2002/9/24-26 日本経済新聞
巨大統合 成功の条件
メンツより実利 出身母体,こだわり絶つ
日本航空と日本エアシステム(JAS)、川崎製鉄とNKK。今月末から10月初めにかけて巨大企業同士が相次ぎ経営を統合する。いずれも世界で勝ち抜くための統合。だが本当に強い企業になるには統合後の運営が焦点となる。巨大統合を成功に導く条件を探る。
40年以上使ってきた日航の「丸い鶴」マーク。今回、JASとの統合で日航はこのマークを捨てる。だが日航はもっと重要なものも譲歩する決断をした。持ち株会社の常勤役員比率を日航6、JAS4にしたことだ。
日航の時価総額はJASの約9倍。新しい役員比率に日航関係者は驚いたが、決断した日航の兼子勲社長は「未来へ向け、全く新しい航空会社をつくるには全社員が一丸となれる体制が必要だ」と意に介さない。
JASもシステムを捨てる。今年半ば、JASの船曳寛真社長は「予約発券システムは日航に一本化しましょう」と日航に伝えた。実は両社は3年前に予約システムの統合を検討した。しかし、当時は両社が独自ノウハウにこだわるあまりシステムが複雑化し、統合を断念していた。
持ち株会社の会長職をも辞退した船曳社長は、過去の経緯をよそに「規模の大きいシステムに統一するのは当然」と説明する。米同時テロ以後、低迷する航空需要と内外で激化する競争、みずほホールディングスのシステム統合の失敗……。これらを目の当たりにしてメンツを捨て実利を優先し、出身母体へのこだわりを絶とうとの決意が両トップの言葉ににじむ。
景気低迷が長期化するなか、企業の大型再編が相次いでいる。目的は世界で生き残れる企業の創造だ。そのためには過去にこだわり足を引っ張り合うような時間はない。
日産自動車系の自動車部品メーカー同士が合併し2000年4月に発足したカルソニックカンセイ。同社は合併と同時に入社年ごとに五十音順の新しい社員番号を全員に割り振った。「出身母体を意識させないようにして素早く融和を図るため」(森永正隆マーケティング部長)だ。合併初日、大野陽男社長は「今日から旧カルソニックも旧カンセイもない。一つのチームで闘う」とあいさつした。
1999年にナビックスラインと合併した商船三井は即座に人事考課制度を統一、能力主義による人材登用を貫き合併を力に変えた。商船三井は大阪商船と三井船舶の合併会社。しかし同合併の後は、たすき掛け人事を繰り返し意思決定の遅れや士気の低下などを招いた。「大切なのはバランス人事ではなく、人材登用を公平にすること」(芦田昭充専務)と話す。
賃金制度の早期統一も重要だ。十条製紙と山陽国策パルプが93年に合併して発足した日本製紙は3年内に新制度に統一した。その後、さらに大昭和製紙とも経営統合したが、持ち株会社の日本ユニパックホールディングの佐藤俊郎取締役は「いつまでも給与水準が違うと融和が進まないし、異動や転勤もさせにくい」と言う。
野村総合研究所が合併や企業統合などをした300社を対象に昨年10月に実施した調査では、合併・統合の後に人事制度や企業文化・風土の統合がうまく進んでないケースが多いことが判明した。
調査を手がけた同社経営コンサルティング1部の中島済グループマネジャーは経営統合を成功に導く条件に「旧企業のモノサシからいち早く脱すること」を挙げる。とりわけ「公平で客観的な新しい人事評価制度の導入が重要」と説く。
日航、JASは経営統合で8つの労働組合を抱える。給与体系も複雑化する。一方で、2004年春には事業を国際、国内旅客、貨物の三部門に再編する。組織上は両社社員が完全に融合するその時までに、人事賃金制度をどのようにして一本化するのか。強い企業になるための苦しみはこれから始まる
物差しは競争力 設備・事業、冷徹に選別
「一段の生産集約で設備稼働率を120%まで上げよ」「意識の壁を取り払い、知恵を絞れ」ーー。18日、NKK京浜製鉄所(川崎市)の会議室。居並ぶ京浜製鉄所と川崎製鉄・千葉製鉄所(千葉市)の幹部に、川鉄の数土文夫、NKKの半明正之の両社長から矢継ぎ早の指示が飛んだ。
川鉄、NKKの経営統合で27日、共同持ち株会社、JFEホールディングスが発足する。だが両社が設備集約計画をまとめたのは5月。その内容の厳しさは新日本製鉄など同業他社の予想を超えた。
計画は川鉄の千葉製鉄所と水島製鉄所(岡山県倉敷市)の高炉それぞれ1基の廃棄と、薄鋼板や鋼管などを生産する下工程35ラインのうちNKK・福山製鉄所(広島県福山市)の1ラインを含む6,7ラインの休止が柱。千葉の高炉は規模が小さく、水島の高炉は休止中でいずれも将来の廃棄が予想されていた。
しかし下工程はラインごとに客先や技術・品質が異なる。一部を休止して生産を集約するには、対顧客や現場同士で様々な調整が必要になる。その休止を両社は来月から順次実行する。新日鉄のある幹部は「正直、下工程の集約をこれだけ早く決めて実行するとは思っていなかった」と言う。
統合会社の設備集約。最も難しいとされるこの問題に両トップがいち早く手をつけたのは「設備集約こそが経営統合の成否を分ける」との危機感からだ。昨年4月、両社の統合に合意した当時の下垣内洋一NKK社長と江本寛治・川鉄社長は「統合会社の利益の源泉は強い製鉄所」として、「競争力」を物差しにした設備の取捨選択を指示していた。
事業の存廃も同じ。統合に先立ちNKKは米ナショナル・スチールの損失を処理して同社の経営から撤退。川鉄は不振の川鉄商事に金融支援し再生の道筋をつけた。屋内プール施設やリース事業なども「自主判断で整理した」(両社)。川鉄は好調だった米の化学事業会社さえ「統合会社のコア事業になりえない」と売却した。
設備・事業を冷徹に取捨選択する−−。設備過剰に直面し、多角化による様々な子会社を抱える企業にとって重要な課題だ。合併・統合はこの問題を解決する絶好の契機となるが、対応を誤れば企業の衰退も早める。
ここ10年で二度の合併を経験した王子製紙。同社は1996年以降、主力生産設備である抄紙機で20台強の廃棄(現在は110台強)に踏み切った。同社の奥村洋一常務は「欧米勢に比べ、古くて規模の小さい設備を思い切って廃棄した。合併が新陳代謝を促した」という。
一方、設備・事業の集約に手間取り苦戦している例もある。94年に三菱化成と三菱油化が合併した三菱化学はエチレン設備で鹿島(茨城県)、四日市(三重県)、水島(岡山県)の三工場体制を維持した。しかし、その後合成樹脂の需要は回復せず、市況は悪化を続けた。同社は2001年に四日市のエチレン設備を廃棄したが、正野寛治会長は「拡大主義の修正が遅れた」と振り返る。
三菱金属と三菱鉱業セメントが90年に合併して発足した三菱マテリアルは、膨れ上がった事業群とグループの整理に追われている。いずれもグループの中堅ゼネコン(総合建設会社)である三菱建設とピー・エスの合併は、マテリアルの指導力不足などから当初の合意から10月の合併まで10年の歳月がかかった。マテリアル初代社長の藤村正哉相談役は「選択と集中への取り組みが遅れたことは認めざるを得ない」と言う。
経営統合により経営者は、設備や事業の戦略で1社単独の場合よりも多くの選択肢を得る。同時に増えた“カード”をいかにうまく捨てるかの手腕も問われことになる。
最終目標から逆算 構想カ、トップに不可欠
企業が合併や統合に踏み切る理由は様々。個々の企業の性格、置かれた環境や時代によっても変わる。それでも明確な目的と高い戦略性は不可欠な条件だ。着想段階での経営者の構想力がその後の明暗を分ける。
2003年10月に経営統合する三井化学と住友化学工業。「組み合わせとしてはベストに近い」と業界のアナリストなどから評価が高い。この旧財閥を越えた統合構想を10年も前に考え、実現に向けて後輩たちを叱陀激励し続けてきた経営者がいる。三井化学の竹林省吾相談役だ。
竹林氏が唯一目的としたのは「世界に存在感を示す化学メーカーをつくること」。1990年代初頭、世界では米デュポンや独ヘキストなど売上高で3兆−4兆円規模の会社が目白押し。一方で、国内で1兆円を超える企業は1社もなかった。
93年12月、三菱化成と三菱油化が合併を発表する。この間、竹林氏は旧三井石油化学工業の社長、会長として旧三井東圧化学との合併を模索していた。三菱に先を越されたものの当時は「浮足立つことはない。どうしたら強い会社になるかだけを考えている」と受け答えている。
結局、三井石化と三井東圧の合併が実現したのは97年10月。その際も「これだけでは強い会社とはいえない」と述べた。発足した三井化学が利益、株価の両面で三菱化学を上回るのをよそに、周囲には「技術力や地域的な面での相乗効果を考えれば、例えば住友化学と組むことだってありえる」と話していた。
2000年6月、三井化学の中西宏幸社長と住友化学の米倉弘昌社長が経営統合で大筋合意。厳しい交渉の過程でも竹林氏は幸田重教現相談役や中西社長に「小さなことにこだわってはだめだ」と繰り返したという。
「欧米メジャーに劣らない企業にしたい」。99年4月に実現した日本石油と三菱石油の合併は、当時日石社長だった大沢秀次郎・新日本石油相談役のこの思いの結実だった。ガソリン輸入の自由化で本格的な国際競争時代を迎えた97年春。日石はガソリン販売で出光興産にトップの座を明け渡していた。そのころ、三菱石油は海外での石油開発の一方で、国内では不明朗な資金提供の不祥事で揺れていた。大沢氏は「最良のパートナー」と見定め三菱石油トップと接触、合意を勝ち取った。
セメントで約4割の国内シェアを持つ太平洋セメント。94年10月に小野田セメントと秩父セメントがまず合併して秩父小野田になり、98年10月に日本セメントが加わる形で「大連合」が実現した。この二段階統合は旧小野田出身の今村一輔・太平洋セメント相談役がリードした。
今村氏は「国際競争力を高めないと国内勢はじり貧になる」と考えていた。最初の統合時は当時の秩父のトップ、諸井虔・太平洋セメント相談役に「地域的に国内生産が相互に補完できる」と訴え合併の合意を得た。
しかし、その後も安値受注の業界構造が変わらない。今村氏は現太平洋セメント会長で当時日本セメント社長だった木村道夫氏に接近、「世界に対抗できる企業が実現するならトップ人事にはこだわらない」とくどき2回目の合併を果たした。
反対に、トップ同士に情熱や危機感が希薄な統合はあっけなく破たんする。2001年12月、大正製薬と田辺製薬は同9月に合意していた経営統合を断念した。当初は共同持ち株会社を設立し、傘下に置く大正に大衆役事業を、田辺に医療用事業を集約する計画で、「統合を機に国際展開できる体制の構築」を目指すはずだった。しかし、「医療用事業でも発言権を持つのは当然」(上原明大正製薬社長)と考えた大正に対して、田辺は「医療用事業は譲れない」と反発。結局、わずか3カ月で白紙に戻った。
合併・統合自体は目的ではなく手段ーー。竹林、大沢、今村の三氏に共通する考えだ。リーダーには最終目的からとるべき手段を逆算し、実行していく強い意志と指導力が求められている。
1990年以降の産業界の主な経営統合
90年12月 ・三菱マテリアル(三菱金属十三菱鉱業セメント) 93年 4月 ・日本製紙(十条製紙+山陽国策パルプ) 93年10月 ・新王子製紙(王子製紙+神崎製紙) 94年10月 ・三菱化学(三菱化成+三菱油化)
・秩父小野田(小野田セメント十秩父セメント)96年10月 ・王子製紙(新王子製紙+本州製紙) 97年10月 ・三井化学(三井石化十三井東圧化学) 98年10月 ・太平洋セメント(秩父小野田+日本セメント) 99年 4月 ・新日本石油(日本石油+三菱石油) 01年 3月 ・※日本ユニパックホールディング(日本製紙+大昭和製紙) 02年 9月 ・※JFEホールディングス(NKK+川崎製鉄) 02年10月 ・※日本航空システム(日本航空+日本エアシステム) (注)※印は持ち株会社設立による経営統合。無印は合併。