Iran-Japan Petrochemical Company (IJPC)              

 IJPC は三井物産が手がけたイランの石油随伴ガスを利用した石油化学事業計画で、日本側の事業会社ICDC (イラン化学開発)とイラン側のNPC (イラン国営石油化学)が折半でIJPC (イラン・ジャパン石油化学)を設立した。IJPC は総額2900 億円、年商2400 億円、従業員3000 人の巨大な総合コンビナートの建設を目指していたが、完成間際にイラン宗教革命が勃発し、工事が中断した。
 直後に日本政府が出資しナショナルプロジェクトとなり工事が再開されるが、工事再開と同時にイラン・イラク戦争が勃発。結局プロジェクトは暗礁に乗り上げ、戦争終了を8 年待つことになる。
 しかし、プラントは戦争被害が大きく、再建を断念し、撤退方針の三井とイラン側で交渉が難航し、結果IJPC の精算で合意が成立する。

 From that time, NPC undertook the reconstruction of the damaged complex and the company's name was changed to Bandar Imam Petrochemical CompanyBIPCin 1990.

 

 ICDC出資比率

  1971
設立時
1973年 1976年
三井物産  49%  45%   45%
東洋曹達  31%  30%  15%*
三井東圧化学  15%  15%  22%
三井石油化学   5%   5%  13%
日本合成ゴム     5%   5%

           *東洋曹達 ナショナルプロジェクト化を主張
             三井物産 拒否


1968/11   イラン訪問中の故高杉末雪三井物産副社長(当時)にモストフィ
NPC(イラン石油化学公社)総裁が同国の油田廃ガス有効利用につき
協力を要請
1970/10   日本、イラン双方で覚書を交換
1971/2   フィージビリティ・スタディ(企業化調査)開始
1971/10   基本協定(BA)調印
1971/12   三井物産など日本側がイラン化学開発(ICDC)を設立
1973/4   イラン・ジャパン石油化学(IJPC)設立
1973/10   中東戦争勃発、第一次石油ショック
1978/12   建設工事が85%完成
1979/1   イラン革命勃発
1979/3   日本人総引き揚げ、建設工事を休止
1979/10   日本側が閣議で政府出資(出資枠200億円)を決定
1979/11   IJPC取締役会で工事再開決定、テヘランで米大使館人質事件起こる
1980/3   総事業費を7300億円に増額決定
1980/7   建設関係者がイランに再入国
1980/9   イラン・イラク戦争勃発、工事現場が被爆
1980/11   日本側関係者再び引き揚げ、工事が中断
1981/4   ICDC取締役会で送金中止決定
1981/7   日本側代表団 イラン訪問
1981/11   東京会談 三井側、交渉打ち切り通告
1981/12   政府 IJPCへ保険暫定支払い 1割分 120億円 「事業休止」と認定
1981/12   イラン政府 完成計画を承認
     
1983/10   政府 イランに外務審議官派遣 IJPC再開も論議
    IJPC事業再開予備調査のため日本側技術者派遣
     
1987/8   三井物産など出資のイラン化学開発、イラン・ジャパン石油化学事業からの
撤退を表明
1989/3   イラン・ジャパン石油化学(IJPC)の事業継続問題で両国が精算を前提に
交渉を開始することに合意
1989/10   三井物産と国営イラン石油化学会社がIJPC(イラン・ジャパン石油化学)の
合弁事業解消で清算金1300億円で最終合意
1990/2   IJPC清算完了
     
     
1990   NPC undertook the reconstruction of the damaged complex
and the company's name was changed to
 
Bandar Imam Petrochemical CompanyBIPC

貿易保険(海外投資保険)  777億600万円


『日本の権力人脈』  
あとがき  1988/10/27  佐高信

 今度、池田芳蔵がNHK会長となったが、三井物産が中心となって推進しながら、結局、実を結ぶことにならないまま終わるであろうイラン・ジャパン石油化学プロジェクト、いわゆるIJPCというものがある。

 これを素材に、『バンダルの塔』(講談社文庫)という小説を書いた高杉良は、当時の物産社長、池田芳蔵について、ある中堅社員に次のようを言葉を吐かせている。

 「僕は、長谷川社長(モデルが池田芳蔵)が首を吊(つ)るんじゃないかと心配です。罪の深さを考えたら、夜も眠れないでしょう。たとえ革命であれオイルショックであれ、経営者は結果が問われるわけですから、責任をとるのは当然です。それに、IJPCの歴史をふりかえったら、間違いだらけで、べからず集をまとめたら、優に一冊の本ができるんじゃないですか。徹頭徹尾、失敗の繰り返しです」

 これは、実際に物産の社員が高杉に語った言葉だというが、幾度か、撤退のチャンスがありながら、やみくもにそれを推し進め、物産だけでなく、参加した各社に少なからぬ損害を与えた責任は、やはり池田にあった。


イラン油田のニュース  http://isweb15.infoseek.co.jp/novel/kamoten/tlog30.htm

     武田徹Official Web Site--オンラインジャーナリズム掲示板

 イランのアザガデン油田に対する最優先採掘権を日本が獲得できそうな見通しだそうだ。
 おそらく多くの人がこれを朗報だと感じるだろう。アラビア石油のサウジ権益喪失は日本の石油供給体制に不安の影を落とした。もちろん世界の石油の大半はメジャーが握っているのであり、その意味では世界のどの国も(北海油田に依存できるイギリスなどを除いて)一蓮托生だとも言える。しかしそれはわかっていても日本独自のカードを持っていたい気持ちはわからなくはない。
 だが、それこそ危険なのだ。実はイランの油田に日本が魅了されたのは過去にもあった。
 ロレスタンの油田の採掘権を与えることの交換条件としてイラン側は石油化学プロジェクトの推進を日本に求め、三井物産が名乗りを挙げた。当時、水俣チッソ事件があり、国内の新規工場立地が困難になっていた化学業界が三井物産と足並みを揃え、イラン日本石油化学プロジェクトIJPCはスタートを切った。通産としてはどうしても日本独自の油田が欲しかった。化学業界は外地に活路を見出したかった。両者の思惑が交差してこのプロジェクトは進められた。熱狂の中に幕は切って落とされた。その雰囲気はなんとなく今と似ているようなきがする。
しかしその成果はーーー惨憺たるものだった。投下された巨額の投資と、人々の努力は全て砂漠の陽炎のように消えた。ぼくは当時のIJPCプロジェクトに関わっていた方に長い聞き取り取材をしたことがある。その成果は本人の希望から封印されたままになっていて詳細はここで紹介できないが、彼が「イランと、つまりイスラムとの仕事はそもそもすべきではなかった。日本人が相手に出来るパートナーではなかった」と、あたかもタブーに触れたかのように恐れをもって語っていたことは印象的だった。生活習慣だけでなく、交渉の背景になっている価値観まで全てがあまりに異なっている。ただ違うだけでなく、日本人にとってもっとも相手取りにくいタイプの人間がイランには多い。
IJPCは石油ショック、イラン革命、イラン、イラク戦争に翻弄されているのだが、もしもそれがなくても所詮、うまくゆくはずはなかったと彼はいう。その言葉には直接現地で仕事に当たっていた重さがあった。

 


1989/10/9 日本経済新聞
 
清算金は1200億円台 IJPC交渉最終決着

 日本とイランの合弁事業、IJPCの事業清算のため、6日からイランを訪れていた江尻三井物産社長は8日午後、テヘランで記者会見、イラン側パートナーのNPCのラハゴザール総裁との間で合意した「共同声明」を発表した。
 骨子は@IJPC事業の「友好的解消」に合意、事業解消に向けての手続きを確認したAIJPC合弁事業はイラン国会の批准など合意に基づく全手続きが日・イ間で完全に履行された時に解消されるーーという内容。イラン・三井双方は今後残された問題を90日以内に解決し、最終合意文書に調印する。焦点の「清算金額」は明らかにされていないが、1200億円台とみられる。これでIJPC問題は最終解決する。
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1989/10/21 日本経済新聞

IJPCの清算金 1300億円負担で合意 化学4社と物産

 三井東圧化学、東ソーなどIJPC事業に参加している化学メーカー4社は出資比率に応じてイランへの清算金を払うことで三井物産と合意した。4社は今期の決算で特別損失を計上、会計上の処理をする。
 4社は三井物産と社長級のトップ会談を開き、事業清算に伴いイランに清算金1300億円を支払うことを確認した。当初、5社は清算金額を1250億円で意思統一していたが、8日の最終交渉で上積みされた50億円を含め出資比率に応じて負担することとした。


Bandar Imam Petrochemical Company (BIPC)   

Bandar Imam Petrochemical Company (BIPC), one of the largest industrial establishments in the Islamic Republic of Iran, is located on the northwest coast of the Persian Gulf. This location has been chosen due to its easy access to feed stocks, the main national road, railway networks as well as international waterways.

In the early seventies, a 50 - 50 joint venture agreement was signed between National Petrochemical Company (NPC) of Iran and a consortium of Japanese firms, headed by Mitsui & Co., in order to construct this giant petrochemical complex , under the name of
Iran-Japan Petrochemical Company (IJPC).
Preliminary and basic activities , including back filling, site grading, construction of buildings and warehouses, installation of power, water and steam facilities and construction of jetties, began in 1974.

When the Iraqi war on Iran began in 1980, after the Islamic Revolution in 1979, the construction activities of the complex were just about %73 complete.
Throughout the 8 years of war, the complex sustained heavy damage. After the cease fire in 1988 and the suspension of construction activities for almost eleven years, the Iran - Japan venture was officially terminated by mutual agreement in 1989.

From that time, NPC undertook the reconstruction of the damaged complex and the company's name was changed to BIPC in 1990.
At this stage, the resumption of site activities began with the cooperation of national and international contractors, and complex units came on stream, one by one from 1990 to 1994.