大熊誠 
モンテ詣り 化学工業における一法学士の仕事の軌跡

第1章 モンテ詣りの背景

 エチレンやプロピレンの重合の場合、真ん中の二重結合の内一本が解き放されて一重となり、余った手で他の分子と結び付くわけであるが、ポリエチレンの場合には通常、直鎖状になるのに反し、PPの場合は炭素原子が一つずつ列から飛び出すこととなる。困ったことに、在来のチーグラー触媒を用いてプロピレンを重合しても、この炭素原子の飛び出し方が不規則な、いわゆるアタクティック・ポリマーしかできない。このアタクティック・ポリマーは、糊のような性状で、このままでは、あまり物の用に供することはできなかった。

 ところが、この炭素原子の飛び出し方を規則的にすることを考え出した人がいる。ミラノ工業大学のナッタ教授である。ナッタ教授は、アルミニウムアルキル(それも、トリエチルアルミではなく、ジエチルアルミモノクロライド、即ち、アルミにエチル基2つと塩素1つとを付けたものがよいとか、いろいろ噂された。)に加えて三塩化チタンを第二成分とする触媒を使ってプロピレンを重合し、炭素の飛び出し方が規則的なポリマーを得るプロセスを発明した。このポリマーは、アイソタクティツク・ポリマーあるいは立体規則性ポリマーと名付けられ、以後、ポリプロピレンといえば、実用に供し得るものとして、アイソタクティックのみを指すようになった。また、この二元触媒は、チーグラー・ナッタ触媒と呼ばれた。
 そして、このナッタ教授の発明を支援し、結局、その特許権を取得したのが、モンテカティーニ社である。また、この特許は、チーグラー触媒を基礎とする関係で、モンテ・チーグラー間に特許プール契約ができた。
 このアイソタクティツク・ポリプロピレンは、ポリエチレンに比べて、成形品としても、フィルム(写真用のフィルムではなく、包装用などの薄い膜状にしたものを石油化学業界ではフィルムと呼んでいる。)としても、強度に優り、表面に光沢があり、また、軟化温度が100度C以上になり、煮沸消毒に耐える等々の利点が紹介された。
 以上のように、モンテがポリプロピレンを発明したという情報は、世界中に伝えられた。大げさにいえば、全世界の化学会社の耳目は、このモンテカティー二のポリプロピレンに集まったといえる。

夢の繊維
 このようにして誕生したポリプロピレンは、合成繊維にもなるものとして、世界の繊維会社に伝えられた。三菱レイヨンでも、20世紀はまだ40年も残っているというのに、今世紀中にできる合成繊維はこれしかないとまで期待していた。長繊維にも、短繊維にもなる強靱な繊維、しかも、洗濯してもすぐ乾くとか、ワイシャツにしてもアイロンをかける必要がないとか、良いことばかりが喧伝された。「夢の繊維」という表現が新聞、雑誌にも用いられた。
 当時、ポリエステル繊維やナイロンは、既に技術導入され、相当の成功を納めていたので、ポリプロピレン繊維に、同じような、あるいは、それ以上の成功を関係各社が夢みたのも、むべなるかなである。


第2章 序盤戦

 三菱油化では、創立早々の昭和31年からモンテのポリプロピレン技術を伝え聞き、技術者を派遣して調査させている。しかし、モンテ側は、まだ、技術を譲渡する段階ではないと断わってきた。昭和三33年になって、モンテの風向きがやや変わってきた。この年の春、三井化学と日産化学とがモンテとの仮契約調印に成功し、外資法に基づく認可申請書を提出したのである。

 なぜ、三井化学と日産化学とが選ばれたのか明確ではないが、次のような事情があったのではないかと推定される。
1 当時は、日本の石油化学は、まだどこも本格的な操業に入っておらず、どこが石油化学会社として将来有望であるかモンテ側にも解らなかった。
2 三井は、チーグラーとの間に、ポリエチレンの特許実施権契約を締結しているので、チーグラー・モンテの特許プール契約から、ポリプロピレンについても、モンテが最初に指名したのであろう。(もっとも、ポリエチレンは三井石油化学であり、ポリプロピレンは、三井化学であった。この辺の三井グループ内の事情は不明)

3 日産化学については、モンテの当時の代表取締役ジュスティニアーニ氏が若い頃日産化学に青年技師として技術指導に来た縁からであるといわれている。

 三菱油化では、この2社が仮契約に調印したことを伝え聞き、早速、4月末頃、続常務をミラノに派遣して、モンテとの交渉に当たらせた。ところが、モンテの返事は、「7月の第1週になれば、あるいは三菱油化とも契約できるようになるかも知れないから、それまで待て。」ということであった。続常務は、致し方なく、7月初めまで、ミラノに籠城することになった。(当時の外貨事情から一且帰国すると、再び7月初めに渡航許可が下りるという保証はなかった。)
 その後、1〜2カ月の審議期間を経て、通産省の有機化学第一課長熊谷典文氏(後の通産事務次官、住友金属社長)が断を下した。即ち、「ポリプロピレンは、まず、プラスティックとしては、先に認可したばかりのポリエチレンと競合する面も多く、ポリエチレン事業がまだ十分育っていない現段階では認可を見送りたい。また、繊維としては、技術的に未完成であると思われるので、これまた現状では認可できない。」とのことであった。
 ここにおいて、三井化学も日産化学も一旦矛を納め、三菱油化も、当分事態を静観することとなった。

いよいよ仮調印へ
 昭和34年も暮れ近くなった頃、モンテから、三菱油化に「そろそろポリプロピレンの契約交渉に入る用意があるから、代表者を派遣せよ。」という内容の手紙が来た。早速、続常務と矢野技術部長がミラノに飛んだ。

ー 昭和35年2月24日 現地で調印 ー
ー 三井化学、三菱油化 政府申請 ー

新日本窒素の申請
 
 5月上旬になって、予定外のことが起こった。新日本窒素が米国アヴィサン社からの技術導入で、ポリプロピレンを造るという申請を出したのである。およそ、ポリプロピレンの製造には、モンテの特許が絶対必要と思っていた三菱油化にとって、正に、青天の霹靂であった。
 アヴィサンのポリプロピレン製造プロセスは、新聞紙上などに伝えられるところによると、触媒として、モンテのプロセスと同様の二成分を使うほか、全く異なる第三成分を併せて使うので、モンテやチーグラーの特許に低触しないと称している由である。そんなことがあり得るのか。そして、アヴィサンは、モンテのように法外な対価を要求していないらしい。少なくとも、折角軌道に乗りかかった我々の政府申請の認可問題に、大きな障害となりそうだと関係者一同大いに気を悩んだ。
 案の定、早速、政府の反応があった。折角出かかっていた政府の条件変更の指示が暫く延期されたのである。条件変更の指示が出たら、モンテとの交渉を再開しようとてぐすねを引いていた関係者は、拍子抜けしてがっかりした。

政府の条件変更指示

 それから約1カ月たって、6月1日にようやく政府から条件変更が指示されることになった。この時初めて、三井と三菱が一緒に呼ばれた。通産省企業局産業資金課の乙竹課長、生田外資班長・畑谷係長の3人から、三菱油化、三菱レイヨン、三井化学、東洋レーヨンの4社の代表に条件変更が指示された。

 一通り説明が終わると、乙竹課長が、おだやかながらやや厳かな口調でつけ加えた。
 「今まで認可した技術導入は、ここにお集まりの各社の方々もよくご存知でしようが、ポリエチレンにしても、ポリエステル繊維にしえも、すべて、3%程度のロイヤリティでした。それに比べて、このポリプロピレン(5%)は、格段に高い。大体、このポリプロピレンというものは、ポリエチレンとポリエステル繊維を併せたぐらいの発明と思われますが。
 今までは、三井グループと三菱グループと別々に交渉されたから、相手も、足元を見て、こんなに高い対価を要求しているのです。どうか、これからは、両グループ協力して、モンテに対して、強力に交渉してください。こんなに高い間は、他社が申請してきても、通産省としては、認可しませんから、どうかそういう意味で後顧の憂いなくして交渉して頂きたいと思います」

第三章 ミラノ夏の陣

ー 三井化学、東洋レーヨン、三菱油化、三菱レイヨン4社の代表がモンテと交渉、膠着状態に ー

7/30 モンテの最後通告で、改定契約締結

第四章 収束の秋

ー 政府の要請で「文言修正」 11/2調印 −

晴れて認可へ
 昭和35年11月22日の外資審議会において、三井、三菱両社のポリプロピレン技術導入契約は、正式に認可された。関係4社の当事者は、過去3年近くの努力が報われたという思いで、喜びに包まれた。
 ただ、認可と同時に、ポリプロピレン技術導入に関する政府の処理方針が発表された。それによると、
1 モンテからの技術導入は、ポリプロピレンの今後数年間の需給バランス等を考慮して、あと1社認可する。
2 アヴィサンの技術も、適当と思われるので、要件が整い次第、認可する。とのことであった。

 この処理方針によって、翌昭和36年1月早々、住友化学(再実施権者 東洋紡)のモンテからの技術導入申請と、新日窒のアヴィサンからの技術導入申請とが認可されることとなった。新日窒の認可は、ロイヤリティが我々の半分程度といわれ、競争力からいってもちろん大きな脅威であったが、それよりも、ミラノで苦労した者達にとっては、住友化学があのミラノ夏の陣のような苦労をせずして、認可を得たことの方がねたましかったというのが本音であろう。

第5章 認可後のことども

特許訴訟
 夏の陣でも、ジュスティニアーニ氏が何回か言明したように、モンテは、新日窒に対し、日本での製造禁止の仮処分を昭和35年中に申請した。
 仮処分といっても、特許訴訟の場合は、1週間やそこらで決定が下りる訳ではない。口頭弁論も、月1回ぺースで開かれるし、大量の準備書面などを出すことも、本訴と変わりない。ただ、証拠という点において、本訴ほどはっきりしたものがなくても、即時に調えられるものを提出すれば足りる、いわゆる疏明で足りるという点が異なるだけである。(それでも、モンテは、アヴィサンの方法を本国で実験して、その結果を裁判所に提出したりした。)
 この裁判での論点は、大きくいって、次の二つであった。
1 モンテの特許は、二元触媒であるが、アヴィサンの方法は、それに第三成分としてエチレングリコール・ジメチルエーテルというものを0.02モル比だけ加えている。この第三成分が単なるおまじない的なものに過ぎないのか、ポリプロピレンの製造に決定的な影響(例えば、品質を格段に向上させるとか、あるいは、コストを著しく引き下げるとか)を与えているのか。
2 触媒の成分の一つとして、三塩化チタンが通常使われる。元来、チタンというものは、手が三本になったり四本になったりする多価元素である。が、工業的には、四塩化チタンが得易く、三塩化チタンを造るには、通常、四塩化チタンの塩素1原子をアルミと置き換えている。このアルミが1原子付いた三塩化チタンは、モンテ特許の請求範囲にある「メンデレフ周期律表第一属から第三属までに属する金属のハロゲン化物」に該当するか否か。

 モンテは、この訴訟のため、技術者を来日させたり、アヴィサンの方法を追試したり、かなりの精力を注いだ。また、日本のライセンシー6社も、協力した。しかし、結果は、6年かかって、東京地裁の第一審は却下、直ちに、控訴したが、東京高裁の第二審もその4年後に却下となり、モンテ側の敗訴に終わった。
 このモンテ敗訴の意味は、単に、新日窒のポリプロピレン事業遂行を容易ならしめただけでなく、三井石油化学の自社技術(四元触媒とか五元触媒とかいわれる。)によるポリプロピレン事業開始への道も、開いてしまった。

モンテの約束に固い半面

 ミラノ夏の陣で、ジュスティニアーニ氏に対して、「日本でやたらにライセンシーを作るな。三井、三菱2社に限定せよ。」と申し入れたことがある。その時は、もう既に住友化学との話が始まっていたためか、ジュスティニアーニ氏は、言を左右にして、明確な約束はしなかった。
 ところが、認可の翌年、ジュスティニアーニ氏が来日したとき、「あの時約束した通り、3社(住友を含む。)以外とは、今後契約しない。」とはっきり言明したのである。事実、第4、第5の会社がモンテにかなり強力にアプローチしたようであるが、モンテは、遂に実施権を与えようとはしなかった。
 また、前述の通り、モンテは、結局、特許訴訟に敗れたが、ここで、意外であったのは、第一審を終わった頃、モンテは、人を日本に派遣し、モンテのライセンシー3社に対するロイヤルティーを平均3.5%程度に下げると言い出したことである。
 ミラノ夏の陣に際して、我々は、再三、新日窒の申請を理由に、ロイヤルティーの引き下げを要求したが、ジュスティアーニ氏は、都度「新日窒には、絶対に日本で操業させない」と豪語して、それ以上我々の要求に耳を貸そうとしなかった。しかし、ジュスティニアーニ氏に、これだけ豪語させたことが、結果として、敗訴後のロイヤルティー引き下げにつながったのかもしれない。あるいは、夏の陣の最後に出した手紙も若干の効果があったのかも知れない。何れにせよ、この第一審敗訴の時には、ジュスティニアーニ氏は、既にモンテを退陣していたのであるが、オルソーニ氏以下の人々が夏の陣の時のことを覚えていて、ロイヤルティー引き下げに動いてくれたのであろう。
 ともあれ、夏の陣では、あれだけ傲慢無礼であったモンテが、半面、このように約束に固いところもあることは、後年になって解ったことである。

モンテの運命
 モンテ詣りの当時、モンテの正式名称は、「モンテカティー二・ソシェタ・ジェネラーレ・ペル・リンドゥストゥリヤ・ミネラリヤ・エ・キミカ」という、長ったらしくもあり、壮大にもみえるものであった。