原氏
ハンディを抱える人のための雇用は必要だが、行き過ぎはよくない。インドの中でも議論しているが、採用枠の拡大などはむしろ逆差別になりかねないとの見方もある。ただ、我々が考える以上にインドでは対策が進んでおり、歴史的にも努力してきた。宗教的な問題は根深いが、様々な対策の結果が問題として出ていることを外国も理解しなければならない。
アルワリア氏
カースト制度は歴史が長く経済的に置き去りにされている人がいるのも確かだ。ただ、最近は都市部で違ったバックグラウンドを持つ若い人たちが協力し、結婚もしている。自分の道は自分で開くという考え方が広がっている。すべての層が恩恵を享受できる包括的な経済成長が実現すれば、こうした問題は解決に向かうのではないか。
小島氏
新生銀行は情報システムをインド人のエンジニアらに任せ、コストを何割も減らしたという。インドの優秀な人材を日本企業はどう活用すべきか。
榊原氏
日本企業はインドのシステムエンジニアらをうまく活用すべきだ。インドのITを使えばコストが大幅に下がるだろう。日本は工場の生産性は高水準にあるが、ホワイトカラーの生産性はとても低い。日本企業ではシステム開発に多大なコストがかかる。日本企業はちょっとしたシステムトラブルも許さない。
だが、インドのシステムエンジニアに委託すればコストは半分程度に下がるとみられる。日本企業の経営陣はシステム関連の業務を自社の担当者に丸投げしているが、そこを大きく変えないと、ホワイトカラーを中心とする生産性は上がらない。人材交流を進め、それを基礎に新しい日印関係を築くのが大きな課題だ。
小島氏
インドは中国などと相互依存関係を深めている。アジアでのインドの位置づけは今後どうなるのか。
クルーガー氏
北米や南米では域内貿易が過半を占めるが、アジアはそこまでいかない。アジア経済の強さは、アジア域内にとどまらない幅広い地域を対象とすることで生まれるものだ。アジア各国とのきずなを太くするのも大事だが、視野を広げれば可能性も広がる。インドには将来の希望と成長への約束がある。海外諸国は友好関係を望んでおり、インドもそれを理解している。
アルワリア氏
インドは狭い範囲でのビジネスにとどまるより、世界各国との協力から得るものの方が多い。ただ、アジアとの交流の重要性も認識しており、中国の関係も以前より改善した。今後の方針として、自由貿易協定(FTA)締結の促進なども検討している。例えば国内で日本語学校を増やすなど、日本経済から学ぶことも必要だ。
シンポジウムを聞いて 日本企業、インド進出に「解」見出せ
「外国企業も国内企業と同じです。造った製品は国内で売ろうが輸出しようが結構です。ただ、優遇税制も特別のインフラ整備もしません。それが世界最大の自由主義国の投資誘致なんですよ」ーーー
2001年。日本からインド進出に挑む企業とほぼ同数が撤退、現地の日本人商工会の企業数が100前後で停滞していたころだ。1990年代初めに現地生産を始めた日本企業のトップから、こんな説明を聞いたことがある。
それから7年を経た。当時、6%前後だった経済成長率は10%台をにらみ、インドはは中国を追う新興国となったが、講師の榊原氏は「日本企業はインドの問題点ばかり挙げて(投資の)決断をしない」とインド側の不満を紹介した。投資環境を巡る日印の考え方には、なお大きな差がある。
首都ニューデリーや商都ムンバイでは電力民営化後も需要超過が解消せず、外国企業は停電対策のため自家発電設備を欠かせない。
小売り分野は議会・業界の反対で開放のメドが立たないーーー。
日本企業関係者の話を聞くと、、インフラや優遇税制を整備して外資を受け入れ、国内の産業のすそ野を広げたタイや中国の発展モデルが当てはまらないインドの姿がうかがえる。榊原氏が日系製造業の現地進出より、インド人IT技術者の活用に日印連携の力点を置く理由もその辺りにありそうだ。
だがインドは今、中国やタイのモデルと違う独自の道を歩みつつある。印タタ自動車の英ジャガー買収やタタ製鉄の英蘭コーラス買収など、通貨ルピー高と証券市場の活況を背景に資金力を強めた印企業はM&Aで外国企業の技術と市場を吸収する戦略を展開する。今夏にも東証に上場するタタ自は1千億円超の資金を調達すると伝えられ、M&A戦略の矛先は日本企業に向く可能性もある。
「失敗体験」(榊原氏)からそろそろ10年。日本の製造業もトラウマを克服し、インド進出の方程式に解を見いだす時期に来ているのではないか。