水俣病・与党PT 「一時金」などの政治決着模索

2006/4/24 毎日新聞                    水俣病のいま 公式確認50年  

水俣病50年 
 被害救済なお課題 認定待つ人いまだ3800人

 1956年、2人の幼い姉妹の診察によって、水俣病は公式に確認された。5月1日は、ちょうど50年の節目となる。「公害の原点」「人類史上の大事件」と言われながら、患者の認定基準は行政と司法判断で異なり、救済・補償制度は4通りも存在するなど被害者救済制度は混乱と複雑さを極めている。認定を申請し、結果を待つ人はいまだ約3800人に上る。50年が過ぎても、水俣痛は終わりが見えない。

■遅れた公式確認
 チッソ付属病院の細川一院長は56年4月、歩行障害や言語障害などを訴える5歳と2歳の姉妹を診察した。他にも同様の症状を訴える患者が多数発生していることが分かり、同年5月1日、水俣保健所に「原因不明の中枢神経症患者が多発している」と報告。この日が水俣病の公式確認の日となった。
 しかし、公式確認以前でも、死んだ魚が水俣湾に浮いたり、ネコが狂ったような状態で死ぬことが確認されており、患者は公式確認の10年以上前から出ていたとされる。認定患者で最も早い人は53年に発病していた。

■水銀中毒と特定
 水俣病の原因究明で、熊本大医学部の研究班は英国の農薬工場で発生したメチル水銀中毒の報告論文「ハンター・ラッセル症候群」に着目。水俣病と症状が酷似していたため、メチル水銀と特定した。59年のことだ。ハンター・ラッセル症候群は手足のしびれなど感覚障害や視野狭窄、運動失調などが主症状で、水俣病の病像ともなっている。
 当初は、同症候群の各症状が重なった重症患者が多かったが、70年代から、感覚障害だけの患者が増えてきた。国は「感覚障害だけでは他の病気との区別が難しい」として、感覚障害と、もう一つ別の症状の組み合わせを求め、患者認定を申請しても棄却される人が相次いだ。
 これに対し、熊本大大学院の浴野成生教授らは、特有の診断法を用いることで感覚障害は中枢神経(脳)の障害から起きることをつかみ、「感覚障害があればメチル水銀中毒」と主張する。病像論を巡っては関西訴訟の大阪高裁判決(01年)が浴野教授らの説を初めて採用、同訴訟最高裁判決(04年)も追認した。

■政府が「解決策」
 患者認定の現場が混乱する中、村山富市首相の自社さ連立内閣は95年9月、政府解決策をまとめ、政治決着を図った。
 この中では、救済対象者を「メチル水銀の影響が否定できない者」と定義。疑いのある人は救済対象者とした。対象者に一時金260万円を支払うことや、国を相手取って訴訟で争っていた最大の患者団体、水俣病被害者・弁護団全国連絡会議(全国連)など各患者団体に計約50億円を支給することも盛り込んだ。患者側には訴訟や認定申請の取り下げを求めた。
 村山首相は同年12月、「水侯病の原因の確定や企業に対する的確な対応をするまでに、結果として長期間を要したことを率直に反省しなければならない」との談話を発表し、遺憾の意を示した。

■「四大公害病」に
 高度経済成長の中、同じメチル水銀を原因とする公害が新潟で起きた。65年1月、椿忠雄・東京大助教授(同年4月からは新潟大教授)は新潟大病院で、有機水銀中毒ではないかと疑われる患者を診察した。同年4月と5月にも同様の患者が発見され、椿教授は新潟県衛生部に報告。同県は6月、「阿賀野川流域に有機水銀中毒患者が7人発生し、2人死亡」と公表。これが「新潟水俣病」と名付けられた。
 原因は、阿賀野川上流の旧昭和電工鹿瀬工場からメチル水銀を含むむ工場排水が排出されていたためだった。しかし昭和電工側は、工場排水説に反論、地震によって流出した農薬が原因だと主張した。結局、政府が「工場排水が関与」と統一見解を出したのは68年9月になってからだ。
 その前年の67年6月、患者らは昭和電工を被告として損害賠償請求訴訟を起こした(第1次訴訟)。いわゆる「四大公害訴訟」(水俣病、新潟水俣病、四日市ぜんそく、イタイイタイ病)の最初の訴訟で、高度成長期の公害問題に対する国民世論が大きく変わるきっかけとなった。


■国策企業チッソ
 原因企業、チッソは1908年、製塩業が衰退していた水俣市に進出。国策を追い風に事業を拡大、27年に朝鮮半島で大規模な化学コンビナートを展開し、総台化学メーカーとしての地歩を築いた。
 終戦直後、従業員の多くを水俣工場で受け入れ、46年には約5200人が働いた。これは当時の市の人口の14%に当たる。戦後復興の中、水俣は"企業城下町"として繁栄。市の人口は56年、5万人を超えピークとなった。下請け・関連会社の従業員や家族も含めると市民の半数が関係し、61年度の市税収入の半分は同社関連が占めた。
 水俣工場では、有機工業製品の原料となる「アセトアルデヒド」を生産する際、副産物として猛毒の「有機(メチル)水銀」が発生。チッソはこの廃液を汚染処理を十分行わないまま、水俣湾や川に流した。
 水俣病が公式確認されても、チッソは水俣病と工場排水との因果関係を否定し続けた。"城主"として影響力も発言力も強く、水俣病の患者や家族は地域社会で長く孤立させられた。
 しかし、公式確認を受け59年には、患者と見舞金契約(成人患者に年金10万円、死者に弔慰金30万円など)を結び、事態の収拾を図ろうとした。

◆主な水俣病訴訟の判決◆(○は責任認める、は認めず。一は争点外)
判決年月 訴訟名 裁判所 水俣病の認定基準(病像論
=症状)をめぐる判断
チッソ
責任
行政(国、熊本県)の責任
73年
3月
1次訴訟 熊本地裁                              
79年
3月
2次訴訟 熊本地裁 症状を検討し、水銀摂取の影響を否定できなければ、水俣病(国より幅広い)
85年
8月
同控訴審 福岡高裁 神経疾患説。水銀の摂取量が多ければ、両手両足の感覚障害のみで水俣病(国より幅広い)
87年
3月
3次1陣 熊本地裁 全身病説。水銀の摂取があり、症状があれば水俣病(国より幅広い) ○ 発生・拡大防止で権限を行使せず違法
92年
2月
東京訴訟 東京地裁 国の認定基準を支持。ただし、基準を満たさなくても可能性に応じて賠償責任 X 規制権限を行使できなかった
93年
3月
3次2陣 熊本地裁 神経疾患説。水銀の摂取量が多ければ、両手両足の感覚障害のみで水俣病(国より幅広い) ○ 発生・拡大防止で権限を行使せず、違法
11月 京都訴訟 京都地裁 神経疾患説。水銀の摂取量が多ければ、両手両足の感覚障害のみで水侯病(国より幅広い) ○ 発生・拡大防止で権限を行使せず、違法
94年
7月
関西訴訟 大阪地裁 国の認定基準を支持。ただし、基準を満たさなくても可能性に応じて賠償責任 X 規制権限を行使できなかった
01年
4月
同控訴審 大阪高裁 両手両足の感覚異常など一定の要件を満たせばメチル水銀中毒。国の認定基準を事実上、否定 ○ 発生・拡大防止で権限を行使せず、違法。
責任はチッソの4分の1
04年
10月
同上告審 最高裁 両手両足の感覚異常など一定の要件を満たせばメチル水銀中毒。国の認定基準を事実上、否定 ○ 同上

継ぎはぎの補償制度

■複雑な仕組み
 水俣病の救済・補償の仕組みは複雑多岐にわたる。相次ぐ国家賠償訴訟を受け、国が未認定患者対策として屋上屋を架してきた結果だ。
 補償制度は以下の4通りが存在する。
@行政認定(約2300人)
A政府解決策による医療・保健手帳交付(約1万1000人)。
さらにB訴訟の結果、認められた司法認定(39人)
C04年の最高裁判決を受けた新保健手帳交付(約2000人)ーーだ。
 行政認定には感覚障害、運動失調などから二つの症状があることが必要だが、司法認定や政府解決策の医療事業は、手足の感覚障害などがあれぱ対象となるなど二重基準となっている。
 こうした複雑な制度はそれ自体がさまざまな矛盾を抱えている。新保健手帳による医療費などの助成は「認定申請、提訴取り下げ」が条件。最高裁判決後、急増する認定申請者や新たな国賠訴訟を抑えようという国の意図だが、被害者に「認定」か「手帳」かの選択を迫る不条理を招いている。
 さらに、新保健手帳は半年間で申請が打ち切られた政府解決策の保健手帳を拡充し再開したものだが、より重症者が対象の医療手帳は復活しなかった。たとえ医療手帳レベルの重い症状があっても、新保健手帳の内容でしか救済されない。
 すべての制度で対象者が「メチル水銀による健康被害を受けている」ということは共通。制度見直しを求める被害者団体は「制度を統合し、すべての対象者を水俣病と認めるべきだ」と批判する。

■厳しい審査基準
 患者認定は、公害健康被害補償法(公健法、74年施行)に基づき、熊本、鹿児島両県の認定蕃査会が申請者を判定する。熊本県の蕃査会の場合は神経内科や精神科、耳鼻科、眼科などの医師で構成.、判定を受け、県知事が患者と正式認定する。
 チッソは73年に締結した補償協定で、行政が認定した患者に慰謝料(1600万〜1800万円)と医療費や年金などを支払っている。公健法以前の特別措置法時の認定患者にも補償協定はさかのぼって適用された。
 一方で「認定基準」が「補償のための基準」となり、基準に合致しない症状を訴える被害者が認定審査会で次々と切り捨てられ、未認定患者問題を引き起こした。旧環境庁は71年に事務次官通知で基準を緩めたが、77年にぱ再度基準を狭め、混乱に拍車を掛けた。
 両県でが棄却1万5000人。未処分者も現在3800人に上がり認定作業を待っている。処分に不服の場合、公健法に基づいて異議申し立てができる。熊本県では延べ776人が知事に申し立てし、うち478人は県の再棄却・却下後、旧環境庁へ審査請求した。
 未認定患者が救済を求めた司法の場では「認定墓準は補償に見合った形で厳格に過ぎる」(85年、2次訴訟福岡高裁判決)と批判を浴ぴたものの、国は「司法と行政の判断は別」としている。

■ツケは巨額債務
 チッソは73年の補償協定締結後に認定申請者が急増したため、77年度には364億円の累積赤字を計上。翌年、熊本県が県債を発行してチッソに融資する金融支援が閣議了解された。他にも、水俣湾の公害防止事業(77〜90年)への負担費用支援(ヘドロ立て替え県債)、95年の政治決着で未認定患者への一時金支払いの貨し付けなどを受け、公的債務は99年に1257億円にまで増加した。
 チッソの返済が困難となり、県の負担が問題になったため00年に県債発行を廃止。チッソは毎年、可能な範囲で県に返済し、残りを国が肩代わりするように見直された。同社は現在、液晶素材の生産で業績を伸ばし、05年3月期は34年ぷりに単体で黒字に転換した。.


行政責任認めた意義 最高裁判決 「予防原則」見ぬ限界も
   富樫貞夫・熊本学園大教授の話

 95年の政治決着以後、唯一継続した関西訴訟の最高裁判決がなければ、法的な行政責任はあいまいなまま終わっていた。水俣病史に大きな汚点として残ったはずで、最高裁が国と熊本県の責任を確定した意義は大きい。
 一方で判決の限界も指摘したい。判決は59年末を基準にし、それ以降の被害拡大を防止しなかった責任を問うている。59年7月に熊本大学医学部の有機水銀説が出た。11月に厚相(当時)の諮問機関である食品衛生調査会が追認する形で「原因はある種の有機水銀」と報告した。判決は、唯一の国の公式見解を踏まえ、59年11月を判断時点として国の責任を認定した。
 実は、公式確認の56年から59年まで、水俣湾と周辺海域は最も汚染され、被害発生がピークに達していた。この時期に被害拡大の防止対策をとらなかったため巨大公害事件となったのに、60年以降しか国、県が責任を問われないのは問題だ。
 判決は「59年時点まではメチル水銀という原因物質の究明がないため防止策は立てられない」との考えに立つ。しかし、人体に大きな影響がある、と考えられる場台は科学的に因果関係が証明されていなくても規制できるという「予防原則」からすれば57年には対策を立てられたはずだ。
 水俣保健所の伊藤蓮雄所長(当時)は57年にネコの水俣病発症を確認し、県に「水侯病は水俣湾で何らかの毒物に汚染された魚が原因。魚を食べさせない措置をとってほしい」と報告した。結局、県から打診を受けた厚生省が「すべての魚が有毒化しているという明らかな証拠がない限り食品衛生法は適用すべきではない」と回答、予防策は立ち消えとなった。
 食品衛生法は公害を念頭に置いた法律ではないが、3次訴訟第1陣の熊本地裁判決(87年3月)は「当時のすべての法律を動員してでも拡大防止の策をとるべきで、それを怠った行政に責任がある」と判断している。
 当時の厚生省も最高裁も「原因物質」にこだわった。そのスタンスこそが、被害を拡大させた最大の原因とみることもできる。これからの環境汚染問題には、予防原則が重要だ。,「魚が危ないと分かれば被害は防止できる」という伊藤所長らの考えこそが、予防原則だ。最高裁にはそれをもっと正面から評価してほしかった。

【水俣病に関する主なできこと】

1908・8

日本窒素肥料(現チッソ)、水俣工場操業開始

32・5

同工場、アセトアルデヒドの製造を開始。有機水銀を含む排水を水侯湾へ放出

56・5

水俣病公式確認

11

熊本大が「原因はある種の重金属中毒」と、チッソを疑う

59・7

熊大が水俣病の原因に関して有機水銀説を発表

11

厚生省食品衛生調査会が、水俣病の原因は魚介類中の有機水銀化合物と厚相に答申

63・2

熊本大が水俣病の原因は有機水銀で、チッソの汚泥から有機水銀を検出したと正式発表

65・6

新潟水俣病公式発表

68・5

チッソがアセトアルデヒドの製造を中止

9

政府が水俣病はチッソで生成された有機水銀が原因と公害病認定

69・6

訴訟派患者たちがチッソに損害賠償を提訴(第1次訴訟)

71・7

環境庁発足、水俣病関係業務を厚生省から移管

8

「影響が否定できない者は水俣病」と事務次官通知

10

自主交渉派患者がチッソとの直接交渉で補償要求を開始

73・3

第1次訴訟判決。チッソの賠償責任を認め、原告勝訴

5

「第三水俣病」騒動、水銀パニック,(74年6月、環境庁が否定)

7

訴訟派と自主交渉派がチッソとの補償協定締結 

77・7

.旧環境庁部長通知「52年判断条件」で認定墓準に複数の症状が求められる 

80・5

未認定患者らが国、熊本県の水俣病発生責任を初.めて問う第3次訴訟提訴(熊本地裁) 

87・3

第3次訴訟で国、熊本県の賠償責任を初めて認める判決

95・9

政府・与党が未認定患者救済案(政府解決策)示す

96・5

この月までに、各患者団体が政府救済案に基づき、チッソと協定を結ぶ。国家賠償請求訴訟は関西訴訟を除いて取り下げ

2001・4

関西訴訟大阪高裁判決。国と熊本県の行政責任を認める。事実上、国の認定基準を否定

04・10

関西訴訟最高裁判決。国と熊本県の行政責任を認める。事実上、国の認定基準を否定

05・4

環境省、最高裁判決を踏まえ保健手帳の拡充・再開など新対策を公表

06・5

公式確認から50年

 


毎日新聞 2006/4/26--

水俣病のいま 公式確認50年

見えない「失敗の本質」 環境省、姿勢変わらず

 「公害の原点」とされる水俣病は、5月1日で公式確認50年の節目を迎える。しかし、行政はいまだに被害者の救済・補償問題を解決できず、被害の全体像や「水俣病とはどういう病気か」という根本的な論争さえ決着していない。一方で、教訓を未来に伝える新たな試みも各地で始まっている。半世紀過ぎても終わらない水俣病問題を追った。

 「要するに、環境省は我々に何を議論してほしいのか」。21日午前、環境省で開かれた「水俣病問題に係る懇談会」。終了間際、座長の有馬朗人元文相の問いに、傍聴席から失笑が漏れた。
 懇談会は小池百合子環境相の肝いりで昨年5月に設置された。公式確認50年を前に、水俣病の発生・拡大を防止できなかった「失敗の本質」を提言にまとめ、来月1日に熊本県水俣市で開催される慰霊式で「悲劇を二度と繰り返さない」と宣言する、はずだった。
 役所のシナリオはあっけなく崩れた。「被害者救済に結びつかない議論は、茶番だ」「なぜ、認定基準を見直さないのか」。委員から厳しい発言が相次いだが、同省は「司法と行政の基準は違う」などと防戦に終始。議論は堂々巡りし、何も決められないまま、50年を迎えることになった。


 水俣病の救済・補償策について、懇談会の柳田邦男委員(ノンフィクション作家)は「増築に増築を重ねた、えたいの知れない代物」と例える。「行政認定」のほか、「司法認定」「政府解決策」があり、さらに04年の最高裁判決後には「新対策」も生まれた。まさに継ぎはぎの制度だ。
 しかも行政が「水俣病患者」と認定したのは、2万人ともいわれる被害者のうち約3000人に過ぎない。残りは「グレーゾーン」との位置付けだ。理屈は「認定基準は『医学的に水俣病である確率が50%以上』。認定されない人が水俣病でないわけではないが、行政として水俣病患者とはいえない」。
 複雑な構造に、懇談会の金平輝子委員(元東京都副知事)は「重層的で分かりにくい。後発のアスベスト(石綿)被害対策のほうがよほど、社会の理解を得ている」。


 95年、自社さ政権下で自民政調会長、幹事長として政治解決に奔走した加藤紘一衆院議員は当時、環境庁の事務次官を国会内で怒鳴りあげた。
 「いつまでも意地を張るな。40年もたって解決できないのでは、政治が汚くなる」。それから、さらに10年以上が経過した。
 加藤氏は今、「環境庁は、高度成長期の後始末をさせられた。予算も権限もなく、国民の支持も薄く、政治力もない。だから他省庁より役人的で、保身に走るところがあつた」と振り返る。
 環境省の姿勢は今もかたくなだ。幹部は「補償や救済の枠組みは動かせない」と口をそろえ、思うように展開しない懇談会に「水俣病の経緯を知らない議論だ」との声さえ漏れる。「認定基準を見直したら、患者に一時金や年金を出しているチッソは倒産しかねない。本当にそれでいいのか」とチッソの経営問題にすり替える幹部も少なくない。そうした環境省の論理に吉井正澄・元水俣市長は「最高裁で国の責任が確定した。新しい発想で制度を見直すべきだ」と反諭する。
 政治の場では自民・公明の与党が未認定者への新たな救済策を模索するが、方向は見えない。50年たってなお解決しない現実。環境省の幹部は「私たちが背負う十字架だ」ともいう。
 「きちんと被害者と向かい会えるのか。最後まで見届けたい」。柳田さんの言葉を環境省はどう受け止めるのか。

 

根拠揺らぐ認定基準 「中枢説」理解広がる

 熊本県水俣市の環境省国立水俣病総合研究センター。不知火海を見渡す所長室で2月、衛藤光明所長(64)は言った。「(両手両足のしびれなど)今の水俣病患者にある感覚障害は、有機(メチル)水銀によって脳の中枢が損傷を受けたことが原因だ」
 熊本大講師時代から水俣病研究に携わってきた衛藤所長は、これまで「感覚障害は有機水銀で末しょう神経が傷ついたことが原因Lと「末しょう説」を主張してきた。それが国の認定基準の根拠となっている。その国側の研究者が、脳の損傷が原因の「中枢説」に初めて理解を示した。その意味は大きい。

 どんな症状ならメチル水銀中毒である水俣病といえるのか。実はこんな根本的な論争さえ、公式確認から半世紀を経た今も決着していない。水俣病患者の認定基準について環境省は「感覚障害そのものは、他の病気にも見られる」として、難聴や視野狭さくなど別の症状が重なって初めて水俣病と認定するとの立場を取り続ける。
 そんな国の主張を覆したのが、01年の関西訴訟大阪高裁判決だった。「感覚障害の原因は主に大脳皮質の損傷」とし、「メチル水銀中毒」との表現で初めて中枢説を採用した。最高裁判決もこれを追認した。
 判決に従えば、国が主張する「複数の症状の組み合わせ」を不要とし、汚染魚を多食するなど一定の条件と感覚障害のみで十分、との考えだ。現行の認定基準が事実上否{定されたことになり、見直しを求める声が高まっている。
 高裁判決の支えとなったのは、熊本大大学院教授、浴野成生さん(56)らの論文だった。70年代から天草市御所浦町で検診をしている浴野教授は、水銀に汚染されていない魚を食べている宮崎県の漁村の住民と比較して研究を実施。その結果、御所浦町の往民には感覚障害があり、中枢が損傷を受けていたことも裏付けられた。
 浴野教授は96年「感覚障害だけでも水銀中毒」とする論文を米国の環境科学専門誌に発表したが、国内では「黙殺」された。しかし関西訴訟で脚光を浴びて以来、無視できない存在になった。
 名古屋学芸大の井形昭弘学長(77)は、国の判断条件を決めた神経内科医だ。中央公害対策審議会の水俣病問題専門委員長も務め、衛藤所長とともに国が「よりどころ」とする。その井形学長は従来の立場を堅持し、認定基準の見直しを否定しながらも、慎重な言い回しで「データを見る限り浴野論文を否定できない」とも話した。

 浴野教授は今、「水俣病研究は緻密さを欠いた。翻弄され続けた患者救済のため、今こそ補償制度と切り離し、科学的結論を出すべきだ」と提言する。
 認定基準を揺さぷる論争だが、環境省は「新たな医学的知見はない。認定基準見直しは補償の枠組みを根本から壊し、混乱を招く」と、頑なに耳をふさぐ。

 

行政の無策 放置なお 「見捨てられた」40代

 チッソ水俣工場(熊本県水俣市)が排出した有機(メチル)水銀に汚染された不知火海沿岸で今、40代の人たちに水俣病と同じ症状が次々と確認されている。汚染魚を子どものころ摂取しながら被害がほとんどないと見られていた人たち。それは行政の無策がつくった「見落とされた世代」だ。

 「物をよく落とすようになった。すぐにつまずく」。今年2月、御所浦島(同県天草市)の民家で、検診を受けた40代の女性はもらした。指先や足に針のような検診器具を当てられても何本あるのか分からない。強く押しても痛みを感じなかった。明らかな感覚障害だった。
 2歳のころの毛髪水銀値は74.8ppm。熊本大が同時期に調査した熊本市民の平均値は2.3ppmだった。障害のでる発症危険値とされる50ppmを大幅に超えるが、水俣病認定申請をしたことがない。
 「認定されるのが怖かった」「恥ずかしかった」と耐えてきた。しかしこの女性のように症状がひどくなり、初めて検診を受ける人が増加している。水俣協立病院が04年11月から05年8月にかけて検診した1069人のうち、40代が約15%、30代も3%いた。大半の人に水侯病患者に共通する感覚障害があった。
 水俣病は公害健康被害補償法に基づき、申請者の症状を熊本、鹿児島両県の認定審査会が判定する。申請しなけれぱ診察を受ける機会はない。重症患者が目立つ50代以上の世代と異なり40代は自覚症状が少なく、周囲の偏見もあり申請をほとんどしていなかった。
 熊本県の医療事業適用者は「68年までに魚を多食した人」。行政は早くから、子どものころに食べたこの世代についても危険性を認識していた。水俣協立病院の高岡滋総院長(45)は「国は『見た目に問題がないなら放っておけ』という態度だったから今も実態がつかめていない」と批判する。御所浦島で検診を続ける熊本大大学院の浴野成生教授(56)も「毛髪水銀値が高いと分かっている人も放置した」と憤る。

 熊本県は60〜62年、水俣湾と不知火海沿岸の住民約2900人を対象に毛髪水銀値を調査。71年には約5万人規模の一斉検診を実施した。毛髪水銀値50ppm以上が376人、一斉検診では「水俣病の疑い158人」だったが、追跡調査をしなかった。
 県のデータを基に水俣市などで独自調査した熊本保健科学大学の岡嶋透学長(80)は「大学も行政も公害に対する認識が低かった」と弁明する。
 熊本県は関西訴訟最高裁判決を受けて、不知火海沿岸に居住歴のある47万人を対象とする健康調査実施を環境省に申し入れたが「大規模すぎる。今になって調べる意味も分からない」と、とりつく島がない。県は独自に今年度、「71年の検診データ」を改めて検証することを決めたが、対策もそれどまり。
 行政には被害拡大を防げなかった責任を教訓にしようという姿勢は見られない。半世紀を経ても被害の全体像さえつかめず、終わらない水俣病への変わらぬ怠慢を示している。

 

同じ轍踏んだ石綿 対応遅れ被害拡大

 「アスベスト被害について国が迅速に疫学調査を実施していれば、被害は最小限に食い止められただろう。国は水俣病から何も学んでいなかった」。アスベスト(石綿)公害を統計的な手法で解明するよう研究者らに促し、被害解明のきっかけを作った関西労働者安全センターの片岡明彦事務局次長(47)は話す。
 水俣と石綿。国は同じ轍を踏んだ。

 水俣病の公式確認は1956年5月1日、水俣保健所へ患者発生が報告された日だ。その前から、魚を食べた猫が激しく踊るように死んでいく様子が目撃された。同年11月には、「原因食品は魚介類」と熊本大の研究班が明らかにしている。
 通常の食中毒事件では、ここで保健所が動く。原因食品を食べたと考えられる住民を戸別訪問して調査し、食べるのをやめさせる。また原因食品を出した飲食店には営業停止を命じる。
 津田敏秀・岡山大大学院教授は「このころまでに法に基づき水俣湾などの魚介類の採取や流通が禁止されていれぱ、被害者は数百人レベルで済んだ」とみる。
 一方、石綿に目を転じると、石綿工場周辺で、石綿関連がんの中皮腫にかかった「公害」とみられる患者の数はこれまでに100人を超えた。潜伏期間が30〜50年と長い中皮腫は、2040年までに10万人が死亡するとの予測もある。水俣病に学び、行政が初期対応をきちんとすれぱ、被害はここまで広がらなかった可能性が高い。
 旧環境庁が発足したのは、水俣病公式確認から15年後の71年。その翌年、国際労働機関(ILO)などで石綿の危険性が指摘された。旧労働省や旧環境庁もその危険性を認識していた。だが原則禁止は04年10月まで遅れた。この間、工場敷地外の規制が導入されたのは、89年になってからだ。
 被害が広がり始めてからの動きも鈍かった。国が石綿対策に本腰を入れたのは、兵庫県尼崎市のクボタ旧神崎工場周辺での事態が昨年6月に報道されてからだ。だがこれ以降、環境省の動きは前例のない速さだった。

 「住民被害がある。公害であることを完全には否定できない」。発覚直後、こう判断した環境省の幹部は小池百合子環境相に「これは逃げられない。環境省が、救済制度の確立を引き受けるしかありません」と報告。小池氏からは「それでいい」と返ってきたという。報道からわずか8ヵ月で、石綿救済新法が成立した。ある幹部は「少しは旧環境庁発足の理念を生かせたのかな」と振り返る。
 石綿被害への救済内容には水俣病が影を落とす。中皮腫などで亡くなった労働者以外の家族への一時金(弔慰金)は280万円。一方、未認定の水俣病患者を救済した95年の政治解決時の一時金は、260万円だった。
 石綿被箸者は「せめて労災並みの支給を」と訴えたが、環境省は「支給額は、過去の救済制度とのパランスを勘案した」との説明だ。
 石綿対策で国が水俣から教訓としたものは、救済策の素早さと、前例並みの一時金の額だった。しかし、初期対応のまずさを失敗として学ぷことはなかった。

 

受難の地に産廃 再び  「絶対反対」うねりに

 4月半ば。熊本県水俣市の山中で、下田保富さん(82)は岩のくぽみにたまった清水でのどを潤した。「この辺には1日10トン以上水がわき出る所が2カ所ある。産廃処分場ができたら水は汚染され、枯れてしまう」。5代前からわき水で暮らしてきた下田さんは、恨めしげに建設予定地を見上げた。

 水俣港から約10キロ離れた山林に産廃処分場ができるーー。04年3月、市民は突然の話に耳を疑った。市内の業者が山を削って9.5ヘクタールの管理型処分場を建設。県内外から汚泥や廃ブラスチックなど14種類の産廃を持ち込み15年かけて埋め立てる、というもの。業者は「つらい過去を持つ水俣から、環境を考えるメッセージを発信したい」と話すが、なぜ水俣かについて明確な説明はない。
 水銀という産廃で一度は地域社会が崩壊した水俣。受難の地に再び、産廃が押し寄せる。計画浮上から3ヵ月後、下田さんら予定地直下の住民が「水俣の命と水を守る市民の会」を結成、市民の3分の2に当たる約2万人の反対署名を集めて潮谷義子知事に提出した。今年2月の市長選では産廃反対の宮本勝彬市長が現職を破り初当選。6月にも市主催の産廃反対総決起集会が開かれる。
 市民の会メンバーは言う。「広島、長崎に原発を造らないのと同じで、水俣に産廃はいらない」。「絶対反対」は大きなうねりになっている。

 水俣市には、すでに2つ「産廃処分場」がある。一つは、高濃度の水銀ヘドロ151万立方メートルと汚染魚を封じ込めた58ヘクタールの水俣湾埋め立て地だ。77年10月に着工、90年3月に完成した。
 市民から「ヘドロが漏れていないか」「地震による液状化で水銀が流出するのでは」と不安の声が聞こえる。県は「護岸近くの海底の泥や水質、湾内の魚の水銀値を監視し、基準憤以下を確認している。耐震は基準を満たしているはず」と言う。海と埋め立て地を仕切る円筒形の鋼の寿命はあと30年だ。
 もう一つは、50年ころから68年までチッソがメチル水銀を含む廃液などをため、上澄み水を海に捨てていた「八幡プール」。埋め立てられ、ごみ焼却場や民間工場が建つ。4月、その埋め立て地の護岸から白い物質が水俣川に漏れ出しているのを住民が見つけた。調査に乗り出した県と市は「白い物質は無害の石灰分。水質も問題はない。念のため調べるだけ」と安全を強調する。

 .「水侯病の犠牲を無駄にしない」と宣言する市は現在、環境をキーワードにまちづくりを進める。ごみの徹底分別とリサイクルで、こみ処分場の寿命を08年から20年に延ばした。それなのになぜ、市外の都市住民のごみを引き受けなければならないのか。疑心は募るばかりだ。
 宮本市長は3月、上京して産廃業者の親会社を訪ね、計画撤回を直談判した。対策室を新設したが、県は「設置申請が法の基準を満たしていれば許可しなけれぱならない」と話す。
 「建設予定地は命をつなぐ水源地の上にあり、最悪の立地条件だ」。下田さんの訴えは、水俣病に苦しんだ市民の声を代弁している。

 

語り継がれる「社会の鏡」 .問いかけ次世代へ

 「水俣病だから何も出来ないではなく、水俣病だけど出来ると思えぱずいぷんと世界が広がる」。2月半ば、熊本県水俣市の中学校で小児性水俣病患者の渡辺栄一さん(53)は、20回挑戦して運転免許証を取った話を熱を込めて語った。
 胎児性・小児性患者らの共同作業所「ほっとはうす」が8年前から始めた患者の出前授業だ。後日、中学生から感想文が届いた。
 「努力というものを学ぷことができた」「絶対にあきらめなかった話を聞き、私がとても小さな人間だと考えさせられた」。渡辺さんは「自分を信じる大切さを感じ取ってくれた」とほおを緩める。
 渡辺さんは、家族7人が認定患者だ。「少しでも気持ちがあるなら、行動に出す勇気を持ってほしい」。子供たちに自分の生き方を伝えることが使命だと感じている。

 「地球環境問題を話すと、みんな熱心に聴いてくれるが、『環境を守ろう』.というスローガンで終わらせてはいけない」。4月17日、東京都八王子市の中央大多摩キャンパスで、細谷孝同大講師(倫理学)は約80人の学生たちに語りかけた。
 今春、首都圏では珍しい水俣病をテーマにした総合講座が始まった。細谷講師が中心となり、科学技術や倫理、経済発展と公害など多面的に水俣病をとらえる。講座の講師には細谷さんや水俣病を語り継ぐNPO法人・水俣フォーラムの実川悠太事務局長らが名を連ねる。「中学と高校の授業で勉強したぐらいで、公害と言われても実感はない」と話していた法学部4年の女子学生(21)。細谷さんらが「公害は企業が原因というより、私たちの『欲』から始まっている。水俣病を鏡にして、今の社会をよく見つめてほしい」と説くと、深くうなずいた。

 公式確認の1日、水銀ヘドロの埋め立て地であった水俣フォーラム主催のツアー。参加した14人を前に、漁師の緒方正人さん(52)が「チッソは自分の中にある。自分は被害者だとばかり思っていたが、加害者でもあると気づいた」と語った。携帯電話や自動車。チッソがが作る液晶材料などの恩恵を受けて生活しているのが現実だ。
 不知火海沿岸の網元の家に生まれた緒方さんは、劇症型水俣病で死んだ父をはじめ一族が水銀に侵された。未認定運動の先頭に立ったが、85年「金をもらっても魂は救われない」と運動から降りた。今、「自然とともに生きる」境地にたどり着いたという。
 ツアーに参加した埼玉県の中学教師、岩崎正芳さん(49)は「自然の大切さや人の痛みを子供たちにきちんと教え切れているかと、自分自身が問われた」と口元を結んだ。
 「水俣は道に迷った時に尋ねる地蔵さんのような、道しるべと思うとですよ」と緒方さんは言う。公式確認から半世紀。何を伝え、何を学ぷのか。水俣病は一人ひとりに問いかけている。


2006/6/1 毎日新聞夕刊

与党PT 「一時金」などの政治決着模索 水俣病 未認定救済で

 自民、公明両党による「与党水俣病問題に関するプロジェクトチーム」(与党PT、松岡利勝座長)が1日、開かれた。松岡座長は会合後、新たに認定を求める未認定患者が約3800人に上がっている現状について、「(95年の政治解決策と同等の救済措置でいいということになれば、問題ない」と発言。260万円の一時金に加え、医療費や療養手当支給を決めた同年の政治決着と同等の救済策を念頭に解決策を取りまとめる方針を明らかにした。
 実現すれば、「第二の政治決着」になり、水俣病問題は1956年の公式確認から50年を経て全面解決に向かう可能性がある。ただ、95年の政治解決策を復活させることに政府・与党内で強い異論があるほか、患者団体などの間でも救済策への意見の違いがあり、取りまとめは難航することも予想される。
 水俣病をめぐっては、2004年10月の関西訴訟際高裁判決で国と熊本県の行政責任が認定され、現行の認定基準が事実上、否定されたことから、新たな認定申請者が続出しており、県の認定審査会が再開できないでいる。新たに国に損害賠償を求める訴訟の原告は約1000人に達した。
 同県などは政治・与党に、95年の政治解決策と同等の救済策を要請していた。松岡座長は「(関係者の意見を聞くことが)最初のスタートになる。8月を第一の目標に解決策を探りたい」と話している。