北朝鮮の戦前の化学工場                                  

  日本窒素興南工場 

     鎌田正二 「北鮮の日本人苦難記 −日窒興南工場の最後ー」 から

 

在日朝鮮人グループが興南に工場を設立

Chemnet Tokyo 2003/1/21 「取材ノートから」

いまや「夢の跡」か、北朝鮮の大化学工場

○北朝鮮には、戦前チッソ(当時日本窒素)が建設した、150万キロワットの発電所と、硫安50万トンを含む最新鋭の化学工場(興南工場)があった。従業員数4万5,000人を数える、世界規模の工場だった。チッソの社員たちは戦後、工場をそのまま残して日本に引き揚げてきたが、あの工場は今どうなっているのだろうか。やり方次第ではその後の経済発展も望めたはずだし、まして今日のような深刻な事態を招くようなことはなかったに違いない。

○「このように朝鮮での日本窒素の事業は、発電所の建設、興南における硫安、硫燐安工場によって始められたが、やがて発電、化学工業を中心とした世界的な事業となっていった」(鎌田正二著『北鮮の日本人苦難記ー日窒興南工場の最後』から)。戦前、同社興南工場に勤務していた鎌田さんが、帰国後「外地で体験したことを、後世に書き残しておきたい」と、少しずつ書き続け、昭和45年、1冊の本ににまとめた。豊富で貴重な資料や写真。万感を込めて書き上げられている。A5判、450ページ、時事通信社発行。

○同書によると、工場はロシア、中国との国境に近い興南一帯に広がり、敷地はざっと550万坪、従業員4万5,000人。発電所は4ヵ所に合せて150万キロ、ほかに2ヵ所に建設中だった。この電気を利用して一大化学コンビナートの建設に着手。硫安50万トン、アンモニア19万4,000トンなどの肥料工場をはじめ、カーバイド、か性ソーダ、アセチレンブラック、アセトン、ブタノール、エチレングリコールなどを生産、さらに脂肪酸、グリセリンなどへと拡げた。金属工場ではアルミニウム、亜鉛、銑鉄から金や銀などを生産。ほかにセメントやダイナマイト工場があった。製品の一部はアジア各地に輸出され、外貨を稼いだ。
 
○これらの工場は、終戦と同時に社宅もろとも接収され、日本人社員たちは「多くの苦難」を乗り越えて引き揚げてきたが、工場がその後どうなったかの情報は全く伝わってこない。あとの朝鮮戦争では、米軍機の攻撃目標にされたらしいが、被害や復旧状況、再開されたのかどうかなども一切不明のままだ。最近テレビや新聞が伝える、ピョンヤン市民の生活ぶりからは、あの化学工場がその後も利用され、国民経済や農業生産を支えているようには見えない。業界パイオニア達の、遠い「夢の跡」になっているとしたら残念でならない。


鎌田正二 「北鮮の日本人苦難記 −日窒興南工場の最後ー」 から 
                           (昭和45年8月 時事通信社)

 

興南工場の製品と年産能カ

歴史

北朝鮮地図

興南工場全景

その後の興南工場

 


興南工場の製品と年産能カ(トン)

工場名

製品

能力

製品

能力

製品

能力

興南肥料工場

硫安

500,000

燐安

14,000

グリセリン

3,360

アンモニア

130,000

燐酸

1,200

脂肪酸

37,200

硫酸

450,000

過燐酸石灰 

50,000

洗濯石鹸

36,000

硫燐安

160,000

硬化油

81,000

化粧石鹸

3,600

興南金属工場

アルミナ

8,000

人造黒鉛電極

3,000

銑鉄  

36,000

アルミニウム

6,000

天然黒鉛電極

4,800

鋼塊

86,400

弗化アルミ

3,500

アークカーボン

180

セメント

46,800

亜鉛

3,600

カーボランダム

1,000

   
日窒マグネシ
ウム金属

マグネシウム

1,000

       

日窒宝石

人造宝石
  
カラット/日)

 50,000

       

本宮工場

塩酸

28,800

ソーダ灰

10,000

アセトン

1,080

晒粉

16,660

肥料用塩安

10,000

エチレングリコール

720

液体塩素

2,680

カーバイド

93,600

アランダム

2,400

苛性ソーダ

15,000

石灰窒素

18,000

アンモニア

64,000

工業用塩安

2,880

アセチレンBlack

2,880

   
日窒燃料
竜興工場
イソオクタン
     (kl)

18,000
  

       

朝窒火薬

ダイナマイト

13,300

黒色火薬

700

硝安

8,400

硝安爆薬

700

稀硝酸

30,625

カーリット

1,750

導火線(km)

78,750

濃硝酸

14,700

雷管(千個)

105,000

綿火薬

3,500

(硝酸は98%換算)

   
日窒鉱業
開発
興南製錬所

金 (kg)

2,700

3,200

4,800

銀 (kg)

40,000

 

歴史

 日本窒素を世界的な化学工業会社たらしめたのは、朝鮮を舞台とした事業によってである。それは北鮮に為ける発電事業にはじまる。朝鮮の地図を見れば分かるように、山脈は半島の東部を縦走し、日本海岸に向かって急に迫っている。黄海に向かって流れる河を堰きとめ、山脈を隧道で貫いて日本海に落とせば、大きな電力が得られる。とくに朝鮮の屋根といわれる蓋馬(ガイマ)高原には、赴戦、長津、虚川など鴨緑江の大支流が北に向かっているが、これを堰きとめて大人造湖を造り、大雨の降る夏季のうちに水を溜め、流域を変更して日本海に向かって落とせば素晴らしい大電力になる。これに目をつけたのが森田一雄、久保田豊の二氏だったが、この大電力をどういう風に使うかが問題である。ここで野口遵氏が登場し、大正15年日窒の全額出資による朝鮮水電が設立されて、赴戦江の発電所建設が始められた。そして昭和4年11月、第一期工事が完成し、6万5千キロワットの送電を開始するに至る。

 この電力を消費するために建設されたのが興南工場である。興南は東朝鮮湾が深く入りこんでいるあたり、咸鏡南道の首邑の咸興(カンコウ)を通って流れる城川江の河口と、漁港の西湖津の間にあり、昭和の初めころは荒屋が二、三十戸海岸近くに点在する寒村であった。日本窒素はここに工場を建設することになり、昭和2年5月、朝鮮窒素肥料株式会社を設立、6月に起工式を行なった。建設は北鮮の酷寒をついて行なわれ、昭和4年末に第一期工事を完了、昭和5年初めより硫安の製造を開始した。

 このように朝鮮における日本窒素の事業は、赴戦江発電所の建設、興南における硫安、硫燐安工場の建設によって始められたが、やがて発電、化学工業を中心とした世界的な事業となって行った。

 発電は赴戦江20万キロにつづき、長津江32万キロ(昭和13年)、虚川江33万キロ(昭和18年)の発電所を完成し、続いて鴨緑江の本流で水豊70万キロ(昭和19年)の大発電所を完成した。そして戦争終結まで全部で150万キロが開発され、引き続いて江界(30万キロ)・雲峰(50万キロ)、義州(20万キロ)が工事中であった。そしてこの発電に応じて、化学工場も興南をはじめ北鮮各地で建設されて行った。

 興南工場では硫安、硫燐安の肥料工場が増設を重ねて、硫安50万トン、硫燐安16万トンの設備になったほか、過燐酸石灰や乾式燐酸からの燐安の設備をもつに至った。また火薬の原料であるグリセリンを自給するための油脂工場が昭和7年に完成した。北鮮の沿岸は当時鰯の世界一の漁場といわれたが、それを原料として硬化油をつくり、グリセリン、脂肪酸に分解するもので、グリセリンは延岡の火薬工場に、のちに興南に建設された朝窒火薬の工場に送られた。脂肪酸よりの洗濯石鹸、化粧石鹸は、内地、朝鮮はもちろん、満州、台湾、中国の市場に向けられ、日本の石鹸業界を圧倒した。この硫安などの肥料工場と油脂工場が興南肥料工場に属していた。

 この興南肥料工場の東北の地に、興南金属工場の工場群が並んでいた。アルミニウム工場、マグネシウム工場、カーボン工場、製鉄工場、人造宝石工場などである。マグネシウム工場は熱還元による直接製錬方法によるものであった。咸鏡北道端川(タンセン)の奥にある北斗のマグネサイト鉱石を原料に、これを焼いたマグネシヤクリンカーと無煙炭を混合したものを密閉電気炉の中で加熱し、マグネシヤを還元してマグネシウムにするものであった。世界で最初の方法の工業化であったので、種々の困難を伴ったが、高品位のマグネシウムを得ることができ、昭和14年より連続操業にはいっていた。

 アルミニウムエ場は朝鮮木浦(モッポ)附近の明礬石を原料とし(後に北支の礬土頁岩)、アルミナを得、アルミニウムを製造する事業であった。原料鉱石から加里分をとったのち、無煙炭、石灰を加えて、電気炉で礬土酸石灰とし、これからアルミナを抽出するものであった。内地におけるバィヤー法諸工場が、戦争で原料ボーキサィトの入手がむずかしくなったとき強味を発揮した。

 アルミニウム工場の海岸よりに製鉄工場があった。硫酸工場での硫化鉱の焼滓を原料とし、回転炉を用いるバッセー法によるもので、銑鉄とともにセメントクリンカーを得た。生産は順調ではなかったが、セメントも銑鉄も、物資不足のおり役に立った。

 金属諸工場と肥料工場の間の土地にカーボン工場ができていた。本宮工場のカーバイド、石灰窒素、苛性ソーダの諸工場、興南金属工場のアルミニウム、マグネシウムの工場で消費される電極を製造した。映写用などのアークカーボンも製造していた。このカーボン工場の近くに宝石工場があった。アルミナを酸素水素焔で溶融して、軸受けなどに使われるルビー、サファイアの原石をつくった。

 興南金属工場には、このほか竜城地区の城川江の河口近くにある亜鉛工場も属していた。秩父産の亜鉛鉱石を原料として湿式法による亜鉛製錬を行なっており、接触硫酸工場も附属する新鋭工場であったが、亜鉛鉱石の人手が困難になる戦争末期には、NZ工場(ロケット兵器燃料の過酸化水素、ヒドラジン工場)に転用された。

 本宮工場は、城川江に沿い、興南と咸興の中ほどの所に建設された。本宮は李朝発祥の地で、附近には義陵、定和陵、純陵、帰州寺など李朝に縁のある旧跡が多かった。本宮工場は昭和10年に建設が始まり、最初は苛性ソーダと大豆化学の工場だった。大豆化学工業はここでは成功を見なかったが、続いてカーバイド工場、石灰窒素工場が建設され、やがてエチレングリコール、ブタノール、アセトン、アセチレンブラックなどアセチレンを原料とする諸工場ができ、またアランダム工場、塩化アンモニア肥料工場、アンモニア工場が建設されて、興南地区に匹敵する工場群となった。とくにカーバイド工場は、はじめ1万キロの電気炉4基だったが、となりの竜興工場の航空燃料イソオクタンの原料を供給するため、2万キロ3基が増設され、林立する煙突よりの白煙は本宮の空を覆い、壮観であった。

 日窒燃料工業の竜興工場は本宮工場の北、咸興よりに隣接して、昭和13年より建設が始められた。アセチレンからアセトアルデヒドをつくり、アルドール、クロトンアルデヒドを経てブタノールとし、これよりイソオクタンを製造するもので、年産1万8千キロリットルの工場は昭和17年5月に完成、ついで倍増計画が進められているうちに終戦となった。昭和13年高オクタン価液体燃料の禁輸が迫っていたころ、海軍の徳山燃料廠で成功した研究を工業化しようとしたもので、全興南の建設能力を動員して工事に取り組んだものだった。当時秘密を厳守するため名もNA工場とよび、日本窒素の社員でも定められた者以外は工場に立ち入りを許されなかった。

 城川江の河口の雲城里三角洲の上には、火薬工場があった。昭和9年朝窒火薬が設立され、興南に火薬製造工場を建設し、発電所の建設や朝鮮の金鉱開発などの火薬需要に応ずることとなった。昭和10年建設に着手、昭和11年秋製造が始められた。拡張につぐ拡張で敷地は75万坪に達した。硝酸、硝酸アンモニア、過塩素酸アンモン、綿火薬、黒色火薬、導火線、カーリット、ダイナマイト、窒化鉛、ヘキソーゲン等の工場が並び、かつて砂原だった三角洲は緑に包まれた火薬綜合工場となっていた。

 興南工場のある湖南里と九竜里をへだてる高い丘の上に、日窒鉱業開発興南製錬所の高い煙突が空に聳えていた。この製錬所の煙突は、近隣の村々からも、遠くの海上からも望見され、あそこが興南だという目印しになっていた。製錬所では、朝鮮各地にある日窒鉱業開発の諸鉱山および内地の秩父、土倉などから供給される鉱石から、金、銀、銅、鉛、ニッケルなどの製錬を行なっていた。

 日本窒素肥料の興南肥料工場、興南金属工場、本宮工場、日窒燃料の竜興工場、朝窒火薬の興南工場、日窒鉱業開発の興南製錬所などが、興南の日窒系の主なる事業場であったが、このほかに、輸送部門を担当する日窒運輸、興南と赴戦江、長津江の発電所を結ぶ新興鉄道、この鉄道で運び出されてきた木材を製材する咸興合同木材、塩野義製薬と合弁の日窒塩野製薬などの諸会社があり、大工業地帯をづくっていた。

 日本窒素はまた興南以外の朝鮮で、咸鏡北道の永安工場、灰岩工場(朝鮮人造石油)、平安北道の青水工場(日窒燃料)、南山工場(日窒ゴム工業)の諸工場があり、永安、朱乙、吉州、竜門に石灰の鉱業所があった。そしてまた内地において水俣(熊本)、延岡(宮崎)の事業場をもつ外に、満州で吉林人造石油、北支太原で華北窒素、台湾で台湾窒素、海南島で日窒海南工業、それにジャバ、スマトラ、マラヤなどに進出していた。しかし日本窒素の事業の中心はやはり興南であった。

 

 

興南工場全景

 

その後の興南工場  

昭和20年 8月15日   終戦
  8月19日   ソ連軍 元山上陸
  8月26日   ソ連軍 興南工場接収


 興南工場は第二次世界大戦中は、何等の損傷を受けずに存続し、無疵のまま朝鮮に引き継がれた。ところが昭和23年7月に最後に残った日本人技術者が宗谷丸で引き揚げてから2年のち、昭和25年7月、8月、アメリカ空軍のB29によって徹底的に爆破されることになった。

 昭和25年6月25日、北朝鮮軍は三十八度線をこえて南鮮に侵入、ここに朝鮮戦争は始まった。アメリカ軍はこれに応じ6月26日から行動を起こした。しかし北鮮軍の進攻の前にアメリカ軍は7月末には釜山橋頭堡の狭い地区に追いつめられた。そしてB29による戦略爆撃は、この7月末から9月にかけて北鮮各地の工場に向けられた。その爆撃は、城津の製鉄所、平譲の兵器廠、元山の製油所、羅津のドック、鎮南浦のアルミ工場にも向けられたが、最大の爆撃は4日にわたって興南諸工場に向けて行われた爆撃であった。

 7月30日、興南の爆撃は火薬工場が最初の目標となった。500トンの高性能爆薬が火薬工場に投下され、工場の80%が破壊された。損傷を免れた機器は製造を続けるため、九竜里と雲上里の住宅地区に運ばれた。
 1日おいて8月1日、B29 50機は400トンの爆薬を肥料工場に投下した。工場は1万フィートに達する黒煙をあげ、爆撃機にも振動を感ずる爆発をおこした。のちにこの年10月この地に進駐したアメリカの将校が、「残っているのはスクラップだけだ」と言っているほど完全に破壊された。ただ埠頭設備はほとんど完全に残った。
 さらに8月3日、本宮工場が第三回の目標とされた。400トンの爆弾が投ぜられ、電解ソーダ工場、カーバイド工場は完全に破壊された。8月24日こんどはB29 24機は興南製錬所を襲い、282トンの爆弾を投下した。爆弾のあとには91の大穴があいた。かくして興南諸工場は、4回にわたって1500トンの爆弾に見舞われ、ほとんどが破壊された。
 9月15日に行なわれた仁川上陸作戦によって戦局は一変し、北朝鮮は後退を余儀なくされ、こんどはアメリカ軍は三十八度線を越えて鴨緑江を目指した。10月末、中共軍が介入することとなって、北鮮は中共、アメリカの主戦場となった。アメリカ第一海兵師団は、興南より咸興、真興里、古土里を経て、長津湖南岸のハガル里に達し、さらに北進して、江界、満浦に向かおうとして柳潭里に達したとき、強力な中共軍と遭遇、11月27日その重囲に陥った。第一海兵師団は悪戦苦闘、やっとその重囲を脱したが、黄草嶺下の水門橋の争奪戦がそのヤマであった。長津湖の水がトンネルによって導かれ、4本の鉄管となった所で、道路がその鉄管の上を横切るために架橋されたのが水門橋であるが、中共軍によって破壊された橋を、大型輸送機による架橋材料の空輸によって架橋し、車輌部隊の後退を可能ならしめたのであった。
 興南に後退した海兵師団は、12月11日より乗船を開始し、15日師団全員が乗船を終わった。そののち12月24日までに、東北鮮にあったアメリカ第十軍団の兵員は、興南より撤退を終わったが、興南港を出たのは兵員10万5千、避難民9万1千、車輌1万7500、貨物35万トンといわれる。全兵力資材の搭載を終わった12月24日、興南港は徹底的に爆破された。

 かくして7、8月の爆撃で残っていた興南港の埠頭設備も爆破され、第二次大戦中無疵だった興南工場は朝鮮戦争で徹底的に破壌されてしまった。

 昭和のはじめ住む人もない砂浜に建設された興南港が、膨大な日本兵のシベリヤ輸送、そして日本への引き揚げに使われ、満州重工業施設のシベリヤヘの輸送に使われ、またアメリカ軍の撤退に使われるに至ったことは、建設当事者が夢にも予想しなかったことであろう。

 

龍川列車爆発事故はテロだったのか
   安部桂司 (草思 2004年7月号)
http://www.infovlad.net/underground/asia/nkorea/html/ST/briefs_2004/aug_newtech.html

 平成3(1991)年4月に操業を開始した国際化学合弁(株)が興南に工場を設立した理由にも、酸・アルカリ工業の存在があげられている。国際化学合弁(株)の事業は在日朝鮮人の商工人と科学者の協力で立ち上げられたのだが、事業の発展に合わせて塩酸、硝酸、苛性ソーダ、アンモニアなどの関連工業の技術向上をはかるとの目標を掲げていた。この目標からして、野口遵の築いた酸・アルカリ工業が建設時から半世紀を経過し、技術的に遅れを来していること、そのため在日朝鮮人の商工人と科学者が、日本からの技術移転で刷新をはかろうとしていたことが推察できた。


  統治時代、多獅島鉄道沿線に工場が配置されていたが、太平洋戦争下で建設されたこともあって軍事工業関連が主であった。それらを新義州に立地する工場と合わせて列挙すると、安田鉱業所の新義州黒鉛選鉱場、三成鉱業龍岩浦製錬所、朝鮮神鋼金属新義州工場、三井軽金属楊市工場、東洋商工新義州工場、王子製紙新義州工場、鐘淵工業新義州葦人絹パルプ工場、日本農産化工義州工場、クームヒン新義州工場、郡是工業新義州製糸工場、朝鮮富士瓦斯紡績新義州工場、東棉繊維工業新義州工場、朝鮮無水酒精新義州工場、朝鮮燐寸新義州工場などである。

  これらは全てが戦時下で軍需に関わる工場であったとも言える。中でも大規模なのがアルミニウムとマグネシウムに代表される軽金属工業で、これらは飛行機の製造に欠かせない典型的な軍需工場であったが、他に朝鮮無水酒精新義州工場などは航空燃料の生産に関わった工場である。

  東洋軽金属(株)は、昭和18年10月までに楊市(龍川)に第一、第二工場を建設し、その一部で操業が開始された。後に東洋軽金属は三井軽金属と改称しているが、終戦時の三井軽金属楊市工場の従業員数は千人を超え、生産能力は2万トンであった。また、楽元の朝鮮神鋼金属(株)は金属マグネシウムの生産工場であったが、ここも従業員数が千人を超える工場であった。

 

 


 

東亜日報(韓国) 2003/7/18

北朝鮮の7.1措置支える「会計法」全容が判明

 北朝鮮当局が今年3月の第10期第6回最高人民会議で採択し、施行中の「会計法」の全文が、韓国で公開された。
 大韓貿易投資振興公社(KOTRA)が在外公館を通じて入手した同法は、7・1経済管理改善措置に続いて、今年3月から経済改革の段階に入った北朝鮮の経済政策の変化を法的に支えている。

(注 北朝鮮は2002年7月1日、賃金と物価を大幅引き上げて現実化し、採算性の強調などを骨子とした「7・1経済管理改善措置」を断行した。しかし北朝鮮経済はむしろ悪化したと分析された。) 

 まず、機関や企業などの経済主体の予算制約を考慮して、効率的な経済活動に向けて、独立採算制の完成に重点を置いている。
 社会主義経済の特性であり長年の問題点である「
ソフトな予算制約(soft budget constraint、経済主体が予算を気にせず、資源などを浪費する現象)」を正すという趣旨だ。

 慶南(キョンナム)大学の梁文秀(ヤン・ムンス)北朝鮮大学院教授は、「社会主義体制では、国家と企業は親子関係と似ており、温情主義的な色彩が濃い」とし、「企業は、予算を浪費した後、多くのチャンネルを動員して国家から予算をさらに引き出すことができるため、予算制約を大きく受けない」と語った。
 北朝鮮経済が衰退迷している理由は、「ソフトな予算制約」現象が浪費と非効率を生み、「不足の経済」をもたらしたためという説明だ。
 会計法は、
会計報告と決算報告を通じて、このような浪費と非効率を徹底的に防ぐために制定されたものと解される。

 これに関して、法の第1条は、「経済活動の財政的利益を保障する」という目的を明示している。
 企業の会計ならびに決算報告は、地方財政機関や中央財政機関によって厳格な審査を受け、利益を出せない赤字「企業」の経営者と優秀経営者をはっきりと区別することにした。
 会計報告書を故意または過失で誤って作成した者は、すべて職位解除される。
 一方、法の第26条は、「機関と企業及び組職は、資本利用と保存の効率性及び経済活動、予算活動、通貨の流れ、外貨収支、国際収支などを分析しなければならない」と規定して、市場経済的概念と資本主義経済の状況に注意を傾けることを義務づけた。
 第8条は、「国家は、財務会計分野で、外国及び国際機関との交流及び協力を発展させる」と規定している。
 また、有名無実化した銀行の機能が強調され(第14条)、財務会計の監査権限を地方に置くことで(第31条)、中央集権的計画経済の分権化措置も盛り込まれた。

 高麗(コリョ)大学の南成旭(ナム・ソンウク)北朝鮮学教授は、「中国が85年に採択した会計法の内容をかなり取り入れた画期的な内容だ」と評価した。


毎日新聞 2006/10/19

北朝鮮の茂山鉱山
 国境付近は鉄鉱石搬出で往来頻繁に 中国、制裁に温度差

 北朝鮮の核実験に対する国連安保理決議を受け中国政府が制裁措置を取る中、北東アジア最大の埋蔵量がある北朝鮮・「茂山ムサン鉱山」(咸鏡北道茂山郡)で中国側が鉄鉱石の粉の搬出を加速していることが18日分かった。北京や平壌に近い中朝国境の中国遼寧省丹東では厳重な検査態勢が敷かれ、両国闇の物流・貿易に影響が出始めているが、北京から1000キロ以上も離れた遠隔地の国境地帯では危機意識は薄く、中国国内の温度差が浮き彫りになっている。

 茂山鉱山の鉄鉱埋蔵量は総轟30億トンといわれ、吉林省の鉄鋼メーカー「通化鋼鉄集団」など中国3社が50年間の開発権を取得した。投資額約70億元(約1050億円)のうち50億元(約750億円)を鉱山の総合開発・設備投資に充て、毎年1000万トンを取り出すことになった。
 国境の図們江(朝鮮語名・豆満江)を挟んで茂山の対岸にある中国吉林省和竜市南坪では、枯れた山々の続く北朝鮮側とは対照的に、紅葉の赤や黄に彩られた景色が続く。
 南坪には茂山鉱山から持ち込まれた鉄鉱を精錬する工場がある。地元関係者によると、国境橋「南坪・茂山国境橋」には連日、大型トラック約100台分の計約2000トンもの鉄鉱石の粉が中国側に持ち込まれる。18日午前も北朝鮮側の道路を十数台の大型トラックが砂煙を上げて、国境橋を目がけて走っていた。
 北朝鮮に対する制裁決議後もトラックの往来に変化はないという。工場労働者の中国人男性は「核実験があったことは知っているが、仕事には全く影響は出ていない」と証言する。また、北朝鮮に向かうほぼすべての大型トラックの荷台が空になっており、遼寧省丹東の国境橋で見られるような積み荷の厳重な検査は実施されていないようだ。
 茂山は図們江沿いにある閑静な農村で、収穫を終えたトウモロコシ畑の黄色い大地が広がる。中国側住民によると、北朝鮮はかつて重機を使って茂山鉱山から鉄鉱石を採掘していたが、近年は電力不足から採掘は中断され、重機も撤去されたという。

 


日本経済新聞 2009/5/16

北朝鮮 開城工業団地「契約無効」を宣言 韓国揺さぶり目的か

 北朝鮮の中央特区開発指導総局は15日、開城(ケソン)工業団地を巡り、土地賃貸料や賃金、税金など既存の契約について「無効を宣布する」と主張し、新たな条件を受け入れなければ「出て行っても構わない」とする通知文を韓国側に送った。南北経済協力の途絶を警告し李明博(イ・ミョンバク)政権を揺さぶる狙いとみられるが、入居企業の撤退という形で事業が中断に追い込まれる可能性も出てきた。
 平壌放送などの報道をラヂオプレスが伝えた。韓国統一省報道官は15日「工業団地の安定を根本的に脅かす措置で断じて受け入れられない」として深い遺憾を表明し、北朝鮮側に撤回を要求する論評を発表した。
 北朝鮮は条件見直しの内容を明かしていないが、賃金引き上げや税金の減免撤回などを提示すると予想される。人件費や固定費用の安さというメリットが失われれば、多くの入居企業は撤退を検討せざるを得ない。慢性的な経済困窮に直面する北朝鮮は開城工業団地事業という有力な外貨獲得手段の放棄もちらつかせることで、強く李明博政権に北朝鮮政策変更を迫る狙いがありそうだ。
 開城工業団地の契約条件のうち、工場で働く北朝鮮従業員の賃金は月額約70ドル(約6700円)。入居企業の土地使用料や所得税などは優遇措置として免除されているほか、土地賃貸料は事業主体の現代蛾山と韓国土地公社が50年分の1600万ドルを支払い済みだ。
 北朝鮮は4月21日の南北当局者接触で、韓国企業への優遇措置を見直すよう要求。韓国側は、同団地で3月下旬に北朝鮮に拘束された韓国人男性職員を釈放するよう求めたが、北朝鮮は「不当な問題を提起した」として反発を強めた。
 通知文は韓国政府を「極端な対決政策で北南関係を破局に追い込み、開城工業団地事業の基礎を完全に崩壊させた」と非難。「同族対決を追求する者に、いつまで好意を施すことはできない」と強調した。韓国側は18日に実務協議を開催し議論するよう提案したが、北朝鮮側が応じるかは不透明だ。

▼開城工業団地
 2000年の南北首脳会談後に南北経済協力の一環として開発を始め、04年12月に稼働した。
 ソウルの北方約60キロに位置し、韓国企業を中心に101社が入居し北朝鮮労働者約3万8千人が働く。08年の総生産額は2億5142万ドル。


開城工業団地を巡る北朝鮮の強硬措置
2008年3月 常駐する韓国政府関係者を追放
   11月  開城観光と貨物列車運行を中断
   12月  立ち入り制限を厳格化
2009年3月 韓国側要員の往来たびたびストップ
   4月  優遇措置の見直し要求
   5月  契約無効を宣言

朝鮮日報 2009/5/18

開城工団:「生産性は韓国の33%、賃金安くない」

  北朝鮮が開城工業団地の閉鎖を持ち出し、北朝鮮の労働者賃金の引き上げなどを要求しているが、韓国の進出企業らは、「開城工業団地の労働者一人当たりの生産効率は韓国の33%にすぎず、間食代など福利厚生費が多くかかる上、賃金水準は韓国やベトナムなどに比べて決して低くない」と分析していることが、17 日までに分かった。

 開城工業団地企業協議会は先月25日の「第1回開城接触」以 降、工業団地進出企業40社余りに対しアンケートを行い、北側の賃金引き上げ及び土地使用料の早期支払い要求を受け入れられない理由をまとめた。調査結果 によると、開城工業団地の労働者一人当たりの生産効率は韓国の33%にとどまった。一方、中国の生産効率は韓国の96%、ベトナムは85%に達した。開城工業団地の北朝鮮労働者の場合、未経験者の割合が高く、欠勤率も平均10%に達し、夜勤や残業などを進出企業側が自律的に決定できないといった状況だ。

 進出企業関係者は「北側労働者の目標意識が低く、インセンティブなど勤労意欲を高める対策を立てるのが難しいのも、生産効率が低い理由と思われる」と述べた。目標を超過達成したときには間食にチョコパイを多く配る程度だという。

 工業団地の賃金も安くないという分析だ。開城で支給される基本給は賃金55.1ドル(約5200円)と社会保険料8.3ドル(約790円)を足し た63.4ドル(約5990円)ほどだ。ここに、残業勤務手当として月11−18.3ドル(約1040円−1740円)が加算される。また、食事代・間食・バス代など福利厚生費が1カ月に36.6−47.9ドル(約3480円−4550円)追加されるものと集計された。結局、開城工業団地の労働者の人件費は月110−130ドル(約1万500円−1万2350円)水準になるが、これは中国やベトナムなどに比べ決して低くない、というのが進出企業の主張だ。企業関係者は「中国東北3省は基本給180ドル(約1万7000円)、中国内陸部は基本給130ドル(約1万2000円)、ベトナムは基本給80ドル (約7600円)だが、福利厚生費が作業服(3−4ドル=約280−380円)以外にほとんど掛からない。労働者の生産効率まで考慮すれば、開城工業団地 の賃金は決して安くない」と話した。

 また、北朝鮮が来年から支払うよう要求している土地使用料も、1平方メートル当たりの工場建設費などを考慮すると、早期の支払いは難しいという立 場だ。開城工業団地の1平方メートル当たりの建設費は394ドル(約3万7500円)であるのに比べ、中国は122ドル(約1万1600円)、ベトナムは 65ドル(約6200円)だ。政府当局者は「開城工業団地が稼動してから5年も経たないのに、特恵をなくすという一方的な北朝鮮の主張は受け入れがたい」 と述べた。


2009/6/9 朝鮮日報

開城工団:進出企業が初の撤退

毛皮衣類S社が廃業申請

 北朝鮮の開城工業団地が閉鎖の危機にさらされる中、同工団に進出した韓国企業のうち衣類を製造するS社が8日、初めて全面撤退することを決めた。

 韓国政府当局者はこの日、「毛皮衣類を主に作っているS社が開城工業団地から完全撤退することを決め、同工団管理委員会に廃業申請をした」と述べた。

 同社は、バイヤーの注文取り消しが相次いだほか、現代峨山の職員ユさんの長期抑留事件をきっかけに、開城駐在員らの身辺安全に対する懸念も大きくなったことから、このような決定をしたという。

 2005年に開城工業団地が本格的に稼動して以来、一部設備をほかの地域に移したり事業規模を縮小したりするケースはあったが、S社のように廃業を決定したのは今回が初めてだ。現在、同工団にはこの企業を含め106社が入居している。

 今月11日に予定されている開城での南北当局間の接触で、北朝鮮が無理な賃金引き上げを要求するなど否定的な結果が出た場合、小規模企業を中心として撤退決定が続出するとの見通しも出ている。



  管理委員会関係者は、「S社は昨年以降に南北関係が冷え込みバイヤーからの注文が急減した。工業団地内の設備を維持することが難し くなった上、常駐する社員らの身辺安全にも問題が発生しかねないと判断し撤退を決定したと管理委員会に伝えてきた」と話す。S社は2007年に資本金1億 2000万ウォンを投じ工業団地内のアパート型工場に進出し、北朝鮮の労働者100人余りを雇用して毛皮関連製品を生産してきた。


日本経済新聞 2009/6/12

北朝鮮、土地賃貸料490億円要求 開城で南北実務会談

韓国と北朝鮮の政府当局者は11日、北朝鮮にある開城(ケソン)工業団地で実務会談を開いた。北朝鮮側は同団地の土地の賃貸料とし て新たに5億ドル(約490億円)を要求したほか、労働者の賃金を現行の4倍となる月額300ドルへ引き上げるよう求めた。法外な条件を突き付けることで 李明博(イ・ミョンバク)政権を揺さぶる狙いがあるとみられる。

 南北当局が直接協議するのは4月21日以来で、5月25日の核実験後では初めて。会談は双方が自らの立場を主張して終了。今月19日に再協議することで合意した。

 同団地の事業主体である韓国の現代峨山などは既に50年間の工場用地賃貸料として1600万ドルを支払い済み。北朝鮮はこれに上積みする形で高額の外貨 の支払いを求めた。韓国側は3月に開城で拘束された韓国人男性職員の釈放を要求。北朝鮮側は応じなかったが、安否については「無事だ」と答えたという。北 朝鮮の強硬姿勢で同団地の事業が不安定になるのは必至だ。

 

中央日報 2009.06.12

賃金4倍増、賃貸料31倍増を要求…各企業「出て行けというのも同然」

  北朝鮮は11日、開城(ケソン)工業団地で働く北朝鮮側の労働者1人当たりの賃金を4倍以上の月300ドル(約2万9300円)に引き上げることを要求した。また、1600万ドルを支払済みの土地賃貸料も31倍の5億ドルに引き上げるよう求めた。

  現在免除となっている土地使用料も来年から1坪当たり5−10ドルを支払うよう求め、各種の税金の引き上げも要求した。北朝鮮はこの日、開城(ケソン)工業団地内の南北(韓国・北朝鮮)経協協議事務所で午前と午後に2回にわたって開かれた南北実務協議でこうした立場を示し、賃金はベトナム・中国の相場、賃貸料と税金は韓国の相場にそれぞれ合せることを注文した。

  これは政治的に不安定な中でも「価格競争力」に頼り維持できた各企業が受け入れられないレベルのものであることから、工団の存廃を 検討せねばならない局面に入ったものと言える。北朝鮮は協議で「北朝鮮の労働者が学歴・生産性・技術などすべての面でベトナム・中国の労働者より優秀なのに、開城はでむしろ労賃が安くなっている」とし、給与300ドルを支払うべきだと強調した。

  現在開城工団で働く北朝鮮労働者の最低賃金は55.125ドルで、社会保険料まで含めれば約75ドルだ。したがって300ドルは 75ドルをベースにしても4倍となる。北朝鮮はまた、現在「毎年5%」と決めた賃上げ率の上限も、10〜20%に引き上げることを要求した。北朝鮮は現代 峨山(ヒョンデ・アサン)と土地公社が04年に1600万ドルを完納、終了した同団地・1段階の敷地(100万坪)に対する土地賃貸料にも触れた。

  北朝鮮は「韓国が団地を作る場合、1坪当たり500−1000ドルも費やされることから、開城工業地区は少なくとも5億ドルは受け るべきだ」と主張した。100万坪を1坪当たり500ドルに計算したものだ。続いて「500年にわたる古都、開城には第三国はもちろん韓国からも追い出さ れた斜陽産業・公害産業ばかり入ってきている」と指摘した。   

 税金については「韓国側の自動車税は団地内の自動車税より10倍以上も高い」とし、引き上げの根拠にした。

  北朝鮮はまた▽労働者の宿舎(1万5000人の規模)と保育園の新築▽通勤向け道路の建設−−なども要求した。こうした内容の報告を 受けた統一部当局者は「呆れる」と反応した。韓国代表団も午後の協議で、北朝鮮に「韓国は3億ドル持っていけば、世界どこでも歓迎を受ける」と反論したと いう。

  入居企業は「想像すらできない金額」と反発した。繊維メーカー・A社の代表は「出て行けといったほうが、より素直な表現なのでは」 と問い返した。ほかのメーカーの代表は「通行を遮断しバイヤーが出入りできなくしておいて、今になって賃上げを求めている」とし「工場の運営について悩む より、かえってどう撤収すれば被害を減らせるかについて方法を講じたほうがいい」と話した。

  北朝鮮のこうしたむやみな出方をめぐり、「金の要求」と「団地の閉鎖に向けたプロセス」という双方向の見方が出ている。ある当局者 は「北朝鮮は“協議しつづけよう”との立場だ」という見方を示した上で「今回“上限”を提示したようだ」と述べた。北朝鮮は19日の後続協議に同意した。 国際社会による制裁で資金源が遮断される場合、開城(ケソン)工業団地は北朝鮮にとって最も安定したドル箱となる。

  しかし北朝鮮が「団地と北朝鮮政策のうち、どちらかを選ぶように」と強いたものという見方も多い。北朝鮮大学院大学校の梁茂進(ヤ ン・ムジン)教授は「団地の閉鎖と北朝鮮政策の変更のうち、択一するようにと求めたもの」と解釈した。北朝鮮がこの日「2000年6月15日の南北(韓 国・北朝鮮)共同宣言を履行しなかったため、特別恩恵措置を撤回する」と再び強調したのがその根拠だということだ。一部では「北朝鮮が交渉を進めているも のの、いつでも南北関係を緊張局面に切りかえ、団地を再び担保に利用できる」と懸念する声もあがっている。

  ◇北、韓国人の解放求める文書を拒否=韓国代表団は午後の会談で、この日で身柄拘束から74日目となる現代峨山(ヒョンデ・アサ ン)の職員、ユ某氏の早期解放と安全の確認を求める文書を北朝鮮側に渡した。しかし北朝鮮側は会談終了後、同文書を韓国側に返し、受け付けを断った。北朝 鮮側はユ氏の安全について「無事に過ごしている」とし、居所については「韓国側の好きなように解釈すればいい」とのみ述べたという。代表団はこれに対し、 ユ氏が開城に滞在中と受けとめている。   


東亜日報 2009/6/15

開城企業9社、北の荒唐無稽な要求に抗議し「賃金払えぬ」

07年以降に開城(ケソン)工業団地に入居した後発企業の一部が、北朝鮮側の無理な賃金引上げ要求に抗議するために、6月分の賃金を支給していない ことが明らかになった。後発企業は、今週中に集まって、最近の状況について対策を話し合うという。開城工団入居企業協会も先週末、統一部に正式に企業への 資金支援を要請するなど、開城工団入居企業の動きが早まっている。

07年に開城工団に入ったA社の代表は、14日、東亜(トンア)日報の電話取材に対して、「すでに経営が苦しい約10社の後発企業を中心 に、今月の賃金を送金していない。経営難のうえ、北朝鮮側の無理な要求まで重なり、このような動きが広がっている」と明らかにした。開城工団入居企業は、 毎月10日から25日の間に、各企業が北朝鮮側労働者の賃金を送金していた。これまで、開城工団入居企業のうち、経営難のために賃金が支給できなかった ケースはあったが、北朝鮮側当局に抗議するために送金を中止したのは初めて。

A社代表は、「当初の日程どおりなら、12日に約1億5000万ウォンの賃金を支給する予定だった。8日に北朝鮮側が、賃金を従来の4倍以 上の月300ドルに引き上げることを要求した後、現地に賃金支給の中止を指示した」と明らかにした。そして、「先月までは、後発入居企業は借金をしてでも 北朝鮮側に賃金を送ったが、北朝鮮側の強硬姿勢と悪化した開城工団の経営環境などを見ると、借金をして賃金を払うことも限界点に達したようだ」と話した。

後発企業約10社は、今週中に集まって対策を話し合う。後発企業は、04年のモデル団地時に入居した企業に比べて、労働力の質が落ち、インフラも劣悪で、開城工団側の問題による被害が大きいと主張してきた。

いっぽう、開城工団企業協会は12日、統一部に正式に611億ウォン規模の開城工団入居企業への運営資金の支援を要請した。協会は同日発表 した開城工団企業赤字アンケート調査をもとに、金学権(キム・ハククォン)協会会長が統一部を訪れ、書面で要請書を提出した。協会の調査によると、昨年 12月1日から先月末までの6ヵ月間で赤字を出している開城工団入居企業は、全体106社のうち82社、累積赤字額は313億ウォンに達することが分かっ た。

協会関係者は14日、「累積した赤字を補填しない場合、入居企業の『連続倒産』が避けられない。今後、運営資金約300億ウォンが必要と推定され、アンケート調査の結果を報告する形で611億ウォンの支援を要請した」と話した。

また、初の開城工団撤収事例が出たアパート型入居企業は、12日に月例会議を開き、南北実務会談の進展結果をもう少し見守ることを明らかに した。開城工団アパート型入居企業協議会のオク・ソンソク会長は14日、「1ヵ所の工場が撤収した後、ドミノ撤収を憂慮する声もあるが、事実とは異なる。 アパート型企業は、実務会談の結果を見守る考えだ」と話した。