http://www.knak.jp/ta-sangyou/pharma/sucampo.htm

2012/2/13--                          2002 8 藤沢薬、提携関係強化で米スキャンポ社に10億円を出資
                                       

新薬の夢を追って
 米スキャンポ・ファーマシューティカルズCEO 上野隆司さん     Sucampo Pharmaceuticals, Inc.

自ら発見した物質もとに、2つの医薬品開発
 研究仲間の妻と米で起業、ナスダック上場
 「新たなメカニズムで患者を治す」を信念に

米国のバイオベンチャー企業、スキャンポ・ファーマシューティカルズの最高経営責任者(CEO)の上野隆司さん(58)は、研究者としても経営者としても成功したまれな日本人だ。脳内で細胞の修復・再生に関係している物質が作られていることを発見し、この物質をもとに2つの新薬を世の中に送り出した。
 

 「もうこれでやめにしよう」ーー。6年前に2つ目の新薬となる慢性の重い便秘薬の製造承認を米食品医薬品局(FDA)から得たとき、「会社を売ってアメリカンドリームを達成しよう」と思ったこともありました。精も根も尽き果て、お金も底をついていましたからね。でも、その考えはすぐに頭の中から消えました。
 私は脳でできるプロスタグランジンという生理活性物質が分解してできる一群の化合物が、傷ついた細胞の修復や再生を担っていることを発見しました。この化合物をプロストンと名付け、日本で緑内障、米国で慢性の重い便秘などに効く治療薬として開発しました。
 医薬品の候補物質が見つかっても、開発に成功する確率は1万分の1以下とされています。自ら発見した物質で3つ、4つと医薬品を出した人はまだいないそうです。前人未到のことをやり遂げるために覚悟を決めて、いま消化管や口の中の炎症などをターゲットにした3番目の薬の開発に挑んでいます。
 2種類の医薬品の売上高は累計で2000億円くらいになると思います。死ぬまでに総額で1兆円に手が届けばいいのですが。そうやって自分にインセンティブ(動機付け)を持たせています。年間売り上げが1000億円くらいの企業には育てたいですね。

化学薬品メーカーの上野製薬(大阪市)の御曹司として生まれるが、家を飛び出し、日本人として初めて米国に創薬系バイオベンチャー企業を妻と共同創設。2007年、ナスダック市場に上場を果たした。

 祖父も父も発明家でした。私も高校のころには発明家になろうと決めていましたが、化学ではなく医学の分野で「何か見つけられれば、いいな」と思っていました。
 30歳のころ、プロスタグランジンの研究に取り組み、プロスタグランジンD2に眠りを調節する働きがあることを世界で初めて突き止めました。このとき、プロスタグランジンD2が分解されてできるプロストンが何か重要な働きをしているのではないかという勘が働き、プロストンをべースに医薬品を開発する道を歩むことになったのです。
 「新しいメカニズムの薬を開発して、今まで治らなかった患者さんを治せるようにする」という医薬品発明家としての信念に基づいて医薬品の開発を進めています。
 「とっぱしりしかやらない」というのが子どものころからのモットーでした。人がやったことや、わかっていることは絶対にやるつもりはありません。発明家とはそういうものです。
 プロストンをもとに緑内障の治療薬の開発に初めて成功したのですが、米国市場への参入が遅れるなどしたため、1996年に研究仲間である妻と日本を飛び出し、米国にスキャンポ・ファーマシューティカルズを共同で創設しました。スキャンポはラテン語で上野という意昧です。

00年、上野夫妻は名前の頭文字を冠した「S&R財団」をワシントンに設立。「独り立ちするのに少しでもプラスになれば」と科学者と芸術家を支援している。

 米国のみなさんのおかげで新薬を開発することができたので、社会還元の意昧で財団を設け、有望な科学者とアーティストを支援することにしました。その一つが米国生理学会に08年に設けた上野隆司賞。毎年、1人に賞を出し、3万ドルの賞金を出しています。大学のころ生理学に興味があり、医薬品の開発にも生理学で習った手法を使ったので、賞を創設してもらうことにしました。もう一つは、日米の懸け橋となって活躍するアーティストに贈るS&Rワシントン・アワードです。
 

脳に興味、慶応医学部進学も父は不満
  学生時代、実験で日米の酵素論争に決着
   ワトソン博士らから様々な研究手法学ぶ

灘中、灘高(兵庫県)から慶応大学医学部へ。.典型的なエリートコースを歩むが、父の隆三さんは不満だったという。

 父は上野製薬の社長で、防腐剤の発明で日本化学会の化学技術賞などを受賞した発明家でした。ただ私は化学にはあまり興味がなく、生物の発生の不思議さに魅力を感じていました。受精卵からどうしてヒトの形に発生・分化していくのか。胃は何でこういう形になるのか。細胞は増殖するのに何でがんにならないのか。次々に疑問がわいてきました。

 医学部を受けたのは「医者になりたいから」ではなく、「できれば脳の発生にかかわる物質を見つけたい」と思ったからです。父は医学部に合格したのが気に入らなかったらしく、「どうして化学の道に進まない。受け直せ」と言われたのを覚えています。

慶応大学の5年生のとき、米コロンビア大学で、日本の生化学を先導していた京都大学の早石修教授(当時)と出会う。

 当時、酸素を生体内に取り込むトリプトファン・ジオキシゲナーゼという重要な酵素が働くには、鉄と銅のどちらが酵素に結合しないといけないかを巡り、京都大学とコロンビア大学の間で意見の対立がありました。「日米で大論争になっているから、一緒に見に行かないか」と指導教官に誘われ、コロンビア大学に行きました。そこで早石先生に出会ったのです。
 先生から「ちょっと手伝ってくれ」と言われたので、証明する方法を自分で考え実験をしてみました。すると、この酵素が働くには鉄が結合しなければならず、銅は必要ないことが判明しました。そばで見ていた早石先生は「こちらの勝ちが、はっきりしましたね」と驚かれていました。この実験が認められ、医師免許を取得した後、京都大学の早石研究室に移ることになりました。

慶応大学で生理学を教えていた金子章道氏(現・畿央大学教授)とDNAの二重らせん構造の発見でノーベル生理学・医学賞を受賞した米コールドスプリングハーバー研究所のジェームズ・ワトソン博士から医薬品の開発に必要な考え方や手法を学ぷ。

 大学3年生のとき金子先生に会ったのが、研究者になる上で大きな転機になりました。小学校から大学の教養課程まではわかっていることばかり習ってきました。数学や物理の問題が難しいといっても答えはわかっています。でも金子先生に会って初めて、わからないことに対処する研究手法を教えてもらいました。そして生理学は仮説に基づいた論理を展開し、物事を予想して解いていく学問であるということを知りました。授業がおもしろくて、いつも教室の一番前の席で聞いていました。
 私の経験では、わからないことを解くやり方は2つあります。1つは事実を積み重ねてはうように進む方法。もう1つは、仮説を交えてはねるように論理を展開するやり方です。自分は実際に物質がまだ発見されていなくても、こんなものがあったらうまくいくはずだと仮説を立てながら医薬品を開発してきました。医薬品のように競争が激しい世界では、スピードがものをいいます。私のように1人で、千人もの研究者がいる大手製薬会社と戦うには、短期間に発明をなし遂げる方法を手に入れないと勝負になりません。千人力のカを得たという点で金子先生との出会いは大きかった。
  仮説を立て新薬を開発する上で重要なことは、様々な研究手法を知っておくことです。その研究手法はワトソン博士から習いました。京都大学の早石研究室に移っ,て研究をしていたとき、,コールドスプリングハーバー研究所からワトソン博士が講演に来ました。「奨学金を出すから来ないか」と誘われたので、「行きます」と言って、サマーセミナーに参加しました。そこで、中枢神経の活動状況を調べる電気生理学的手法や遺伝学の最先端の手法など様々な手法を教えてもらいました。今、頭の中で医薬品の候補となる分子を設計して、どういう実験や試験をすれば医薬品として世の中に出せるかという戦略を立てられるようになったのも、ここで、いろんな研究手法を学んだおかげです。

睡眠に関わる脳内物質を世界で初めて解明
 分解酵素と細胞の修復・再生の関係に着目
  父の会社に入り研究、自宅売り特許費用に

脳内でできるプロスタグランジンという生理活性物質が、睡眠や体温、痛みの調節にかかわっていることを世界で初めて突き止めた。

 米コールドスプリングハーバー研究所のセミナーを受講した後、米スタンフォード大学で発生学を研究しているジャック・マクマハン教授が研究員として引っ張ってくれたので、そこに行くつもりでした。でも京都大学の早石修教授(当時)から「新しい研究を始めるので、研究グループのリーダーになってくれ」と言われ、日本で新技術開発事業団(現・科学技術振興機構)のプロジェクトに参加することになりました。
 様々な種類のプロスタグランジンが、脳や中枢神経にどのように働いているのか解き明かすのが研究テーマでした。脳の中ではプロスタグランジンD2という物質が大量にできているのですが、何をしているのかわかりませんでした。
 ネズミの脳の視床下部の視束前野というところに金属製の針のようなものを刺して、極微量のプロスタグランジンD2を注入したとき、ネズミがすやすやと眠り始めました。体温も下がっていました。「こんなに微量で効くんだ」と思って、早石先生に「ネズミが眠りました」と報告に行くと、「それはおもしろい。睡眠の仕組みを追いかけてみよう」と驚かれていました。

細胞の修復、再生にかかわっている物質「プロストン」を発見。「新しいメカニズムの医薬品を開発したい」という夢をかなえる千載一遇のチャンスが巡ってきた。

 ネズミの実験でプロスタグランジンと受精卵から脳ができていく過程を調べていたとき、プロスタグランジンを分解する酵素が、脳のできはじめにバツと増えてストンと減ることに気づきました。
 分解酵素が急に増えるということは「できた物質にも何か意味があるんじゃないか」と考えました。当時の教科書にはプロスタグランジンが分解されてできた物質には「何も作用がない(不活性)」と書かれていましたが、「そんなはずはない。ここに絶対、何かあるはずだ」と直感しました。
 「細胞の修復・再生に関係しているかもしれない」と思って実験を進めたところ、分解産物は組織が壊れたり、細胞が増殖したりするときに出てくることがわかりました。当時、不活性と考えられていたこの分解産物が、医薬品として後に開花したプロストンでした。「細胞・組織の修復・再生因子を見つけたよ」と喫茶店で研究仲間の久能祐子博士(現在の妻)に打ち明けましたが、このことは論文にしませんでした。
 論文にするとせっかく巡ってきた医薬品を開発するという機会を逸してしまうかもしれないからです。特許を出願するまでは、ほかの誰にも話さないことにしました。

研究者の道を捨て、ビジネスの世界へ。

 プロスタグランジンの研究も成果が上がっており、早石先生からは「もうちょっとやったらどうか」と引き留められましたが、1987年に新技術開発事業団を辞めて、父が経営していた上野製薬に入り医薬品の開発に専念することにしました。
 父に「研究をするので場所を貸してください」というと、「じゃあ、ここでやればいい」と言われ、兵庫県伊丹市にあった上野製薬の工場に研究室をつくって細々と研究を始めました。翌年には兵庫県三田市に生物科学研究所ができて、研究所長兼医薬品事業部長として指揮をとることになりました。
 動物の組織を傷つけて様々な種類のプロストンを加え、どのプロストンがどの組織を修復するのかしらみつぶしに調べました。心臓と腎臓以外の組織はすべて元に戻ることがわかりました。
 それで700件近い特許を出すことになったのですが、お金がありません。仕方がないので京都の自宅を売って特許を出願する費用に充てました。6000万円くらいにはなったと思いますね。私は父が所有していた貸家に転がり込んで家賃を払って暮らすことになりました。やることなすことすべてが新しいことだったので、自宅を手放しても楽しかったですね。

 

父の「援助打ち切り宣言」でベンチャー設立
 第1号は緑内障治療薬、年商100億円超す
  米に進出、世界市場視野にまず便秘薬

1989年に日本のバイオベンチャー企業の草分けとなるアールテック・ウェノを設立する。

 父の会社で医薬品の開発を始めたものの、化学薬品事業よりも多額の費用がかかります。父は「援助は打ち切りたい。外に出てやってくれ」と言い出しました。仕方なくアールテック・ウェノを設立したのですが、資産がなくては銀行も資金は貸してくれません。
 そこで父に頭を下げて上野製薬に残ったまま臨床試験を続けました。「失敗したら困ったことになるな」というプレッシャーはありましたが、良いデータが出ていたので勝算はありました。

94年、医薬品第1号として緑内障治療薬が日本で承認され、医薬品発明家としての夢がかなう。

 大手を退職した2人のシニアと20代の若手、10人ぐらいで研究開発を始めました。途中で様々なプロストンのうち、どれをどの病気に対して開発していくかということになりました。アルツハイマー病やパーキンソン病など中枢神経系の治療薬の開発も考えましたが、莫大な研究開発費がかかります。
 そこで一番早く新薬承認が取れそうで、研究開発費も抑えられそうな眼科の緑内障をターゲットにすることに決めました。大学2年生のとき網膜剥離を患い京都大学付属病院に2ヵ月ほど入院したことがありました。「体が健康なのに目が見えないのは困るな」と実感していたので、緑内障の薬を開発するのに迷いはありませんでした。
 緑内障は目の網膜の神経細胞が死んで、視野が狭くなる病気です。ウノプロストンを与えると神経細胞の寿命が延び、視野が狭くなるのを防げることがわかりました。そのころ緑内障の治療に使われていた薬は、心臓への副作用がありました。ウノプロストンには副作用はなく効果があったので、日本で新薬としての製造承認をもらえ、「レスキュラ点眼薬」として販売することになりました。
 臨床試験中だった91年に藤沢薬品工業(現・アステラス製薬)と販売提携し、一時的な資金が入ってきたことも開発を後押しすることになりました。94年に販売を始めて、レスキュラは年商100億円を超えるヒット商品になりました。そのおかげで上野製薬には藤沢薬品が売ったレスキュラ点眼薬の販売収入が入ってきました。
 父には"サイエンティフィック・ジェラス(科学者の嫉妬)"みたいなものがあって、私が発明するのが気に入らなかった。化学が医薬よりも上位で、医薬品の話をするだけでも嫌な顔をしました。医薬品の開発には膨大な資金がいるのに「わしより研究開発費を使ってはいけない」と言っていました。医薬品は売れ出すともうけも大きい。それも気に入らなかったようです。
 だから「もう医薬品はやめる」と言って2001年、工場を含めて医薬品事業をアールテック・ウエノに数十億円で営業譲渡しました。結局、レスキュラの開発にかかった約90億円の何倍ものお金を上野製薬に支払いました。

96年、世界市場を視野に入れた医薬品を開発するため、米国にスキャンポ・ファーマシューティカルズを設立した。

 94年に日本でレスキュラの承認が下りた後、米国での販売権をチバビジョン(現在はノバルティス傘下)に供与しましたが、米食品医薬品局(FDA)に日本のデータを採用してもらえず、「米国で試験をやり直すはめになりました。
 そうこうしている間に米大手製薬会社ファルマシア(現・ファイザー)が、レスキュラと似た効果の薬を販売してしまい、米国市場への参入が遅れてしまいました。
 日本にいても父から嫌みを言われるし、レスキュラの成功で手持ち資金にも余裕ができたので、同じ苦労をするなら、市場も大きな米国の方がいいと考え、FDAがあるメリーランド州ベセスダ市に会社を設立しました。米国では98年にルビプロストンという化合物で慢性の重い便秘を対象にした世界初の薬の開発を始め、06年にFDAから製造販売の承認をもらいました。これがプロストンとして2番目の医薬品となりました。

自ら発見した物質、お金に替え難い魅力
  小さな会社でも訴訟に踏み切る勇気必要
    年代物のポルシェなど大修理するのが趣味

研究開発は順風満帆だが経営はいばらの道で苦労の連続。

 医薬品の開発は研究開発費が大きく収益を生むまでの時間が長いので、どの程度の売り上げのものを狙って開発するかが難しいのです。米国でベンチャー企業が市場規模の大きな医薬品を狙うと失敗する危険性が高まります。多額の資金が必要になり、外部から調達する資金の割合が大きくなるからです。例えば500億円で開発しようとして、自分の手持ち資金が15億円しかないと外部の資本が必要になり会社での決定権を失います。すると研究も自分が思うようにできなくなります。
 投資家に言わせれば「リスクが大きな次の開発はやめときなさい」ということになるからです。「次の新薬を開発するんだ」と強く言うには、決定権を自分が持っていないといけません。
 我々の会社は「目先の利益にとらわれず、患者のために新しいメカニズムの薬を開発し続ける」というのが経営方針です。「新しいことはやめて、収益を上げることを優先すべきだ」と言うような取締役がいれば、すぐに辞めてもらいます。
 お金のことを考えると資産価値が高いところで会社を売って、リタイアした方がいいに決まっています。でも自分が発見したプロストンには、お金に替え難い強い魅力があるんです。これからはアルツハイマー病や糖尿病など、より大型の医薬品開発も目指したいと思っています。過半の経営権を握ったまま、資本調達のため米ナスダック市場に上場したのです。

「バイオベンチャーには訴訟がつきもの」と達観する。

 レスキュラを巡って日本と米国で大手製薬会社と訴訟合戦になりましたが、日米ともに有利な形で決着することができました。訴訟がないというのは、たいした発見じゃないということです。大きな発見であればあるほど、訴訟になります。
 慢性の重い便秘症などの治療薬「アミティーザ」を巡っては、販売を委託した大手製薬会社に対し、契約上の違反があったとして国際仲裁裁判所に申し立てをしました。小さな会社でも時には訴訟に踏み切る勇気が必要なのです。

米製薬ベンチャーSucampo Pharmaceuticals、武田薬品との調停申し立て

1970年代のフェラーリやポルシェを集めるのが趣味。趣味が高じて、スタンドに止めなくても充電できる電気自動車などを考案、特許を出願した。

 小学校に入る前からフォードやシボレーなどのミニカーを200台くらい集めていました。漢字も「モーターファン」などの雑誌で覚えました。将来は車の運転手かメカニックになりたいと思っていました。高校のころ自動車のデザイナーになりたいと思ったこともありましたが、才能がないので、あきらめました。車をデザインするとき空力学的にこうしたらいいというような直感が働かないからです。医薬品の開発では勘が働く、のですが……。
 40代で車のA級ライセンスを取りました。週末、岡山のサーキットで行われたレースなどに出ていました。ストレスが大きい仕事なので、頭を切り替えるのにもってこいでした。
 フェラーリなどは米国に行ってから本格的に集め始め、今はかなりの台数を持っています。今も、.たまにニュージャージー州にあるレーストラックを一人で借りきって、走っています。仲間とともにフェラーリやポルシェを合計7、8台持って行き、1台につき30分程度走らせています。
 自宅のガレージにはリフトなどの設備がそろっており、どんな修理もできるようになっています。古い車が好きで、今ではレースよりも中古で買ってきたポンコツ車を大修理するのが趣昧です。
 集めている車は大きく2つに分かれます。1つは、フェルディナンド・ポルシェなど自動車界の天才といわれる人がつくった車。構造が斬新でイノベーティブなところが魅力です。もう1つはデザインが優れた系統です。フェラーリをデザインしたピニン・ファリーナなどが好きです。車の趣味と研究はオーバーラップしています。革新的なものを求める感覚は同じですね。